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「戦争は勝っても負けても同じ」元軍国少年の被爆者が語る〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150806-00000001-sasahi-soci
週刊朝日 2015年8月14日号より抜粋
一瞬にして広島と長崎の街の姿を変え、20万人近くの命を奪った原爆。戦争が二度と起きないように、そして原爆が二度と落ちないように──。被爆者の祈りは年を重ねるごとに強くなっている。
中学校に通うため、軍艦島(長崎市)の実家を出て長崎市大浦に下宿していた加地英夫さん(82)は、下校途中の路面電車で被爆した。
当時、加地さんは長崎県立瓊浦(けいほ)中学校の1年生。血気盛んな12歳だった。7月下旬には、長崎への空襲も激しくなり、沖縄戦のニュースも聞いていた大人たちは、「負けるのではないか」と不安の声を上げていた。「絶対に神風が吹いて、日本は勝つ」。加地さんは、そう思っていた。
8月9日は1学期末試験の最終日。英語の試験が終わり、早く帰って遊ぼうと、浦上駅前から大浦に向かうため、路面電車に乗った。
電車は稲佐橋(長崎駅から約1キロ、爆心地から約2キロ)の付近で停車。
「電線の故障のようでした。どれくらい止まっていたでしょうか。かすかに爆音がしました。また空襲が来たのかなと思っていたのですが」
その爆音が次第に強くなって、急降下するように聞こえてきた。
そのとき、ピカーッと前後左右から黄白色の閃光(せんこう)が入り、目がくらんだ。同時に、左ほほに熱線を感じて、「あっつー」と手で押さえ、しゃがみこんだ。
「ガスタンクに爆弾が命中して爆発したのかもしれない」と思っていると、「ドカーン」。百雷の音が響いた。電車のガラスが割れ、頭の上から破片が降りかかり、強烈な爆風で電車が揺れた。
「どうしよう? 早く逃げよう、山のほうへ」
起き上がり、その光景に驚いた。いつもの長崎ではない。家並みは薄暗く、水墨画で描いたような情景だった。
「キノコ雲が太陽を遮っていたからでしょうね。目の前は暗かったですが、遠く向こうは青い空でした」(加地さん)
電車から降りると家々が倒壊し、煤(すす)やら土埃(ほこり)、瓦が割れた粉じんなどが舞い上がり、視界が悪い。灰色や黒、茶色、暗い色が入り交じった混沌(こんとん)とした景色。
運が良いことに無傷だった加地さん。ようやく見つけた防空壕(ごう)には、すでに10人ぐらいの人がいた。被害を免れたようで、ひどいけがの人はいなかった。だが、加地さんが壕で休んでいると、次々とけがを負った人たちが入ってきた。
顔中真っ赤で血だらけの人、やけどで腕の皮膚がぶらりと垂れ下がっている人。みるみるうちに、総勢30人ほどになった。
「次から次に人が入ってくるので、壕の奥に押し込まれる。焦げたような、息が詰まるにおいがして息苦しくなってきたので、『このままでは死んでしまう』と壕を出て下宿を目指しました」(加地さん)
午後4時ごろに、大浦の下宿に到着。浦上一帯を見下ろせる山の中腹にある壕に入り、夜を迎えた。壕の中はジメジメしていた。数時間が経ち、新鮮な空気を吸いたくなって外に出た加地さんが見たのは、浦上一帯を燃やし尽くす真っ赤な火だった。メラメラと燃える火は、夜空を真っ赤に染め上げていた。
「長崎は全滅だ。終わりだ。本当に、日本は勝てるのだろうか」
軍国少年だった加地さんは、原爆の威力を目の前に立ち尽くした。
「私はこれまで、被爆の話を積極的にはしてきませんでした。ですが、被爆者の生き残りが少なくなってきた。戦後70年を節目に、多くの人に知ってほしいと思って、今回の体験談に応募しました。戦争はするものではありません。勝っても負けても同じです」(加地さん)
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