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「東電元会長ら強制起訴へ 検察審議決、原発事故「回避できた」:事故回避可能性ではなく事故後の対応を問題の中核にすべき」
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2015年08月01日 (土) 午前0:05〜
時論公論 「原発事故"過失責任を問う"市民の判断」
橋本 淳 解説委員
福島第一原子力発電所の事故で、東京電力の旧経営陣3人が強制的に起訴されることになりました。市民で構成する検察審査会は、なぜ検察の不起訴の判断を覆し「過失責任を問うべき」と結論づけたのか。審査会が示した原発事故の責任の意味を考えます。
検察審査会は検察が出した不起訴の処分が妥当かどうか、国民がチェックする制度です。有権者からくじで選ばれた11人の審査員が審査を行い、2回目の今回も、8人以上が賛成して「起訴すべき」と議決しました。議決を読んで私は、原発の安全管理に対する市民の厳しい視線が反映されていると感じています。
強制的に起訴されることになった東京電力の勝俣恒久元会長ら3人の過失責任。問われるのは刑法の業務上過失致死傷の罪です。条文では、「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は5年以下の懲役か禁錮、または100万円以下の罰金に処する」とあります。すなわち、東電が注意を怠って津波対策を取らなかった結果、原発事故を起こしたとなればこの罪が成立します。審査会は、事故の被害者として、病院から避難中に病気が悪化して亡くなった44人の入院患者などを認定しました。ただ問題は、どのような場合に必要な注意を怠ったと言えるのか法律に具体的な定めがないことです。
そこで、重要な要素となるのが「予見可能性」です。これはリスクを認識できたかどうか、あるいは認識すべきだったかどうかを見極める考え方で、東電に大津波の予見可能性があったとすれば必要な注意を怠ったことになります。しかし、さらに悩ましいのは、津波のリスクへの認識がどの程度のものなら予見可能性があったと言えるのかという点です。
リスクの認識レベルは、現実的に差し迫った危険から漠然とした不安感まで実に幅広いものがあります。捜査する検察の実務からすると、現実に起こり得る最高レベルの危険を認識していないと予見可能性は認められないという見方が主流です。このように予見可能性を限定的に捉えるのは、過失責任を幅広に問うてしまうと医師やパイロットのように潜在的にリスクを抱える仕事への影響が大きく、社会に委縮をもたらしかねないと考えられてきたからです。
原発事故の捜査でも、東京地検はこのスタンスを崩さず関係者全員を不起訴にしていました。これに対して、検察審査会はより柔軟な発想をしました。そもそも、医師やパイロットと原発とを同列に扱うのはいかがなものかというのが判断の出発点です。いったん事故が起きれば取り返しのつかない重大な被害をもたらす原発には、万が一にも備えた、とりわけ高い安全管理が求められるので、予見可能性の間口を広くとるべきだと考えたのです。つまり、最高レベルの認識でなくても一定の科学的な根拠があれば津波への予見可能性が認められるとしました。
では科学的な根拠とは何か。それは、東日本大震災の9年前の平成14年に遡ります。この年、政府の地震調査研究推進本部が「福島の沖合を含む海域でマグニチュード8クラスの地震が30年以内に20%程度の確率で発生する」という予測を公表しました。これを踏まえて東京電力は津波の高さを試算し、福島第一原発で最大15.7mという結果を得ていました。
これは大震災で押し寄せた津波とほぼ同じ高さで、検察審査会は勝俣元会長ら3人が試算結果を知っていたと指摘しています。しかし、津波対策がとられないまま大震災が起きてしまいました。この地震の予測や津波の試算について、東電は「あくまでも仮想的な数値であって実際にはそのような津波は来ないだろうと考えた」と釈明しています。つまり、科学的な信頼性が乏しかったというわけですけれども、検察審査会は「権威ある国の機関が予測したのだから大津波の可能性を示す科学的な根拠として考慮するのが当然だ」と指摘しています。
そもそも地震や津波を確実に予知するのは今の科学では不可能ですから、予見可能性を限定的にしすぎると過失責任を一切問えないということにもなりかねません。検察審査会は自然災害を予知できない以上、最悪の事態を想定して動かなければ原発の安全性は担保できないというふうに考えたわけです。議決は「安全よりも経済合理性を優先させ、津波の可能性に目をつぶって何ら対策を取ろうとしなかった」と東電の姿勢を厳しく批判しています。このあたりに市民の意識がよく表れているように思います。
では今後、裁判所はどう見るのでしょうか。一般的には過失責任の予見可能性を狭く捉えることが多いのですが、そうでないケースもあって非常に難しい判断になりそうです。そこで自然災害という点で私が注目したのは、落雷事故をめぐる民事裁判の判例です。この事故は平成8年、大阪・高槻市で高校のサッカー部の試合中に部員の男子生徒が落雷を受け、重い障害が残りました。当時、現場では空に黒い雲が立ち込めていたものの、遠くから雷鳴が聞こえる程度で雨も降っておらず、サッカー部の監督だった教師は「まさか落雷事故が起きるとは思っていなかった」といいます。しかし、最高裁判所はこのように判断しました。「学校のクラブ活動では、できる限り事故の危険性を予見し生徒を保護する義務がある」。そして「雷鳴が大きな音ではなかったとしても教師は落雷事故の危険を予見すべきだった」。つまり、教育活動での安全管理をひときわ重く見て予見可能性を幅広に認めたわけです。
そこでこのケースを、仮に次のように置き換えてみたらどうでしょうか。学校のクラブ活動を原発に、教師を東京電力に、そして落雷を津波にしてみます。
そうすると、東京電力は「まさか津波が来るとは思わなかった」と主張しますけれども、「でも原発なのだから、できる限り津波を予見し住民を守る義務がある。地震の予測が公表された以上、津波の危険を予見すべきだった」と、こういう論理もあり得るのではないかということになります。これは実は今回の検察審査会とほぼ同じ考え方です。福島の事故以降、原発に対して厳しい見方をする裁判官が増えたとも言われていますから、勝俣元会長らの裁判の行方は予断を許さないと思います。
検察審査会が「刑事責任を問うべき」とする結論に至った背景として、世論調査で依然として原発の再稼働に反対の意見が賛成を大きく上回っている状況を指摘しておかねばなりません。そうした世論の裏側には、福島の事故で原発の怖さを身にしみて感じたという思い、さらには、「人災」とも指摘されながら「誰も責任を負わなくていいのか」という割り切れない気持ちもくすぶっているはずです。原発の安全神話と無責任体制が不確実な自然現象を「想定外」に追いやり、深刻な事故を招いたのではないか。そうした市民の批判の表れとも言える今回の判断は、未知のリスクに私たちはもっと謙虚に向き合わなければならないという根源的なあり方をも問いかけているように思えるのです。
(橋本淳 解説委員)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/224315.html
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