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「安全保障の法的枠組み」を内外で使い分ける首相の詭弁
http://medical-confidential.com/confidential/2015/08/post-975.html
2015年8月10日 14:15
国民に説明する意欲に欠け、理解力も疑わしい最高権力者
戦後70年の今年は、同時に20世紀最高の英国作家とされるジョージ・オーウェルの死後65年でもある。一見、互いに何の関係もなさそうな暦上の数字だが、前者の「70年」にこだわればこだわるほど、後者の「65年」が暗い影を投げ掛けている事実に気が付く。
オーウェルといえば、「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」にも選ばれているあの『1984年』を誰しも思い浮かべるに違いない。そしてこの小説を手に取ったことがない者でも、そこに登場する次のあまりに有名な逆説は、さまざまな出版物に引用されていることから見覚えがあるだろう。
「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」──。
スターリン独裁下の旧ソ連をモデルに、全体主義がもたらす逆ユートピアに君臨する「党」のスローガンとされたこれらのフレーズは、戦後70年のこの国で異様なリアリズムを持ち得ているように思える。
憲法解釈を一度の閣議で覆す異常
それは、安倍晋三首相が「積極的平和主義」という、これまた逆説的な用語で、どう考えても「専守防衛」を飛び越え、自衛隊を他国が始めた海外での戦争に投入しようという内容としか理解できない「安保法制」なる法案を提出したことに起因していよう。
そもそものおかしさは、それまで歴代内閣が違憲としてきた集団的自衛権の行使を、一転して合憲とした昨年7月1日の閣議決定後の記者会見から始まっている。
この集団的自衛権については、いろいろな評価があっていい。だが問題は、集団的自衛権行使の是非では全くない。「改憲しない限り集団的自衛権は行使できない」というこれまでの全自民党政権(および内閣法制局)が半世紀以上にわたり異口同音に確立してきた憲法解釈を1度の閣議で覆すのは、明らかに「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかず、法的安定性を揺るがす」(長谷部恭男・早稲田大学教授)ということなのだ。政府が「違憲」としてきた行為を突如180度違う「合憲」と言い換えたら、それまでの解釈は何だったのかという話になる。
しかもさらに看過し得ないのは、そこまで大それたことをやらかしながら、当の安倍首相の言動がどうひいき目に見ても絶句するほどの幼稚なレベルにとどまっている点にある。昨年の当の閣議決定後の記者会見で、いったい何と発言したのか。
「現行の憲法解釈の基本的な考え方はなんら変わらない」「海外派兵は一般に許されないという従来からの原則も全く変わらない」──。
冗談ではない。日本の防衛とは、国土が侵略を受けた場合に備え、「自衛のための必要最小限を超えない実力」(1978年3月の参議院予算委員会における真田秀夫法制局長官答弁)を備えることとされた。国土が侵略もされていないのに、他国の戦争支援のために自衛隊を「海外派兵」する「他衛」とは全く異なるのを、なぜ「変わらない」と強弁するのか。
この閣議決定は、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があれば、集団的自衛権の行使=海外派兵が容認されるというのが、最大の要点であるにもかかわらずだ。
事実、閣議決定から1週間後、訪問したオーストラリアの国会で、首相は「こと安全保障に関し、日本は長らく内向きでした。しかし日本には、今や一つの意思があります。(略)なるべくたくさんのことを諸外国と共同してできるように、日本は、安全保障の法的基盤を一新しようとしています」と演説している。
国内では「なんら変わらない」と煙に巻き、外では「法的基盤を一新」と吹聴するのは、明らかな矛盾だろう。しかも発表された同国首脳との共同声明では、堂々と「アボット首相は、日本による、国際協調主義に基づく『積極的平和主義』に係わる最近の取組、及び、国連憲章の集団的自衛権の行使を含む、安全保障の法的枠組みの再構築に支持を表明した」と書かれてある。つまり首相は、内と外で同じ「安全保障の法的枠組み」について、全く内容が異なる発言をしているのだ。
今年4月に訪問した米国でも同様。米上下両院合同会議での演説でも、明らかに集団的自衛権行使に向けた憲法解釈の変更を、手柄話のように売り込んでいる。
「日本は今、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。(略)戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます」──。
「戦争に巻き込まれる」以外、解釈不能
ここでは「初めての大改革」と大見えを張っているが、なぜ国内で同じことが言えないのか。これまで中曽根康弘や小泉純一郎のように、人前もはばからず米国大統領への追従パフォーマンスを演じて恥じなかった首相はいたが、彼らとてこれほどまでに露骨な国内外での言葉の使い分けはしなかった。これが一国の政治で、尋常な事象なのだろうか。
しかも、首相は今年5月14日の記者会見で、「アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか。漠然とした不安をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。(略)そのようなことは絶対にあり得ません。 新たな日米合意の中にもはっきりと書き込んでいます」と大見えを切ったが、これも虚言に等しい。
この「新たな日米合意」とは、今年4月末に米国での日米安全保障協議委員会で決定された「日米防衛協力ガイドライン」を指す。そこには、自衛隊が「米国又は第三国に対する武力攻撃に対処する」ため、「武力の行使を伴う適切な作戦を実施する」と明記されている。いったいこの文書のどこに、「アメリカの戦争に巻き込まれ」ないと「書き込んで」いる箇所があるのか。「武力の行使を伴う適切な作戦を実施する」というのは、「戦争に巻き込まれる」以外のどのような解釈があり得るだろう。
もはや、この国が直面している問題は、集団的自衛権行使の是非でも、その憲法解釈の内容でもない。さらには、「安保法制」の条文でもないのかもしれない。およそ主権者たる国民に真摯に説明する意欲に欠け、理解力も疑わしい人物が最高権力者に収まっているという事態を異常と見なすか、あるいは見なさないか。その判断こそが問われていよう。
そして問われないようであれば、70年を迎えた戦後国家が、「無知は力である」という逆説が現実となっている『1984年』ばりの逆ユートピア、すなわちディストピアに堕したという事実を認めねばならなくなるのではあるまいか。 (敬称略)
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