http://www.asyura2.com/15/senkyo188/msg/538.html
Tweet |
戦後70年 日本のかたち
(2)脱・占領 冷戦が促す
講和条約で早期に国際復帰 「再軍備」極秘裏の妥協
第2次世界大戦に敗れ、連合国の占領下に置かれた日本。サンフランシスコ講和条約への調印を経て、ようやく独立をとり戻した。その舞台裏では、し烈な駆け引きがあった。
サンフランシスコの中心街にあるオペラハウス。正面に灰色の石柱がすえられ、重厚さを漂わせている。1951年9月2日、首相の吉田茂をはじめとする日本の代表団が、対日講和会議の舞台となるこの建物にやってきた。
米国による警備は、東京を出発したときから厳重を極めた。一行を乗せた航空機に米軍機が途中まで付き添い、機内でも米連邦捜査局(FBI)の要員が目を光らせた。
米側がそこまで警戒したのは、ソ連の妨害工作だった。ときはすでに米ソ冷戦。米主導でまとまった寛大な講和案にソ連は反対を唱え、東側陣営のポーランド、チェコスロバキアを従えて乗り込んできた。
会議は別の「地雷」も抱えていた。戦争で被害を受けたアジアの国々が、賠償案に不満を持っており、調印を拒むかもしれなかったのだ。吉田は会議初日の4日、討論の合間にアジアの首席代表を訪ね、賠償案への理解を要請して回らなければならなかった。
そうして迎えた最終日の8日。土壇場の根回しも奏功し、全52カ国のうち、ソ連などをのぞく49カ国(日本を含む)が調印し、会議はひとまず成功した。
だが、ハプニングもあった。吉田は受諾演説を英語で書き下ろしていたが、米国側から「母国語でもいい」との意向が示され、急きょ日本語で演説することになった。随行員はあわててチャイナタウンで巻紙と毛筆を買い、手分けして和訳の原稿を書いた。楷書や草書がごちゃまぜになった巻紙を、吉田は下読みするまもなく本番にのぞんだ。
「演説を終わってから、こんな読みづらい原稿ははじめてだったと吉田さんは述懐していた」。議員団として同行した福永健司衆院議員はこう明かしている(吉田茂『回想十年』)。
講和は、敗戦国に対する内容としては極めて寛大だった。冷戦が深まり、50年6月には朝鮮戦争が勃発した。アジアの共産化を恐れる米側陣営は、日本の復興を急ぎたいと考えるようになっていた。
一方で講和交渉には大きな難題もあった。米国は日本が「反共のとりで」となるよう、再軍備を迫ってきていた。「日本はその負担に耐えきれない」。対日講和担当、ダレス特使の強い要求に抵抗した吉田だが、交渉をまとめるため、最後には妥協した。
「将来、五万人の保安隊を発足させる」。吉田はこんな密約をダレスに伝えた。国民には知らせず、極秘裏に将来の再軍備を約束したのだった。
そのころ国内では、ソ連を含めた全面講和を探るべきだとの声が、世論やメディアに強かった。だが、吉田は、米ソが講和条件で合意できるはずがない、と早くから見切っていた。米英などとの「多数(単独)講和」をめざし、その路線がぶれることはなかった。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
日米安保に1人で署名 新たな脅威、進化迫る
講和条約の調印から5時間後。吉田は、サンフランシスコ郊外のプレシディオにある米軍第6軍司令部にいた。その中の集会場で、米軍による日本駐留を引き続き認める日米安全保障条約に署名した。
3年前、筆者が訪れると当時の署名会場は当時のまま。木立に囲まれた丘の上にたたずんでいた。壁には調印式にのぞむ吉田の写真と説明文。見上げると屋根の骨組みがむき出しだ。
この簡素な人目につかない場所が調印に選ばれたことが、当時の日本の空気を物語る。安保条約は、米軍の占領終結を待ち望む日本人の失望を招きかねなかった。吉田は「私が歴史に責任を負う」と、あえて一人だけで署名した。
吉田は不人気でも、日本を守るには米軍に頼るしかないと考えていた。そこで署名の1年半前の50年4月。蔵相の池田勇人を米国に送り、布石を打った。
「(講和後も)米軍を日本に駐留させる必要があるだろうが、米側から申し出にくいなら、日本側からオファするような持ち出し方を研究してもいい」。吉田は池田を通じ、米側にこんな意向を秘密裏に打診していたのである(宮沢喜一『東京―ワシントンの密談』)。
もっとも、51年の条約には、米側に日本防衛の義務はなく、対等からはほど遠かった。首相の岸信介は大統領のアイゼンハワーと交渉し、60年、防衛義務を明確にする条約改定にこぎ着ける。だが、米ソ対立が強まるなか、安保反対デモが激化。10万人以上が国会を包囲する大混乱となり、岸は退陣を強いられた。
60年安保の騒動は日米双方に衝撃を与えた。次に条約が期限を迎える70年には延長できないのではないか。米側にそんな危機感があって、60年代後半に日米初の民間対話である「下田会議」と、日米議員交流プログラムが生まれる。
「70年は本当に大丈夫なのか。60年の改定騒ぎが大きかったので、日本が想像する以上に米国は心配していた」。当時、下院議員として下田会議の旗揚げに参加したラムズフェルドは、ブッシュ政権で2度目の国防長官に就いた際、駐米大使の加藤良三にこう振り返っている。
89年に冷戦は終結し、91年には脅威だったソ連も消えた。それもつかの間、90年代以降は、北朝鮮の核開発や中国の軍備増強、大規模テロといった新たな火種が広がる。日米同盟は再び、進化を迫られている。
(敬称略、肩書は当時)
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
変遷、敵国から仲間へ 米軍基地に旧海軍ドック
かつて戦火を交え、講和後は同盟の道を歩んだ日米。いまある在日米軍基地には、そんな歴史の“遺産”が現存している。米海軍の横須賀基地(神奈川県横須賀市)を訪ねてみた。
正面ゲートから数百メートルほど行くと、艦船を修理するための第1号ドライドックが現れる。実は、このドックは幕末の1867年に着工され、約5年後に完成、今でも使われている。
長さはおよそ130メートル、深さ8メートル、幅27メートル。地面をくりぬき、石材を敷きつめた。海から戻った船を中に入れ、扉を閉めて排水、修理の作業をする。
基地にあるドックは全部で6つ。すべて旧日本海軍がつくったものだ。いちばん新しい第6号の完成は、1940年。大和型戦艦を改造し、当時、世界最大級の空母だった「信濃」も、ここで極秘に建造された。
基地関係者によると、これらドックの一部は現在、自衛隊と共同で使っている。第6号は、空母の修理などにも利用される。
歴史の遺産はほかにもある。敷地内にある在日米海軍司令部と、横須賀基地司令部だ。前者は旧日本海軍の横須賀鎮守府、後者はその会議所だった建物を、そっくり使っている。
横須賀基地司令部の玄関ホールには、旧横須賀鎮守府の歴代司令長官を務めた日本人の写真が、ずらりと飾られている。敵国から仲間へ――。そんな変遷を象徴しているようだった。
編集委員 秋田浩之が担当しました。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
吉田首相大局読めた 「日米同盟は大事」定着
熊本県立大理事長(前防衛大校長) 五百旗頭 真氏
――日本では終戦直後はソ連も含めた全面講和を求める世論も強かったといわれます。なぜ、吉田首相は単独講和に踏み切れたのでしょうか。
「敗戦下の日本では、共産主義者は軍部に抵抗した英雄として迎えられ、大きな影響力を持った。戦前、外交官として鍛えられた吉田には、枝葉にこだわらず、国際関係の大局をみる力があった。当時、世界的大動乱の行方は見えにくかったが、吉田は自由主義と市場経済への信念もあり、『結局、英米秩序で動く』と見抜いた。そんな大局観から、バサッと決断できた」
――吉田首相は日米安保条約も、不人気を覚悟のうえで署名しています。
「冷戦が深まり、ソ連という大グマが日本にのしかかったら、逆立ちしても対抗できない。ならば、もっと強大な米国に、番犬と言って悪いなら『番犬様』になっていただくしかない。吉田はこう判断した。当時の旧安保条約には米国による日本防衛義務すらなく、外務省幹部はざんきに堪えないと嘆いた」
「日本が対米自立性を失う懸念もあったが、吉田は日本さえしっかりしていれば大丈夫だと言った。技術的な問題よりも、米軍がいるという事実が冷戦下の日本の安全にとって大切だ、と信じていた」
――とはいえ年月がたてば、日米安保体制もさすがに金属疲労が広がりかねません。
「同盟条約は10年間続けばいいというのが世界史の通り相場だ。日米同盟が60年以上も続いているのは人類史上、驚くべきことだ。冷戦秩序が長く続いたことが大きい。冷戦終結とともに、日米安保条約はもう要らない、という声が一部から出た。だが90年代の北朝鮮や台湾海峡での危機などを経て、日米同盟は日本にとって大事な資産だという認識は定着したと思う」
――その意味で、いま国会で審議している新しい安全保障関連法案をどう考えますか。
「これからは米国だけでなく、みなの持ち寄りで世界の安全を守るしかない。特にパワーシフトの現場にある日本が、私たちは平和主義だから米国に任せると言ったら、安定は保てない。米国を独りにはしません、日本自身の防衛にかかわる問題ならご一緒します、というのが新しい法制だ。これはあるべき姿だ。米国があちこちで戦争をやるときに全部、お付き合いするわけではない。そこは、そう明な日本の外交判断が必要になる」
[日経新聞7月12日朝刊P.13]
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK188掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。