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左・自民党 衆議院議員 むとう貴也オフィシャルサイトより/右・蛭子能収『蛭子能収のゆるゆる人生相談』(光文社)
「戦争に行きたくないのは自己中」武藤議員に聞かせたい、蛭子さんの“究極の自己中”反戦論
http://lite-ra.com/2015/08/post-1364.html
2015.08.07. リテラ
「戦争に行きたくないのは自己中で利己的個人主義」――。自民党の武藤貴也議員のトンデモ発言に非難が集まっているが、しかし、これはある意味、自民党=安倍政権の本音でもある。
実際、安倍首相をはじめ、党三役や閣僚に名前を連ねている連中は、今でこそ政権をとって安保法案を通すためにトーンダウンしているが、これまでみんな武藤議員と似たようなことを主張してきた。
日本国憲法や戦後教育のせいで国民に公に貢献する精神がなくなった、愛国教育や徴兵制で国民の精神を叩き直すべきだ――。
麻生太郎副総理が武藤議員に対して「自分の気持ちは法案が通ってから言ってくれ。それで十分間に合う」と思わずポロリと漏らしたことが報じられたが、おそらく、安保法案が成立した次は「戦争に行きたくないのは自己中」と批判されるような教育、社会の空気づくりが本格化していくのだろう。
そのとき、いったい私たちはこの乱暴な全体主義にどういう言葉で対抗すべきなのか。実は、そのヒントを与えてくれそうなイデオローグがいる。それは、あの蛭子さん、蛭子能収だ。
蛭子さんといえば、バラエティや旅番組などでもまったく空気を読まないマイペースな発言を連発している“ミスター自己中”。本人も常々「誰かに束縛されたり、自由を脅かされることが何よりも大嫌い」と公言していて、自著『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)では、「長いこと、自由であることを第一に考えていると、いわゆる“友だち”と呼ばれるような人は、あまり必要でなくなります。」とまでいっている。
そんな蛭子さんが「女性自身」(光文社)8月18日・25日合併号の戦後特集「私の70年談話」に登場して、戦争について語っているのだが、これがなかなか説得力のある内容なのだ。
原爆投下された2年後、長崎に生まれた蛭子さんは「小さいときから、戦争は嫌」だと思っていたという。その原点になっているのは死ぬことへの恐怖。蛭子さんは小学生の時、一瞬で消えてしまう流れ星を見て、人間のそして自らの“死”を実感した。
「人の一生も同じなのかと思ったら、すごく恐ろしくなって。以来、死なないことが人生の目標になったんです」
人生の目標が「死なないこと」となった蛭子はその目標を第一優先にして行動してきた。それが「怒りを表情に出さない」そして「暴力に頼らない」ことだったという。
中学時代、パシリにされたりイジメを受けたりしたとき、蛭子は内心では腹が立ったというが、それを抑えることで、理不尽なものに対処していく。
「怒りを表情に出すことはしませんでした。もしオレが手を出せば、相手は殴ってくるかもしれません。ちょっとの憎しみでもたちまち大きくなります。その憎悪の連鎖が、しまいにはナイフで刺されることにつながるかもしれませんからね」
挑発に乗って、感情を爆発させれば自分にも暴力が向けられるし、やり返せば憎悪の連鎖も起こる。だから蛭子は考えた。
「とにかく相手から嫌なことをされても、怒りの感情を出さない。暴力に頼らない別の対処法を考える。それが憎しみの連鎖を断ち切る唯一の方法。これは大人になった今でも変わりませんね」
そして、蛭子さんはこうした体験をふまえて、戦争の動きについてこう批判している。
「オレは好戦的な発想は好きではありません。最近、中国や韓国との関係がギクシャクしてからの、相手の攻撃的な言動により攻撃的な態度で返しているような人たちを見ていてそう思います。(略)向こうが高圧的に来ても、受け流しておけばいいんですよ。その間に、歴史や法律を勉強したり、戦争をしなくてもすむ仕組みを調べたりするほうがいいんです」
「国同士だとちょっとした『憎しみ』が戦争につながるんですから、その連鎖を早い段階で断ち切ることが大切。それができるのは「弱さ」を武器にすることだと思うんです」
どうだろう。安倍首相による例の「トモダチのアソウくんが不良仲間に喧嘩を売られたら、一緒に戦う」といったたとえ話よりも、はるかに現実的で説得力のある言葉ではないか。
実は蛭子さんは少し前から、安倍政権の戦争できる国づくりにしきりに異を唱えていた。
昨年6月24日には朝日新聞紙上で、集団的自衛権を「正直、難しいことはよく分かりませんが、報復されるだけなんじゃないですか。『集団』っていう響きも嫌いですね。集団では個人の自由がなくなり、リーダーの命令を聞かないとたたかれる。自分で正しい判断ができなくなるでしょ」と批判したし、前述の『ひとりぼっちを笑うな』でも「ここ最近の右翼的な動きは、とても怖い気がします。安倍首相は、おそらく中国と韓国を頭に入れた上で、それ(集団的自衛権)を通そうとしているのでしょうけれど、僕はたとえどんな理由であれ、戦争は絶対にやってはいけないものだと強く思っています」と警鐘を鳴らしている。
おそらく安倍政権を支持する連中は、蛭子さんのこうした反戦の主張に対しても「自己中」という言葉を投げつけるのだろう。しかし、蛭子さんはただの「自己中」ではない。
「僕自身が自由であるためには、他人の自由も尊重しないといけないという信念であり、それが鉄則なんです。人それぞれ好きなものは違うし、ライフスタイルだって違う。そこをまず尊重しない限り、いつか自分の自由も侵されてしまうような気がしてなりません」
「戦争ほど個人の自由を奪うものなんて、他にはないんですよね。誰かの自由を強制的に奪うようなものは、いかなる理由があっても断固として反対です」
(『ひとりぼっちを笑うな』)
蛭子さんは何よりも自由を大事にし、そして自分が自由であるために、他人も尊重するし、多様性を認める。だからこそ、「自由」を奪う戦争には、徹底的に反対していく。しかも、そこにはたんなるエモーショナルな思いではなく、どうやったら生き延びることができるのかという冷静な計算、「弱さを武器にする」というしたたかな戦略がある。
一方、安倍政権とそれを支持する連中はどうだろう。自分たちのグロテスクなプライドを慰撫するために歴史をつくりかえ、国民に「国のために命を捧げる」という価値観を強要し、戦争のできる国にするためにわざわざ緊張関係をつくりだす――。いったい、どっちが「自己中」で「非現実的」なのかは火を見るより明らかだろう。
蛭子さんは「女性自身」のインタビューで「弱いことを武器にすることは、本当は強い者にしかできないことですよね」とも語っているが、私たちは安倍政権やネトウヨ政治家ががなりたてる「見せかけの強さ」でなく、蛭子さんのような「しなやかな強さ」を求めるべきなのだ。
(伊勢崎馨)
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