37. 一隅より 2015年8月01日 22:55:49
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>>31さんまずはどうでもよい、外形上のことで、相変わらずただ単に「ズレ」ているだけで、はなしがかみ合わない、いくつかの点。 ↓ >そもそも『日米安保体制』は日本の平和と繁栄のために設けられたものではありません。・・設問自体が相手方の土俵に乗っての話になっています。 あなたはここでもまた読み違え(か故意の言い換え)をしています。私は、『日米安保体制が日本の平和と繁栄のため』になったかどうかから話をはじめていません。自民・保守層、右翼反動勢力をのぞいては(そしてそれに同調する欺瞞的政治諸党派をのぞいては)『日米安保体制が日本の平和と繁栄のためになった』という国民的認識・合意はもともとない、と思うからです。 だからわざわざ、「平和憲法のおかげで平和」というインチキと、「日米安保は不可欠・重要」というインチキ、との2つに分けて書いた。
それをあなたは、『日米安保体制は日本の平和と繁栄のため』かどうかなどという、私の書いたこととはまったく別のことにかえ、それについて「相手方の土俵に」乗ったと非難しているのです。 私は、「日本は平和憲法のおかげでこれまで平和と繁栄を享受してきた」と書き、これをインチキだとしました。「平和憲法のおかげ」も「平和を享受」もウソ、二重のいんちきです。 そんな分かりきったことをくどく書かなければいけませんでしたか? なぜこれが「相手方の土俵に」乗ったことになるのですか。 (蛇足。そもそも「相手方の土俵に乗る」とは、「乗ったうえで勝負する」という意味ですから、ここでかりに相手方の土俵に乗ったとしても、それはそれで一向かまわないのだが、それ以前に、ここでは少しも「相手方の土俵に乗った」りしてはいません。)
それとも「平和憲法のおかげ、は嘘だ」がお気に召しませんか。それとも「平和憲法のおかげは嘘だが、それをいま言うのは運動にとって有害だ」と言いたいのでしょうか。 最後の点(「有害」云々)だけが問題なのですが、これについては、このコメントの後のところで述べます。 ◇ >将来における「だろう」という推論・空想に基づいて論を展開する・・・つまり、>「安保廃棄国民運動になるだろう」「(そしてそれが結局は達成されるだろうからだ。)」という貴方のそれは・・・、相手のあることであり、またとりくむ運動側の問題もあり、「結局は達成」されないかも知れないのです。
まずは形式的に、「勝利するだろう」はただ単に希望・目標をのべるひとつのかたちであって、従来よりされている言いかたです。「相手のあることであり、またとりくむ運動側の問題もあり、結局は達成されないかも知れない」などということは当然すでにおり込み済みの言いかたです。 >その根拠のない将来の空想から導いて、そこから貴方は現在を「それはそれでかまわない」と説く・・
ここは内容的にも?です。 まず形式的に、「かまわない」はレトリックで、真意はそこにないことはすでに述べた。 そんなこと(=今回、戦争法案が成立したら国民にとって大打撃であること)は当然の前提として、かりにその場合でも、そのときには国民にとって日米安保の是非が意識にのぼらざるを得なくなる=諸党派はそれを政治課題にのぼせなくてはならなくなる、という意味があると述べた。 (ここは>>18さんが、>「国民一人一人が、戦争とは何か 平和とは何か 安全とは何か考える機会が増えてきた事も良い事です」と言っているとおりです。私はそれを、「国民が日米安保の是非を意識にのぼせるようになる、そしてそれは権力側の望まないことだ」としました。 日米安保の是非を論じること、これこそが、アメリカ・日本の支配勢力が・および国内の欺瞞的諸党派が当然の前提とし続け、あえてそれを問題とすることを避けさせようとしてきた中心点だからです。) 次に、私の言っていることの順序は、『根拠のない将来の空想から導いて、そこから → 現在を「それはそれでかまわない」と説く』というふうにはなっていません。アメリカの関与・要請・指示・命令(表現は何でもいい)という、あなたのいう「具体的な現実の出来事」から出発して全体を述べているつもりです。 そして最後の「安保廃棄国民運動になるだろう」「勝利するだろう」が、根拠でも出発点でも少しもなく、また客観的根拠をもってされた結論づけでもなく(根拠はないではないがここではそこに踏み込んではいない)、ただ政治的言挙げ(パローレ)だということはすでに述べました。(簡単に言えば、「安保廃棄国民運動にしなければならない、勝利すべくたたかおう」とまったく同意です。)
本当は、上記のような私の言いかたに批判がありうるとしたら、「日米安保は肯定すべきだ」か、そうでなければ「日米安保は破棄すべきだがそれは今いうべきではない。運動にとってマイナスだ」のどちらかです。あなたは当然前者ではないから、後者の問題が批判の中心点になるのでしょう。これについても、このコメントの後のところで述べます。
◇ >これだけ自民党政治の矛盾が噴き出ている『戦争法案』の国民のたたかいの中でこそ、その論陣を貼りながら『法案阻止』闘争に参加すべきなのです。 今回の事態(=戦争法制制定の策動)は、「自民党政治の矛盾」のあらわれなのですか。もしそうであれば、それを「具体的な現実の出来事」と関連させて示してください。 私はそれを、2013年10月「2+2共同発表」その他を根拠に「安倍政権であろうが民主党政権であろうが変わらない」、つまり自民党政治の問題ではない(さらに言えば、安倍・自民党には戦争法制整備への主体的動機がない)と言いました。反論してください。 (なお念のため、「戦争法制整備への主体的動機がない」ことと、それによって日本資本、安倍・自民党、支配層・官僚群がさらに利益を得、この利益享受が彼らの側からの動機になることとは別です。) まずあなた自身の書くところでは、諸党の日米安保にたいする姿勢は、社民党、新社会党をのぞけば、公明党・生活の党・民主党・維新・次世代の党いずれも同類で、日本共産党もその『革新』性が問われているということです。(ただし生活の党・日本共産党の日米安保に対する姿勢については、両者は違った意味においてですが、私は判断を留保します。)
そしてそのような中で自公政権は、原発再稼働、消費税大増税(これは民主党も)、辺野古米軍基地建設など、やり放題だというのではありませんか。このような中での戦争法制制定の策動は、いかなる点で「自民党政治の矛盾」のあらわれなのでしょうか。戦争法制整備への安倍・自民党の主体的動機(主体的必要性)は何なのでしょうか。具体的に論じてください。 ◇◇ 上記はあまりどうでもいい形式面。以下、いくつかの、内容的な問題について。
>「日米安保条約廃棄」実現を掲げる・・ならば、『戦争法案成立阻止』闘争に・・参加し、安倍・自・公政権の反動策動とたたかい、その中で貴方の信ずる『命題』が広がるよう運動すべきなのです。
一部をのぞいて当然のことであり、異論はありません。 異論のあるのは、そのさい中心に唱えるべきは「安倍・自・公政権の反動策動とたたかう」ことなのかどうかです。なぜ端的に『戦争法案成立反対』闘争でないのですか。(こう言うのは、戦争法制整備が安倍・自・公政権固有の、その主体的策動であるという前提の妥当性が問題だと考えるからです。) 問題は、ばかばかしいほどわかりやすく具体的な例で言えば、たとえば集会・デモのシュプレヒコールに、「戦争法案反対」がその第一の中心であるのは当然として、さらに「安倍・自公政権の反動政策反対」をも主要なものとして押し出すのか、それともそうではなく、「日米安保廃棄」をも掲げるのか、です。 後者には私は反対です。政治党派が戦略・戦術目標を提示してたたかうとはそういうこと、具体的には、日米安保体制の問題点は暴露しつつ、それを当面の大衆行動に持ち込む・押しつけることはしない、ということです。その場合にだけ、戦争法制阻止のための主要敵は見誤られない・ごまかされないのです。 他方それに比して、「安倍・自公政権の反動政策反対」を押し出すことはどうなのか。中心課題をぼやかしてしまうことになるのではないか。これこそが運動の方法として論じられるべきであり、私はその点でのあなたの論を期待していました。 政治諸党派はつねにこれを論じ・明らかにすべきであり、かつ党の側からそれを大衆運動に押しつけることはせず、しかし他方、国民の側はこれを正しく意識・自覚しつつ行動すべきである。このように書いたつもりでした。 しかし少なくとも「阿修羅」では、(運動の場、たとえば集会・デモの主旨・方針を決定する場ではないのだから)、一国民としてこれについて自分の考えを述べ、また他のひとの意見をきくことを求めることはゆるされるでしょう。「傍観者」とか「権力者を利する」と(言われる理由はないと考えますが、そう)言うなら、そのゆえんを具体的に述べるべきです。
まさにここが(=ここだけが)問題の核心です。つまり、いま私のように論ずることが「権力者を利する」のかどうか、がです。「権力者を利する」のであればいかなる点で、どのようにしてか、具体的に論じてください。
◇ 民主主義について。もう長くなったので簡単に。
>『日米安保条約廃棄』をどのような方法で達成するのでしょうか???それは、国会で採決し“『条約』10条”に基づいてアメリカに『廃棄通告』を行うという手続きで実現する課題なのですが。 異論ありません。 >国会の採決は、国民主権と代議制民主主義によって成り立つもので、それは「われわれ国民が自ら日本のことを決めていけるような体制」とは違うのでしょうか??? >「日本国憲法」では、そのような権利・自由は人類のたたかいによって勝ちとられたものであって、油断すれば潰されることを歴史は教えているので主権者・国民は不断の努力でそれを守るようにせよと述べてあります。
私が、>「議会制民主主義がどのような機能を果たすものとしてあるか・あったか、・・・歴史的にそのように一義的に肯定的なものでは決してなかった」、と書いたことについて、そんなことはないとそれを否定するにせよ、何ら触れられていません。 私が(別に私の言い出したことではないが)、「議会制民主主義は必ずしも一義的に肯定的なものとは限らない」、「民主主義はわれわれ国民にとって、これからたたかいとられるべきものとしてある」と言ったからといって、なぜそれが、「強行採決を暴挙として捉えることができない」、「選挙などどうでもよい」ということになるのですか。 批判するのであれば、「議会制民主主義は一義的に肯定的なものとは限らない」、「民主主義はこれからたたかいとられるべきものだ」と述べることが事実と違う(=充分に機能する民主主義がすでにある)とするか、あるいは、民主主義は充分ではないが今それを言うことは有害だということを、具体的に(いかなる点で、どのようにしてか)述べてください。(なお、ここでも私が「議会制民主主義」と「民主主義」を区別したことは無視され、両者は当然ながらイコールのものとされています。)
>「かかる日米安保・対米従属・官僚支配体制」を打破する方法はどんな方法となるのでしょうか?
日米安保廃棄を目標にかかげつつ、戦争法制整備阻止を当面の目標とし、そのために議会内外呼応する選挙闘争・大衆運動を進める、かつそのためには、その際に、「道具」たる議会制民主主義が民主主義的に機能することを阻害する米の対日支配が問題であることをも暴露しつつ運動を広めていく、ことしかない。 循環論法になっている? 具体性がない? 当然です。まだ答えのでていない問題ですから。正しい方針とそのための運動の方法、これをこそ論ずべきです。そのためには日米安保の是非を国民の意識にのぼせることは歓迎さるべきことで、「悪くない」のです。 少なくともこれを問題にせずに(日米安保体制を問題にせずに)戦争法案反対をいう政治指導部は欺瞞であり、これに運動を領導させることは害悪であり、われわれはその偽慢性を暴露し続けなければなりません。 (それは黙して語るべきでない、運動にとって有害だという論はありえ、一理あります。賛成しませんが。しかしそれならそう論じてください。そここそ論じるべきで、私が皆さんに問いかけ知りたかったことです。) ◇ ファシズムについて。ますます長くなったので、さらに簡単に。
あなたは、私が>「どこがファシズムなのか、その場合ファシズムとはいかなる概念で用いられているのか」としたのにはこたえることなく、 >「議会制度の民主的外皮を残しながら議会を形骸化し議会制民主主義を事実上機能不全の状態に追い込み、少数者による多数者支配の政治」、具体的には小選挙区制により不当に絶対多数議席を占め、国民の税金の強奪、企業献金=大企業の政治介入、原発再稼働、消費税大増税、辺野古米軍基地建設、安保法制など「国民の多数意思を踏みにじる暴政」、と言っています。 議会の形骸化・議会制民主主義の機能剥奪・停止はファシズムの一要素ですが、それだけではありません。それだけなら単なる議会制無視の暴政であり、ブルジョアジーが情勢により(追い込まれた情勢では)採るものです。これは、私が「民主主義的に機能しない議会制民主主義」と言ったと同じものであり、そのさらに悪辣化したものです。
ファシズムには、そのさい無産大衆の広範な支持を背景とするという要素があります。ブルジョアジーが追い込まれた情勢下で議会制民主主義の機能剥奪のためにこれ(大衆の支持)を利用するという側面と、唆され煽られるにせよ無産大衆のブルジョアジーに対する不満・反抗がありそれがあらわれたものだという側面があります。 なお、この前者の要素(議会政の形骸化・破壊)のみをもってファシズムとする広義のとらえかたもありますが、広すぎて賛成できない(広すぎて機能しない、わざわざファシズムと規定する意味にとぼしい)。戦前天皇制下での「軍国主義」もこの広義では「ファシズム」でしょうが、私は、これをファシズムととらえるのは批判の仕方として不正確で有効性に欠ける、と考えます。 現在の安倍・自公政権にはこの後者がありません。したがってこれをファシズムと規定するのは誤っています。無産大衆の広範な支持なしに安倍・自公政権を駆って戦争法制制定の策動へ走らせているのは、アメリカ・日本資本の利害と、それと結託して自らの利益追求にはしる政治諸党派および官僚など知的支配層です。 だから、安倍・自公政権=ファシズム規程は誤っており、これを運動において強調するのは、運動を害するものです。 |