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戦後70年日本のかたち
(3)靖国、見えぬ出口 憲法問題として論争に
1952年に独立を回復した日本は国際社会への本格復帰の一歩としてアジア諸国との和解に努めた。賠償や経済協力を糸口に関係は改善したかに見えたが、80年代ごろから新たな暗雲が漂い始める。中国や韓国との間に大きな摩擦を生む歴史問題だ。なかでも歴代首相の靖国神社参拝はそのたびに強い反発を招いた。
日本が戦場としたフィリピンなどへの賠償に続き、中韓との国交正常化が達成された70年代初頭。日本の政界では靖国神社を巡る論争が活発になっていた。
戦後は宗教法人として再出発した靖国に首相が参拝するのは政教分離を定めた憲法に違反するのではないか。この頃の靖国問題は憲法問題だった。
靖国は軍国日本の象徴との“汚名”をすすぎたい保守派は靖国を国が管理する特殊法人にすること
で唯一無二の英霊追悼の場にしようと考えた。靖国国家護持法案である。だが、自民党内でも護憲派は後ろ向き。国会に5回提出したが、いずれも廃案に終わった。
困った保守派が次の目標に据えたのが、首相の公式参拝である。国のリーダーが堂々と足を運べば、靖国を公的な存在として位置付けることができるとの思惑からだ。8月15日に初めて参拝した首相は75年の三木武夫。自称ニューレフトとあり、「私人として参拝した」と明言した。
公式参拝の実現に向け、シャクトリムシのような歩みが始まる。福田赳夫は首相公用車を使用し、首相の肩書を記帳。鈴木善幸は多数の閣僚を引き連れて行き、最後の年には公私の別を明らかにしなかった。
82年に政権の座に就いた中曽根康弘は違憲にならない公式参拝の道を探る。官房長官だった藤波孝生が設けた私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)は85年、政教分離に反しない公式参拝は可能との報告書を出す。8月15日、初の公式参拝のために靖国に赴いた中曽根は神道伝統の二礼二拍手一礼はしなかった。
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合祀で歴史問題に発展
国家護持や公式参拝といった表の動きと対照的に、東京裁判のA級戦犯の靖国合祀(ごうし)は水面下で進んだ。
戦後、戦没者の遺族への扶助を担当した厚生省は対象となる戦没者の名簿を靖国に送付していた。これが事実上の祭神名票となる。
66年、東条英機ら14人のA級戦犯(獄死者らを含む)が名簿に載った。戦犯遺族の生活を助けるための人道的判断の副産物なのか、保守派が周到に準備した戦犯の名誉回復措置なのか。誰がいつどういう経緯でA級戦犯を公務死認定したのかは、なおはっきりしない部分がある。
名簿を受け取った靖国の宮司、筑波藤麿は14人の扱いを保留にした。78年に後任に就いた松平永芳は一転してA級戦犯を「昭和殉難者」と位置付けて合祀に踏み切った。
歴史問題が大きな摩擦になる発端は80年代初頭に起きた日本の教科書検定を巡るあつれきだ。日中戦争における日本軍の行動は侵略なのか、進出なのか。その論争の過程で、中韓の矛先は靖国、従軍慰安婦、尖閣諸島などの領有権にも向いた。当初の日本批判は散発的に起きたが、中曽根の公式参拝を契機に、それらは歴史問題という大きなうねりに束ねられていった。
89年に北京で学生デモと軍が衝突する天安門事件が起きる。共産党支配を正当化するためか、中国政府は愛国者教育を加速し、日本への批判を強める。
首相の靖国参拝は長く途絶えた。96年、橋本龍太郎が「戦死したいとこに会いに来た」と説明して11年ぶりに参拝したが、中韓は戦犯が合祀されている限り参拝は侵略の肯定だと非難。橋本の参拝は一度きりで終わった。
98年に中国国家主席の江沢民が来日した際、晩さん会における天皇のお言葉の内容を巡り、日中両政府がぶつかった。この頃から顕在化した日本人の嫌中、嫌韓感情を巧みに自身の政治エネルギーへと吸収したのが2001年に首相に就任した小泉純一郎だ。
在任5年間、毎年欠かさず靖国参拝をしたことは、上海での反日デモなどを誘発したが、国内政治の観点からは保守派の支持が長期政権を下支えした。
現首相の安倍晋三は第1次政権では靖国に足を運ばなかったが、再登板後の13年に初めて在任中に参拝した。これきりなのか、再び参拝するのか。安倍は明らかにしない。その決断は歴史問題の今後に大きな影響を与える。
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分祀、あと一歩の局面も
靖国問題に出口はあるのか。これまで議論の俎上(そじょう)に上がったのは(1)無宗教の国立施設を新設する(2)身元不明の遺骨を納めた千鳥ケ淵戦没者墓苑を追悼の中心施設とする(3)靖国からA級戦犯を分祀(ぶんし)する――などだ。
新施設建設は02年、当時の官房長官、福田康夫が設けた私的諮問機関が提唱した。小泉の靖国参拝で悪化した中韓との関係を改善するための策だった。05年に前自民党副総裁の山崎拓らが超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」を立ち上げたが、自民党が保守色を強めるなかで休眠状態になっている。
千鳥ケ淵は米アーリントン墓地の「無名戦士の墓」に近い存在だ。一般の戦没者もまつるには大幅な拡張が必要になる。ここを追悼の中心施設にする案は新施設建設の変形ともいえる。
13年に米政府高官として初めて国務長官のケリーと国防長官のヘーゲルが千鳥ケ淵を訪れ、献花した。安倍が靖国に参拝しないよう促す含意があるなどの臆測が飛び交った。とはいえ米政府が靖国に代わり得る存在とまでみているかどうかははっきりしない。
A級戦犯の分祀は、日本遺族会の元会長である古賀誠らが模索を続けている。靖国側が否定的なため、ハードルは高そうだが、過去にあと一歩で実現しそうな局面があったことはあまり知られていない。
遺族会の事務局長を務めた板垣正の著書『靖国公式参拝の総括』などに沿って振り返る。
85年8月の公式参拝への内外の反発に直面した中曽根は10月の例大祭には私人としても参拝しないことを決める。
どうすれば首相参拝を復活できるのか。板垣の父はA級戦犯として死刑になった板垣征四郎。戦犯遺族でつくる白菊遺族会の会長、木村可縫(同じく死刑になった木村兵太郎の妻)と相談し、遺族から合祀取り下げを靖国に申し入れることにした。
だが、遺族のなかで東条英機の次男の輝雄(当時、三菱自動車工業会長)だけは同意しなかった。「合祀しているから首相参拝は妥当でないという議論は戦勝国の理論。一命を賭して反論した被告の遺族として同調できない」というのが板垣への説明だった。
板垣は12月に入り、独断で松平に分祀を打診するが、断られた。『総括』にこう記している。
「遺族の総意こそが事柄の筋道を決する拠り所(よりどころ)である」
(敬称略)
編集委員 大石格が担当しました。
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小泉氏、もとは左寄り 元自民党副総裁 山崎 拓氏
中曽根内閣で官房副長官、小泉内閣で自民党幹事長や副総裁を務めた山崎拓氏に聞いた。
――中曽根康弘首相はなぜ公式参拝したのですか。
「中曽根さんは政界地図の中で一番右に位置付けられていた。右バネを働かすという自身の役割を果たそうとされていた」
――公式参拝は違憲ではないという地ならしを藤波孝生官房長官にさせます。
「藤波さんは伊勢神宮の門前で育ち、思想的に天皇家を中心とする国のまとまりを大切に考えていた。君臨すれども統治せずではあるが、君臨を大事にする。それで藤波さんを司(つかさ)にした」
――公式参拝後は一転して参拝しませんでした。
「いちど行ったからもういいかでなく、また参拝する機会をうかがっていた。中国が『A級戦犯をまつるのは軍国主義に起因する』と焦点を絞ってきた。そこで分祀(ぶんし)を考え、お使いを靖国に行かせた。藤波さんが行ったのか、藤波さんはA級戦犯をまつることは問題ないという考えだったので、誰か代わりの人が行ったのか、そこは聞いていない」
――小泉純一郎首相は8月15日に参拝すると自民党総裁選で公約しました。
「遺族会の支持を得るためにした公約だから、あんなに重く受け止めると思っていなかった。加藤(紘一・元自民党幹事長)は反対だし、あの頃はまだYKKの絆があったので、話せばわかると軽く考えていた」
「本気だとわかってから中国の武大偉駐日大使と折衝したら『15日はやめてくれ。できれば後で』と言ってきた。福田康夫官房長官は8月下旬にする考えだったが、小泉と福田さんは距離があった。YKKは上下関係でなく、仲間意識があったので説得して13日に参拝することになった。小泉はずっと『15日にすればよかった』と後悔していた」
――その後も毎年参拝します。
「中曽根さんがそうだったから一度きりと思っていた。そしたら毎年行く。突然行く。2回目からは我々にも相談しなくなった。これはまずいと思い、靖国に話をしに行った。靖国の説明は神道的だったが、簡単にいえば『一度名前を書いたら消せない。名前を書いた瞬間に魂が入る。A級戦犯の魂もいったん入ったからには取り出せない』ということだった」
「ただ、小泉は日中首脳会談を十数回した。中国は交流をやめなかった。小泉が『日中戦争は侵略』と認めていたからだ。靖国参拝したので小泉は右翼と思っている人が多いが、もともとは左寄りだ。首相をやめてからは参拝していない」
[日経新聞7月19日朝刊P.11]
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