http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/919.html
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自衛隊を「解釈改憲」で認めている以上、安保法制の違憲論争は不毛
[橘玲の日々刻々]
?安倍政権が安保関連法案を衆院で強行採決し、野党が強く反発しています。衆院憲法審査会で自民党が推薦した憲法学者が「安保法制は憲法違反」と明言する“敵失”から法案の審議は迷走を始め、野党がそれを利用して違憲論争に持ち込み、安倍政権を窮地に追い込みました。
?もっとも、与党が提出した法案を違憲だというのなら、どれほど“熟議”を重ねても合意に至るわけはありません。これは数で圧倒する与党を強行採決に追い込んで批判する“弱者の戦略”で、それが悪いとはいえませんが、野党にだって最初から議論するつもりなどなかったのです。
「戦争」だとか「徴兵制」だとか、いたずらに国民の不安を煽る言動も、政権奪還の気概を持つ(はずの)政党としては大人気ないかぎりです。こんなことでは、自民党と(永久護憲野党の)共産党の2つがあればいい、ということになってしまいそうです。
?残念なのは、安保法制が違憲だとして、だったらどうするのかという議論がほとんどなされなかったことです。反対派のなかには例によって、「平和憲法に戦争放棄と書いてあるから戦争は起こらない」という奇妙な言霊信仰を奉じるひとがたくさんいますが、責任ある政党はこうしたカルト宗教から訣別し、現実的な世界情勢のなかで日本の安全保障をどうするのか、具体的な政策を提案すべきでしょう。
?保守派からの批判を受けて、民主も維新と共同で領域警備法案を提出しましたが、一方で違憲論争をしているのですから、これではまともな議論になるはずはありません。ここで現実的な安全保障政策を示せば政権担当能力をアピールする絶好の機会になったはずですが、それを自ら放棄するようでは再生の道はまだまだ遠いと思わざるを得ません。
法案に対して「丁寧な説明がない」と批判されてもいますが、与党の答弁を見れば、説明できない理由は明白です。
?米議会での演説で安倍首相が、「安保法制を夏までに成就」と約束してしまった。違憲といわれればそうかもしれないが、そもそも9条改正などできるわけがないのだから、閣議決定で憲法解釈を変更するしかない。これが無理筋だということはわかっているが、だったらどうすればいいのか対案を出せよ……。その心中を察すれば、たぶんこんなところでしょう。
?野党は、閣僚が本音を口にできないことを知っていてそこを攻め立てますが、どこか腰が引けているのは自分たちも脛に傷を持つ身だからです。
?特定秘密保護法にしても、集団的自衛権にしても、最初にその必要を言い出したのは政権党時代の民主党です。それを安倍政権が踏襲したことで一転して反対に回ったのですが、その理由は「あいつらにはやらせたくない」という子どもじみたものです。もちろんこんなことは口が裂けてもいえないので、「とにかく反対!」のパフォーマンスをするほかなくなったのでしょう。
?すでに何度か書きましたが、憲法9条2項に「戦力を保持しない」とある以上、自衛隊も国内の米軍基地も違憲であることは疑いなく、それを「解釈改憲」でなんとかごまかしてきたのが日本の戦後70年です。この矛盾を直視したくないのだとしたら、個別自衛権の詭弁のうえに集団的自衛権の詭弁を重ねたとしても、べつにどうだっていい話でしょう。
『週刊プレイボーイ』2015年7月27日発売号に掲載
http://diamond.jp/articles/-/76083
憲法学者という不思議な存在
こんなに影響力があるとは知らなかった
2015.8.4(火) 筆坂 秀世
「自衛隊は違憲だが、9条を改正する必要はない」とはどういうことか? 自衛隊の「P-3C」哨戒機(出所:海上自衛隊)
安保法制の審議で俄然注目を集めているのが憲法学者の存在である。
公明党の委員長だった矢野絢也氏がこの憲法学者について、『月刊日本』(8月号)で面白いコラムを書いている。矢野氏は同誌で「疾風雷神」というコラムを連載しているのだが、「まだまだ高い安倍政権の支持率」というタイトルで安保法制について論じた後で次のような指摘をしている。
「憲法学者がこうまで世論に影響があるとは、失礼ながら今日まで想像もしなかった。こうまで世論を領導できる憲法学者なら、日本の置かれている国際的状況に鑑み、憲法学者はこぞってあるべき憲法論を開陳し、憲法改正が必要ならその先頭に立つべきではないか」
憲法審査会で自民党推薦も含む3人の憲法学者が、安保法制や集団的自衛権の行使について「憲法違反である」と断じ、それに多くのマスメディアが飛びつき、「憲法学者でさえ安保法制や集団的自衛権について憲法違反だと言っている」として反対世論を大きく煽ったことを皮肉ったものだと思う。
憲法学者の圧倒的多数は護憲派
テレビ朝日の「報道ステーション」が憲法学者を対象にアンケート調査(6月6日〜12日)を行っている。それによると198人に回答を依頼し、151人から回答があったそうである。その回答の内訳は次のようになっている。
安保法制にある「限定的」な集団的自衛権の行使は日本国憲法に違反するかという問いに、「憲法に違反する」が124人、「憲法違反の疑いがある」が21人、「憲法違反の疑いはない」が3人となっている。安保法制そのものが憲法違反にあたるかという問いには、「憲法違反にあたる」が127人、「憲法違反の疑いがある」が19人、「憲法違反の疑いはない」が3人となっている。
また朝日新聞のアンケート調査では、「自衛隊は憲法違反もしくは憲法違反の疑いがある」という学者が63%、「9条を改正する必要はない」という学者が83%となっている。
憲法学者の圧倒的多数が護憲派だということだ。
憲法学者は何を研究しているのか
この結果を見て強く感じるのは、これらの憲法学者は日本の安全保障をどう考えているのか、ということである。
63%の学者が自衛隊は違憲の軍隊だという。ところが83%の学者は、9条は改正すべきではないという。だとすれば、この学者たちの立場は、次のいずれかということになる。1つは、自衛隊は憲法違反だが黙認する。もう1つは、自衛隊は憲法違反だから解散させるということである。
はっきり言えることは、どちらにしても無責任極まる立場だということだ。
大学での憲法の研究というのものが、どういうものかは知らない。したがって、とんでもない暴論を言うことになるかもしれないことを、あらかじめ断っておく。天皇制や人権、国会、財政など多岐にわたる研究項目があるであろう。なかでも最重要なものとして考えなければならないのが、安全保障問題ではないのか。6割以上の学者が自衛隊は憲法違反だと認識していながら、“9条は改正しない”というのはどういうことか。丸腰の日本で良いという認識なのか、聞いてみたい。
おそらく護憲派の学者は、9条改正に反対しているだけではなく、憲法全体の改正にも反対しているのだと思う。9条というのは、護憲の象徴なのである。だったら、一体、憲法の何を研究しているのだろう。ただ、あれやこれやの解釈論の研究をしているだけだとすれば、憲法学者としての怠慢と言うしかない。
憲法学者としてあるべき憲法の姿をこそ研究すべきであり、矢野氏が指摘するようにその成果を開陳すべきではないのか。
そもそも、ある法律が違憲であるか否かを判定するのは、憲法学者でも、政治家でもない。唯一その権限を持っているのは最高裁判所だけである。学者の意見は、1つの「見解」にすぎない。そんなところに憲法学者の本分があるとは思えない。
矢野氏は、「専門家の意見は尊重する必要はあるが、『国滅びて憲法残る』の極論になってはならぬ」とも指摘している。この言葉を肝に銘じてほしいものだ。
砂川事件の伊達判決と最高裁判決
言うまでもないことだが、集団的自衛権問題の根源にあるのは、日米安保条約である。日米安保条約の前文には、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」とあるように、集団的自衛権の行使を前提としている。したがって、日本が集団的自衛権を行使しないようにする最も確実な方法は、日米安保条約を廃棄することである。
米軍が日本に駐留しているのは、サンフランシスコ平和条約調印と同時に日米安保条約を締結したからである。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とした憲法9条2項と米軍の駐留という日米安保体制の併存は、普通に考えれば矛盾であり、欺瞞としかいいようのないものである。
砂川事件での東京地裁の伊達判決(1959年)が、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無にかかわらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である」としたのは、憲法を素直に読む限り、ある意味当然の判決であった。
これに対して、跳躍上告(高裁を飛ばして、いきなり最高裁に上告)された最高裁は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは、日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のような高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」とした。
どう読んでも苦しい立論ではあるが、現実的対応に知恵を絞り出したものでもあり、一概に批判はできないと思う。
護憲派学者は、このどちらの立場に立つのだろうか。おそらく伊達判決の立場に立つ学者が多いはずだ。憲法論、法律論はともかく、政治的に、あるいは現実的に考えれば、米軍の駐留は違憲であるという判決を下すわけにはいかなかったのである。
憲法学者は日米安保体制をどう見ているのか
護憲派学者は、在日米軍の撤退、すなわち日米安保条約の廃棄を声高に叫んでこそ、一貫した態度となる。これは自衛隊についても同様だ。6割以上の憲法学者が違憲だと言うのであれば、「自衛隊即時解体」を主張すべきである。それが憲法学者としての良心というものであろう。だが、こうした主張を寡聞にして聞かないというのはどうしたことなのか。要するに、「自衛隊は戦力ではない」などのこれまでの自民党政府の憲法解釈を事実上追認してきたということだ。この欺瞞的態度をどう説明するのか。
護憲派は「憲法9条を守れ」「集団的自衛権反対」などと叫んでいるが、憲法9条を守ってきたのは、憲法学者でも、護憲派でもない。歴代の自民党政府と内閣法制局である。「自衛隊は戦力ではない」などという憲法解釈は、その最たるものであろう。
護憲派の多くは、自衛隊を毛嫌いしているが、自衛隊と日米安保条約こそが日本の平和を守ってきたことは、争う余地のない現実である。ところが護憲派学者は、日本の安全保障をどうするのか、まったく語っていない。安全保障論を語らずに、違憲論議だけを声高に叫ぶのは、無責任の誹りを免れないことを護憲派学者は自覚すべきであろう。
「平和主義」という言葉があるが、本来、何もしないということではないはずだ。「そもそもの『平和』という語が、『パックス』というラテン語から出ている」(佐伯啓思『従属国家論』PHP新書)そうである。「パックス・ロマーナ」とは、「ローマによる平和」であり、「パックス・アメリカーナ」は、「アメリカによる平和」である。国際社会の平和を保つためには力が不可欠であることは論をまたない。
もちろん戦争などは誰も望んではいない。戦争の悲惨さを繰り返すことは、愚挙である。だが愚挙がなくなるという保証はどこにもないのが、国際社会の現実である。そうであるなら矢野氏が指摘するように「国破れて憲法残る」になってはならないのである。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/44445
引くに引けない日本と中国、衝突は起きてしまうのか
崩れてしまった東アジアの「力の均衡」
2015.8.4(火) 柯 隆
盧溝橋事件78年で式典、「政治利用」との指摘も 中国
中国にとって「戦後の処理」は終わっていない。日中戦争の発端となった盧溝橋事件78年の記念式典。北京の盧溝橋近くの記念館で(2015年7月7日撮影)。(c)AFP/WANG ZHAO〔AFPBB News〕
終戦から70年を迎えるこの節目の年に、東アジアのすべての人は戦争について反省し、不戦を誓わなければならない。東アジアの情勢は決して安定していないからである。
日本では、安倍政権が憲法の解釈を変えることで、集団的自衛権の行使を可能にしようとしている。本来ならば、集団的自衛権だろうが個別的自衛権だろうが、いずれもその国の主権に関わる問題であり、外国政府や外国人がとやかく言うべきではない。だが、歴史とは連続的なものである。東アジア域内において中国と韓国は、日本政府に対して繰り返し過去の戦争についての反省と謝罪を求めている。70年前に戦争は終わったが、東アジアにおいて戦後の処理はまだ終わっていないと言える。
日本政府は、集団的自衛権を行使できるようにする理由として周辺事態の変化を挙げている。だが、中国を刺激しないよう、あえて中国を名指ししていない。しかし、安保の専門家でなくても、新安保法制の目的が中国への対策であることは明々白々である。
米軍が敵国に攻撃された場合、日本の自衛隊に守ってもらうような場面が本当にありえるのだろうか。日本の本音としては、日本が中国の脅威にさらされた場合、日米安保条約で約束されている米国の軍事的支援は不十分であるから、日本自身も防衛力(軍事力)を強化する必要があるということであろう。
覇権を確立することになる中国
かつてナポレオンは「眠れるライオン(中国)が目覚めるとき、世界は震撼するだろう」と予言した。今の中国は間違いなく目覚めたライオンだと言える。
中国は35年前に門戸を開放したとき、世界の最貧国の1つだった。日本を含む先進国のほとんどは中国の「改革・開放」は容易には成功しないだろうと見ていた。しかし蓋を開けてみると、1979年を起点とする「改革・開放」政策はわずか30年で結果を出し、中国経済は世界第2位にまで成長した。
振り返れば1990年代、先進国のマスコミはことあるたびに中国の「改革・開放」政策が逆戻りするのではないかと書き立てた。だが2000年代に入ってからは、グローバル社会における中国に関する見方は「中国脅威論」が主流となった。中国の経済発展は世界に脅威を与えるというのである。それに対して中国政府は、自国の経済発展は平和的台頭であると定義し、覇権は求めないと主張している。
辞書によれば「覇権」(hegemony)とは、特定の集団において長期にわたってほとんど不動とも思われる地位あるいは権力を掌握すること、と定義されている。覇権は自ら求めて獲得するものではない。一国の総合的な国力が強化されると、必然的に覇権を握ることになるのである。よって、中国の国力が今後さらに強化されれば、覇権を求めなくても覇権が確立するであろう。
国力の弱い小国が国力の強い大国を恐れるのは人類社会の常と言える。今の中国について最も脅威と感じているのは、おそらく東南アジアの小国であろう。中国による南シナ海の小さな島々の埋め立て増設工事は、フィリピンやベトナムなどの小国にとり大きな脅威である。しかし、中国経済が今後も成長を続けることを考えれば、東アジア域内における覇権はいっそう強まっていくものと思われる。
東アジアの「力の均衡」は崩れてしまっている
では、日本はどうか。日中が再び戦争に突入する危険性はないのだろうか。
歴史上、あらゆる戦争は平和の維持を口実に行われた。これからも、おそらくすべての戦争は「正義」と「平和」のために行われるのであろう。
しかし、戦争が起きる根本的な原因を考えてみると、国際社会における力の均衡が崩れてしまうことが戦争を引き起こすのである。東アジア域内の政治・外交力学の均衡はとっくに崩れてしまっていると言える。多くの識者が指摘しているように、もはや中国の経済発展を食い止めることはできない。中国の経済が発展すれば、必ずや海洋戦略を軸に影響力を拡大していくだろう。
とはいえ、中国の立場に立って考えれば、戦争はできるだけ避けたいと考えているはずである。中国が戦争をしたくない理由は、戦争に突入した場合、国際社会から非難を浴びることに加え、戦争に絶対に勝てる戦力を保持していないからである。そのうえ、中国経済の発展がこれ以上減速すると、社会不安が深刻化する。さらに、増強している軍事予算は抑止力として役に立つだろうが、実際の戦争には額面通りの威力を発揮しないとも推察される。
小規模戦闘の可能性は否定できない
日中の対立に目を転じると、歴史認識の違いは国民感情の問題に過ぎない。最も深刻なのは、領土領海の領有権を巡る対立である。この問題の厄介なところは、日中両政府とも引くに引けない状況にあるということだ。
尖閣諸島の領有権を主張しているのは、日本と中国北京政府だけではない。台湾も参戦している。筆者は、ビザの関係で台湾を訪問したことがないが、ある日本の友人によれば、台湾の空港から飛び立つ沖縄行きの飛行機には「琉球行」と書かれているそうだ。歴史、風俗と習慣からみれば、沖縄と台湾は極めて近い存在である(むろん、領土・領海の領有権は風俗や習慣が似ているかどうかとは別問題であるが)。
ここで警鐘を鳴らしたいのは、日中が全面戦争に突入する可能性はゼロに近いが、尖閣海域において小規模戦闘になる可能性は否定できないということだ。
日本は安保関連法案の採択で集団的自衛権を行使できるようになる。これで日本は「普通の国」へと大きな一歩を踏み出すことになる。一方、中国の総合的な国力の増強は食い止められない。尖閣海域で日中両政府が領有権を主張するため、互いに公船と艦船を配備するなかで、局所的に衝突が起きる可能性は決して低くはない。
残念ながら、日中間でこうしたリスクをヘッジするメカニズムが作られていない。終戦70周年を迎える今日、日中が再び開戦の危機にさらされるのは本当に残念なことである。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44430
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