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田崎健太『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)
長州力が在日差別を受けた過去を告白! レスラーになった後も「朝鮮人!」といわれると力が抜けてしまう…
http://lite-ra.com/2015/08/post-1363.html
2015.08.06. リテラ
先日の安倍政権支持・安保法推進デモでも「朝鮮人は半島に帰れ!」というヘイトスピーチがあがっていたことが報じられたが、国際社会からこれだけ厳しい批判を受けているというのに、安倍政権支持者による在日外国人、とくに在日朝鮮・韓国人へのヘイト攻撃は強まるばかりだ。
しかも、出自差別だけでなく、SHELLYや星田英利(旧芸名:ほっしゃん。)などのケースでも明らかなように、有名人が自分の気に食わない政治的発言をしただけで、「在日」認定というかたちで、社会から排除しようとする。
こうした差別意識は、たんにネトウヨだけにとどまらず、テレビや新聞、雑誌の保守系報道でも見られるようになり、確実に裾野を広げている。
そんな状況下、ある有名人が在日差別を受けてきた過去を告白し、注目を集めている。熱狂的な人気を誇っていたプロレスラーの長州力だ。
彼が在日韓国人2世であることはプロレスファンの間では周知の事実であったが、先ごろ出版された、ノンフィクションライターの田崎健太氏による長州力本人や周辺関係者への取材によって編まれた伝記本『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)のなかで、長州力自身の口から、在日として生きてきたうえでの苦悩や葛藤が語られている。
1951年12月3日、山口県徳山市(現在の周南市)で生まれた、長州力こと吉田光雄。彼の人生は少年時代から差別意識との戦いであった。
〈教師の中には出征していた者もいた。
小学校三年生のとき、クラスの担任となった男も従軍経験者だった。その教師は光雄を目の敵にした。
「差別意識が凄かった。ぼくともう一人を毎日殴る。二人とも在日なんです」
悪戯をした、あるいは給食費を持ってくるのが遅れたという理由だった。
――朝鮮人!
――朝鮮人の子どもは殴られても痛くないんだよなぁ。
教師はそう言いながら、平手打ちした。
「どういう具合に耐えるか分かりますか? 周りの子どもが、また叩かれてるって笑うんです。笑われるとぼくはすごく恥ずかしかった。でも、屈辱で睨むなんてことはしない。恥ずかしいから笑ってやろうと思った。ぼくが叩かれて、にやって笑うとその先生は余計に殴る」〉
生徒同士のイジメどころか、担任の先生が率先してイジメに加担していたというのだから驚くほかない。当時の差別意識の強さを物語るエピソードだ。そして、残念ながら彼に対するイジメは止むことなくその先も続いていく。
〈「小学四、五年生になるとちょっと元気がいいからトラブっちゃうと、やっぱりお前は朝鮮人だからとか言われる。そういう言葉を言われると、軀から力が抜けていくのが分かった」
朝鮮人という言葉を聞くと、魔法にかかったかのように自分が小さくなっていく気がしたという〉
なんの罪もない子どもにここまでむごい考えを持たせてしまうとは……。しかし、小学校時代はいわれのない差別意識に苦しんだ長州力であったが、中学にあがると一変。当時の同級生が〈強いとかそういうレベルじゃない。誰も喧嘩しようと思わない。中学のとき歯向かったのが一人いたけどね。十メートルぐらいピーンッて飛んでいったよ〉と述懐するほどの男に成長する。
その強さは、中学から始めた柔道のおかげで高校のレスリング部に勧誘され、特待生として授業料免除で入学を許されるほどだった。
レスリングでも順調に頭角を現し、出自をめぐるイジメから抜け出せたかのように見えた長州力だったが、今度は“国籍”の問題が彼のアスリートとしてのキャリアを阻む。
当時、国体に出場するには日本国籍が必要だった。しかし、その直前に行なわれたインターハイで惜しくも準優勝だった彼に“日本一”の称号を与えてやりたいと考えた、当時レスリング部監督の江本孝允は長州力の長兄に彼の帰化を提案。だが、帰化はできずに終わる。そこには難しい在日朝鮮人社会の事情が横たわっていた。
〈光雄は有望なレスリング選手である。これからも日本代表に誘われることだろう。将来を考え帰化させたらどうかと江本が言うと、兄は「それは難しい」と強く首を振った。
「同胞がとりあってくれんようになる」
在日朝鮮人社会の結びつきは強い。彼らの目があるので、国籍を変えることはできないのだ〉
結局、監督は彼が韓国籍であることを知らなかったということにして、国体への出場を強行。そして、長州力は監督の思いに応えるように見事優勝を果たす。国体直後のアメリカ遠征のメンバーには国籍がネックとなり、選ばれなかったものの、そのおかげで大学のレスリング関係者からも注目が集まり、専修大学や日本体育大学から誘いの声がかかる。そして、彼は、〈日本国籍がなければ、教員として採用されにくいという噂を耳にしたことがあった〉という監督からの進言もあり、将来の進路選択に幅をもたせられる専修大学への進学を決めるのであった。
大学入学後も彼は順調に実力をつけていく。そして、韓国代表としてミュンヘンオリンピックに出場することになるのだが、長州力はここでも“疎外感”を感じることになる。選手村やトレーニングセンターで“同胞”たちと合宿し寝食を共にするも、言葉・習慣・価値観も違う彼らとは、うまく分かり合うことができなかったのだ。
韓国籍をもっているからといって差別されることのない場所に来たはずなのに感じる孤独。〈“母国”韓国人にとって光雄は同胞であり、日本で育った妬みの対象でもあった〉。徴兵制の有無、そして、経済格差によって生まれた妬みがさらに相互理解を阻む。
〈ミュンヘンの選手村でも疎外感があった。日本育ちの光雄に韓国の選手たちは興味津々で、身ぶり手ぶりで話しかけてきた。
彼らはベトナム戦争に従軍したときの写真を見せた。
「凄い写真。うぇってなるような写真。ボクシングの選手なんか特にそういうのが多かった」
お前は兵役に服さず、ベトナムにも行っていないと彼らは光雄に冷ややかだった。言葉は理解できなくとも、陰口を叩かれていることは雰囲気で感じる〉
このような状況も災いしたのか、彼は五輪で思うような成績は残せなかったが、その後、プロレスに転進しご存知の通りの活躍を見せる。
しかし、紆余曲折ありながらもスターにまで上り詰めた長州力に対し、またも心無い差別の言葉が襲い掛かる事件が起こる。90年、彼が新日本プロレスの「現場監督」を務めていた時だった。デビュー間もない、元横綱・北尾光司とのトラブルである。その時のことを彼はこう振り返る。
〈「ぼくはバスの一番前で坐って待っていたんです。そうしたら、彼は前の日に何かあったのかな、今日、仕事はやらないとか言い出したんです。(中略)仕事をできないというから、じゃあ、(バスから)降りろと言った。彼は平気な顔で降りた。そして俺がバスの前でなんか話したのかな。そうしたら“うるせー、この朝鮮野郎”と」〉
〈「ズキューンってくるんですよね。その一言で軀から力が抜ける。うん、こう前に足が出ないような……。昔のものがまた戻ってきたというか。あれから二十年経っているのに……。喩え方が分からないんだけれど、常に何か違和感のある言葉。ただ、そのとき、ぼくの顔は変わっていなかったと思いますよ」
表情を変えなかったというのは、長州の意地だったろう〉
素行不良で前々から問題となっていた北尾はこの事件ののち、新日本プロレスとの契約を解除されている。
小学生時代には差別されて教師に殴られ、青春時代は事あるごとに国籍の問題がアマレス選手としてのキャリアの邪魔をし、大人になりプロレスラーとして大成功してからも生まれ育ちについて言及される。
2002年、新団体“WJプロレス”を旗揚げする時に宣言した“ど真ん中のプロレス”というキャッチフレーズが出てくるきっかけとして彼が話した言葉はあまりにも重い。
〈あれは自然に出てきた言葉ですね。ぼくがど真ん中という言葉を使うのは、自分の生い立ちみたいな部分があるかもしれませんね〉
〈自分も韓国人の血。幼少の頃の引け目みたいなのがある。端を歩いていたというかな。子ども時代に言えなかったんです。ど真ん中を歩くぞと〉
〈ぼくがど真ん中という言葉を使うときは、業界の“作り言葉”ではなく、自然に出る言葉です。幼少の頃の悔しさ、惨めさみたいなのが言葉になる〉
誰にも負けない腕力をもち、レスラーとして確固たる地位を築いた長州力のような男でさえ、ここまで傷つくのだ。差別がいかに残酷であるかがよくわかるだろう。
今、日本は長州力の小学生時代のような、人間が出自でイジメを受けるような国に逆行し始めているが、その動きを断じて許してはならない。
(井川健二)
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