1. 2015年8月18日 08:48:32
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http://diamond.jp/articles/-/76876 【第11回】 2015年8月18日 松井雅博 [政治ジャーナリスト] 安保法制と安倍談話で考える、日本は「あの戦争」から学んでいるか?(上) 政治ジャーナリスト・松井雅博 あの戦争から「学んでいる」人は 実際にどれだけいるのだろうか? 安保法制、戦後70年談話を巡る政府の対応を見る限り、日本に対する根強い不信感が諸外国から消えないことも、仕方がないことのように思える(写真:首相官邸HPより) ?敗戦から70年の月日が流れた。
?1945年8月15日正午、昭和天皇がラジオを通じて全国民に敗戦を伝えた。日本は、アメリカ、イギリス、中華民国らが無条件降伏を求めたポツダム宣言を受諾。第二次世界大戦が終わった。 ?新憲法が公布され、日米同盟の下、長らく平和を謳歌していた日本の安全保障政策が今、大転換されようとしている。それが、衆議院を通過し参議院で激論が続いている「安保法制」だ。「国民の理解が十分進まない中で法案の審議だけが進められている」と危惧する世論は多い。 ?そして、安保法制と時を同じくして注目を浴びたのが、去る8月14日に安倍総理が出した「戦後70年談話」である。談話の内容については「村山談話」「小泉談話」の流れを踏襲したものと評価する声がある一方、中国をはじめ「過去の談話を引用しただけで、安倍総理自身の意思が明確に伝わらない」という批判もまた、少なくない。 ? ?この安保法制、戦後70年談話を巡る政府の対応を見る限り、日本に対する根強い不信感が諸外国から消えないことも、仕方がないことのように思える。 ?こうした状況に鑑み、筆者はふと思うことがある。終戦記念日のこの時期、マスメディアで特集されることが多い「戦争からの学び」「戦争の反省」とは、具体的に何なのだろうか、と。 ?安倍首相が発表した「戦後70年談話」に関するTwitter上でのつぶやきについて、ビッグデータ技術を用いて上位10件を抽出したのが、次のグラフである。 ?集計した株式会社ルーターの山本有悟取締役CTOによれば、「安倍首相の談話が放送された直後から、1時間あたり数万件のペースでツイートされた。放送直後はマスコミ報道の仕方に対するものが多かった」と言い、「おおむねTwitter上では談話への支持が多い」とのことだった。
?これを見る限り、談話に対して好意的、あるいは中立・賛否両論があるツイートのリツイート数が、批判的なそれを大きく上回っていることは一目瞭然だが、SNSユーザーの関心が「支持」にここまで傾いている状況には、正直、違和感がある。また、中国から要求されていたキーワードがいくつ談話に入っているか、その数を数えるといったマスコミ報道が「お粗末だ」と批判する声もネット上に溢れた。こちらも、少し表面的な議論に過ぎないように筆者には思える。 まつい・まさひろ 1979年6月14日生まれ。慶應義塾大学理工学部卒。工学・教育学の2つの修士号を持つ。国家公務員1種法律職試験合格(政策秘書資格取得)。国連英検A級。マッキンゼーアンドカンパニーなどグローバル企業での勤務を経て、国会議員政策担当秘書として政界へ飛び込む。35歳の若さで、第47回衆議院議員選挙に兵庫10区(加古川市、高砂市、稲美町、播磨町)より出馬し、5万1316票を獲得するも落選。一民間人の感覚で政治の現場や裏側を見た経験を活かし、これまでブラックボックスだった政治の世界をできる限りわかりやすく面白く伝えることに情熱を燃やす ?もちろん、価値観は人それぞれであるし、筆者も特定の考え方を否定するものでは決してない。ただし、こうした政府の対応とそれを評価する立場にある国民のトレンドを見る限り、あの戦争から「学ぶべき」「反省すべき」ということが声高に唱えられている今の日本において、「本当に学んでいる人」は少ないように思える。
?たとえば、いわゆる「リベラル派」の人たちは、「戦争」を絶対悪とみなして否定するばかりで、その根本的な原因や戦略の失敗については、何を反省しているのかよくわからない。一方、いわゆる「保守派」の人たちは、当時の日本の大義を証明しようと躍起になっていたりする。伝えたいことはわかるのだが、いささか「余計な発言」「感情的な発言」が多いため、逆に主張を理解してもらえないという残念なケースも少なくない。 ?私たちは「あの戦争から何を学ぶべきか」を、もっと真剣かつ客観的に議論しなくてはいけないのではないだろうか。 ?戦後70年談話を巡る議論が一段落を迎えると、再び日本国民の注目は参院での安保法案審議に集中する。あの戦争からの「学び」を踏まえたとき、安倍総理が必要性を訴えている「集団的自衛権」に抑止力はあるのだろうか。そもそも武力は抑止力となり得るのか。安倍総理自身が70年談話で表明した「世界の平和と繁栄」にとって、新しい安保法制は本当に有効なのだろうか。そして、我々有権者は何を覚悟しなくてはいけないのか。 ?過去の歴史を振り返りながら、この機に日本人が考えるべき「戦争からの学び」を考察したい。 「阿部政権」時代を振り返る 集団的自衛権の抑止力への疑問 ?1939年(昭和14年)9月1日、ドイツがポーランドへ侵攻した。ポーランドと軍事同盟を組んでいたイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発。第一次世界大戦に続き、再びヨーロッパは戦争の炎に包まれた。 ?時の日本のリーダーは、陸軍出身の阿部信行総理大臣。奇遇にも「アベ総理」だった。ポーランド侵攻の直前に平沼騏一郎元総理が政権を投げ出し、1939年8月30日に阿部内閣が組閣されたばかりの出来事だった。 ?よく「ポピュリズムが戦争に駆り立てた」という論説を耳にするが、そもそも五・一五事件で政党内閣は崩れ去っていたし、阿部信行総理大臣は国民からの人気どころか知名度もなかったことから、少なくとも総理の任命に関してはその論は成り立たない。 ?むしろ、総理候補が誰もいない中での登板だった。危機に陥ったときこそリーダーシップが必要になるのだが、苦しい時にあえてリーダーになりたがる奇特な人はなかなかいない、というのが現実なのだろうか。 ?阿部総理は陸軍大学校を卒業後、陸軍大将まで上り詰めたものの、実戦経験がほとんどなく、「戦わぬ将軍」と呼ばれた。どちらかと言えば、事務処理能力で出世した異色の人物で、そこが買われての抜擢となったのかもしれない。そんな阿部総理に昭和天皇は「英米協調」を使命とさせ、日中戦争の停戦を期待した。 ?そのプレッシャーはすさまじかったのだろう。阿部総理の顔には赤い吹き出物ができてしまったそうだ。筆者もマッキンゼー時代、寝不足とストレスで顔に吹き出物ができて痛くて悩んでいたので、この気持ちはよくわかる(阿部総理とはレベルが違いすぎるが……)。 ?この第二次世界大戦勃発の歴史に鑑みれば、現在議論されている集団的自衛権というものは、戦争を抑止するどころか、戦争を不必要に拡大するリスクを持っているようにも感じる。「関係の薄い戦争には関わらない方がよい」という考え方は、実はかつてのアメリカから学ぶことができる。 ?今では考えられないことだが、19世紀のアメリカは「モンロー主義」と呼ばれる戦争不介入方針を掲げていた。20世紀になって状況は変わったものの、第一次世界大戦にしても、アメリカ人の犠牲者が出るまで戦争には不介入・中立を宣言していた。 ?これは第一次世界大戦後、西欧列強が戦争による疲弊で没落したのに対し、アメリカ経済が「1人勝ち」となった理由の1つでもあり、自国に関係の薄い戦争から距離を置くことは国益に資するとも言えよう。私見ながら、9条改正は議論する価値があると筆者も思うが、それはさておき現実として、「現に存在している」9条を利用しない手はないし、使いようによっては強い外交カードにもなり得るだろう。 なぜ止められなかったか? 戦争の原因は結局、貧困と孤立 ?話を過去に戻すと、阿部総理はすぐさま大戦不介入の方針を表明し、「シナ(現在の中国)事変解決に邁進する」と声明を出した。日本はすでに中華民国と戦争状態にあり、まずはこの戦争を幕引きすることが最大の使命だった。そもそも日本が無理をして戦争していたのは、「満州」(現在の中国東北部)の利権を確保したかったからだ。日清戦争も日露戦争も「満州」をめぐる争いだった、と言っても過言ではない。 ?しかしながら、いつまでも戦争を続けていたら国家は疲弊するばかりである。利権を守るための戦争で国家が疲弊していたら、本末転倒だ。まして、日中戦争を継続しながらアメリカと戦うことがいかに無謀かということは、軍人出身である阿部総理が一番よくわかっていたのではないか。70年談話の中で「多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」と表現され、日本が運良く勝利できた「日露戦争」も正直かなり無謀な戦争だったが、中国や米国と同時に戦う無謀さとはレベルが違う。 ?70年前の戦争からの「学び」は、まず勝ち目のない戦争は「避けるべきもの」だし、このときの戦争でも、為政者は避けようと画策していたということだ。現在に当てはめると、安保法制に賛成する人も反対する人も、目的は「戦争を起こさない」ことで共通しているべきだ。もし戦争をしたがる好戦的な人がいるとしたら、そもそも政治家になってはいけないと思う。 ?しかし、日本にはさらなる試練が訪れた。 ?阿部政権が組閣される少し前、7月26日、米ルーズベルト政権のコーデル・ハル国務長官が、「日本の中国侵略に抗議する」として、日米通商航海条約廃棄を通告してきたのだ。これは、日本としては痛い通告だった。 ?阿部内閣の野村吉三郎外務大臣が解決に挑んだものの、失敗に終わり、1940年(昭和15年)1月26日に失効した。日米関係は最悪の状態に陥ると共に、アメリカからの物資、資材、原料の輸入がストップしてしまい、日本経済は深刻な打撃を受けることになる。 ?その後、困り果てた日本はドイツ・イタリアと同盟を組み、わかっていながら、日本は破滅的な日米戦争開戦へと向かっていった。これを「過ち」と言ってしまうのは簡単だが、では自分が当時を生きた政治家だったら正解を導けたか、と問われれば、難しかったかもしれない。また、先日の安倍談話で言及された、「日本が当時の国際秩序に挑戦した」こと自体に対しては、批判はできないのではあるまいか(もちろん、その挑戦の仕方は失敗だったし、当時の指導者は結果責任を負うべきであるが)。 ?戦争の原因は、結局貧困と孤立だと思う。これを解決できなければ、いくら集団的自衛権を認めたところで、「戦争反対」と叫んだところで、戦いを停めることは難しいというのが、歴史の教訓なのかもしれない。 安倍総理が言うように 本当に安保環境は悪化しているのか? ?話を現代に戻そう。本当に今の世の中は安倍政権が指摘するように、リスクが増しているのだろうか。 ?確かに、安倍晋三総理も参議院で明言したように、近年の中国の一方的な動きには警笛を鳴らさねばなるまい。南シナ海での埋め立て行為や東シナ海でのガス田開発など、日本の領土を守り、国際ルールの遵守を主張せねばならぬときである。しかし、それならなおさら自衛隊を中東(ホルムズ海峡)に送ることよりも、本来の「自衛」に徹することが重視されるのではないか。 ?だいいち、阿部元総理がもし生きていたら、安倍総理にこう言うかもしれない。「安全保障環境が悪くなったと言うけれど、私たちの頃に比べたらはるかにいいじゃないか」と。 ?自分の都合に関係なく、脅威にさらされた場合には戦わざるを得ない場合があるのも事実である。だからこそ、「自衛権」は国家固有の権利として認められている。そもそも日本を無謀な戦争に追いこんだ直接的な要因は、西欧列強からの圧力だ。この戦争の責任を問うなら、広島と長崎に原爆を落としたアメリカ、世界中で植民地政策を推し進めた西欧列強が、全ての責任を等しく追及されるべきであることは言うまでもない。 ?中国の軍事的膨張があるとは言え、あの頃と比べれば、21世紀における国対国の直接的な戦争が起きるリスクは明らかに低いと思われる。たとえば、「中国が日本と戦争する」と本気で思ってる人がどれだけいるだろう。もし賭けをもちかけたら、おそらく大半の人が「戦争しない」に賭けるはずだ。 ?そもそも中国にとって、国際社会を敵に回してまで日本と戦争するメリットも正当性もない。ネット上では中国や韓国を誹謗中傷する下品な発言が多かったり、スポーツの試合などで領土問題を持ち出すサポーターが報道されたりしているが、それは一部である。筆者も仕事で韓国に半年駐在し、北京、上海、大連、香港、深?と色々な場所を飛び回ったが、一度たりとも不快な思いをしたことはない。 ?領土をめぐって中国が日本に攻め込み、日米同盟に基づき米国が出兵し、みるみる戦線が拡大して第三次世界大戦が勃発――などという可能性は、日本がデフォルトする可能性よりはるかに低いと考えている。今や日中間の貿易額は日米間のそれの1.5倍を超え、経済交流は極めて大きい。万が一、両国が戦争してお互いの資産を凍結するなどという事態になれば、日中両国どころか世界経済もただでは済まないだろう。したがって、そんなワリに合わない解決策をとる可能性は低い。 ?安全保障政策はリスクとコスト・有効性を天秤にかけて決められるとするならば、たとえばテロとの戦いに巻き込まれる可能性も含めて、今の安保政策の転換は明らかに低いリスクに対して膨大なコストをかけようとしてはいまいか。 武力は抑止力になり得るか? 戦争を抑止するのは「ソフトパワー」 ?ただ、リスクの見積もりは個々人の「想定」でしかない。そこで議論を進めるために、安倍政権が言うように「安保情勢が悪化している」と仮定した上で考察しよう。 ?それでも、そもそも「武力」だけが抑止力になるかのような思想はもはや古いと思う。70年間何の実戦経験もない自衛隊の軍事力をなぜそこまで信頼できるのか、疑問である。「防衛費をかけているから強い」というのは、「塾代をたくさん払っているから勉強ができる」という理屈と同じである。 >>後編『安保法制と安倍談話で考える、日本は「あの戦争」から学んでいるか?(下)』に続きます。 http://diamond.jp/articles/-/76921 「日本」を考える〜私たちはどこへ向かうべきか 【第11回】 2015年8月18日 松井雅博 [政治ジャーナリスト] 安保法制と安倍談話で考える、 日本は「あの戦争」から学んでいるか?(下) 政治ジャーナリスト・松井雅博 >>。ハ上)より続く ?さらに、万一中国を仮想敵国と考える人が政府関係者にいるとすれば、今の中国と戦争して勝てるという発想自体がナンセンスである。今の中国は、もはや列強に敗れた清でもなく、革命で混乱した中華民国でもない。世界第2位のGDPと13億人の人口を抱える大国である。しかも毎年軍事予算を増やし続け、まともにつきあっていたら大変なことになる。この国に勝つ防衛力を確保するためには、いったいどれだけ国民生活を犠牲にしなくてはいけないだろう。いったい、いくら防衛費を増やせば、中国や北朝鮮と正面から戦える軍事力を持つことができるのだろう。 ?逆に考えて、「核」を持っている中国や北朝鮮に我々が怯えるあまり、条約交渉などで遅れをとっているか、と言えばどうだろう。単に英語や交渉が苦手だったり、成熟社会が故に成長が鈍化していたり、財政難やイノベーションを評価しない風潮などによって交渉の劣位に立つことはあるだろうが、それは単に外交下手なだけで、防衛力の影響は限定的なはずだ。 ?日本が国を守るためには、国連を中心とした国際秩序を遵守し、多国間の協調的枠組みをベースとした国際秩序を積極的に支え、活用するための外交努力をするのがベストと考える。多様な国と貿易関係を確保することで物流ルートを多角化させ、世界との接点を増やして「貧困と孤立」に陥らないようにする。 「自分の国だけが豊かならよい」という考えは捨て、環境問題や難民問題、疾病対策などの医療支援、押し付けにならない程度の途上国の民主化や教育支援など、世界の平和と安定に資する活動に国民の総意でコミットする。 ?優秀な若者に力を発揮してもらうために、日本の枠に閉じ込めず世界で活躍してもらう。交換留学もどんどん増やし、ビジネスパーソンや投資の交流も盛んにすべきだ。互いの文化を理解し、多様性を尊重する風潮を醸成することが大切だ。 ?爆弾や軍艦といったハードパワーは一見勇ましく、ソフトパワーは一見頼りないかもしれない。しかし、武力に偏っても抑止力は上がらず、ソフトパワーを強めることのほうが国を守る抑止力としては心強いのが、現実だと思う。 集団的自衛権賛成派と憲法9条擁護派 「平和ボケ」は果たしてどちらか? ?武力ではなくソフトパワーによる安全保障という主張には、「平和ボケ」という批判が起きそうだ。筆者も別に、武力保持を全面否定しているわけではない。 ?筆者がとある「右寄り」の政治家と安保政策について議論した際、「本当に国際連合が頼りになるのか」と問い詰められたことがある。売り言葉に買い言葉的になるが、曲がりなりにも戦後70年間国際秩序を見守ってきた実績のある国連をはじめとする国際間の協調を尊重せず、米国との集団的自衛権を尊重する、というのには違和感がある。 ?第二次世界大戦が開戦した当時の国際連盟は、大国アメリカも所属しておらず、日本・ドイツ・イタリアはすでに脱退、12月にはソ連も除名され、ほとんど有名無実だった。戦後の国際連合は、そのときの学びを一応は活かした組織設計になっている。 ?しかも、日本の盟友アメリカ合衆国は敵がたくさんいる国である。さらに、アメリカは戦後、戦争に「勝った」ことがあるのか疑問である。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争を振り返ったとき、果たして世界一高額な軍事費をかけているアメリカが「勝利した」と胸を張って言えるものが、1つでもあっただろうか。 ?現代の戦争は国家と国家がぶつかり合うというよりは、「テロとの戦い」である。米国との集団的自衛権に依存し、無関係の戦争に首を突っ込むのは、むしろテロのリスクを増す結果にならないか。 ?安倍総理は「1つの国だけで安全を守れなくなってきている」と言うが、もともと安全とは1つの国だけでは守れないものではないか。だからこそ、外交中心のソフトパワーが大切なのだ。集団的自衛権を認めれば国を守れるのではなく、9条があるから平和なのでもなく、懸命にソフトパワーを磨く努力があってこそ平和を保つことができる。その意味では、「集団的自衛権を認めれば抑止力が高まる」という人も、「憲法9条を守れば戦争に行かなくていい」という人も、実はどちらも「平和ボケ」と言えよう。 民主主義で最も大切なのは「手続き」 強引な審議は結果がどうあれ「間違い」 ?これまで安保法制の安全保障面での効果を述べてきたが、その前にまず議論すべきことがある。それは現在の安保法制への批判の中で一番大きい「憲法違反」という問題だろう。 ?民主主義というものは手続き論である。たとえば、1枚のピザを3人で分けるとき、どう切ればよいだろうか。あなたが「3等分するのがいいだろう」と気を利かせて勝手にピザを切り始めてしまうと、文句を言い始める人がいるかもしれない。お腹が空いてる人、満腹な人、ピザが好きな人、嫌いな人、お金を払う人、払わない人など、「人それぞれの事情を考えろ」と面倒なことを主張する人がいるかもしれない。だから予め3人全員に尋ね、同意がとれなければ話し合う。結局「3等分」という結果に至ったとしても、この面倒なプロセスが争いの起きるリスクを低減させる。これが民主主義である。 ?それゆえ、民主主義の下では、論理的にベストな政策的選択が選ばれるとは限らず、結果よりも「手続き」を重んじる考え方とも言えよう。したがって、違憲と指摘されながら強引に推進するのは、たとえその結果が正しかったとしても「間違い」となる。 ?確かに、憲法改正手続きが難しすぎるのは事実だ。だが、それなら改正要件から議論を始めるべきだ。大日本帝国憲法の改正手続きに基づいて憲法が、成立時よりも厳しい改正要件を設けるのはフェアではないと、筆者は考えている。憲法を解釈で変更してしまったら、もはや立憲主義の概念が否定されてしまう。集団的自衛権を認めるか否かは、国民が決めることであって、政治家はその範囲内で安全保障を論じるのが立憲主義の考え方だ。 ?70年前の戦争を振り返れば,シビリアンコントロールの欠如が軍部の暴走を招いた。当時は天皇の下に、内閣、軍部、枢密院といった複数の国家機関が並列されており、三権分立の仕組みもなかった。指揮系統が曖昧だったことが、戦争を止めることができなかった一因でもある。 ?しかも有事になれば、総理大臣はコロコロ変わるし、政権だって不安定になることは歴史が証明している。政権が変わる度に変わってしまう不安定な仕組みの下では、自衛隊員のリスクは高まるばかりだ。「自分の国は自分で守る」などと言うが、行くのは国会議員の先生方ではなく自衛隊員なのだ。だからこそ、法的安定性を議論することが先生方の仕事なのではないか。 ?1925年(大正14年)に普選法が成立し、翌年昭和の時代が始まると同時に、政治家は顔の見えない「大衆」から選ばれるようになった。政治がリーダーシップを発揮できなくなっていく時代と、選挙権が大衆に与えられた時代は見事に合致する。 ?日本においては、民主主義という思想自体が海外からの輸入品であるため、その意義について真剣に考えたことがあまりないのかもしれない。 ?為政者や専門家任せにするのではなく、一人ひとりの有権者が政治に参加し、憲法という約束を政治家に守らせることで、為政者の暴走を止めるのが立憲政治の仕組みだ。今回の安保法制をめぐって、憲法というものの存在について今一度考えるきっかけになればよいと思う。 ?集団的自衛権を認めるかどうかは、政治家が判断することではない。有権者が判断し、その枠の中で政治家が安全保障を議論するのが立憲政治なのである。 日本を危機に陥れる 「保守vsリベラル」の欺瞞 ?ここまで歴史を振り返ると共に、最近の国際環境を概観しながら、安保法制への疑問を呈してきた。 ?ただ、衆参両院で多数の議席を持つ政権が推進している以上、安保政策が転換される可能性は高い。私たち有権者は今、何を覚悟すべきなのか。 ?結論から言えば、安全保障の話をすると必ず陥る「ウヨク」や「サヨク」、さらには「保守」「リベラル」という意味のない二元論を超えて、冷静に安全保障を考える覚悟を決めなくてはいけないと思う。 ?やみくもに武力による抑止力を信じる「保守」と、やみくもに憲法9条を「保守」しようとするリベラルな人たちが、日本を弱くしていると筆者は感じている。日本の体裁ばかりを繕ったり、頑なに「戦争反対」と叫ぶだけの感情論ではなく、あの戦争を冷静に見つめ、学ぶ必要がある。 ?結論が思想で決まり、論理が後からついてくるような思考停止状態で、安保政策を論じてはならない。こうした安全保障の考え方は、論理性よりも価値観に依存する傾向が高いが、好き嫌いで政策を論じてはならない。自分の命なら価値観や思想に殉じていただいて結構だが、戦争に行くのは自衛隊。国籍が同じというだけで「他人」が行くのである。国籍が同じというだけで「他人」である。我々の勝手な価値観で「他人」を殺してはいけない。 あの戦争から何を「学んだ」のか? 本当に「学んでいる」のか? ?今、「保守 vs リベラル」という昭和の香りのする軸を捨てて、日本のあり方を冷静に考えるべき時に来ている。 「保守」の人たちが何を「保守」しようとしているのか、さっぱりわからない。領土問題にしても、本気で領土を守りたいなら英語くらい勉強して、海外に向けて発信しなくてはいけないのではないか。同じ日本人に対して攻撃的な言葉を向けるだけの保守的な「保守」こそが、日本という国家をバラバラに弱体化させている。長い日本国の歴史の中で、20世紀のほんの短い期間だけ存在した偏った思想を保守している場合ではない。 ?一方、リベラルな人たちがどんなに国会議事堂の前でデモをしても、残念ながら無意味である。議事堂や議員会館で働いてみればわかるが、防音機能が優れているため、その声はちっとも中には聞こえていない。「戦争反対」なんて当たり前のことを主張していても意味がない。論ずるべきは、どうやって「貧困と孤立」を回避するかであり、建設的な議論に結びつけなければ、それこそ戦争で亡くなった人々の死が無駄になろう。 ?お互いに稚拙な「アメリカの言いなり」論は、もうやめるべきではないか。集団的自衛権の賛成派に対して「アメリカの戦争に参加するためだ」と批判し、9条擁護派に対して「アメリカのつくった憲法の言いなり」と批判する。こんな不毛な罵倒し合いには価値がない。 ?私たちには、誰の言いなりでもない自分たちの「判断」で感情の爆発を押さえ、冷静な目で政治家を見極め、平和を築いていく覚悟が求められている。 ?日本において、終戦記念日がお盆の時期と重なっているのも、我々日本人にとっては特別な意味を持つ。確かに、戦争に関わりのない私たちの世代にまで謝罪を要求されても困るが、戦争の時代を生き抜いた御先祖様に手を合わせるだけでなく、この平和を築くために血と汗を流した方々に感謝すると共に、70年前の昭和天皇の言葉にもう一度耳を傾けてみてもいいかもしれない。 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」 ?私たち日本人は、あの戦争から本当に「学んでいる」のだろうか。何を堪え、何を忍んでいるだろうか。冒頭で述べた通り、筆者は最近、ふとそんなことを考えさせられるのだ。 |