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独占インタビュー吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(前編)〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00000001-sasahi-ent
週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋
戦争の犠牲者に祈りを捧げる夏を迎えた。戦後70年。焦土からの驚異的な復興と、平和な社会をつくりあげながら、安全保障政策で今、日本が岐路に立つ。戦後に寄り添い、数多くの映画に出演してきた吉永小百合さんが、戦争の愚かさ、平和の尊さを語った。
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数日前に映画「母と暮せば」の撮影を終えたばかり。12月の公開に向けて、撮影中とはまた違う忙しさです。私にとっては119本目の出演作になりました。救急車だと言って笑っているのですけど、テーマが長崎の原爆ですから、戦後70年の今年のうちに公開しようと、スタッフみんなで頑張っています。
この忙しさに追われている間に、安保関連法案が衆議院で強行採決されてしまいました。映画関係者らでつくる「映画人九条の会」の反対アピールの賛同者に加わりました。
振り返ってみれば、私は10代で映画の世界に入ってからは、演じることで、社会も戦争も原爆も学んできたと思っています。さらに人との出会いによって、平和や核のことを考えてきました。もしも作品で出合わなかったら、私は原爆も戦争もここまで考えることはなかったのかもしれません。でもまた同時に終戦の年に生まれた一人として、考え続けなければならないんだろう、という思いも持つのです。
私自身、父や母に戦争について聞いたことは、ほとんどありませんでした。南方戦線に送られていた父が病気で倒れたために帰還できて、私が生まれたことは、それとなく聞いています。また、私が生まれる直前に東京大空襲がありました。だから、私はこの世に生まれ、生かされたことに感謝しなければいけないと思っています。生まれなかった命も、生まれてすぐに奪われた命もあるのですから。
母からは、私が生まれたころは、食べるものもないし、母乳も出ないし、いきなりみそ汁をふくませたとか、私を背負って神奈川県の農村へ食料を求めて通ったとか、そんな話を聞きました。子どもを連れていると、いくらか多めに野菜や牛乳などを分けてもらえたそうです。戦中から戦後へ、親の世代が体験した話を、もっともっと聞いておくべきだったと今になって悔やんでいます。
●演じることで戦争を学んだ
原爆を描いた映画に出演した最初は、1966年の「愛と死の記録」です。原爆の後遺症に苦しむ青年と、彼を愛する娘の悲劇です。大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』の中で紹介されている実話で、監督は蔵原惟繕さん。8月の広島で毎日厳しいリハーサルとロケが続いて、音を上げそうになりましたけど、演じているうちにどんどんヒロインにひきつけられて、ヒロインの心情と一体となって、思い切り演じられたという充足感を持つことができました。
ところが、完成した作品からは、原爆ドームやケロイドの顔が出ている場面がほとんど削られてしまいました。当時はまた今とは違うさまざまな思惑があったのでしょうが、原爆をテーマにした映画なのに、なぜという強い思いの中で、撮影所の食堂前の芝生で座り込みをしてしまいました。
そして、それから2年後、映画「あゝひめゆりの塔」に出演しました。臨時看護婦部隊として従軍し、死に追いやられた沖縄師範の女子学生たちの悲劇を描いた作品でした。
当時、本当の意味でまだ戦争をわかっていなかった私は、映画に描かれたあまりの悲惨さに、ただただ泣き叫ぶだけでした。
ところが、完成試写を見た私は、愕然としました。スクリーンの中の私たちがあまりにも泣いているので、本当の厳しさが観客に伝わらないのではないか、こんな演技でよかったのだろうかと考え、いたたまれなくなってしまいました。
自分自身、頑張ったことは事実ですけれど、演技者の気持ちと観客は必ずしも一致しないのではないかと痛感したのです。それから何年もして、実際のひめゆり部隊にいて生き残った方が、「涙も出ない状況でした」と話されるのをテレビで拝見して、戦争の本当の過酷さを突きつけられた思いがしました。
どちらも、いろいろな意味で私には思い出に残る、青春時代の作品です。
●原爆詩を朗読して一字一句を大切に
その後、「夢千代日記」に出演します。81年の2月から放映されたNHKの連続ドラマで、出演したテレビドラマの中でも最も好きな作品です。私の演じた主人公の夢千代は、母親の胎内にいたときに広島で被爆した胎内被爆者。原爆症を発症しており、余命2年と宣告されていました。
この出演がきっかけとなって、原爆の詩の朗読が始まりました。86年に東京で開かれた平和の集いで、被爆者の団体から依頼されて、原爆詩人といわれる峠三吉さんや栗原貞子さんの詩を朗読したことが最初です。
それからは、映画の撮影に入っていないときに、演劇や音楽などの舞台にふれる機会の少ない、地方の中学校などを中心に出かけては朗読していました。全校生徒三十数人といった山村の分校を訪ね、生徒たちと交流しながら、原爆詩を読んだこともあります。
そして、「第二楽章」と題して、私の「編」という形で本になり、CDも出すことができました。
「第二楽章」とは恐ろしい出来事そのものが起きた瞬間から時間が流れて、次の世代へ移っていく時代になって、語り継ぐべきことを、どう語っていけばいいだろうと考えて生まれたタイトルです。音楽でいえば、激しいアレグロではなくて静かで穏やかなアダージョ。経験そのものを持たない世代の人にも共感を持ってもらえるように、やさしさと想像力をもって聴いてもらえるように、語りかけたいと思いました。
ですから、朗読は自分の感情を入れないで、一字一句丁寧に読んでいくことを心がけています。悲惨さや哀しさに読み手の私の感情が高ぶっていると、聴く人はそこで終わってしまいますから。自分をコントロールすることの大切さを、自分に言い聞かせています。
井伏鱒二さんの『黒い雨』の朗読をしている奈良岡朋子さんが、やはり「一字一句伝えることを大切にしている」と言われたのを新聞で拝見して、大先輩がそう言われるのだから、私もこれでいいんだ、と納得しています。
朗読の会はその後、海外でも持たれました。アメリカ・シアトルの郊外での朗読が、最初の海外です。95年のことですが、この2カ月前に米スミソニアン博物館で予定されていた原爆展が中止になっていましたから、日が迫ってくるにつれて、アメリカ人に原爆を伝えることができるだろうかととても不安になって、眠れなくなったほどです。でも、朗読が終わったとき、みなさんが立ち上がって拍手をしてくださったので、ほんとにほっとしたものです。
イギリスのオックスフォード大学での朗読は、2011年の秋です。坂本龍一さんのピアノの演奏に支えられての朗読でしたが、このときも幸いに多くの共感をもって受け入れられました。坂本さんが「朗読は音楽」だと言われましたが、日本語で朗読しても、音楽と同じで言葉の壁を越えて伝わるのですね。
(聞き手・文/由井りょう子、構成/長沢 明)
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独占インタビュー吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(後編)〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00000002-sasahi-ent
週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋
戦争の犠牲者に祈りを捧げる夏を迎えた。戦後70年。焦土からの驚異的な復興と、平和な社会をつくりあげながら、安全保障政策で今、日本が岐路に立つ。戦後に寄り添い、数多くの映画に出演してきた吉永小百合さんが、戦争の愚かさ、平和の尊さを語った。
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今年はワシントンで、画家・丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」の展覧会が開かれていますよね。原爆投下直後の広島で、惨状を目の当たりにし、原爆を描くことをライフワークとした夫妻です。惨状を写真で直接伝えることも大切ですが、作家のフィルターを通して詩や小説、絵画、演劇といった表現で伝えることで、写真とはまた違う共感を呼ぶということもあると思います。
そういう意味でも、ヒロシマの悲劇を最も強く伝える戯曲が、井上ひさしさんの「父と暮せば」だと思います。原爆で死んで幽霊になった父と生き残った娘の物語です。
この本の冒頭で、広島と長崎に落とされた原爆のことを、日本人の上に落とされただけではなく、人間の存在全体に落とされたものであり、だからまた、あの地獄を知っていながら、知らないふりをするのは、なににもまして罪深いことだと述べています。
人間が人間として生きることも死ぬことも、一瞬にして奪ってしまう原爆は、本当にとんでもないこと。その現実を私たちは絶対に知っていなければならないと思うんですね。
どんな反対や困難があっても、原爆展も続けていくことが大切なんだと思います。めげそうになっても、つらい状況の中でも声を上げて、戦争はいけない、核はいやだと伝えていかなければいけないと思うのです。
その真実の姿を見なかったために、とても残念なことに、私たちはもちろんのこと、被爆者さえも、これだけ大きな力を持つ核なんだから、平和に利用したら素晴らしいエネルギーになるんじゃないかと思ってしまいました。そして、ちゃんとした知識も持たずにうかうかしているうちに、この狭い列島に54基もの原発ができて、福島の悲劇を招きました。
あれから4年も経つというのに、いまだに放射性汚染水が漏れているという報道があります。福島の人たちの怒りと悲しみは今でも癒やされることはありません。
そしてあの大震災の夏、服飾デザイナーの三宅一生さんからの依頼で、福島の原発被災者の方の詩を朗読しました。三宅さんには前々から原爆の詩の朗読をとお声をかけていただいていたのですが、3・11後に、福島の詩人・和合亮一さんの詩を託されたのです。そして今年の3月、福島の詩人たち、子どもたちの詩を朗読したCDを作りました。それが、「第二楽章 福島への思い」です。
この「第二楽章」は「広島編」「長崎編」のあと、本来なら「沖縄から『ウミガメと少年』」が、3部作の最終章になるはずでした。沖縄戦を語りながら、戦争が出てくることもなく、美しい海と空とウミガメが語られている野坂昭如さんの「戦争童話集」によるもので、それだけになお戦争の愚かしさと少年のつらさを物語っています。ところが、福島が4作目となってしまったのです。
あらためて、何度でも言います。戦争はだめ、核もだめ、と。選挙権が18歳からになりますね。若い人たちに未来を見つめて考えてほしい、と思います。
今回の映画「母と暮せば」は、作家井上ひさしさんの思いが下敷きにあります。
井上さんは「父と暮せば」と対になる作品を長崎を舞台に書きたい、と生前構想されていました。そのことをお嬢さんの麻矢さんから聞かされた山田洋次監督が、「泉下の井上さんと語り合うような思いで脚本を書きました」と言われる作品です。お話をいただいたとき、なんの迷いもなく、即座に「やらせていただきます」と言って、撮影の準備に入りました。戦争に翻弄される家族を描いた作品「母べえ」に続く山田監督作品です。
「母と暮せば」の私の役は、夫に先立たれ、助産婦をしながら、二人の息子を育てている母親・伸子です。
45年8月9日、長崎医科大で勉強中だった伸子の次男は、一瞬にして消えてしまいます。その日から伸子は息子を尋ねて長崎の街を捜し歩くのですが、何の手がかりもありません。
●戦争と平和もっと語って
伸子の長男はすでにビルマで戦死していました。取り残されてしまった伸子は、ひたすら次男の消息を捜し、帰りを待ちます。そして、あの日から3年が過ぎた48年8月9日、次男がふいに母の前に姿を現すのです。
長崎の原爆をテーマにした仕事は、私にとって2作目です。最初は先にもふれましたが、99年に朗読詩「第二楽章 長崎から」に取り組んだことです。
その中に、永井隆博士の遺児、筒井茅乃さんの手記から抜粋、脚色させていただいた「娘よ、ここが長崎です」が収録されています。その作品を通して、茅乃さんにお会いした折、茅乃さんからワインレッド色の美しいロザリオをいただきました。毛糸の手編みのポーチに入れてくださって、いままでずっと大切に飾るだけにしてきたのですが、この映画ではぜひ使いたいと監督にお願いしました。
クリスチャンである伸子が、息子たちのお墓の前でロザリオを手に祈る場面があるのですが、そのロザリオがそうです。
茅乃さんにも見ていただきたい映画ですが、彼女はすでに天国に召されています。生きていらしたら、今年の8月で74歳になるはずですが、7年前に66歳で肝細胞がんでお亡くなりになりました。
朗読で長崎を表現するのとはまた違って、映画で演じるのは正直のところ、すごく難しかった。せりふの一つひとつが、長崎と広島の人々の思いを代弁する言葉のように思えてならないのです。
でもね、山田監督作品ならではの、寅さんに通じるユーモアもちりばめられているのです。私の息子を演じる二宮和也さんが軽やかで素晴らしい演技をしています。やさしく泣けるファンタジー作品ですし、全編、見てほしいシーンです。
今回クランクイン前に、二宮さんと監督と一緒に長崎原爆資料館に行き、あらためて、原爆がどれほど恐ろしいものだったのか、心に刻みました。
戦後70年を迎えて、広島に、長崎に、原爆が落とされたことを知らない若い人たちが増えています。当然、核の悲惨さも知らない。そんな時代だからこそ、世界中から核兵器をなくすこと、戦争の愚かさと平和の尊さを、私たち日本人はもっともっと語っていかなければいけない。
俳優である私はこれからも、詩の朗読と映画の仕事を通して語り継いでいきたいと思います。
(聞き手・文/由井りょう子、構成/長沢 明)
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