2. 2015年7月20日 10:30:08
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【戦後70年】日米安保『原型』芦田メモ 「米本国要人へ伝達」の証言記録 定説覆す可能性 2015.7.19 05:00 産経新聞 戦力を保持しない日本の安全保障は駐留米軍に委ねるべきだと戦後の日本政府が最初に打ち出したのが、占領期の昭和22年9月、芦田均外相下の外務省で作成された「芦田メモ」だ。日米安全保障体制の「原型」と評価されながら、メモは米国政府に届けられなかったという説が有力だったが、占領軍ナンバー2のロバート・アイケルバーガー米陸軍中将を通じ、対日占領政策決定機関の極東委員会トップら米本国の要人に伝達されていたという証言が、メモを中将に手渡した終戦連絡横浜事務局長、鈴木九萬(ただかつ)氏の日記に記録されていた。(渡辺浩生) 芦田メモは、占領軍でマッカーサー元帥に次ぐ地位にあった米第8軍(本拠・横浜)司令官のアイケルバーガー中将が、鈴木氏に占領軍撤退後の日本の防衛について見解を求めたのをきっかけに、外務省幹部が作成。芦田外相が決裁した。 米ソ関係が改善されない場合、再独立後の日本の安全保障は2国間の特別協定により米国に委ね、日本の独立が脅威にさらされた際には、米軍に国内の基地を提供するのが「最良の手段」と位置づけた。 22年9月、一時帰国する中将に対し、鈴木氏から私信として手渡されたが、メモが米本国でどのように活用されたかは、従来の公開資料でも不明で、研究者の間では「(中将は)自らの参考にするだけにとどめ、アメリカ政府の要人には見せなかったようである」(坂元一哉氏「日米同盟の絆−安保条約と相互性の模索」)という見方が定説となっていた。 遺族や親族の元に保管されていた鈴木氏の日記(大学ノートに英文で記載)には、翌23年7月下旬、中将と面会した際、前年9月に手渡した芦田メモに対する米国内の反応を尋ねた会話が記録されていた。 中将は、「自分は日本の将来の安全保障を扱ったその文書を大いに活用した」とし、「大勢の著名人が読んだ。例えば極東委員会委員長の(フランク・)マッコイ少将だ」と答えた。 極東委員会は占領政策の最高政策決定機関としてワシントンに置かれ、米英中ソのほか仏豪蘭比印など11カ国で構成され、マッコイ氏は委員長と米国代表を兼務していた。 実際、すでに公開されているアイケルバーガー中将の日記によると、中将は一時帰国中の22年10月にワシントンでマッコイ氏と会見。アイゼンハワー参謀総長やロイヤル陸軍長官ら陸軍首脳、グルー元駐日大使とも面会していた。こうした要人らにメモが閲覧されていた可能性が出てきた。 講和後の安保問題の検討は吉田茂政権に引き継がれ、25年、日本国内の基地を米軍に提供する意向が米側に正式に示され、26年1月の講和交渉と同9月の日米安全保障条約締結に至ったが、吉田氏は自著で芦田メモを「日米安全保障体制の基本をなす考え方と全く同一のものであった」(「回想十年」第3巻)と評価していた。 ◇ ■昭和天皇にメモ報告 日米安全保障条約の「原型」とされ、占領軍ナンバー2のアイケルバーガー中将を通じて昭和22年秋、極東委員会トップら米本国の要人に伝達されていたことが明らかになった「芦田メモ」。パイプ役を務めた終戦連絡横浜事務局長、鈴木九萬氏の日記によると、昭和天皇もメモの行方について報告を受けていた。連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が日本の「非武装中立」を提唱する中、再独立後の日本の安全保障に天皇が寄せられた深い憂慮を改めて裏付けている。 昭和22年3月、マッカーサー元帥は早期講和を提唱し、憲法9条で戦力の保持を禁じられた日本の再独立後の安全保障は、国連に委ねるべきだとの考えを表明した。元帥の構想は米ソの協調維持を念頭に置いたものだった。 外務省は水面下で対応策の検討に着手。9月に芦田均外相の決裁で作成された芦田メモは連合国軍総司令部(GHQ)を介さず、鈴木氏を通じて一時帰国するアイケルバーガー中将に私信として託す手法がとられたが、米ソ関係悪化を予測して、駐留米軍による防衛という選択肢を日本自ら示す初めての文書となった。 ■講和後の安保体制にご関心 この時期、昭和天皇の最大のご関心も、講和後の日本の安保体制の行方にあった。22年5月のマッカーサー元帥との会見で、「日本ノ安全保障ヲ図ル為ニハ、アングロサクソンノ代表者デアル米国ガ其ノイニシアチブヲ執ルコトヲ要スルノデアリマシテ、此ノ為元帥ノ御支援ヲ期待シテ居リマス」と懇願された(児島襄「日本占領第3巻」)。 「芦田メモ」が作成された同じ同年9月には、寺崎英成・御用掛(天皇の通訳)がGHQのシーボルト外交局長を訪ね、天皇の「沖縄メッセージ」を伝えている。「米国が沖縄および他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益になり、日本を保護することになるとの考え」を示したもので、同局長から米国務省にも報告された(「昭和天皇実録」)。日本の安全保障を確保する手段として沖縄への米軍の長期駐留の意向を天皇自ら示されたものとされている。 天皇は翌23年7月には、離任・帰国するアイケルバーガー夫妻を、戦後初の外国人の賓客として皇居での午餐(ごさん)に招待された。 ■中将は日本の治安維持に危機感 一時はマッカーサー元帥の後任に目されたアイケルバーガー中将は、共産主義勢力に対する日本の治安維持能力に危機感を抱き、元帥の安保構想にも批判的だった。中将に「敬意を表し最善を尽くした」(鈴木氏)天皇のもてなしは、帰国後の協力を期待された“宮廷外交”ともいえる。 鈴木日記によれば、7月19日の午餐での天皇のお言葉は、戦前に御用掛として天皇に仕えた鈴木氏の助言で起草され、「思いやりと理解ある占領政策の指揮」への感謝と、「帰国後も日本の将来に関心を持ち続けてほしい」という要望を伝えられた、という。 鈴木氏はその5日後の24日、葉山御用邸を訪れ、約20分間拝謁。「陛下のご希望をかなえるよう最善を尽くすことを約束する」という中将のメッセージを伝えるとともに、「私が書いた昨年9月の機密文書と今用意している新しい機密文書についてご報告申し上げた」とある。 「昨年9月の機密文書」とは、鈴木氏が22年9月に中将に託した芦田メモを指す。鈴木氏はこの拝謁の3日前に中将から、「メモが極東委員会委員長のマッコイら米本国要人に読まれていた」という証言を聞き出していたので、おそらく天皇に報告したであろう。 「新しい機密文書」とは、中将の要望により鈴木氏が新たに作成したメモで、米ソ関係の悪化により、芦田メモで示したシナリオ通りに事態は向かっている−と分析。離日前の中将に手渡された。 「米国民が戦後の日本に対して一層理解を深めるよう中将の取り計らいを希望する」。天皇が鈴木氏に託したお言葉である。天皇は芦田メモの成り行きを通じて、安保構想をめぐる最新の検討状況を把握されていたといえる。 中将は帰国後、陸軍省顧問に就任。「反共のとりで」の日本は米国の安全保障と不可分だとして再武装などを意見具申し続けた。 ◇ ■現代史家・秦郁彦氏の談話「曲折たどり日米安保条約に」 昭和天皇はマッカーサー元帥との間で対等に近いトップ会談を続けた。一番重要な問題は日本の安全保障だったが、元帥は最初は国際連合に依存すれば大丈夫だと考えた。米ソ冷戦が厳しくなっても、憲法第9条を事実上作ったのは自分だから、再武装にも終始消極的。だから、天皇には元帥との信頼関係を保持しながらも、米国側の中にチャンネルを複数持ちたい、という戦略があったと思う。 そのひとつにアイケルバーガー中将が選ばれたのではないか。午餐も、儀礼的な要素をひっくるめて、天皇が大切に思っていますよという意思表示ができれば十分だったと思う。 沖縄を再開発し空から日本を守ってもらうという発想も、米本国にアピールするのが一番良いと、寺崎英成・御用掛を使って国務省の出先であるシーボルトGHQ外交局長に届けさせた。天皇の頭の中では、この「沖縄メッセージ」と「芦田メモ」はセットだった。外務省の正規ルート以外にいくつかのルートを設定し全体をみながら調整することを、自らおやりになったのだと思う。 芦田メモの存在は随分前から知られていたが、それが米国内でどういう形で議論され、回覧されたかはずっと不明だった。その点は今回裏がとれた。米国では『日本は東洋のスイスたれ』という元帥と本国との間に意見の乖離(かいり)があったが、客観的に見てメモが示した選択肢以外方法はなく、紆余(うよ)曲折をたどりながら日米安全保障条約につながっていく。 ◇ 芦田メモ 芦田均外相(片山哲内閣)下の外務省幹部が昭和22年9月13日付で作成。米ソ関係が良好となった場合、日本の安全は国連が担うとし、米ソ関係が改善されない場合(1)平和条約の実行監視に関連して日本国内に駐留する米軍が安全保障機能を担う(2)日米間で特別協定を結び、平時は沖縄や小笠原諸島を念頭に日本本土の周辺に展開する米軍の抑止力に期待して、独立が脅威にさらされる有事には米軍が日本国内に進駐して軍事基地を使用できるよう取り決める−との選択肢を提示。(2)が日本の安全保障の「最良の手段」とした。 鈴木九萬 明治28年茨城県生まれ。東大法学部卒。大正10年外務省入省。昭和12年宮内省御用掛(昭和天皇の通訳)。15年駐エジプト公使。日米開戦で9カ月の抑留生活を送り、17年交換船で帰国。20〜27年終戦連絡横浜事務局長。第8軍司令官、アイケルバーガー中将との間で築いた緊密な関係は、GHQを介さない対米チャンネルとして活用された。駐豪大使、駐伊大使を歴任し36年退官。62年死去。 ロバート・アイケルバーガー(1886〜1961年) 1942(昭和17)年以降、米陸軍第1軍団司令官、第8軍司令官としてニューギニアなど南西太平洋諸島、フィリピンでの対日戦を指揮。45年8月横浜に進駐し、本土の各地に展開した占領軍を指揮した。48年離任。49〜50年ヴォルヒーズ陸軍次官の対日顧問。54年大将に昇任。 http://www.sankei.com/life/news/150719/lif1507190017-n1.html
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