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『昭和天皇実録』に記載されなかった真実 「英国情報工作員」とも引見した「昭和天皇」復興のインテリジェンス――徳本栄一郎(ジャーナリスト)〈週刊新潮〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150816-00010001-shincho-soci
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 8月16日(日)8時0分配信
『昭和天皇実録』は、約24年の歳月をかけて昨秋ようやく公表された。しかし、そこには世界各国のVIPとの詳しいやりとりは記載されていない。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が、各国の機密文書を基に昭和天皇“復興のインテリジェンス”を浮かび上がらせる。
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第2次大戦終結から70年の今年は、国内外で戦後史の検証が行われている。中でも、今なお圧倒的に強い関心を呼ぶのが昭和天皇である。87年の生涯は敗戦から占領、そして復興と、まさに激動の時代だった。
その生涯の動静を記録したのが、昨年9月に宮内庁が公表した『昭和天皇実録』(以下、『実録』)である。膨大な公文書や側近の日誌を基に年月日順に記述され、分量は全61巻、約1万2000ページに及んだ。私も大きな興奮を覚えながら読んだが、同時にある種の物足りなさも感じた。
生前、天皇の下には世界の数多くの大物政治家、実業家、宗教指導者らが訪れた。彼らとの会見は現代史そのもので、国際政治の内幕を照らすはずだ。そのやり取りが『実録』からほとんど抜けているのだ。
これまで私は世界中の様々なアーカイブで日本関連ファイルを収集してきた。各国の外務省、軍部、情報機関などが作成した文書で、膨大な皇室ファイルも含まれる。そして、そこからは『実録』に書かれなかった昭和天皇の素顔、現代史の実像が浮かび上がってきた。
天皇がその生涯で直面した最大の危機、それは敗戦から6年以上続いた占領である。45年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリで降伏文書に調印して連合国の日本占領が始まった。翌年1月の「人間宣言」に続き、極東国際軍事裁判、日本国憲法の制定と激動の日々が続いた。ポツダム宣言の受諾で天皇制護持の了解は取ったものの、その保証は心もとないものだった。国内では連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが絶対権力者に君臨し、日本政府は混乱の極にあった。ソ連や豪州は天皇を戦犯として裁くよう求め、米国の世論も厳しかった。
そうした中で危機突破のため天皇が取った手段、それは欧米で隠然たる力を持つ人物への接近だった。彼ならマッカーサーと対等に渡り合い、必要なら圧力をかけられるかもしれない。全世界のキリスト教徒の聖地バチカンのローマ教皇であった。
実際、『実録』の占領期の記述を見ると、キリスト教会幹部との相次ぐ会見が目を引く。一例を挙げる。
46年7月19日に「午前十時、表拝謁ノ間において、今般日本のカトリック教徒への使節として来日の米国人司教ジョン・F・オハラ、同ミカエル・J・レーディに謁見を仰せ付けられる」とある。
ジョン・オハラとミカエル・レディは米政界に太いパイプを持つ司教で、その約2週間前から来日し各界指導者と会見していた。帰国後、2人が作成した訪日報告書をワシントンの米カトリック大学が保管している。その7月19日の記述を読むと『実録』とはかなりニュアンスが違う。
「天皇は教皇ピウス12世のたゆまぬ平和への努力を称賛し、(中略)司祭や信者が日本で行う教育・社会活動に感謝を表明した。東京の修道会は壁に皇室の写真がかけられ、毎日シスターが天皇のために祈っていると伝えると喜び、その修道会の名を訊ねてきた。25年前、皇太子時代に天皇は教皇ベネディクト15世と謁見し、これ以上の名誉はなく今でも鮮明に覚えているという。彼はバチカンを訪問した唯一の皇族らしい」
ここで重要なのは天皇がわざわざ皇太子時代のローマ訪問を持ち出し、バチカンとの結びつきを強調した事だ。天皇がかねてローマ教皇庁に接近を図っていた事はよく知られる。
「私は嘗て『ローマ』訪問以来、法皇庁とは、どうしても、連絡をとらねばならぬと思つてゐた、(中略)開戦后、私は『ローマ』法皇庁と連絡のある事が、戦の終結時期に於て好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あること竝(ならび)に『ローマ』法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考へて、東条に公使派遣方を要望した次第である」(『昭和天皇独白録』)
確かにローマ教皇庁のインテリジェンス収集はずば抜けている。全世界に数十万人の司祭を配置し、彼らは常時現地の情勢を報告してくる。その情報網は英米の諜報機関を凌駕するとされる程だ。占領下でマッカーサーに対抗するため、天皇がローマ教皇を利用しようとしてもおかしくなかった。それを示唆するのが『実録』の48年1月23日の記述だ。
「午前、表拝謁の間において、財団法人慈生会理事長フランシス・ヨゼフ・フロジャック(フランス国人神父)を皇后と共に御引見になる。この度の御引見は、フロジャックが、ローマ法王庁等に日本のカトリック教会の現状を報告することを機に、四十年ぶりに帰国することによる」
■強い親英感情
このフロジャックとは明治末期に来日し、結核患者の療養施設建設など社会福祉に携わったフランス人神父だ。敗戦直後に天皇に数回拝謁した彼は48年3月に40年ぶりに欧州を訪れるが、ある重要な使命を帯びていた。バチカンに天皇のメッセージを伝え、ローマ教皇の署名入り写真を持ち帰る事だった。
その夏にフロジャックは再び天皇に拝謁して教皇の写真を献上したが、この直後、バチカンの英国公使館がロンドンの英外務省に報告を送っている。フロジャックの動きを察知した公使館は教皇庁幹部を通じて彼の目的を調べたらしい。
「ローマを訪れたフロジャックは教皇に謁見し、天皇からのメッセージを渡した。彼は返礼として教皇の写真を渡す事を希望し、それに教皇も同意したという」「ローマ教皇は、われわれの旧敵国への支持でしばしば非難されてきた。(親書交換は)些細な出来事だが、報告に値すると判断する」(48年7月6日、英外務省文書)
戦争が終結したとはいえ、全世界のカトリック教徒の頂点と天皇の接触に英国は神経を尖らせたようだ。そしてこの時期、天皇はもう一人、欧米で大きな影響力を持つ人物に接近していた。英国王ジョージ6世である。『実録』によると、フロジャックに教皇へのメッセージを託した翌日の48年1月24日、天皇はある英国人外交官を引見した。マイルス・キラーン卿、シンガポール駐在の東南アジア特別弁務官で駐エジプト大使などを歴任した人物だ。
明治末期に駐日大使館に勤務し、皇太子時代の天皇が訪英した際はスコットランドに同行している。『実録』では単に引見の事実しか書いていないが、英外務省の記録を読むと天皇の真の狙いが分かる。
「明らかに天皇は戦後初めて英国の旧友を迎えた事を歓迎していた」「天皇は先の戦争を遺憾に思っている事、自分は常に反対だったが周囲の環境や状況に逆らえなかったと断定的に語った」「言葉には発しなかったが天皇は強い親英感情を抱き、再び英国とのコンタクトを得て心から喜んでいた」(48年1月25日、英外務省文書)
そして引見の最後に天皇はキラーン卿にある依頼をした。自分からぜひ英国王夫妻に挨拶の書簡を送りたいという。この思わぬ申し出に英国政府は少なからず慌てた。
当時、天皇と外部の接触はGHQが厳重に監視し、外国元首への書簡も検閲していた。もし国王との接触がマッカーサーの不興を買えば英米関係に影響する。また英国にとって日本はまだ講和条約も調印していない敵国だった。日本軍による捕虜虐待で対日感情は悪く、天皇と親密な印象は世論を刺激しかねない。結局、英外務省はバッキンガム宮殿と協議し、天皇の弟の秩父宮を通じて口頭でジョージ6世のメッセージが届けられたのだった。
このように占領期の天皇はフロジャック神父、キラーン卿など信頼できる人間を通じ、あらゆるルートで外部と接触を図った。GHQに対抗するにはローマ教皇や英国王は強力な援軍に映ったはずだ。宮中で天皇は必死に孤独な戦いを続けていたのだった。
■国際情勢に非常な関心
やがてサンフランシスコ講和条約の調印で日本占領は終了した。GHQも去って日本は象徴天皇制に歩み出すが、この頃、皇室は新たな問題に直面していた。
講和条約発効から2カ月後の52年6月11日、天皇は来日中のアレキサンダー英国防大臣を引見した。これも『実録』はただ引見としか書いていないが、英国政府の記録からは天皇の苦悩が垣間見える。
「天皇は(英国の)王室の近況を尋ねた後、国際情勢について質問してきた。中国、ソ連、マレー半島、ペルシア、エジプトなどに関する天皇の問いに、われわれは然るべき回答を行った。式部官長によると、天皇は国際情勢に非常な関心を抱いているが、現在の憲法下では政府から情報が入らず、自分の意見を言う事もできないという」(52年6月12日、英外務省文書)
満州事変以降、日本の政府や軍部が天皇に情報を上げず、その権威を利用したのは事実だ。それが日中戦争、太平洋戦争の一因となった。しかもこの年は朝鮮戦争が3年目を迎え、世界中で東西冷戦が激化していた。そうした中、天皇は自ら海外のインテリジェンス収集に動き始めていた。
例えば『実録』の59年11月25日の記述に、英国の前シンガポール駐在総弁務官ロバート・スコットを引見とある。任期を終えて帰国する前に来日したが、彼にはもう一つの顔があった。SIS(英国情報局秘密情報部、別称MI6)と連携して東南アジアの情報収集を行うことだった。当時、SISはシンガポールを拠点に、CIA(米中央情報局)と共に対共産主義工作を進めていた。
この引見で通訳を務めたのが、外務省出身で宮内庁侍従職御用掛の真崎秀樹である。真崎は25年に亘り側近通訳を務めたが、その間、天皇と各国要人の会話を詳細にノートに記録していた。生前、彼はある米国人ジャーナリストの求めに応じ、英語でそのノートの内容をテープに吹き込んだ。私は30時間以上に及ぶ「真崎テープ」を入手して聞いてみたが、その中に天皇とスコットのやり取りがあった。話題はインドネシア情勢だった。
天皇「(現地での)共産党の状況はどうですか」
スコット「共産党は最大政党で、スカルノ大統領は他党と同様、彼らを管理できるかもしれません。しかし、これは彼の政権維持の策略に過ぎないとの見方もあります」
天皇「インドネシアでの中国共産党の影響力は強いのですか」
スコット「その通りです。ただ矛盾するのは、インドネシアが東欧共産圏の支援も受けている事です」
『実録』と「真崎テープ」の中身を更に比較する。62年1月11日に天皇はディーン・アチソン元米国務長官を引見した。ケネディ政権の外交顧問のアチソンは、カンボジアなどアジア諸国を歴訪中だった。
アチソン「カンボジアのシアヌーク殿下は感情的な男で、(国境紛争を抱える)タイに激しい言葉を使っています。彼は関係改善のために私を招待してきました」
天皇「あなたの努力でカンボジア、タイ、ベトナムの関係が改善すれば、アジアの平和にとって良い事でしょう(中略)」
アチソン「タイと南ベトナムは共に米国の同盟国ですが、シアヌーク殿下は米国がカンボジアに敵対していると疑っています。私は、それが事実でないと彼に言うつもりです」
■大変な苦痛
アチソンは天皇に直(じか)に米国のアジア戦略を伝えたのだった。その2カ月後の3月9日、天皇は米チェース・マンハッタン銀行のデイビッド・ロックフェラー頭取を引見している。世界有数のロックフェラー財閥創業者の孫で、米政界に大きな影響力を持つ人物だ。
ロックフェラー「フィリピンでは共産主義の危険が収まり、徐々に経済も改善しています」
天皇「それを聞いて嬉しく思います。日米の協力は両国だけでなく、世界平和に極めて重要だと思います」
ロックフェラー「私はソ連と中国を訪れた事はなく、彼らの態度が変わらない限り、足を踏み入れるつもりはありません。(中略)米国、欧州、日本が緊密に協力すればソ連と中国の前進を阻止できるでしょう」
天皇「私もそう思います」
このように50年代から60年代にかけて天皇は共産主義を警戒し、極めて政治的な会話をしていた。引見した各国要人から直にインテリジェンスを入手し、国際情勢で意見を交換した。そこには東西冷戦の最中、冷静な現実主義者としての天皇の姿が浮かぶ。
そして、これらのやり取りは宮内庁も把握しているはずだ。なぜなら『実録』の典拠資料には「真崎テープ」の基になったノート、真崎秀樹英文日記が含まれるからだ。もしこれが情報公開されれば、激動の昭和の時代に天皇が何を考え、どう行動したかを知る第一級の資料になるだろう。
だが、一人の人間としての天皇を鮮やかに照らすエピソード、それはサンフランシスコ講和条約の調印直後、吉田茂首相とのやり取りではないだろうか。
『実録』では51年9月15日、帰国した吉田首相が講和会議の経過、条約の内容について説明したとある。例によって記述はこれだけだが、その5日後、駐日英国代表部がロンドンの英外務省にある報告を送っている。代表部幹部が吉田首相と交わした会話についてだった。
「昨日、吉田首相と会った際、講和条約に対する天皇の態度が話題に上がった。(中略)天皇は条約内容が彼自身にとって予想以上に寛大だった事に同意した。一方で天皇は明治大帝の孫(である自分)の時代に、海外の領土を全て失った事は大変な苦痛だと語った。吉田首相は天皇に、今更そんな事をこぼす時期ではないと述べたという」(51年9月20日、英外務省文書)
天皇は講和条約を歓迎しつつ、明治以来の海外領土を失った事に大きな葛藤を覚えていた。また祖父である明治天皇への敬愛が伝わってくる。占領という未曾有の時代が終わり、つい本心を明かしてしまったのだろう。
約24年の歳月をかけて完成した『昭和天皇実録』は一大歴史絵巻と言える。激動の時代を鮮やかに照らし出したが、それは巨大なジグソーパズルでもあった。欠けた部分にピースを埋め込む事で昭和の真相が浮かび上がる。あの時代の検証はまさにこれから始まると言ってよい。
※「週刊新潮」2015年8月13・20日夏季特大号
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