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これは社会学者、日高六郎氏が1980年に著した岩波新書「戦後思想を考える」の「体験を伝えるということ」という章からの抜粋です。
私は、広島の詩人・栗原貞子さんの詩を学生の前に置く。
生ましめんかな
壊れたビルディングの地下室の夜だった
原子爆弾の負傷者たちは
ロウソク一本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から、不思議な声がきこえてきた。
「赤ん坊が生まれる」というのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう。
人々は 自分の痛みを忘れて気づかった。
と「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも (1946)
「生ましめんかな」は、多くの人びとに知られているはずの詩である。しかし、ほとんどの学生が読んだことがないと言う。
このひとつの詩をまえにして、私は学生たちに語りたいことが山ほどあることを感じる。
栗原貞子さんは、広島で被爆。ひたすら原爆についての詩と文章を書き続ける。この詩は、敗戦の翌年、雑誌「中国文化」第一号に掲載された。栗原さんは人づてにこの事実を聞いて、詩をつくる。そのとき生まれた女の子は。いま成長して、広島で生活している。そのことを話すと、学生は、おどろきの表情を示す…。
栗原さんの詩に関連して話すとなると、話題はつきない。第二次大戦の経過、原爆の製造過程、それへの科学者の協力。その完成、実験、そして、ヒロシマとナガサキ。その惨害。それがどのように、日本国内と海外とで報道されたか。だれが最初に報道したか。そして、占領軍の原爆報道禁止政策。なにより重要なこととして、無名の、数多くの被爆者たちの生活の実態がある。もっとも救護の手を必要とした人たちがほとんど放置されていたこと、いや、現実の生活では「差別」さえされていたことを、私は語る。そのとき、私は水俣病患者たちが差別されてきた事実も話す。つまり、被害をうけるものは、同時に差別されるものであったという、このおどろくべき二重の苦悩は、ほとんど社会学的な法則性を持つものであることを語っておきたいのである…。
さてつぎに私は、栗原貞子さんの、「生ましめんかな」から二十六年たってつくられた、「ヒロシマというとき」を学生のまえにさしだす。それは、ベトナム戦争さなかの作品である。
ヒロシマというとき
<ヒロシマ>というとき
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえてくれるだろうか
<ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といえば、女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが返って来るのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
吹き出すのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やさしく返ってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるバリアだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえが返ってくるためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない (1972)
私は最後まで読み、そして、最初の三行にもどる。
<ヒロシマ>というとき
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえてくれるだろうか
この三行。それは具体的にどのようなことを指しているのか。そのことを学生たちに問うて見るのだが、返ってくる答えはけっしてゆたかなものではない。そのことは、学生たちが、十五年戦争の歴史、その中での日本軍隊が行なってきた野蛮について、十分に知識がないからである。私はそれだけで、いまの中学校や高校での「平和教育」のうすさをかんじないではおれない。
「たとえば、あなたが中国人とか、フィリピン人とか、アメリカ人とかと出あったとする。そして原爆の下の<ヒロシマ>の残酷について語ったとする。そのとき、彼らは、『ああ、あのむごたらしい経験をなめたヒロシマですか。ああ、私はヒロシマの悲惨を知っていますよ』とやさしくこたえてくれるだろうか。いや、そうではない。彼らが、『あなたはヒロシマを語る。しかし、あなたは、マニラや南京やパール・ハーバーをどう考えるのか』と反論してくることは、十分に想像できることだ」と、私は話す。そして、南京やマニラなどについて、具体的に若者たちに語る。
栗原さんがこの詩を書いたその一九七二年は、もう若者たちが生まれたあとの、まさに「同時代」である。一九四六年から一九七二年までのその時間のなかで、少なくとも平和を志す日本人の戦争意識が、大きく変化していくことに、私は注意をうながす。つまり、一九六五年のアメリカ軍の北ベトナム爆撃開始のころから、私たちのなかには、日本がいまやベトナム戦争における加害者の立場に立っているという自覚が生まれてくる。それは同時に、もう一度私たちを、戦争加害者であった戦前の日本国家および日本国民の立場につれもどす。
敗戦という時点で、私たちは、私たちだけがあたかも戦争の被害者であるかのように思い込んだときがある。たしかに、日本の戦争を指導した日本の軍部と、それをとりまく支配層にたいしては、日本国民は被害者であったといえる。しかし、日本国民のひとりびとりは、銃を持って、中国大陸やそのほかに押しいっていった。そのとき、被害者は、中国人であったり、フィリピン人であったり、インドネシア人であったりしたのである。
「生ましめんかな」は原爆詩のなかでもとくにすぐれた作品である。そしてそれは直線的にアメリカの原爆投下責任を問うていない。しかし当時、雑誌発行の責任者である栗原さんの夫は、占領軍に呼ばれて、さんざんいやがらせをうけているのである。そこには原爆の悲惨さと、そのなかで懸命に嬰児を産もうとする若い母親と、出産を助けたうえで力つきて死んでいく産婆さんとがえがかれているというだけであるのに。しかし、ここでの生と死の交錯は、死を乗り越える新しい生命の誕生という、たからかな生の賛歌となっている。
これにたいして、「ヒロシマというとき」にふくまれている苦い味はなんであろうか。それこそは、戦後二十七年たってふたたび、日本という国家それ自体の戦争加害性があらためて意識されてきたということである。そこには、戦後の歴史のなかでの、日本国家の侵略性の再生を見ることの苦痛がこめられている。それは、日本の戦後史のひとつの結着点を表現している。私は二つの詩をくらべ、そのあいだに流れた二十七年という時間を考えてほしいと言う。
いまの経済主義の時代にどっぷりつかって、時代との緊張関係を失ってしまった大人たちは、戦争と平和の問題などまったく無関心となった若者たちを軽蔑的に見る資格はあるまい。私は、義務としてではなく、衝動として戦争と平和について語りたいことが、自分の内部にあることを感じる。
戦中派の世代だけが平和教育ができるということではない。それはわかりきったことである。同時に、戦中派の世代が自分の体験から出発して平和教育に進んでいって悪いことはない、ということもまた自明である。平和教育はさまざまな形で、さまざまな内容で、行われてよい。しかし、教師自身の心の内がわになにがあるのか、それだけは省みる必要がある。自分が感じていないことを、人に感じさせることはむずかしい。
ある大学に定年まぢかの数学の教師がいた。その人は、戦争中、はじめは兵隊として、途中からは下士官、将校として、中国大陸を転戦した。はげしい戦闘にも参加した。
その大学に、四〇代の教員がいた。彼は、定年をひかえた老教員が反戦主義であることを知っていた。しかし、彼がそうした話を学生のまえで一度も語ったことがないということも知っていた。彼はその老教員に、定年まえに、その戦争体験を学生に語ることをすすめた。すすめるというよりお願いした。
老教員は最初ことわった。私は数学の教師である、専門外のことを教壇で話す資格はないし、また話すこともできない、というのがことわりの理由だった。
しかし、中年の教員のすすめをことわりきれず、彼はそのことを引きうける。中年の教員は、その老教員の授業に出ていない学生たちにも呼びかける。こうして、ひとつの特別講義の時間がもうけられた。
老教員は、はじめ淡々と話しだした。中国大陸の多くの地名があげられた。彼の参加した戦闘が語られた。戦闘による戦友たちの死傷のありさまも語られた。「敵」の被害も語られた。中国民衆の対応の仕方も語られた。
しだいに老教員の話に熱がはいってきた。一時間半の予定の授業時間が終わっても、話はつづいた。学生たちもだれひとり席を立たない。そして、三時間近い話が終わりに近づいてきたとき、その一老教員は、涙を抑えることができなくなった。戦争がもたらしたものは、なんであったのか。若者たちはなぜ戦争の大義を信じこまされて戦場に行ったのか。日本の軍隊は中国の大陸で何をしたのか。中国の民衆は戦争によってどのような苦しみをなめたか。戦闘員、非戦闘員をふくめて、中国の人民はどのように日本軍に立ちむかってきたか…。
話が終わったとき、学生のなかから強い拍手が沸きおこったという。
いまどこの大学でも、形式的に一般教育の時間が設けられているが、多くは形骸化してしまっている。そうしたなかで、だれしも、こうした老教員の話こそ一般教育の名に値すると考えるだろう。
日高六郎
1917ー 昭和後期-平成時代の社会学者、評論家。
大正6年1月11日中国青島(チンタオ)生まれ。昭和35年東大教授となり、大学紛争時の44年辞職。のち京都精華大教授。安保反対、ベトナム反戦、水俣病問題などの市民運動に積極的に参加した。東京帝大卒。著作に「現代イデオロギー」「戦後思想を考える」「戦争のなかで考えたことーある家族の物語」など。
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