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言論の自由について再論(内田樹の研究室)
http://www.asyura2.com/15/senkyo187/msg/737.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 7 月 01 日 18:25:05: igsppGRN/E9PQ
 

言論の自由について再論
http://blog.tatsuru.com/2015/07/01_1542.php
2015年07月01日 15:42  内田樹の研究室


「言論の自由」について思うことを述べる。

繰り返し書いていることだが、たいせつなことなので、もう一度書く。

言論の自由とは
私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。

その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。

ただそれだけのことである。

だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。

私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。

「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件のどこがそれほど重要なのか。

それはこの条件が「敬語で書かれていること」である。

それは擬制的に「理非の判断を下す方々」を論争の当事者よりも「上に置く」ということである。

「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。私の言うことが正しいので、他人による理非の判断はもとより不要である」と考える人間は「言論の自由」について語る資格がない。

かつてフランスで歴史修正主義をめぐる論争があった。

ロベール・フォーリソンという「自称歴史家」が「アウシュヴィッツにガス室は存在しない。なぜなら、それを証明するナチスの公文書が存在しないからである。ユダヤ人は感染症で死んだのである」という奇怪な論を立てた。

その書物の序文をノーム・チョムスキーが書いた。

チョムスキーは「私はこの著者の論に賛成ではないし、論証も不備であると思う。しかし、どのように人を不快にする主張であろうと、それを公表する権利を私は支持する」と書いた。

私はそれを読みながら、つよい違和感を覚えた。

チョムスキーの言葉は論理的には一見正しそうに見えるが、実践的には無理があると思った。

そこには「誰でも自分の言いたいことを言う権利がある」という原理だけが声高に語られていて、なんのためにそのような権利が保障されているのかについての考察が欠如しているように思えたからである。

「言論の自由」は何のために存在するのか?

それは「理非の判断をお任せできる人々」を出現させるために存在する。

言論の自由さえ確保されていれば、長期的・集団的には必ずや正しく理非の判定が下る。
というのは事実ではない。

「理非の判定を下しうる人たち」は今まだここにはいない。

だからこそ、その出現が懇請されているのである。

そのために「言論の自由」はある。そのため「だけ」にあると言ってもよい。

それは陪審員裁判における陪審員のありように似ている。

陪審員たちは裁判が始まった時点では、まだ理非の判断が下せない状態でいる(裁判長が開廷を宣言したとたんに「はい、被告は有罪」というような陪審員はいない)。

検察官と弁護士がそれぞれの立場から情理を尽くしておのれの推論に理があることを証明しようとするのを陪審員たちは長い時間をかけて黙って聴いている。

そして、その時間を通じて「理非の判断が下せる人」へと自己形成してゆくのである。

ここで検察官と弁護士は「言論の自由」を享受している。

だが、その権利は「理非の判断が下せる人」がより適切に判断を下すことを支援するため「だけ」に賦与されている。

だから、検察官や弁護士には相手に向かって「黙れ」と言う権利がない。

たとえ相手が「間違ったこと」を言っていると思っても、「黙れ」と言うことは許されない。

それは相手の「言う権利」を損なうからではなく、陪審員の「聞く権利」を損なうことによって「理非の判断が下せる人になるプロセス」を阻害するからである。

判定者がより適切に判定できる機会を奪うからこそ、「黙れ」は許されないのである。

「黙れ」と言った法曹はただちに法廷侮辱罪でその場から放逐される。

彼が放逐されるのは、「間違ったこと」を主張したからではない(この処分は発言内容の正否とは関係がない)。

そうではなくて、彼は陪審員たちの「適切な判断を下す能力」を信じなかったがゆえに追放されるのである。

自分が実力で黙らせなければ、「愚かな陪審員たちは、こいつの舌先三寸に騙されて『間違った判決』を下すかもしれない」と思う人間だけが、論敵に「黙れ」と言う。

自分が陪審員に代わって正義の判断を下してやらなければ、陪審員たちは間違った判決を下すだろうと思う人間だけが「黙れ」と言う。

彼に欠けているのは「正義」ではない。

「真実」でもない。

「場の判定力」に対する「敬意」である。

「場の判定力」に対する信認を誓言できないものは、自由な言論の場に立つことが許されない。

だから、言論の自由を求める人間は必ず「場への敬意」を表さなければならない。

必ず。

それは野球のプレーボールのときにピッチャーがアンパイヤの投じるボールに帽子をとって一礼するのと同じである。

あれは別にアンパイヤに「ストライクゾーン甘くとってくださいね」とごまを摺っているわけではない。

ボールに対して礼をしているのである。

「野球の神さま、いまからこのグラウンドで私たちはプレーをします。私たちが最高のパフォーマンスを発揮できますように知恵と力をお授けください」と祈っているのである。

それと同じである。

陪審員の判定力を信じない人間は法廷に立つことができない。

それと同じように、「理非の判断をくだす方々」への敬意を欠いた人間は「言論の自由」の名において語ることが許されない。

「永遠の真理の名において」語ることや「神の摂理の名において」語ることや「歴史を貫く鉄の法則性の名において」語ることはできる。

どのような権威を呼び出そうと、それはその人の自由である。

けれども、「言論の自由」の名において語ることだけは許されない。

自分がたったいま冒瀆し、遺棄した原理の名において語ることは、その原理を信認している人間全員に対する侮辱だからである。

今問題になっているのは、「国民は長期的・集合的には必ずや適切な判断を下すだろう」という「国民の叡智」に対する信認の存否である。

いくつかの新聞を挙げて「つぶれた方がいい」と言った人間はその新聞の読者たちに向かって「おまえたちは新聞に騙されているから、間違った判断を下すだろう」と言っているのである。

「私が代わりに判断してやるから、お前たちは私が『読んでもよい』というものだけ読んでいればいい」と言っているのである。

ここに「理非の判定を下す人々」への敬意を見出すことはむずかしい。

「理非の判断を下す人々」の判定力を信じない人、「自由な言論が行き交う場がなくてはすまされない」とは考えない人たちがいる。

それはしかたがない。

けれども、彼らが「言論の自由」を汚す権利を「言論の自由」の名において要求することを私は許さない。


 

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コメント
 
1. 2015年7月01日 18:56:02 : YxpFguEt7k
「それはこの条件が「敬語で書かれていること」である。」

??? だったら、この文章自体が敬語で書かれているのでしょうか?
「敬語」の意味がとらえにくいですね。せめて「です・ます」調にしたらどうでしょうか?


2. 2015年7月01日 19:11:52 : vmppCqgWlM
「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。私の言うことが正しいので、他人による理非の判断はもとより不要である」と考える人間は「言論の自由」について語る資格がない。


これはまったく正しい。
しかし阿修羅のコメンターのみなさんは耳が痛いのでは?

それと、う〜ん。なにやら高尚な認識に達している発言のように見受けるのですが、しかし、もうひとつピンとこないですね。「他人による理非の判断」というのが、正直、必ずしも正しくないような気がするからです。

たとえば小泉郵政改革で侃々諤々の論争があった。そしてその論争は90%以上の国民がバラ色の未来を描く郵政改革を支持するという「判断」でもって終結した。(郵政改革は利用者には不便をもたらしただけでバラ色の未来なんかなかった)
こんな茶番をずっと見ていると、どうも「他人による理非の判断」が内田せんせいのいうように至高のものとはとてもおもえないんですねえ。

内田せんせいは現実の世界に「理非の判断をする」他人がいると信じているようですが「理非の判断ができる」他人なんて存在しているのでしょうかねえ。



3. 2015年7月01日 19:31:38 : YxpFguEt7k
「理非の判定を下す人々」がコメントです。

4. 2015年7月01日 19:35:16 : leSwsH6EVs
なにやらこ難しい事をを言ってるが
言論の自由なんて言うから講釈たれたくなるんだよ。

言いたいことが言えるだから相手も言いたいことが言える
これに尽きる。ただ言っていい事のTPOをはずすと
当然周囲から批判される。これは言論の自由云々の
話ではない。

例えば結婚式で別れの朝を歌ったり新郎新婦の過去をばらすのも
自由といえば自由ご勝手にどうぞ。
ただその結果は本人が負うことになる。ただそれだけ。



5. 2015年7月01日 20:08:37 : vmppCqgWlM
3. 2015年7月01日 19:31:38 : YxpFguEt7k
「理非の判定を下す人々」がコメントです。


しかしそのコメントを管理人さんは己の恣意でどんどん削除しているじゃないですか。そういうものでしょ、現実は。
内田せんせいの論はご自分もできない机上の綺麗事であって、じっさいには「理非の判断を下す人々」を内田せんせいだってすこしも尊重していないことを彼の人のブログでもみてきましたがね。


6. 2015年7月01日 21:21:35 : G9pRncd5P6
内田先生の言うことはわりと納得できるのだが、この件はいまいちすっきりしない。

「理非の判断をできる人の出現を懇請する」と言っても、いつもそんな人たちが出現するかどうかはわからないわけで。
どんなに可能性が低くても「出現してほしい」という希望さえ持っていればいいのか?
つまり意見を言う人の「態度の問題」で、その人の「言論の内容」が同じでもそれによって、言う自由があったりなかったり…というのも変な話のような気がするし。

たぶん、「言論の自由とは誰のための権利なのか?」と言うことがはっきりしていないからじゃ?

ここで内田先生が言っているのは「言う人の権利」ではなく、「聞く人の権利」ということみたいで、それならそれで話はわかるんだが、
では、誰も聞いてくれない場合に「言う人の権利はない」と言うのもおかしいような気がするんだよね。

今回だけはどうもストレートに納得できない。


7. 2015年7月01日 21:25:45 : G9pRncd5P6
ただ、「言論の自由を否定する意見」は、言論でとことん批判されて当然だと思おうけど、それだけじゃダメなのかな?

8. 2015年7月01日 21:30:34 : h4XfUtgam2

「言論の自由とは
私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。
その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。
ただそれだけのことである。」


新聞をつぶせ、と言っている人は、聴衆に敬意を払わない。反対意見は聞くな、とか反対意見を言うやつは悪だからつぶせ、と言いつつ自分は言いたい放題だとしたら言論の自由などないだろう。


9. 2015年7月01日 22:01:07 : 6NC7VxWvE2
言論の自由の主体を、発言者やその発言内容だけでなく、「理非の判断を下す人々」という外部にも分散させた時点で論理的にアウトだろうな。

内田の論が正しいとすると、事実上、正しい言論とは、その正しさが先験的にわかっているものだけになってしまう。

というのも、「理非の判断を下す人々」なんてのは口で簡単に想定し得ても、その人々とは具体的に誰を指すのか、その人々が何に基づいてどのような方法を用いて理非について集合的な判断を下すのか、具体的にそれらの事柄を知る手段を誰一人として持ち合わせていないからだ。

結局、内田が説いている言論の自由の内容とは、好意的に解釈しても、各自が「正しい」と思ったことを発言する以外ないという誰でも知っているありふれた結論に至らざるを得ない。

内田が付け加えた

> その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。

という要件は、話を面倒にしているだけで、何の役にもたっていないわけだ。

というよりむしろ(ここからが本題なのだが)、このような余計な条件を加えることによって、言論の自由どころか、「みなさんの判断」とやらによって個人の精神の自由までも奪いかねない。

「理非の判断を下す人々」がなにをどのように判断するか客観的かつ予見的に知り得ない以上、言論の自由を内田の言う「持続可能な社会規範」として守ろうとする「正しい」人は、「こんなこと言ってもいいのだろうか?」と、その「是非の判断を下す人々」という得体の知れぬ者どもとその考えを気にかけざるを得なくなる。これは、もう、そのようなことを気に病み始めた時点で精神の自由は奪われているわけだ。

こういった作用を、あの自民党のウスらバカどもら(を利用してる連中)は狙っているのではないかね。内田の話は、そのような連中に悪用されかねないくらい迂闊で粗雑な議論だと思う。


10. 2015年7月01日 23:43:39 : d1INYqu1to

ある法律の適用対象にその法律自体を含めると矛盾が発生することがある、ということだろう。

「ラッセルのパラドックス」みたいなものだと思うが。


11. 2015年7月02日 01:09:47 : x2aEw7RuXI
言論の自由とは、歴史的に多くの人々が国王、領主、宗教指導者にすべての発言権、決定権を握られていた社会に対して立ち上がりすべての人間が法の下に平等であること。それぞれの人間が個人として譲り渡すことができない権利をもち、その思想、信条、発言で罪に問われないという原則を勝ち取ったことにより実現したものである。

人が他の人間の言動を決して制約できないし自分自身も発言できるその原則のことをいっている。単に寝言のような説明で保障されている者ではないのだ。国民が権力者に対して断固としてこの権利を守る覚悟なくしては実現も持続もできないものだ。

今の自民党をみればその権利、決意をはっきり示すべきときなのだ。屁のような講釈で説明できる問題ではない。放っておけば権力者はその権利を奪いたがるものなのだ。


12. 北の零年 2015年7月02日 05:30:49 : pi7eKAjFENWsU : IS8T2QVA9A
傾聴に値する論である。パラドックスも含むも確か。
尊敬はしかし難しいとは内田氏の論を読む度に抱く感想。
クソ学者!と屡々呟き思考し続け…テレビの予約を思い出す。
何れ後日…の日々過ぎ行く。


13. 2015年7月03日 08:16:05 : JbLdBNus8Q
かんたんなことをどうしてこうもわかりにくく言うのかな?
おそらく本人も理解していないのだろうけど要するに、

 言論の自由があるということは批判される義務があるということです。

こういえばいいのじゃないかな。


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