http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/165.html
Tweet |
あまたある殺戮兵器のなかで核兵器がことさら批判と廃絶の対象になっているのは、その威力と効果がすさまじいからであろう。
逆に言えば、だからこそ、核兵器とその運搬手段を一定数以上保有していることが「抑止力」となると信じられているのであろう。
新安保法制でも、安倍政権は、戦争法案ではなく平和法案であると強弁する道具として「抑止力」理論を利用している。
“戦争推進”国家の元首でありながら核兵器廃絶を語ることでノーベル平和賞を受賞してしまったオバマ大統領のひとり漫才ほどではなくても、「抑止力」理論を振り回すような政府が核兵器廃絶の動きを主導することはできない。
話は少しずれるが、米国主導の多国籍軍ないし有志連合の武力行使の後始末として治安維持活動にも自衛隊を派遣しようとする「国際平和協力法」は、「抑止力」理論とまったく無関係である。
米国に戦争を仕掛ける気も米国と一戦を交える気もない国に対し、米国支配層があれこれ理屈を考え吹き出してしまいそうな名分を付けて侵攻する行為だからである。
==========================================================================================================================
戦後70年 広島・長崎の叫び(上)
反核の訴え 一歩ずつ
「被爆の事実だけを理由に核廃絶を訴えても、国際社会では説得力を持たない」。長崎大2年、稲垣歩海(21)は振り返る。4〜5月、長崎市などが派遣した「ナガサキ・ユース代表団」12人の一人として核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれた米ニューヨークの国連本部を訪れた。
NPTは1970年発効。49年に旧ソ連が初の原爆実験に成功するなど核保有国が増える中で提唱され、再検討会議は5年ごとに開かれている。
2010年の前回会議はオバマ米大統領が「核なき世界」演説でノーベル平和賞を受賞した後で軍縮機運が高まった。今回会議の期間、学生らは「核廃絶が進まぬ現実をもっと教えるべきだ」と訴え、非政府組織(NGO)や各国政府関係者の共感に手応えを感じた。
しかし最終文書案からは、日本政府が提案した「世界の指導者らの広島・長崎訪問」の文言は中国の反発で削除され、採択もされなかった。
国際政治の現実を痛感したという稲垣は、ドイツの学生が「加害の歴史を繰り返し学んでいる」と話していたことを思い出す。「日本は自国の歴史を省みる姿勢が足りなかったのではないか」
■なお1万6000発
冷戦時代より減ったものの世界には約1万6千発の核弾頭がある。広島と長崎は20万人以上の命を奪った原爆の非人道性を繰り返し訴えてきた。
96年の原爆ドーム(広島市)の世界文化遺産登録は世界への発信につながった。隣接する広島平和記念資料館には昨年度、約23万人の外国人が訪れ95年度(約5万7千人)の4倍以上に増えた。
それでも米国では、原爆投下が戦争終結を早めたとの評価が根強い。米民間調査団体が今年発表した世論調査で、米国人の56%が投下を「正当だった」と回答した。
「原爆を落とした国、落とされた国という関係を超え、平和や命の尊さを考えてもらいたかった」。米国の首都ワシントンで6月に開かれた原爆展を企画したフリープロデューサーの早川与志子(68)は語る。
ワシントンでは95年、博物館が企画した被爆資料の展示が米退役軍人団体の反発で実現せず、別の会場で原爆展が開かれるに至った経緯がある。首都での原爆展はそれ以来、20年ぶりだった。
早川は、国を超えた理解を深めたいとの思いから、米兵捕虜や朝鮮出身者の原爆被害を描いた作品を展示に含めた。開会初日、米国人少女が涙ながらに話した言葉に希望を見た。「地上で何が起きたか、よく分かった」
■破片を採集
原爆ドームは今年、「広島県物産陳列館」として完成してから100年を迎えた。広島大研究員の嘉陽礼文(37)らは、爆風で飛散し、横を流れる元安川の底に現在も多数眠るドームの破片に着目し、採集活動を続けている。
破片が「少しでも世界の目に触れ、核兵器の恐ろしさを訴えてくれれば」と嘉陽。8月6日にはドームを設計した建築家ヤン・レッツェルの母国チェコの大使らを招き、寄贈式典を行う。
広島では来年、主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に先立ち外相会合が開かれる。被爆地の実相に国際社会が触れることは核廃絶への一歩になるはずだ。
(敬称略)
◇
原爆投下から丸70年の夏。教訓を訴える取り組みや、終わりの見えない被害の現実を追う。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
原爆ドーム保存、当初は反対論も
戦災や災害の被害を象徴する遺構を「負の遺産」として保存するかは、東日本大震災の被災地で議論が起きている。原爆ドームも当初、撤去を求める声が強かった。
転機の一つになったのが白血病で16歳で亡くなった楮山ヒロ子の日記。「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろうか」。広島市民らが署名運動を始め、市議会が1966年、永久保存を決議した。
世界遺産登録の際にも物議を醸した。米国や中国が反発したほか、元長崎市長の故本島等は、被害者性だけを強調しても世界の理解は得られないとして論文「広島よ、おごるなかれ」で批判した。
その長崎市では爆心地に近い旧浦上天主堂が58年に解体されるなど「復興が先で保存する余裕はなかった」(同市)。だが残る遺構は老朽化が深刻で、市は来年1月にも同天主堂の旧鐘楼など4件の史跡指定を国に申請する予定だ。
[日経新聞8月2日朝刊P.31]
戦後70年 広島・長崎の叫び(下)
「全員救済」今こそ
「『黒い雨』の内部被曝(ひばく)を認められないまま、多くの仲間が亡くなった」。広島市の高東征二(74)は1945年8月6日、爆心地の約9キロ西の自宅にいた。
突然、部屋の中が強い光に照らされ、ふすまが倒れた。泣きながら母親のいた庭に出ると辺りは暗くなり、雨が降った。「何も知らされず、ためた雨水を飲み、庭にまいて育てた野菜を食べた」
高東は現在、広島県「黒い雨」原爆被害者連絡協議会の事務局次長。今年3〜5月、自身を含む70人の被爆者健康手帳の交付を求め、広島市などに申請した。しかし認められる可能性は低い。
■全容は未解明
国は放射性物質を含んだ黒い雨が強く降ったのは爆心地から北西側だとし、その範囲の人だけを無料健康診断の対象としているためだ。内部被曝の影響も考慮しない。
一方、広島市は住民健康調査の結果から、黒い雨の影響が国の約6倍の面積に及んだ可能性があるとして2010年、対象範囲の拡大を求めた。
今年6月には、広島大名誉教授の鎌田七男(78)が、黒い雨を浴び、肺がんなどを患った女性の肺組織にウランが残存する痕跡を初めて撮影したと発表。「内部被曝の証拠をようやく示せた」という鎌田は、「原爆の放射線被害の全容はいまだに科学的に明らかになっていない」と強調する。
54年3月、ビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被曝。健康被害に目が向けられ、57年に原爆医療法(現被爆者援護法)が施行された。原爆症と認定されると医療特別手当(現在は月約13万8千円)を給付される。
■病気進み焦り
だが、これが新たな悲劇を生む。認定範囲は限定的で、2003年以降、集団訴訟が多発した。国は09年、「全員救済」の方針を決め、認定基準も改めたが、認定を却下され司法に救済を求める人は絶えない。
「生きているうちに判決が出るのか」。昨年1月、長崎地裁に提訴した長崎市の山下トキ子(77)は慢性肝炎が悪化する中、焦りを募らせる。爆心地から4キロの自宅で被爆。2日後に同約0.5キロに入ったが、現行基準で慢性肝炎での認定は、投下翌日までの立ち入りに限られる。「なぜ2日後では駄目なのか。国の支援が受けられない限り私の戦争は終わらない」
「戦争被害は全国民が等しく受忍する」。80年、国の懇談会が提唱した考え方は「受忍論」と呼ばれる。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は、原爆症の範囲を狭くする国の姿勢の根底に、受忍論があるとみる。
70年を経ても人体をむしばみ続ける原爆被害。被団協事務局長の田中熙巳(てるみ、83)は「被爆者が被害を『受忍』することは、原爆を容認することになる」と強調、「国家補償を明確にすることが、被爆者を二度と生まない決意になる」と訴える。
(敬称略)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
原爆症の認定5%に満たず
原爆医療法など旧原爆2法を一本化し、総合的な支援策を定めた被爆者援護法が1994年に制定されたが、国は「科学的根拠」を理由に厳格な基準を設定。今年3月現在、医療費が無料になる被爆者健康手帳を持つ約18万4千人のうち、原爆症認定は8749人と5%未満だ。国は相次ぐ敗訴を受け、2008年以降、基準を3回改定。がんや白血病は爆心地から約3.5キロ以内の被爆なら積極認定するとした。心筋梗塞や慢性肝炎などの基準はより厳しく、被爆者団体は反発している。
[日経新聞8月4日朝刊P.]
戦後70年 広島・長崎の叫び
(中)語り部 絶やさない
16歳で被爆し下半身不随となった渡辺千恵子が母に抱えられ登壇した。「皆さん、惨めなこの姿を見てください」。訴えたのは1956年8月、長崎市で開かれた原水爆禁止世界大会だった。
大会は、米国による54年の水爆実験を機に広がった原水爆禁止の署名運動を継ぐ形で翌55年に始まった。同年、渡辺は長崎初の被爆者団体「長崎原爆乙女の会」を結成。93年に亡くなるまで核兵器の恐ろしさを訴えた。
「核兵器のない世界には這(は)ってでもまいります」と記した渡辺の自伝「長崎に生きる」が今年3月復刊された。編集を手掛けたのは学生時代に講演を聞いた長崎出身の五島木実(47)。「活字を通して記憶の風化を防げれば」と考えた。
■被爆者80歳超
背景にあるのは被爆者の減少だ。80年代初めの37万人から現在は18万人に。平均年齢は80歳超。原水禁世界大会で壇上に立つ候補者を探すのも難しくなってきた。主催する原水爆禁止日本協議会の事務局長、安井正和(60)は「生の証言は格別な重みがあるのだが」と歯がゆそうに話す。
関係者が危機感を募らす中、広島市は2012年、被爆体験の伝承者の育成に着手。今年4月、1期生50人が活動を始めた。3人に1人が被爆2世や3世で、5人が広島県外在住だ。兵庫県芦屋市の山本美弥子(50)は祖母の戦争体験を聞いて育ったことが応募のきっかけといい、被爆者5人の体験を受け持つ。
被爆者ゆかりの地のフィールドワークや被爆者の講話の見学など、3年間ほぼ毎月広島に通い、伝承者と認定された。山本は「思いを余すことなく伝える」と意気込む。
継承の裾野は広がりつつあるが、苦難を乗り越えた被爆者の迫力に近づけるかが問われる。
4月、米ニューヨークでの講演会。長崎原爆被災者協議会事務局次長の柿田富美枝(61)は当時の惨状をありありと語る被爆者の姿に圧倒された。「運動に20年以上関わり、被爆を分かっているつもりになっていた」
■物語るつらさ
実は、我が子にも体験を伝えていない被爆者は少なくない。被災協が被爆2世を対象にした調査では、回答した約300人の3割が親の体験を聞いていなかった。担当者は「話すのがつらく、健康面で心配させたくないため」と指摘する。
そんな中、長崎市の佐藤直子(51)は被爆した父、池田早苗(82)の思いを継ぎ、語り部の道を歩み始めた。7月、爆心地近くの私立南山小で父の体験を紙芝居を使い児童約280人に話した。
池田は語り部の一人。娘には長い間、被爆体験について口を閉ざしてきたが4年前、「お父さんも年やけん。継いでくれんか」と少しずつ話し始めた。佐藤は「度重なる病気を押して活動してきた父の思いを伝えたい」と継承の力を磨く決意をしている。
(敬称略)
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
被爆者組織、相次ぐ解散
被爆者組織は高齢化や後継者不足などが原因で、2000年前後から活動縮小が目立ち始めた。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の都道府県組織では06年の奈良を皮切りに、08年に滋賀、今年は和歌山で解散した。
被爆地の広島でも今年3月、県内最大規模だった福山市の組織が解散。被爆2世に運営を委ねることが検討されたがまとまらず、現在は有志らが規模を縮小し、新組織を立ち上げている。被爆者以外も入会できるようにするなど存続を模索する組織は多い。
[日経新聞8月2日朝刊P.34]
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK190掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。