76. 2015年8月16日 20:43:23
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2015.8.8 10:00 【戦後70年 昭和20年夏(4)】 ソ連軍157万人が満州侵攻 http://www.sankei.com/life/news/150808/lif1508080018-n1.html 昭和20年8月9日午前、満州北部・●琿(あいぐん)(現黒竜江省)にソ連軍機3機が黒竜江(アムール川)対岸のソ連領から低空で現れ、国境を越えた。 「ソ連側から不明機が侵入!」 国境監視所にいた関東軍第135独立混成旅団伍長、安田重晴(94)=京都府舞鶴市在住=は司令部に至急一報を入れた。 国境警備の任務について3年になるが、こんなことは記憶にない。精鋭だった関東軍も19年以降、多くの将兵が太平洋戦域に転属となり、くしの歯が欠けたような状態だった。対米戦の苦境も聞いていたが、それでも日ソ中立条約を結ぶソ連が満州に侵攻してくるとは思っていなかった。 11日、監視所がソ連軍の攻撃を受けた。安田は闇に紛れて20キロ離れた旅団司令部を目指した。司令部は強固な地下要塞だったが、すでに激しい戦闘が繰り広げられていた。 合流した安田は仲間と「とにかく敵の侵攻を食い止めよう」と玉砕覚悟の戦いを続けた。結局、安田ら生き残った日本軍将兵が武装解除に応じたのは22日だった。 × × × 1945(昭和20)年2月、クリミア半島のヤルタで、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンは、第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトに対して、ドイツ降伏後3カ月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦することを約束。見返りとして南樺太や千島列島の引き渡しや満州の鉄道・港湾権益を要求した。 この密約に従い、日本時間の8月9日午前0時、極東ソ連軍総司令官で元帥のアレクサンドル・ワシレフスキー率いる80個師団約157万人が3方向から満州に同時侵攻した。スターリンはもともと11日の侵攻を命じたが、6日の米軍による広島への原爆投下を受け、予定を2日早めたのだった。 ソ連軍は対日戦の準備を周到に進めており、T−34など戦車・自走砲は5556両、航空機は3446機に上った。 これに対する関東軍は24個師団68万人。戦車は200両、航空機は200機にすぎず、その戦力差は歴然としていた。 × × × ソ連軍侵攻を知った関東軍総司令官で陸軍大将の山田乙三は8月9日午後、出張先の大連(現遼寧省大連市)から満州国の首都・新京(現吉林省長春市)の総司令部に戻ると、皇帝の愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)に拝謁した。 「陛下、総司令部は近日中に、朝鮮との国境近くの通化(現吉林省通化市)に転進いたします」 山田は、満州国政府を、通化近くの臨江(現吉林省臨江市)に遷都することも提案した。満州国政府内には「国民とともに新京にとどまるべきだ」との声もあったが、溥儀は13日に臨江近郊に移った。 山田は、撤退により持久戦に持ち込む考えだったが、これには関東軍内にも異論があった。 当時、満州にいた民間の在留邦人は約155万人。男は大半が軍に臨時召集されていたので女や子供、老人ばかりだった。その多くが突然のソ連軍侵攻で大混乱に陥っており、避難が進まない中で軍が撤退すれば、民間被害が拡大する公算が大きかった。 満州西部を守る第3方面軍司令官で陸軍大将の後宮(うしろく)淳は、邦人が避難する時間を稼ぐため、玉砕覚悟で方面軍をソ連軍の進撃路に集中させようとしたが、結局、作戦参謀らに説き伏せられて断念した。もし後宮が自らの作戦を決行していれば、邦人被害はもう少し防げたかもしれない。 伝令のため新京の関東軍総司令部を訪れた独立歩兵第78部隊第1中隊少尉、秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=は目を疑った。すでに総司令部は通化に撤退しており、残っているのは数人の下士官だけ。幹部将校の姿はどこにも見当たらなかったからだ。 「無責任極まりない…」 秋元は怒りに震えた。秋元らの中隊は、ソ連軍の戦車攻撃に備え、中隊を挙げて「布団爆弾」の準備を進めていた。 布団爆弾とは、30センチ四方の10キロ爆弾を背中に背負って地面に掘った穴に潜り、戦車に体当たりをするという「特攻」だった。 「ソ連の巨大な戦車に対抗するには自爆しかない」という上官の言葉に異を唱える者は一人もおらず、秋元自身も「最後のご奉公」との思いで穴を掘り続けた。にもかかわらず総司令部が早々に撤退したのは、納得できなかった。 緊張と失望が入り交じる中で迎えた14日夜、上官がこう告げた。 「明日正午、玉音放送がある。日本は無条件全面降伏するらしい」 秋元は動揺した。「勝利を信じて戦ってきたのに。日本はどうなるのか…」。結局、中隊は翌15日に新京で武装解除に応じた。 武装解除を拒否して戦い続けた部隊もあった。 黒竜江省最東端の虎頭(ことう)要塞では、ソ連軍2個師団2万人以上に包囲される中、第15国境守備隊約1500人が、避難邦人約1400人とともに立て籠もり、壮絶な戦闘を続けた。 結局、主陣地は19日夜に約300人の避難邦人とともに自爆した。他の陣地も「最後の突撃」を敢行し、26日に虎頭要塞は陥落した。生存者はわずか50人ほど。これが日本軍の最後の組織的な戦闘となった。 × × × ソ連軍の非道さ、残虐さは他国軍と比べて際だっており、各地で虐殺や強姦(ごうかん)、略奪など悲劇が続いた。 8月14日、満州北東部の葛根廟(かっこんびょう)(現内モンゴル自治区)では、避難中の満蒙開拓団の女性・子供ら約1200人が、戦車14両とトラック20台のソ連軍と鉢合わせした。白旗を上げたにもかかわらず、ソ連軍は機関銃掃射を行い、さらに次々と戦車でひき殺した。死者数1千人超、200人近くは小学生だった。 この惨事を第5練習飛行隊第1教育隊大虎山(だいこさん)分屯隊の偵察機操縦士が上空から目撃した。怒りに燃えた同隊の有志11人は、総司令部の武装解除命令を拒否し、ソ連軍戦車への特攻を決行した。その一人だった少尉、谷藤徹夫は、愛機に妻、朝子を同乗させ飛び立った。谷藤の辞世の句が今も残っている。 「国破れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ」 敦化(とんか)(現吉林省)でも悲劇が起きた。武装解除後の8月25〜27日、パルプ工場に進駐したソ連軍が女性170人を独身寮に監禁し、強姦や暴行を続け、23人を自殺に追い込んだのだ。 麻山(まさん、現黒竜江省)では8月12日、哈達河(こうたつが)に入植していた満蒙開拓団約1千人が、ソ連軍などに銃砲撃を受けた。逃げ場をなくした団員らは集団自決を遂げ、死者数は400人を超えた。 × × × ソ連軍侵攻により、昭和7(1932)年3月1日に建国された満州国は13年5カ月余りで消滅した。 多くの日本人が「五族協和」「王道楽土」の理想郷を夢見て、満州に入植し、未開の大地に街や鉄道、工場などを次々に整備した。明治41(1908)年の満州の人口は1583万人だったが、建国時ではすでに2928万人に膨れあがり、昭和15(1940)年時点で約210万人の日本人が居住していた。 だが、ソ連軍侵攻により、入植した人々は塗炭の苦しみを味わうことになった。満州からの民間の引き揚げ者数は127万人。軍民合わせて約24万5千人が命を落とした。 悲劇はそれだけではなかった。満州や樺太などにいた日本人将兵約57万5千人はシベリアなどで強制労働に従事させられ、1割近い5万5千人が極寒の地で命を落とした。(敬称略) ●=王へんに愛 2015.8.9 16:00 対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書 http://www.sankei.com/life/news/150809/lif1508090026-n1.html ソ連が対日宣戦布告したことを日本の外務省から在外公館に伝える電報を解読した最高機密文書「ウルトラ」。しかしこの時点で、ソ連から正式な布告文は届いていなかった(英国立公文書館所蔵) http://www.sankei.com/life/photos/150809/lif1508090026-p1.html ■1時間後に満州・樺太侵攻…日本政府は4時間後に報道で把握 昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。宣戦布告を通告された佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使が日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていたためだ。ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州(中国東北部)や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。(編集委員 岡部伸) ◇ 日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯(ひきょう)な国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。 秘密文書は20年8月9日、日本の外務省から南京、北京、上海、張家口(モンゴル)、広東、バンコク、サイゴン、ハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報で、英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したもの。この文書は英政府の最高機密文書「ウルトラ」として保管された。 電報を要約すると、「ソ連は8月9日に宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、(日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の)宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」などと書かれている。外務省がソ連による正式な宣戦布告ではなく、マスコミ報道をベースにソ連の侵攻を在外公館に通知したことが分かる。 ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。 しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した「戦時日ソ交渉史」によると、この公電は届かなかった。モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。 ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始。日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。 正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した10日午前11時15分。ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。 日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは9月5日。日本は最後までソ連に宣戦布告していない。 2015.8.9 16:00 公電ソ連遮断 日本をだまし討ち、事実上の無通告 http://www.sankei.com/life/news/150809/lif1508090027-n1.html ソ連の対日宣戦布告を伝える佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使の公電がソ連当局に封鎖され、日本に届かなかったのは事実上の「無通告」であり、満州などに武力侵攻したソ連が和平仲介の望みをつなぐ日本をだまし討ちしたことになる。ソ連の後継国家であるロシアは北方領土の領有を「第二次大戦の結果」と主張するが、スターリン首相が日露戦争の報復と領土拡張のため、中立条約を無視して踏み切った「侵略」戦争の側面があったことは否定できない。 (編集委員 岡部伸) ◇ 「ソは遂ニ起チタリ、予ノ判断ハ外レタリ」 昭和20年8月9日午前6時(日本時間)、大本営からの電話でソ連の参戦を知った河辺虎四郎陸軍参謀次長は日記にこう記している。「中立」を信じてソ連の仲介による戦争終結を構想していた日本には、ソ連の宣戦布告はまさに寝耳に水だった。 × × 敗色濃厚となった日本の中枢は、最後の頼みの綱としてソ連を仲介役に米英との和平を模索していた。日本にとってソ連は中立条約を結んでいる唯一の大国だった。20年4月5日にソ連は日本政府に中立条約を延長しないことを通告してきたものの、条約は翌21年4月まで有効で、20年6月中旬からソ連を仲介役とする米英との和平工作がひそかに進められていた。 ところが、2月のヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連は侵攻の準備を進めていた。日本の甘い見通しにソ連は明確な態度を示さず、参戦準備を察知されないように在欧日本人の帰国の便宜を図るといった隠蔽(いんぺい)工作も行っている。 ソ連に傾斜した日本は近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣することを決め、7月12日、天皇から親しく命を受け、東郷茂徳外相はモスクワの佐藤大使に「ソ連の意向を調整するよう」訓電を送っている。 × × 外務省欧亜局東欧課作成の「戦時日ソ交渉史」によると、佐藤大使は近衛特使派遣をソ連に告げ、モロトフ外相との面会を求めた。ポツダム会談から首脳が帰国した8月7日、クレムリンから「8日午後8時(日本時間9日午前2時)にモロトフが会う」と連絡があり、その後「8日午後5時(同8日午後11時)」に前倒しされた。 佐藤大使は近衛特使派遣をソ連が受け入れたと期待して8日、クレムリンを訪れたところ、モロトフ外相から渡されたのは宣戦布告文だった。最後にどんでんがえしを食らった格好だ。 9月2日、スターリンは対日「戦勝」記念演説で次のように語った。 「1904年の日露戦争でのロシア軍の敗北は国民の意識に重苦しい思い出を残した。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は日本が粉砕され、汚点が一掃される日が来ることを信じ、そして待っていた。その日は訪れた。このことは、南樺太と千島列島がソ連に移ることを意味する」 スターリンのこの演説は日露戦争への報復と領土拡張が日本との戦争の目的だったことを示している。 2015.8.10 06:10 【戦後70年〜昭和20年夏(5)】 抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ… 【戦後70年】 http://www.sankei.com/life/news/150810/lif1508100004-n1.html コムソモリスク・ナ・アムーレ中心部には、日本人抑留者の建てたホテル「アムール」が残る http://www.sankei.com/life/photos/150810/lif1508100004-p1.html 「親父と同じ苦労をして亡くなった仲間がまだ何万人も残っている。その遺骨を一人でも多く帰国させることは使命だと思います」 ロシア極東・ハバロフスク地方のコムソモリスク・ナ・アムーレ郊外。針葉樹の森を分け入った一角で、青森県北津軽郡の会津博(74)は、大量の蚊やブヨが周囲を飛び交う中、黙々と土を掘り続けた。 厚生労働省が実施する旧ソ連による抑留犠牲者の遺骨収集事業。会津は4度目の参加となる。 ロシア側の資料によると、かつて付近に第3762野戦病院があり、死亡した抑留者200人余りがここに埋葬されたという。 冬は凍土と化す厳しい気候。長い歳月を経た遺骨はきれいな状態では見つからない。500平方メートル超の埋葬地を小さく区切って掘り進め、土に不自然な変色が見つかると遺骨がないかを丁寧に確認する。今回は10日間の作業で39柱を収集し、帰還させた。会津はこう語った。 「現場を離れる時はいつも残さざるを得ない遺骨を思って涙が出るんです」 1991(平成3)年から抑留者調査や遺骨収集に協力してきたガリーナ・ポタポワ(76)は、ある埋葬地で日本人女性が慟哭する姿に衝撃を受けた。 「やっとお父さんを見つけた。お母さんは死んだわ。ここに来られて本当によかった…」 その姿は、戦死した父の墓を80年代に見つけた時の自分と同じだった。ポタポワはこう語った。 「『埋葬地に来てやっと私にとっての戦争が終わった』と言われるのが何よりもうれしい。この問題に国籍は関係ありません」 × × × コムソモリスクには1945(昭和20)年〜49(昭和24)年にかけ、日本人約1万5千人が抑留された。満足な食事も与えられぬ中、日本人はよく働き、ホテル、学校、住宅など432の建物を建築した。 街の中心部のホテル「アムール」は内部こそ改装されたが、今もなお現役。同じく日本人が建てた2階建て集合住宅群に住む元調理師のタマーラ・ボブリク(68)はこう語った。 「この通りの家はすべて日本人が建てたと両親から聞きました。古くはなったが、造りが大変しっかりしており、改修なしで住み続けています」 地元郷土史家のマリーナ・クジミナは「当時を知っている人は、いかに日本人が仕事熱心だったかを知っている。悪く言う人などいない」と説明した。 × × × 45年8月9日午前0時(日本時間)、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍80個師団157万人が満州や朝鮮、千島列島などに一斉侵攻した。日本軍の多くは15日のポツダム宣言受諾後、武装解除に応じたが、悲劇はそれで終わらなかった。 ソ連軍は、満州や朝鮮などから約57万5千人をシベリアやモンゴルなどに連行し、森林伐採や鉄道敷設などの重労働を強いた。飢えと寒さ、虐待などで約5万5千人が命を落とした。 だが、シベリア抑留はロシアでほとんど認知されておらず、抑留者は「軍事捕虜」と称される。この大雑把な認識はロシア人自身が、対独戦とスターリン時代の弾圧で膨大な犠牲者を出したことに根ざす。 クジミナはソ連末期、閲覧可能になったロシア人の弾圧犠牲者の資料を調べる中で「囚人」に交じって日本人が強制労働させられたことを初めて知った。 「極東は辺境なので働きたいという人は少ない。それでも国土維持のための労働力が必要だということで政治弾圧された人々が囚人として送り込まれた。ソ連政府は囚人をただ働きさせるのと同じ発想で日本人を抑留したのではないか」 ロシア政府は、日本人抑留者のうち1万5千人以上に関する資料をなお開示していない。未収集の遺骨は3万3千柱超。戦後70年を経て遺骨収集は年々困難になりつつある。 十字架が並ぶ墓地、木材を積んだ汽車−。見慣れない風景だった。 「こりゃ、だまされた。日本じゃないどこかに連れて来られたぞ」 独立歩兵第62部隊上等兵、前田昌利(93)=宇都宮市在住=は千島列島・幌筵(ほろむしろ)島で終戦を知った。ソ連軍がいつ島に上陸したのかは分からない。交戦で数人の死傷者が出たが、ソ連軍の通訳に「もう戦争は終わった」と言われ、武装解除に応じた。 前田も「おかしい」とは思っていた。数週間前から連日のように米軍機が島の上空を旋回するようになったからだ。赤いマフラーの女性を同乗させ、遊覧飛行する米軍機もあった。 ソ連兵の「トウキョウ ダモイ(帰国)」という言葉を信じ、輸送船に乗り込んだが、ナホトカ港を経由して連行された先はコムソモリスクのラーゲリ(収容所)だった。 × × × ラーゲリでは、木材の伐採作業や線路の敷設工事を命じられた。重労働もつらかったが、もっと怖かったのは凍傷だった。鼻や耳が白くなり、壊死(えし)して黒くなると切り落とすしかない。仲間と「おーい、白いぞ」と声をかけ合い、互いにマッサージした。 時計などの持ち物はソ連兵に取り上げられた。ソ連の女性兵は、日本人から奪った歯磨き粉をうれしそうに顔に塗っていた。ソ連兵の制服はボロボロ。缶詰にはUSAの刻印があった。「ソ連もよほど物資がないんだな」と思った。 与えられた食事は黒パン1切れだけ。空腹を満たすため、ソ連兵の目を盗んでは野草をゆでて食べた。 ある日、「カエルの卵」を持ち帰った者がいた。飯盒(はんごう)に入れた卵をストーブで炊き、味付けは岩塩。仲間は大喜びで食べたが、前田はなぜか口に入れる気がしなかった。翌朝、卵を食べた者は全員死んでいた。 ラーゲリでは時折、健康診断が行われ、健康状態のよい順にA、B、C−とランク分けされ、労働内容が決まった。前田は歯肉を傷つけ、女医に血の混じった唾液を見せた。しばらくすると朝鮮に移送された。 朝鮮では船への積み込み作業に従事した。食糧や衣類、家具−。タンスや畳など日本人のものだと分かる品も多かった。 極寒のシベリアよりは格段にましだったが、休む度にソ連兵にムチで尻をたたかれた。街を歩くと朝鮮人から日本語で罵声を浴びた。 「兵隊さん、日本なんて国はもうないんだぞ!」 栄養失調で鳥目となり、夜はほとんど目が見えない。作業の合間に川でヤツメウナギを捕って食べるとほんの少し回復した。 帰国できたのは昭和23年初夏。「船に乗れ」と言われ、着いた先は長崎・佐世保港だった。引揚援護局でわずかな現金をもらってサツマイモを買い、夢中でほお張った。あの甘さと感激は今も忘れられない。 × × × 約57万5千人に上る日本人抑留は明確なポツダム宣言(第9項)違反だが、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンの指示により極めて計画的に行われた。 原因は1945(昭和20)年2月、米英ソ3首脳が戦後処理を話し合ったヤルタ会談にある。 ここでスターリンは第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトに対日参戦を約束し、満州や千島列島などの権益を要求したが、もう一つ重要な取り決めがあった。3カ国外相が署名したヤルタ協定だった。 ドイツが連合国に与えた損害を(1)国民資産(工作機械、船舶など)(2)日常的な生産物(3)労働力−で現物賠償させることを決めた。 問題は「労働力」だった。米英は、まさかソ連が協定を盾に戦後も捕虜らに強制労働させるとは思っていなかったようだが、ソ連は「米英のお墨付きを得た」と受け取った。 英首相のウィンストン・チャーチルは後にスターリンの非人道性に気づき、二の句を継げなかった。7月のポツダム会談で、チャーチルが英国の炭鉱労働者不足を嘆くと、スターリンは事もなげにこう言った。 「それなら炭鉱でドイツ人捕虜を使うことだ。私はそうしている」 スターリンにとって「捕虜=労働力」は「戦利品」だった。対日参戦の目的は領土拡大だけでなく「労働力」確保にもあったのだ。 ソ連は戦後も400万人以上の外国人捕虜を長期間抑留した。最も多かったのはドイツの約240万人、次に日本、3番目がハンガリーの約50万人だった。 満州国の首都・新京(現長春市)で武装解除に応じた独立歩兵第78部隊第1中隊少尉の秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=は昭和20年暮れ、クラスノヤルスク北の炭鉱・エニセイスクのラーゲリに送られた。 氷点下40度近い極寒地を片道約1時間歩き、1日3交代制で採炭や鉄道敷設作業に従事した。秋元は作業前、いつも「今日もみんな元気で帰っぺな!」と呼びかけたが、毎日のように人が死んでいった。やはり食事はパン1切れ。野良犬、ネズミ、ヘビ−。食べられるものは何でも食べた。 気温が氷点下50度を下回ったある日、公会堂に一時避難するとピアノがあった。小学教諭だった秋元が「故郷」を弾くと仲間たちは合唱を始めたが、途中から嗚(お)咽(えつ)に変わった。「ダモイ(帰国)まで頑張ろう!」。これが合言葉だった。 × × × 第135独立混成旅団伍長、安田重晴(94)=京都府舞鶴市在住=が連行されたのはシベリアの山中のラーゲリだった。 2重の鉄条網に囲まれ、四方に監視塔。丸太小屋には3段ベッドが蚕棚のように並んでいた。暖房はドラム缶製の薪(まき)ストーブだけ。電灯もなく松ヤニを燃やして明かりにした。 食事は朝晩はコウリャンやアワの薄い粥(かゆ)。昼は握り拳ほどの黒パン。空腹をこらえながら木材伐採を続けた。2人一組で直径30〜40センチの木を切り倒し、枝を落として1メートルの長さにそろえ集積所まで運ぶ。1日のノルマは6立方メートル。氷点下30度でも作業は続いた。 夜中に「ザザーッ」という不気味な音がすると誰かが死んだ知らせだった。南京虫(トコジラミ)が冷たくなった遺体を離れ、他の寝床に移動する音だった。 凍土は簡単に掘れない。遺体は丸太のように外に積まれた。 そんな安田らを乗せた帰還船がナホトカを出航したのは23年5月11日。14日未明、灯台が見えた。「日本だ!」。どこからともなく万歳が上がった。 夜が明けると新緑が広がる京都・舞鶴の山々が見えた。シベリアのどす黒い針葉樹林とは全く違う。「山ってこんなにきれいだったのか…」。全員が涙を浮かべて景色にみとれた。(敬称略) 2015.8.11 01:00 【戦後70年〜昭和20年夏(6)】 なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」 http://www.sankei.com/premium/news/150811/prm1508110013-n1.html 平和祈念展示資料館に展示されているシベリアの抑留者収容所の模型 =6日、東京・新宿の平和祈念展示資料館 (大西正純撮影) http://www.sankei.com/premium/photos/150811/prm1508110013-p1.html ソ連軍によりシベリア抑留され、帰還した日本人将兵は50万人を超えるが、その多くが抑留体験について口を閉ざした。寒さと飢え、重労働、仲間の死−。思いだしたくもないのは当然だが、もう一つ理由があった。日本の共産主義化をもくろむソ連の赤化教育だった。 「軍隊時代、貴様はみんなに暴力をふるった!」 極東・ハバロフスクのラーゲリ(収容所)で、1人の男が壇上の男を糾弾すると他も同調した。 「同感だ!」「この男は反動だ」「つるせ!」−。 天井の梁に渡したロープが壇上の首に回され、男の体が宙に浮いた。苦悶がにじむ表情に鼻水が垂れ、絶命寸前で男は解放された。 ラーゲリの隣はソ連極東軍総司令部と裁判所。尋問や裁判で連行された将校や下士官がラーゲリに宿泊する度につるし上げた。 「嫌だったが、仕方なかった。そうしないと自分がやられた…」 つるし上げの「議長」(進行役)を務めた元上等兵(90)はこう打ち明けた。 ハバロフスクのラーゲリで「民主運動」という名の赤化教育が始まったのは昭和21年秋。労働を終えた午後7時ごろから1時間ほど、共産党員だった日本人が「共産党小史」を基に講義した。 見込みがある者は「小学校」「中学校」と呼ばれる教育機関に入れられ、さらに赤化教育を受けた。「中学校」を卒業した“優秀者”は、各ラーゲリの選抜メンバーとともに1カ所に集められ、3カ月間教育を受けた。収容所に戻ると指導的立場となった。 民主運動は次第に過激化し、将校や下士官だけでなく、共産主義に賛同しない者も次々に糾弾された。 日本人同士の密告も横行し、ラーゲリ中に人間不信が広がった。多くの抑留者が口をつぐむ理由はここにある。元上等兵は周囲にこう言い聞かせた。 「日の丸の赤と白の部分を頭の中で入れ替えろ。赤に染まったようにカムフラージュするんだ」 ソ連が日本人将兵を抑留したのは「労働力」目当てだったが、途中からアクチブ(活動分子)を養成して日本を共産主義化させようと考えを変えた。 赤化教育に利用したのが、ソ連軍政治部が週3回発行する抑留者向けのタブロイド紙「日本新聞」だった。編集長はイワン・コワレンコ。後に対日工作の責任者となり「闇の司祭」と呼ばれた男だった。 共産主義を礼賛し、天皇制や日本の批判を繰り返すプロパガンダ紙だが、日本語に飢えていた抑留者に次第に浸透した。 共産主義に賛同し、アクチブと認定されれば、ラーゲリでの処遇が改善され、早く帰還できる。実に陰湿な心理作戦だが、効果は大きかった。旧軍の序列を維持しながら助け合ってきた抑留者たちは次第に将校、下士官、兵で反目するようになった。密告も横行し、相互不信が広がった。 関東軍情報将校(少佐)だった山本明(96)=兵庫県芦屋市在住=は昭和20年11月、タタルスタン・エラブガの将校専用のラーゲリに送られた。23年夏に「ダモイ」(帰還)といわれ、列車に乗せられたが、山本ら情報将校や憲兵約200人はハバロフスクで足止めとなった。 「天皇制打倒」「生産を上げよ」「スターリンに感謝せよ」−。ラーゲリの入り口にはこんな張り紙がベタベタ張られ、入所者の目には敵意がみなぎっていた。そこは「民主運動」の最前線だった。 「生きては帰さんぞ…」 入所早々、反ファシスト委員長を名乗る背の低い男は、山本らを高知なまりでこう脅した。 その言葉通りつるし上げが連日続いた。「言動が反ソ的」「労働を怠けた」−。ほとんど難癖だった。 山本も「反動」の烙印を押され、作業中も、食事中も、用便中さえも、大勢に囲まれ、罵倒された。「日本人は中心をなくすと、これほど崩壊してしまう国民性なのか…」。悔しいというより悲しかった。 24年春、山本はハバロフスクの監獄に移された。雑居房でロシア人らと一緒だったが、ラーゲリよりは居心地がよかった。 いつも就寝時にたたき起こされ、取調室に連行される。長細い室内にポツンと置かれた机の上には炎がついたろうそくが1本。取調官は引き出しから短銃を出し入れしながら関東軍での任務をしつこく尋問した。 「なぜこの男はおれの戦時中の言動を知っているんだ?」。取調官の書類をのぞき込みその謎が解けた。かつての部下が詳細な供述をしていたのだ。 通訳もない裁判が行われ、判決は反ソ諜報罪で強制労働25年だった。 結局、山本が帰国できたのは31年12月26日。最終引き揚げ者1024人の1人として京都・舞鶴港に降り立った。すでに37歳。父親と妻、初めて会う長男が出迎えてくれた。長男はもう11歳だった。 32年の正月早々、ある男が神戸市の山本宅を訪ね、玄関先で土下座した。 「隊長、申し訳ありませんでした」 密告した部下だった。山本は積年の恨みをグッとのみ込み、「君も何か言わないと帰国できなかったのだろう」と許した。山本は当時をこう振り返る。 「人間ってのは怖い。追い詰められた人間の心理は本当に怖いよ…」 ソ連は、共産党への忠誠を誓った「誓約引揚者」を優遇帰国させたが、日本を共産主義化させるというもくろみは外れた。確かに一部は60年安保闘争などで大衆扇動やスパイ活動に従事したが、多くの引き揚げ者は従わなかった。ソ連で共産党の残虐さと非人道性を嫌というほど味わったからだ。ただ、赤化教育のトラウマ(心的外傷)は生涯消えなかった。 エニセイスクに収容された独立歩兵第78部隊第1中隊の秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=も赤化教育の被害者の一人だ。 秋元は昭和22年のある日、日本新聞で「ロシア語会話通訳試験」の記事を見つけた。ソ連には憎しみこそあれ共感はない。日本新聞もまともに読んでなかったが、「通訳になれば重労働から逃れられるかもしれない」と受験してみた。 試験は、日本人試験官と簡単な英会話を交わしただけ。合格すると「レーニン・スターリンの原理」という分厚い本を渡され、1カ月半の講習を受けた。終了するとアクチブの証書とバッジを与えられた。 ラーゲリでの生活は格段に向上した。部屋は一般抑留者と分けられ、1日置きの入浴が許された。食事には副菜がつき、朝食には牛乳、夕食にはウオツカがつき、たばこも週1箱もらえた。秋元はいつも仲間たちに分け与えた。 ラーゲリ全員に帰還命令が出たのは24年5月初旬。かつて1千人ほどいた抑留者は400人余りに減っていた。秋元ら通訳の十数人は「アクチブの教育が不足している」としてハバロフスクで20日間の再教育を受けた後、帰国した。 夢にまで見た帰国だったが、現実は厳しかった。「アカ(共産主義者)」のレッテルを貼られていたのだ。 秋元は京都・舞鶴港で警察に連行され、独房に40日間入れられ、アクチブの活動内容などについて取り調べを受けた。ようやく郷里の栃木県に戻っても、自宅裏のクワ畑には警察官がいつも立っていた。 「しまった。ソ連に利用されてしまった…」 秋元は通訳になったことを後悔したが、誤解は解けなかった。出征前に勤務した小学校を訪ねると校長に「職員室に席は置いてやるが、子供の前には出ないでほしい」と言われ、結局、教壇に立てぬまま退職、実家の農業を継いだ。 秋元が再び教育に関わることができたのは今市市(現日光市)が市制に移行した29年。市教委で定年まで教育行政を担った。子や孫にも恵まれたが、今もシベリアでの悪夢は消えることがない。 「シベリアでの出来事は何でも思い出せる。それほどつらかった。あの体験がその後の人生に影響したことは何もない。ただ、悪い思い出だけが残った…」 (敬称略)
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