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安倍政権の背後にいる右派団体「日本会議」のルーツ 魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第134回
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44128
2015年07月19日 魚住 昭 週刊現代 :現代ビジネス
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■「参院のドン」が明かした日本会議結成の内幕
先週号で日本最大規模の右派団体・日本会議と安倍政権のただならぬ関係について触れた(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44029)のを覚えておいでだろうか。
日本会議の中核メンバーが目指すのは、端的にいうと、戦前の皇国日本の“栄光”を取り戻すことだ。彼らは何十年も前から周到な計画を練り、着実に布石を打ってきた。もし、このまま事態が進むと、彼らの悲願は成就へと向かうかもしれない。
なんて言うと、読者はそれは私の誇大妄想ではないかとおっしゃるだろう。無理もない。私だって最初はそんな大それた仕掛けがあるとは思いもしなかった。マスコミも彼らの動向をほとんど報じなかった。
でも、8年前のことだが、かつての「参院のドン」村上正邦さん(82歳・元労相)の聞き書きを1年つづけるうち、彼らが全国に巡らしたネットワークと、その戦略が見えてきた。
村上さんが日本会議結成(1997年)にいたる内幕を明かしてくれたからだ。彼は日本会議の礎を作った当事者の一人である。そしてこれが重大なポイントなのだが、生長の家の創始者・谷口雅春('85年没)の信頼が最も厚い政治家だった。
ラディカルな皇国思想を持つ宗教団体「生長の家」
ここで生長の家について簡単に説明しておこう。
教団の歴史は戦前、谷口が人生苦の解決法を説く個人誌『生長の家』を創刊した時から始まる。彼はキリスト教や仏教、神道などから種々の要素を取り入れて万教帰一、すべての教えは同じ、ただ登り口が違うだけだと説いた。
また、彼は天皇を現人神として崇めた。「一切は天皇より出でて天皇に帰るなり」と説き、聖戦完遂を唱えて教団を大発展させた。敗戦後は一転して自由と平和を唱えたが、公職追放から復帰した後、右傾化・神道化を強めて教勢を拡大させた。
紆余曲折はあったにせよ、谷口は戦後の宗教界で最もラディカルな皇国思想の持ち主となった。彼は「明治憲法復元」を掲げて1964年、生長の家政治連合(生政連)を作り、教団の政治進出を本格化させる。その生政連の国民運動本部長に任じられたのが村上さんである。
それから10年後の'74年、愛国心高揚を目指す「日本を守る会」が誕生する。臨済宗円覚寺貫主・朝比奈宗源が谷口らに呼びかけて作ったものだった。
そこに生長の家はもちろん神道、仏教などの宗教団体が集まり、作家の山岡荘八や思想家の安岡正篤らも加わった。事務局は明治神宮に置かれ、村上さんは谷口の意を受け、事務局の中心メンバーとして働いた。
■「背広を着た右翼」に変身
「守る会」はまず「天皇陛下御在位50年奉祝中央パレード」を成功させ、その余勢をかって元号法制化運動に乗り出していく。
もともと元号は戦前の皇室典範に定められていた。その条文がGHQの意向で削られ、法的根拠を失った。それを再び法制化しようという右派の動きは戦後三十余年、社会党・共産党の抵抗にあって阻まれていた。
結論を先に言わせてもらえば、この法制化運動の成功が、それまで少数精鋭主義だった右派の運動スタイルを広範な国民を巻き込む大衆運動に変え、日本会議を誕生させることになる。
名著の誉れ高い『増補 戦後の右翼勢力』(勁草書房)の著者・堀幸雄氏の言葉を借りるなら「制服を着た右翼」から「背広を着た右翼」への変身である。
その大衆運動の戦略を描いたのが、いまの日本会議を事務総長として取り仕切る椛島有三(かばしま・ゆうぞう)氏だ。
彼は谷口思想の心酔者で天性のオルガナイザーだった。長崎大学在学中に全共闘や共産党系の民青に対抗して民族派学生運動を組織し、自治会の主導権奪還に成功した経歴を持っていた。村上さんの回想。
「椛島さんは長大卒業後、上京して一途に日本青年協議会(生長の家の学生OB組織)で民族派の運動をやっていた。彼は名誉栄達や金を求めず、面倒見もよかったから学生たちから尊敬されていた。彼が一声かければ動く若い人が全国にたくさんいた。その彼が『守る会』事務局に入ってくれたので、彼と二人三脚で運動を進めたんです」
ちなみに当時の日本青年協議会委員長は今の安倍首相側近の衛藤晟一参院議員。書記長が椛島氏、政策部長が今の日本政策研究センター代表で首相ブレーンの伊藤哲夫氏。3人とも日本会議の中核メンバーである。
■椛島氏の戦略
村上さんの証言によると、椛島氏は大衆運動のいろんな戦略や戦術に長けていた。各地で人手が必要なときは日本青年協議会傘下の学生らを動員した。
たとえば「守る会」は'77年秋から元号法制化を求める地方議会決議運動を始め、翌年10月までに全国1016市町村の議会決議を達成して政府に圧力を加えるのだが、この「地方から中央へ」という戦略を考え出したのも椛島氏だった。
こうした地方の動きに呼応する形で'78年7月、「守る会」を中心に「元号法制化実現国民会議」が作られる。議長に石田和外・元最高裁長官が就き、音楽家の黛敏郎が代表委員の一人になった。椛島氏は事務局長として戦略を考え、さらに世論を盛り上げるため全国47都道府県にキャラバン隊を派遣した。
自民党や民社党、新自由クラブによる超党派の国会議員連盟も作られ、同年10月、日本武道館に2万人を集めて総決起国民大会が開かれた。動員の中心になったのは生長の家や佛所護念会、世界真光文明教団、明治神宮や神社本庁といった「守る会」に結集した宗教団体だった。
翌'79年6月、全国的な気運の高まりのなかで元号法案は国会を通過する。右派三十余年の宿願が「守る会」(+日本青年協議会)によるわずか2年の運動で達成されたのである。椛島戦略の効果は絶大だった。
以来、椛島氏をはじめとする日本青年協議会の面々、つまり谷口雅春の思想を核に育った人々が”隠れた主役”となって右派の運動をリードしていく。彼らは政財界などへの影響力を急速に拡大させ、ついには憲法改正に王手をかける一歩手前にまで至るのだが、その過程については次号でご説明したい。
*参考:ハーバー・ビジネス・オンライン連載『草の根保守の蠢動』(菅野完著)、『増補 戦後の右翼勢力』(堀幸雄著・勁草書房刊)、『朝日人物事典』(朝日新聞社刊)
『週刊現代』2015年7月18日号より
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