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元財務相藤井裕久(83)ふじい・ひろひさ/1932年、東京生まれ。東大卒、大蔵省入省。佐藤栄作、田中角栄両内閣で官房長官秘書官を務める。77年、参院議員に初当選、90年衆院に。細川、羽田内閣で蔵相、鳩山内閣で財務相などを歴任。2012年に政界引退(撮影/関口達朗)
藤井裕久・元財務相 目の当たりにした東京大空襲の悲惨さ語る〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150702-00000002-sasahi-soci
週刊朝日 2015年7月10日号
今年は戦争終結から70年の節目を迎える。戦争を経験した元財務相の藤井裕久氏(83)は、戦中体験と復興の記憶をこう語る。
* * *
忘れられない記憶があります。昭和19年8月から翌春まで、小学生だった私は東京・小平に学童疎開していました。ある日、米軍のB29が飛来し、日本の戦闘機と激しい撃ち合いになりました。戦闘機は最後にB29に体当たりし、ともに火を噴きながら墜落。
すぐさま友人と墜落現場に向かいました。米軍は食料を大量に持っていると聞いていたので、探すためです。とにかく毎日、空腹でしたから。ビスケットぐらいはあるんじゃないかと、期待しました。
でも現場には、米兵の無残な遺体が横たわっていました。8体ぐらいだったと思います。手や足、胴体がバラバラ。女性の通信士も乗っていたのか、赤いマニキュアの指もありました。惨状を目の当たりにして「戦争には勝者も敗者もない。国民に犠牲が出るんだ」と強く思いました。
疎開先から戻ったのが20年3月10日午前。ちょうど9時間前に、激しい空襲がありました。幸い母親が迎えに来てくれましたが、親が来られなかった友人も多かったです。自宅ちかくの湯島の坂には、たくさんの死体が横たわっていました。火傷を負いながらも何とか逃げ、そこで息絶えた人たち。悲惨な光景でした。
東京にはその後も激しい空襲があり、「今晩いよいよ死ぬんだな」と、防空壕の中でガタガタ震えていました。8月15日に終戦を伝える玉音放送を聞いたときは、「これで夜、眠れる」と正直ホッとしました。
開業医だった父の影響で、大学は医学部に進むことも考えました。「医者は個人を治す。文系は社会を直す」。そんな父の言葉で、弁護士を志しましたが、日本の復興に貢献したい、公の仕事がしたいと思い、最終的には大蔵省に入りました。
初めに関わった大きな仕事は災害対策基本法を作ることでした。首相は岸信介さんで私は内閣事務官。33年に狩野川台風、翌年に伊勢湾台風で、計6千人以上が犠牲に。国民の生命・財産を災害から守るための原案を作りました。
思い出深いのは45年の大阪万博です。当時は主計局主査で、520億円の予算を振り分けていました。「太陽の塔を造りたい。夢のあるものだ。もっと予算をつけてくれ」という岡本太郎さんとも、丁々発止やり合いました。
来場者は当時の万博で最高となる6421万人。東京五輪とならぶ大イベントが成功に終わり、「これで俺たちの国も完全に復興した」と感無量でした。
当時の残業時間は月200〜300時間。もらえる残業代は10時間分。同僚と文句も言いましたが、頑張れたのは欧州に勝ちたかったから。41年にGNP(国民総生産)で英国を、43年には西独も抜きました。官僚に限らず、勤め人、自営業者も、戦後の日本人はよく働きました。
いまの安倍政権で、集団的自衛権行使に向けた憲法解釈の変更が進んでいます。ときの権力者が国民の声も聞かず、勝手に解釈を変えていいはずがありません。歴代の自民党政権は平和を大切にしてきました。首相の祖父の岸さんもそう。「日本国憲法のもとでは行使できない。個別的自衛権で対処する」と国会答弁で明確におっしゃっています。
かつて田中角栄首相がこう言いました。
「戦争を知っている人間が社会の中核である限り、日本は安全だ。しかし、戦争を知らない人間が中核になったときが問題だ」
今まさに田中さんが危惧した時代に突入している。自分も戦争体験者として、声を上げていきたいです。
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