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「間違う民主主義」と「善き独裁者」
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2015-07-22 反戦な家づくり
みんしゅしゅぎ という言葉は、もう擦り切れるくらい使われてきたけれど、本物の民主主義を、私は日本で見たことはない。
勘違いしてはいけないのは、民主主義は正義も平和も保証しない、ということ。
民主主義は、正義ではない。
民主主義は、間違う。
民主主義とはただ一点、「民が主である」ということ。
「民が主である限り、正義ではないけれど極悪非道にはならないだろう」
「民が主である限り、何度も間違うけれども軌道修正もするだろう」
ということを信じて、「民が主である」社会を運営するのが、民主主義だ。
だから、護憲派の皆さんには気の毒だが、国民投票やったら国民は間違って改憲賛成するかもしれないから、国民投票法に反対、というのは 民主主義ではない。
民主主義に則ったほうが、結果は悪くなる、ということはいくらでもありうるのだ。
それでもなお、失敗を教訓としながら社会を作っていくのが、民主主義だ。
民主主義は、恐ろしいのである。
それが嫌なら、播磨屋さんのように皇太子の親政を求めたりして、善き独裁者を求めるしかない。
小沢一郎氏がよく言う、仁徳天皇の「民のかまどの煙」の話も同じジャンルだ。
善き独裁者に守られる臣民は、実に平和安寧幸福至極なのである。
どうも、日本人の99%以上は、この「善き独裁者」を求めているように、私には思える。
戦後の日本は、50%が自民党に「まあまあ善き独裁者」を期待し、20%が社共に「かなり善き独裁者」を夢見て、30%が「だれかが適当に善き独裁者になってくれるんちゃう」と丸投げしてきた。
「間違ってもいいから、自分たちで決めるんだ」と決心覚悟を決めた人が、有権者の1%=100万人もいたとは、とうてい思えない。
そうやって、民主主義を自ら放棄し、独裁に期待してきた日本の戦後「民主主義」の結末が、今私たちの面前にある安倍政権だ。
「善き独裁」に依存するものは、やがて「悪しき独裁」の餌食となるのである。
■■
生活の党の支持者を中心にした、生活フォーラム関西の事務局を1年間やってきて、つくづく思うのは、「政治家が旗を振らないと本気になってもらえない」ということ。
結局、後援会の延長なのである。(当然ながら全員ではない。)
政治を市民の手に、と思ってやってきたけれども、私の思いと会員諸兄諸姉の思いにはずれがあるようだと思い至り、事務局はこの秋で辞任し、以降は一会員として協力していくことにした。
私は、「間違っても民主主義」で行きたい。
いつか登場する正義の政治家に期待してジッと待っておく、というのは耐えられない。
組織としての生活の党に期待することも、やめた。
政治思想家としての小沢一郎氏は尊敬するし、前の記事で書いたように、この党しか言えない核心があるので、無くなってしまっては困るのだが、しかし、この党にはもはや市民のリーダーたる自覚を感じることができない。
小沢氏は、自らの手足にまとわりつく者たちをバッサリ振り切って、国民のために決起してもらいたかったが、良く悪しくもそこまで非情になれないのが、小沢氏の限界なのだろう。
中期的には、思想としてのオザワイズムを継承しつつ、山本太郎氏を中心にしたまったく新しい党を作っていくしかないだろうと、勝手に思っている。
いずれにしても、主権者が政治家に頼りっぱなしで、親分子分の関係から脱却できないから、こうなってしまったのだ。
主権者が政治家を押し上げ、意見し、場合によっては切り捨てる力を持っていないから、こうなってしまったのだ。
いまのこのドン詰まり状態は、一にも二にも、私たち自身が「善き独裁」を求めてきたせいなのである。
■■
では、民主主義はどうやって始めればいいのか。
これまで、まったく未経験の本物の「民主主義」を、日本人はどうやって身につけるのか。
「民主主義」の「み」は 集会とデモだ。
自分の体で、主張を表現することだ。
リスクを負って、主張することだ。
戦争になるかもしれない時に、せいぜい10万人しか集まらないというこの現状が、いかに日本に民主主義が無かったかということの証明でもある。
しかし、これから始めるのだと思えば、1万人でも10万人でも大きくて貴重な一歩だ。
みずからリスクを負って動く者なしに、何も始まらない。もちろん選挙など闘いようもない。
供託金すら用意できないほど追い詰められた党に、まとまったカンパすら集めることができない。
次のステップは、コアを作ることだ。
共産党や公明党ですらあの程度の票しか取れないのだ。民主主義を結実させようと思ったら、どれだけの組織が必要か想像できる。
そして、そういう組織を作るためには、ある程度コアがなければならない。コアは一つではない。大きくまとまることのできる範囲で、いくつものコアが生まれてくるはずだ。
大同小異で小異を無視して無理にまとめるのではなく、大同小同(微異)のコアがたくさんできる、というイメージ。それらが違いを認め合いながら相互に連携していく。
コアを作りながら、組織を作る。
組織は、長年かけて徐々にできるのではない。たぶん。
あるエポックを境に、急激に増えていくだろう。
だからこそ、確実なコアが必要だし、多様な受け皿になる多様なコアが必要なのだ。
次はの段階は、300選挙区に、1-10-100-1000人である。
一人の候補者、10人のリーダー、100人の活動者、1000人の支持者(カンパ)。
コアの連携で、これだけの準備ができれば、自民党を互角以上の闘いができる。
風で政権とって、秒殺で沈没 ということには、ならない。
もちろん、敵も陣営も黙ってみているわけではない。
熾烈な競い合いの中で進んでいくのである。
ここまで到達して初めて、日本は「民主主義の国」なのである。
憲法があるから民主主義だ、などと寝ぼけたことを言ってる場合じゃないのは、あの安倍の顔を見たら分かるだろう。
■■
そんな長大な物語の、はじめの一歩は、やはり集会とデモだろうと思う。
○○政経フォーラムとか、○○君を励ます会、なら喜んでいくけど、市民運動のデモなんて意味ない。と思っている人は、永遠に民主主義とは縁が無いだろう。善き独裁者を求めて旅を続けていただくしかない。
もちろん、デモや集会で何かが変わるとは思わない。
あくまでも民主主義の「み」なのであって、それがないと始まらないけど、それだけでは完結しない。
核を作り組織を広がることへつなげていけなければ、大騒ぎしてすっきりして終わり、ということにもなりかねない。
しかしそれでも、「先生」に代行してもらうのではなく、自分の生身で表現することが絶対に必要だ。
そこから逃げていては、これだけ深く民主主義を亡きものにしてきた日本で、これまで一度も民主主義がなかった日本で、民主主義を始めることはできない。
そして、オザワイズムを継承する主権者のコアを作ることが、絶対的に必要だ。
反戦勢力が、革新系だけのコアになってしまってはいけない。
革新系は、平和憲法と引き替えに米軍支配を黙認してきた。日本の独立を事実上放棄してきた。
戦前回帰の改憲勢力と対抗するために、消極的とはいえ米国と組んできたのだ。
しかし、他国に支配された民主主義など、絶対にあり得ない。
戦前回帰、戦争責任否定の右翼勢力は絶滅すべき対象だ。短期の局面では米国と組むことも否定しない。
しかし、戦後の長きにわたってその構図の中に浸かり、米国の植民地支配を容認してきた革新系の責任は重い。
もちろん、革新系のコアとは共闘・連携すべきだが、任せきりにはできない。
いま、反戦と独立を共に主張できる政治勢力は、小沢一郎と山本太郎しかいない。
党組織に何も期待できない以上、その思想を引き継ぐ市民のコアを作るしかないのだ。
時間はかかるかもしれないが、それ以外、私の前には途は見えない。
■■お知らせ
7月25日(土)13時半〜15時半
「安保法案はなんで『戦争法案』なの?」
講師:中村てつじさん
会場:大阪市立社会福祉センター1階 第7会議室
上本町・谷町九丁目
http://www.shafuku-center.jp/shisetsu.html
会費:500円
申込フォーム https://ssl.form-mailer.jp/fms/fbd95b20365959
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