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【独占インタビュー】瀬戸内寂聴「93歳の私が国会まで行って、伝えたかった思い」 戦争を知る私から、戦争を知らない日本人へ
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44022
2015年07月11日(土) 週刊現代 :現代ビジネス
身体の調子は万全ではなかった。行けば万が一のこともあり得ると思っていた。それでも、いまの状況はおかしいと声をあげずにはいられなかった。寂聴さんが命がけで訴えようとしたこととは。
■独りきりで駆けつけた理由
6月18日午後、梅雨曇りの空の下、国会前で安保法案反対の座り込みをしていた人々が、一斉にどよめいた。作家の瀬戸内寂聴さん(93歳)が車椅子姿で現れ、突然、マイクを握ったからだ。
寂聴さんは昨年5月、背骨を圧迫骨折。さらに胆嚢がんが発見され9月に手術を受けるなどし、今年4月までは活動を休止して療養に努めてきた。
新幹線に乗り上京したのは1年ぶりだった。体調も万全とは言えないなか、座り込みにあたっては、「もうこれで死んでも構わないと思った」と話す。93歳の寂聴さんは国会前で何を伝えたかったのか。その思いを2時間にわたって聞いた。
*
私はまだ、リハビリを続けているんですよ。大小のボールを使ったりして、いろいろな運動をするんです。
そのリハビリの若い女性トレーナーが、「順調に回復していますから、次は歩く練習をしましょう」と言う。家の中では、杖にすがってどうにか歩けるようになっていたけれど、まだ土の上を歩いたことはありませんでした。
その言葉を聞いて、私はトレーナーに、「遠出もできるでしょうか」とふっと訊ねました。
「国会前に行って、座り込みをしたいのだけれど」とつぶやくと、ちょっと思案した様子だったトレーナーが、「いいでしょう。行けることは保証します。その後はどうなるか分からないけれど」と言うんですよ。その瞬間、上京を決めました(笑)。
私は今回、どの団体に属するのでもなく、単独で行動することに決めました。体調が万全でなく、いつ倒れるかわからないし、即入院なんてことにもなりかねない。そんな時、独りで行動するので、すべては自己責任だと心に決めたのです。
93歳にもなると、もういつ死んでもいいとは思うけれども、ただ病院で死んでいくというのはイヤなんです。国会前の座り込みで死ぬなら、少しは人の役に立つし、意味があるかなと思ったわけ。
'60年の安保闘争の時、東大生だった樺美智子さんがデモの最中に亡くなって大問題になりましたが、人が死ぬとマスメディアはこぞって大きく取り上げるでしょう。あの時代の人はいまだに、樺さんの名前を聞いて涙ぐみますよ。それくらい、命がけで訴えた思いというのは、人の心に刻みつけられるんですね。
けれども、もし私が今回、どこかの団体の招きで参加して死んでしまったら、いくら私がそれでいいと思っていても、やっぱり責任問題になるじゃないですか。
だから、たった独りで国会前に行きました。
■「いい戦争」など存在しない
みなさんが座り込みをしている場所に着いてみると、思い思いの旗やプラカードを掲げた様々の団体の群れが集っていました。すべて最近の安倍さんの強引な政治の方向に不満を持った人々です。
私が国会前まで出てきたというので、マスメディアがわあっと集まり、びっくりしました。私は車椅子を降り、立ってマイクを握りました。目の届く限りのデモの群れに向かって、今日参加した心境を語りました。その後、建物の中で記者会見に応じました。驚くほどの人々が集まりました。テレビではその晩のニュースから取り上げられ、翌日の新聞では読売以外、すべての新聞が大きく扱ってくれました。全国からハガキやメールが舞い込みました。その場で死にはしなかったけれども、私のささやかな行動で人々が現在の日本の危機に関心を持ってくれただけでも意義があったと感謝しました。
私があそこまで行って伝えたかったことは、いかなる戦争にも、いい戦争、立派な戦争、人を救う戦争などというものはない、ということです。戦争はすべて悪です。公然の人殺しです。
戦争を始める人たちは何かと理屈をつけて、「どこそこの国が悪い」と言ってみたり、「東洋平和のため」、「国民の幸福のため」などと美辞麗句を並べたりするのです。
けれども、実際に戦争になって起こることといえば、相手を殺さなければ自分が殺される、だから人を殺すという、人殺しの仕合い以外の、何ものでもありません。
ホリエモン(ライブドア元社長の堀江貴文氏)と話していたら、「いや、寂聴さん。いまの世界では、戦争をしてもどの国の利益にもなりません。だから、実際には戦争にならないんですよ」と言うんですね。けれども、私は違うと思う。
夫婦喧嘩でも、別に大した原因はないのに、天気が悪くてむしゃくしゃしたからといって、怒鳴り合いの喧嘩になって、離婚に至ることだってあるんです。ひとたび戦争のできる国になってしまえば、どうなるか。いまのように中国や韓国の国民感情を悪化させていたら、ちょっとしたことで戦争は起きかねません。
それに、安倍さんの安保法案では、自衛隊が米軍など外国の軍隊の後方支援をするという。「いや、後方支援だから大丈夫です、戦争に行くのではないのです」などと安倍さんは言うけれども、何が大丈夫なものですか。それはこちらの都合であって、戦争している相手からすれば、米国と同じ敵軍になるでしょう。日本の自衛隊は別なんだ、などと区別してくれる道理はありませんよ。
私は、安倍さんが首相になったとき、ここまでひどいことになるとは想像もしていませんでした。日本の政治家にしては、背も高いし、体格もいいし、外国の要人と並んでも見劣りしないから、いいんじゃないかとさえ思っていました。
直接、間近に安倍さんの姿を見たのは、'06年11月に私が文化勲章を授与されたときです。
当時は第一次安倍政権下だったので、授章式では天皇陛下の横に安倍さんが立っていて、賞状などを陛下に渡す係をしていました。普通なら、晴れの日なのだから、言葉を発さなくても、にこやかな表情をしているものだと思うのに、真っ青な顔をして、いかにも辛そうに立っていたのを覚えています。
『妙な人だなあ』とその時は思ったけれども、あとになってみれば、もう体調がかなり悪かったのでしょう。結局、第一次政権は体調不良で退陣しましたよね。
ところが、今回の安保法案の審議をテレビの国会中継で見ていたら、まるで別人のように、意気揚々としゃべっている。身体の具合がよくなったのはいいことですが、今度はちょっと心の針が逆に振れ過ぎているんじゃないかと思うわね。
■国会なんてやめたらいい
それにつけても、いまの国会の審議、あれは一体、何ですか。安倍さんは自分が質問されてもいないときにまで出て来て、自説を滔々としゃべる。大臣や官僚は、あらかじめ受け取っている質問に「こう答えよう」と決めてきた文句だけを口にする。野党は野党で、自分の主張を長々としゃべっている。そして議員の多くは居眠りしている。
いまの国会では、会話というものが成立していないのね。相手の話を聞いて、考えたことをまた相手にぶつけるという、当たり前のやり取りがないんです。あんなことなら、国会なんかやめたらいいと思いましたよ。
そういう状態に政治家が慣れきってしまっているから、政権側は国民の声を無視して、平気でいる。野党は野党で、形ばかりで、心に響かない批判しかできないんです。
それにしても、国民の声、民意というものを、これほどまでに無視する政権は、いままでにありませんでした。
たとえば、沖縄のことだって、ひどい扱いでしょう。6月23日に安倍首相が沖縄の追悼式に参加して演説したけれども、沖縄の人からはまったく拍手が起こらなかった。
あそこで首相が言ったことは、要するに、何だかんだ言われても辺野古移設が一番だ、従来通り推し進めるということだけですよ。あれだけ沖縄の人が反対して、知事にも反対派の人が当選をしたけれども、その翁長(雄志)知事と会っても自分の意見を言うだけで、対話が成立しないのね。
自分と違う意見は、無視して聞かない。形の上では聞いていても、実際には会話が成立していない。安保法制についても、国会に呼ばれた参考人である憲法学者3人が違憲だと言い、元内閣法制局長官が二人出てきておかしいと言ったけれども、「いや、そんなことはない」と取り合わない。
国会に呼んだ参考人であり、専門家であることに疑いのない人たちの意見さえ、あっさり「間違っている」などと言うのは、やはり異様です。
私は'91年に湾岸戦争下のイラクに医薬品を届けに行きました。当時、日本でなされていた報道は「多国籍軍によると」というものばかりで、かつての大本営発表の記憶がある私には、『市民の状況はもっと悪いのに、伝えられていないのではないか』と思えてならなかった。それで自分の足で現地に入りました。
案の定、現地では多くの海外メディアがホテルの部屋に缶詰にされていて、多国籍軍の発表を聞いているばかりだった。
一方、攻撃を受けたバグダッドの街を私たちが歩いてみると、一見、美しい街並みは保たれているのだけれども、水道局や発電設備がピンポイントで爆撃されて、街が機能していない。
病院では水もなく、エレベーターも動かず、保育器も稼働しないまま、救える命が失われていった。川岸の貧民街が破壊しつくされて、全身をケガした人が激痛でベッドに寝ることもできず、ハンモックで吊られている。そういうことが見えてきました。
「外国人が何をしているか」と兵士に誰何されて、検問所にもたびたび連れて行かれました。通訳のアラビア語がなかなか通じなくて、私はこのまま殺されるかと思いました。
それで私が、かぶっていた帽子をパッととったら、兵士たちがギョッとしたのね。「一体、お前は男か女か、子供か大人か」と。「私は日本の尼さんだ」と伝えると、兵士は真顔で「日本の仏教は何というひどいことをするのだ。女の髪を剃るなんて。すぐイスラム教に改宗しろ」と言う。
そんな会話をしているうち、次第に相手の態度も人間味を帯びてきて、最後には事なきを得ました。戦地であっても、心で思ったことを素直に伝え合えば、人間は合意したり、妥協したりすることができるのです。私はこのつるつる頭という奥の手も度々使いましたけどね(笑)。
国会前に行ってみて、もう一つよかったと思ったのは、集まった人の中に10代とか20代の、若い人たちの顔が見えたことです。もし日本が戦争できる国になったとしたら、実際に戦地に行くことになるのは、若い人たちです。政治や社会への関心が薄れているとは言っても、それを感じ取って、このままではいけないと動き出した若い人たちがいるんですね。
■言うべきことを言い続ける
いまの状況は、私が東京女子大の学生だった昭和17(1942)年頃とよく似ていますよ。
誰に言われるともなく、贅沢はいけないという雰囲気が広がり始めていた。着物に長い袖があるのは贅沢だからと袖を切るなんてことが行われて、私はアホじゃないかと思ったけれども、一方で進歩的な学者の家の子が、「この戦争は負ける、勝てるはずがないとお父さんが言っていた」などと言うと、『何という非国民だろう』と呆れていた。同年のミッドウェー海戦なんて、本当は大負けしていたのに、大本営発表を信じて、万歳と旗を振って提灯行列に参加したりしていましたからね。
私は結婚して北京に渡ったので直接には見ていませんが、昭和18年9月には、大学生を半年早く卒業させる繰り上げ卒業が行われて、優秀な大学生が鉄砲を持たされ、雨の神宮外苑を行進させられて、学徒出陣の壮行会に駆り出されたんです。彼らの多くは戦地に送られて、生きて帰っては来なかった。骨さえも戻って来ずに、遺族のもとには白木の箱に砂だけが入って帰って来たとか、箱に入れるものもなくて、ミカンの皮が入っていたという家もありました。
でも結局、戦争がこれほど悲惨なものだったということは、あの時代を生きた私でも、戦後になって知ったことが多いんです。戦時中は、政府に都合の悪いことは国民には何も知らされませんでしたから。
いまのマスコミは、あまり政権のやり方を批判してはいけないとか、世間の人たちに反感を持たれてはいけないと忖度しているようですね。けれども、それはとても恐ろしいことだと思います。伝えるべきことは堂々と伝えていかなければ、世の中がおかしくなります。
安倍首相夫人(昭恵さん)も面白い人で、「家庭内野党」などと言って、夫の政策に反対のことを言ったりしているようだけれども、いまこそ亭主によく言って聞かせるときでしょう。仲良く手をつないで政府専用機のタラップに立っている場合ではないですよ。
私は、もう余命の続くかぎり、前の戦争で何があったかを語り、すべての戦争は間違っているということを伝えていきたいと思っています。
「週刊現代」2015年7月11日号より
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