43. 2015年7月29日 19:50:02
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「集団的自衛権」より「集団安全保障」分かりづらい安保議論 今般の安保法制の議論は、大方の一般国民には非常に分かりにくいものになっており、私たち自衛隊のOBでさえ、にわかには理解し難い議論が展開されています。 さらには、マスコミが反対ありきの、ためにする報道を大々的に行っている。「戦争に行くための法案だ」などというのはその最たるものでしょう。ホッブズがいう「自然状態」のように、法律を決めずに無法状態にしておいてこそ戦争は起こるのであって、そうならないために法律を決めている、といのうのが近代国家の基本です。 野党も輪をかけて「徴兵制復活だ」などと国民への扇動を行っていますが、徴兵制が行われることなどあり得ません。確かに、昔の戦争は「戦争が始まりそうだ」となってから動員が行われ、戦争に駆けつけるという形でした。しかし現在は常備軍が主流で、「常態的に存在しつつ訓練をする」ことで戦争を抑止するのがメインになり、それには部隊交代や訓練の練度維持から考えても志願制のほうが遥かに適しています。だから先進各国は、徴兵制から志願制にシフトしているのです。 このような前提知識を踏まえないまま、安保法制への反対ありきで国民を混乱させる手法では、野党は国民の理解を得ることはできないでしょう。野党は与党批判が仕事だと思っているのかもしれませんが、的外れな扇動で政治の足を引っ張るようでは実に情けない。 ただし、安保法制の分かりづらさについては、政府にも責任があります。政府や安倍総理は「集団的自衛権」についての説明には時間を費やしていますが、実際には今回の法案には「グレーゾーン事態」や、むしろ「集団安全保障」の問題であるような事柄が、すべて「集団的自衛権」と一括りにされて語られている。 これがただでさえ分かりづらい軍事の問題をより複雑にし、私たちですら理解に苦しむような議論にしてしまっているのです。 これまでの60年間、自衛隊としては政治の不作為に不満を持ってきました。それを一歩でも踏み出したということに対しては、安倍総理を高く評価したい。 しかし一方で、「これですべて片付いた」とされては困る。今回の議論を第一歩にして、さらに自衛隊の問題、安全保障環境の議論を深めていってもらいたいと思います。 2つの重要事項 特に私が今回の議論からクローズアップしておきたいのは、1つはグレーゾーン対応の問題です。 例えば、公海上で並行して航行するアメリカの艦船が攻撃された場合、日本が「集団的自衛権」を行使して助けるという話を政府は折に触れてしていますが、現状では、米艦どころか日本の僚艦が攻撃された時でさえ、防衛出動命令が出なければ反撃できない常態です。 つまり個別的自衛権が認められていても、「防衛出動命令」が出なければできないことを集団的自衛権で解決しようというのは無理があります。 明らかに国際情勢の雲行きが怪しくなってきて、総理が事前に防衛出動待機命令を出し、何か起こればすぐに対処するというのが理想ですが、事態はそううまくはいきません。何の前段もなく、突然、奇襲を受けた場合にどうするのか。この状態が「グレーゾーン」です。 これは1978年、当時、統合幕僚会議議長だった故・来栖弘臣氏が「自衛隊法では奇襲攻撃に手が出せない。超法規的な行動を取らざるを得ない」と発言して事実上解任された重大な問題ですが、これまで放置されてきました。 ようやく「切れ目のない対処ができるように」といって「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)がグレーゾーン対応について指摘し、注目されるようになりましたが、これは集団的自衛権とはまた別の問題です。 もう1つは、集団安全保障の問題です。 集団安全保障とは、ある一定の複数の国が集団となって国際秩序の維持のために活動する考え方のことです。グループを形成し、秩序を乱す者があればみんなで立ち上がって制裁を加えるというものです。 これまで、日本では集団安全保障の問題はほとんど語られてきませんでした。これまでにも何度か国会で質疑は出ていますが、一般的には「集団的自衛権ですらダメなものを、集団安全保障などできるわけがない」という論理で一蹴されてきたのです。 国連加盟国の義務とは 国連には国連憲章にあるとおり、加盟国に対して理不尽な攻撃があった場合、加盟国各国がみんなで立ち上がって勧告をし、従わなければ経済制裁を行い、それでもダメなら武力制裁を行うというシステムになっています。これは間違いなく、集団安全保障の考え方です。 本来は国連に認められたうえで、国連からの代理権を与えられた国連軍などが制裁を行うのが最も理想的ですが、それが安保理の関係などでできない場合がある。また、会議をしていては間に合わないという場合に個別的・集団的自衛権で対応することが「できる」というのが本来の形です。 つまり、集団安全保障が集団的自衛権に優先するのであり、「この国に手を出したら、国連加盟国がこぞってあなたに制裁を加えますよ」という枠組みを作っておくことが犯罪の抑止になる。これが集団安全保障の基本的な考え方です。 形としては国連軍に近いのですが、安保理常任理事国の5カ国の関係上、満場一致で国連軍が結成されたことはこれまで1度もありません。しかし集団安全保障に関しては、実は国連憲章第2条第2項にこう書かれています。 <すべての加盟国は、加盟国の地位から生ずる権利及び利益を加盟国のすべてに保障するために、この憲章に従って負っている義務を誠実に履行しなければならない> この「義務」は果たさなかったとしても罰則はありませんが、英語では「obligations」、つまり社会に対する恩義、義理という意味合いがありますので、国連に加盟してその恩恵を受けている以上、その義務を果たさないことは国家として実に恥ずかしいことだと言えます。 日本は国民に対しては「武力行使にかかわる国連の制裁行動には参加しない、自衛隊は軍隊ではないので軍隊としての行動はできない」としていますが、国連に対して「日本は加盟しますが義務を果たせません」とは一言も言っていないのです。である以上、一定の義務を果たすべきではないでしょうか。 いざという時に「立ち上がる」ことをしない国は、自国の危機に助けてもらえないという可能性が出てきます。当然でしょう。「あなたがやられても私は何もしませんが、私がやられたら助けてください」では虫がよすぎる。 仮に日本が某国から国連憲章違反に当たる攻撃を受けた場合、各国から何もしてもらえないことになりかねません。それこそ、日本は国際社会において「孤児」となってしまいます。 これが安倍総理の言う「一国平和主義の限界」で、「みんなで国際秩序の維持に尽力しよう」という積極的平和主義のあり方は、実は集団安全保障と定義すべきなのです。 「集団安全保障」とは では、政府が今回(2015年)の議論で強調する「集団的自衛権」との違いは何でしょうか。 集団的自衛権は、例えば「私の妻」が殴られた時に、私と妻は一体ですから、私が殴り返す「権利」のことを指します。日米同盟において「危機にともに対処する日本とアメリカを一体と見なす」というのはまさにこのことです。 一方、集団安全保障はみんなでグループを形成し、その秩序や平穏を乱す者は制裁を受ける。いわば国連軍や多国籍軍、有志連合の考え方で、これらを「集団的自衛権の集まり」と解釈する人もいますが、「集団安全保障」と考えるほうが自然でしょう。 例えば、海上自衛隊は米海軍とともに「リムパック」という海上合同演習を行っています。この演習には、実際には韓国海軍や豪州海軍、時にはフィリピン海軍も参加していますが、日本では「集団的自衛権よりも集団安全保障こそ行ってはいけない」と考えられており、演習が始まると新聞各社がアラを探そうと船で視察に来ます。「憲法違反の集団安全保障をやっているんじゃないか」というわけです。 そこで海上自衛隊は、「日本はアメリカとしかやっていない。韓国やオーストラリアはそれに合わせて別途演習をしているだけ」というような建前を使ってきました。 しかし、日本にとってはアメリカしか同盟国がありませんが、アメリカにとっては韓国もオーストラリアも同盟国です。つまりアメリカを中心に考えると日本は同盟国の1つ、つまり「ワンオブゼム」でしかない。 アメリカをハブとして他国を2国間条約で動かすこのような体制を「Hub and Spokes」体制と言います。欧米にはNATOがありますが、東アジアにはアジア各国が参加する同盟機構がありませんし、日韓間でも情報協定を結ぼうとしましたが関係悪化で成立しなかったたえ、当面はこの体制でやっていくしかない。 仮に朝鮮半島有事の際には、日本は「韓国を助けに行くアメリカを援護する」という形で間接的に韓国を助けることになるだろうと思いますが、実質にはアメリカを中心とする集団安全保障であるとも言えます。にもかかわらず、「アメリカとの2国関係」が強調される集団的自衛権ばかりにとらわれていては、日本はむしろ身動きが取りづらくなります。 そもそも、アメリカの軍事力は他に比べて圧倒的ですから、単独で戦える力を持っています。考えてもみてください。アメリカがやられた時、自衛隊が助けなければアメリカが危ない、という事態はほとんどあり得ません。 アメリカは日本に対して集団的自衛権の行使を求めているのか。私はこれには疑問を抱いています。 米国が求める貢献とは アメリカの陸軍で「right of collective self-defense」(集団的自衛権)という言葉を使う人はほとんどいません。海軍には多少いますが、むしろ日本から逆輸入されたような形でしょう。彼らが言うのは「collective defense」(集団防衛)または「cooperative defense」(共同防衛)で、つまり「みんなで守ろう」というものです。 アメリカと日本だけでなく、その他の国も秩序を維持するグループに巻き込んでいく。韓国もオーストラリアも参加して、将来的には、今はアメリカと一定距離を保っているインドや、最終的には中国にも「いらっしゃい」という。これによって1国の突出した行動を抑止するのが最大の目的です。 そのうえで多少のリスクがあるのは仕方がありません。各国も国際秩序の維持のためにリスクを負っている。日本も自衛官にリスクを負ってもらい、国際平和のために尽力すべきです。 むしろアメリカが求めているのは、このような「秩序維持のためにみんなで立ち上がった」という大義名分です。そのためには、たとえ海軍力の小さい韓国やフィリピンであっても、ともに旗を掲げることが重要になるのです。 秩序を皆で維持する仕組み 「集団安全保障は憲法上認められない」といくら言ったところで、現在の防衛体制は各国とのネットワークで動いています。 ミサイルネットワークディフェンスと言いますが、各国のイージス艦(日本[2020年までに]8隻、アメリカ数十隻、韓国3隻、豪州4隻)と、韓国と台湾にあるレーダーサイトがネットワークを構築し、レーダーが「ミサイル発射」の情報を捉えたら、「どこにいる船で撃ち落とすのが最も効率的か」を瞬時に計算し、「お前の船が撃ち落とせ」と指令が下されます。 このケースは、集団的自衛権では説明がつかない。理屈上は「情報だけはもらったが、指揮は国として執っている」と言えなくもないですが、それはあくまでも「あとからそう説明する」だけであって、現実にミサイルが飛んで来ればそんな話をしている暇はありません。 また、これはミサイルが飛んでくるかどうかよりも、「ミサイルを撃ってもこういうシステムであなたの攻撃を無効化します」と示すことによって攻撃を抑止する。つまり、世界の平和や安定に繋がっているのです。 このような軍事の現実の状況を考えても、日米間の集団的自衛権を強調するよりも「日米韓豪をはじめとする集団安全保障体制である」としたほうが、納得する人が多いのではないでしょうか。 「アメリカと一体化」という集団的自衛権の考え方については左派のみならず、保守側の人でも「対米自立、自主防衛が遠のくのではないか」との懸念を持つでしょう。「一国平和主義を脱しても二国平和主義にしかならない」といった印象です。 しかし集団安全保障の考え方であれば、確かに圧倒的な戦力を持つアメリカが中心ではありますが、日本も「各国とともに積極的に国際貢献に参加する」ことで「米国との二国関係」に囚われず、「国際秩序の維持」に貢献できる。このような大きな観点を日本は持つ必要があります。 ホルムズ海峡の機雷掃海なども「日本の石油を運搬するためのシーレーン」と言われますが、実際にあの地域を航行しているのは日本の船だけではなく、国際社会にとって大切な「グローバルコモンズ」です。 「日本の石油を守るために、武力行使だけれども例外的に機雷掃海が得意な日本が担当する」というものではなく、掃海のために必要な偵察や燃料給油、制空権の確保などについても各国が分担して取り組む。そのための事前訓練をすることで、世界の平和と秩序を維持するのが目的です。 これは明らかに集団安全保障の範疇ですが、集団的自衛権をもって説明しようとするため齟齬が生じる。「ホルムズ海峡が封鎖されても日本がすぐに干上がるわけじゃない」などといった的外れな指摘は放っておくとしても、あくまでも「グローバルコモンズを関係国が総出で守る」取り組みに参加し、活動をともに支えることが秩序の安定に繋がるのです。 人道支援には武力も必要 このような考えは徐々に広まっており、昨年(2014年)末の安保議論でも、安保法制懇が2014年5月15日に<集団的自衛権及び集団安全保障措置への参加を認めるよう、憲法解釈を変更すべきであるなどの結論に至った>と報告を出しました。 20年来、集団安全保障の重要性を考えてきた私は小躍りして喜びましたが、その日のうちに安倍総理は「集団安全保障を根拠に海外で武力行使をすることは絶対にない」とブレーキをかけてしまった。 もちろん、安倍総理は政治家ですから、仮に「海外の武力行使もあり得る」と言ってしまえば、野党もマスコミもことさらにリスクを書き立てて反対したことでしょう。 しかし自衛隊も軍隊である限り、国際社会の意図と合致するのであれば武力行使も行うべきではないか。それが軍隊の役割ではないか。そう考える私は、この言葉に正直に言ってガックリきました。 しかし一方で、集団安全保障について理解が広まり始めているのは喜ばしい限りです。 集団安全保障については、安保法制反対派であっても理解しやすいようです。米軍と一体化し、日本がどんどん戦場へ出て行くのではないかと懸念するような人たちでも、日本が国際平和の維持に関して全くノータッチでいいとは思っていない。そういった人たちにとっては、集団安全保障の考え方は受け入れやすいのです。 昨年(2014年)3月には朝日新聞が私のインタビュー記事を掲載し、昨年(2014年)7月には日経新聞が社説で「集団安全保障の議論を早急に詰めよ」と言っていたと聞いています。 さらに私は、誰よりも軍事を分かってもらわなければならない。安全保障政策そのものを語りたがらないような平和活動家の人や左翼の人たちと話す機会を多く持つようにしています。 そこで集団安全保障の必要性を説くためによく話すのは、国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんのエピソードです。彼女は難民支援事業のトップに立ち、食糧支援などの人道支援に注力していましたが、うまくいかないことが多かった。なぜなら、支援対象地域の治安が確立していなかったからです。 まず、クルドで支援を実施しようとしたところ、イラクからフセインに追われて来る人とトルコ側から来る人に挟まれている地域だったため、食糧支援をしようにも安全な地域がない。そこで彼女はどうしたか。周辺で最も力の強い米軍に「ともかく難民たちが落ち着ける場所を確保してくれ」と頼み、警護してもらってようやく支援ができたという。 「非武装に価値」の誤解 ボスニアでも同様で、国連から難民支援を要請されたが、やはり治安が確保されておらず、不幸にも緒方貞子さんの部下が命を落とすことになった。彼女は憤って「こんなことでは支援などできない」と国連本部で大演説を行い、「人道支援の前提として、各国が軍を派遣し、治安を確立するのが政治の仕事だ」と述べたのです。 それによってイタリア軍がボスニアに赴き、軍隊に守られる形でやっと人道支援が実施できた。 自衛隊も参加したルワンダ難民支援でもそうでした。現在のコンゴに数十万の人が逃げて来たため、食料がない。支援しようにも、敗残兵が武器を持ってうろついており、相手が女性であろうが子供であろうが、物資を持っていれば力ずくで奪っていく。この時も緒方貞子さんが「軍隊が力を発揮すべきだ」と言って敗残兵の武装解除を行い、やっと支援が可能になりました。 緒方貞子さんの人道支援はクローズアップされますが、常に軍隊の力によって治安が維持されていたという前提はほとんど注目されず、特に「緒方貞子さんこそ理想だ」と述べる日本の人道支援団体やボランティアの人たちはこの事実を全く知らない。 彼らは今回の安保法制の議論においても「武器を持っているからこそ狙われる」「私たちは非武装だからこそ価値がある」などと言ってますが、あまりに現場を知らないし、率直に言って勉強不足だと思います。 もちろん、このような紛争地帯の治安維持を各国の軍隊が行う取り組みも「集団安全保障」の一環です。現在、日本は「武力行使ができない」という理由で後方支援に徹していますが、「支援するためにオランダ軍に守ってもらうが、私たちはオランダ軍を守ることはできません」という現状は、軍隊としての体をなしていないと言わざるを得ません。 政治の力で問題解決を イラクでは当初、諸外国軍は有志連合として活動しており、日本はその有志連合に入っていませんでした。その時には独仏も参加していなかったのですが、その後、任務が治安維持に切り替わると、多国籍軍として独仏も参加。日本は完全に孤立しました。 多国籍軍に参加する場合は指揮を受けなければならないため、「日本はそれはできない」というわけです。しかし、多国籍軍に入らないと治安情報がもらえない。自衛隊の情報部隊は行っていませんでしたから、どこにどんな規模の武装勢力がいるか分からないわけです。 これではさすがに問題だというので形だけ多国籍軍に参加して、本来受けるべき軍司令官の指揮を「憲法違反だから」と受けず、情報だけはもらいますという形にした。 当時、元北部方面総監の志方俊之さんや私がこの件を新聞等で批判したように、「情報はもらうけれど指揮は受けない」などということは通常あり得ませんし、自衛隊としてこんなに恥ずかしいことはありません。 多国籍軍は国連許可の取り組みですから、余計に自衛隊は「国際貢献に取り組む姿勢が見られない」と批判を受けることになる。憲法を理由に、各国が尽力している平和維持の取り組みに参加しないという姿勢こそ、まさに「一国平和主義」と言わざるを得ないでしょう。 かつては「理想論だ」と笑われた集団安全保障ですが、国際社会の潮流を見れば、むしろこれからの自衛隊の活動に最も求められる考え方ではないかと思います。 自衛官にとっても、日頃の訓練が国際社会の平和維持や人道的支援に役立つとなれば士気が上がります。単に「アメリカに守ってもらうためについていかざるを得ない」ということではなく、より大きな視点での貢献を打ち出すことで「自衛隊頑張れ」と国民からの応援の声も出てくる。そうすれば、自衛官の士気もますます上がります。 そのうえで自衛官の処遇も見直してもらえるようになれば、自衛官は大いにやる気を出すでしょう。 私たちの現役時代の自衛隊は、まさに「忍」の一字でした。私が防衛大学に入学した昭和31年頃、初代統合幕僚長を務めた林敬三さんは「とにかく今は我慢してくれ」とあちこちで言っていました。 そのうえで、ドイツの有名な詩人であるシラーの言葉を引いて「大いなる精神は静かに忍耐する」と言ったのです。この言葉は非常に印象的でした。なかなか理想どおりにはいかないけれど、心の中では大きな理想を持ってその実現に向けてひたすら静かに邁進する。若い頃に聞いたこの言葉を、私は今に至るまで大事にしてきました。 戦後、政治家は「憲法改正にはあと10年かかる」とこの70年間、言い続けてきました。「あと10年か」と思い続けて、もう間もなく死んでしまう歳になった(笑)。冗談じゃありません。自衛隊が持てる力を発揮して国際社会に貢献するためには、政治の力が必要です。 自衛官は捕虜になれない!? 特にはっきりさせておかなければならないのは、自衛隊が海外派遣され、敵方に捕らえられて捕虜になった場合の対処です。 2015年7月1日の衆院平和安全法制特別委員会で、辻本清美議員の質問に答えた岸田外務大臣が「後方支援は武力行使に当たらない範囲で行われる。自衛隊員は紛争当事国の戦闘員ではないので、ジュネーブ条約上の『捕虜』となることはない」と述べました。 おそらく、外務省としては憲法9条の「国の交戦権はこれを認めない」(The right of belligerency of the state will not be recognized)とする条文から、「日本には交戦団体としての資格がないため、交戦団体が当然受けるべき権利も持たない」と解釈したのではないか、と忖度します。 しかし、これは大問題です。捕虜として扱ってもらえないということは、捕まった自衛官が相手側に虐待されようが、拷問されようが、殺害されようが、国として何の抗議もできないことになってしまう。 岸田外務大臣は仮に自衛官が拘束された場合、「国際人道法の原則と精神に従って取り扱われるべきだ」と重ねて述べていますが、自ら「捕虜として扱われない」と明言してしまうことは、自衛官に対して「いざとなったらあなたを見捨てます」と宣言しているに等しい。 敵方が自分たちに有利になるように、「自衛隊は軍隊ではないのでジュネーブ条約の対象外だ」と言うならまだしも、外交のトップが自ら自国に不利になるような解釈を、あえてして見せる必要がどこにあったのか。 「後方支援だから対象外」というのは理由になりません。国際法辞典によれば、捕虜とは敵国に捕らえられる戦闘員をいい、広義の軍隊、戦闘能力を構成する構成員を指し、制服を着用し、基本的には指揮官の下にある文官でないものを対象としています。 自衛隊は明らかに文民ではないし、指揮官もいる。制服も着用していますから、国内的にはどうあれ、一般常識から言って自衛隊は「軍隊」です。 また民間人であっても、軍の装備品や補給に関係する物資を運搬する飛行機や船の乗組員も捕虜になる資格があります。いわゆる後方支援的な「兵站任務」であっても、軍と一体と考えるのが常識です。 独立と平和を守るために もちろん自衛隊の側も、「隊員が捕虜になった場合」に対する十分な備えはありません。過去には「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓が行きわたっていましたが、そのような考えは排し、捕虜になった場合を想定して「捕虜になった場合の覚悟」を隊員に説く必要があります。 自衛隊は、軍隊は何のためにあるのか。それはひとえに独立と平和を守るためです。 しかし憲法は、平和は強調しても独立については書いていません。「オキュパイド憲法」だから当然です。本来なら、主権回復を果たした1952年4月28日の時点で憲法も変えるべきだった。それがなされないまま70年経ってしまったのは問題ですが、平和と独立はどちらも同じくらい大事なものであることを絶対に忘れてはなりません。 明治以来、大陸法に学んできた日本の法律家は、英米法的価値観で作られた憲法も大陸法的に解釈してしまい、「自衛隊という文字は憲法にない。違憲だ」という話になってしまう。日本の一般の法律は憲法とは違って大陸法的に作られており、「書いてあることしかない」のが基本だからです。 このような矛盾を、憲法を守りたい憲法学者が放置しているのは不思議なのですが、その曖昧な解釈の中で自衛隊は危機に対処していかねければなりません。こんな苦労をいつまでも自衛官に負わせたままでいいのでしょうか。 今は圧倒的戦力を誇っているアメリカも、今後は相対的に衰退していきます。日本は独立と平和の両方を守りながら、「アメリカの植民地や属国になるつもりはない。独立国として国際社会と連携し、平和と安定の維持に必要なことに積極的に参加していく」との姿勢を、国を担うリーダーには強く打ち出し、必要な法整備を行ってもらいたいと思います。
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