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この生あるは 一中国残留孤児がつづる 単行本 – 2015
中島幼八 (著)
七人の親をもつ著者は、終戦後、中国の養父母に育てられた。これはその13年間の感動的な記録である。「幸か不幸か、幼少のころより、尋常ならざる歴史に巻き込まれた」に始まる波乱万丈な物語。 --誰にも故郷があるといわれる。あの戦争で異国に残された私ら孤児にとっては、皮肉にも、日本は祖国であっても故郷ではなかった。私たちを育んでくれた故郷は、かの広大な中国である。 戦後という時間は七十年を迎えている。気づいてみれば、自分は古希の齢を過ぎ、よくもここまで生きてこられたと痛感する。 この世に生を受けたのは、ちょうど太平洋戦争の真っ最中だった。その後、時代の嵐に翻弄されて、物心がまだつかない頃に、死の淵に追い込まれながらも、生き残ることができた。いま振りかえると奇跡に思えてならない。病み細った幼い命が蘇ることができたのは、ほかでもなく中国人の養母に拾われたお陰であった。 養母はごく普通の女性で、自分たちも衣食に困る毎日なのに、瀕死の私という敵国日本の子どもを毅然と受け入れて、「ウォラーチェ!(私が育てます)」と言い切った。この瀬戸ぎわにおける養母の言葉は、生死の分かれ目におかれた私を救う崇高な愛が込められていた---
登録情報
単行本
出版社: 幼学堂; 初版 (2015)
ISBN-10: 4990832302
ISBN-13: 978-4990832308
発売日: 2015
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この生あるは
宋 文洲
タクシーに乗って行き先を告げると「お客さんは中国の方ですか?」と聞かれ
ました。「はい。」と答えると「私は中国生れです。1956年に日本に帰って
きました。両親に絶対中国人と仲良くしないとダメだと言われ続けました。」
と言うのです。
日本の敗戦は1945年でした。中国は「日本国民も同じ戦争の被害者」という
考えの下でその後の数年間で日本の軍人と民間人を船に乗せて送還したはずです。
孤児達は地元の人達が育てましたが、両親のいる家族がその後10年以上、奥地の
西安で暮らしたとは理解できないです。その好奇心に掻き立てられ、彼の話を
聞くことになりました。
「奥地に逃げたので帰国できるとは知りませんでした。両親は山形県から満州に
渡った開拓民でした。敗戦後、軍人と役人が先に逃げたので、開拓民達は各自の
判断で逃げ道を決めました。山形県の開拓団は満州から西の方に逃げることに
しましたが、赤ん坊の姉が泣くということで団長に殺されました。私は西安に
着いて暫くたってから生れました。」(ドライバー)
「悲しい話ですね。殺さず地元の百姓に託せばいいじゃないですか。」(宋)
「団体行動なので皆が赤ん坊を団長に預けました。おっしゃるようなことは
後になって思い付くものです。それは母の一生の悔いでした・・・。
奥地に居たので帰国できるとは知らずに10年近く西安で暮らしていました。
日本に帰ってきてだいぶ年数がたったある日、居間にいくと母が激しく泣いて
いました。テレビで残留孤児の帰国ニュースをやっていました。母が姉のことを
思い出したのでしょう・」(ドライバー)
「・・・・・・。」(宋)
この会話は数カ月前の話です。今日になって読者の皆さまに紹介する気に
なったのはある本を読んだからです。それが今回「宋メール」のタイトルの
「この生はあるは」です。
著者の中島幼八さんは上述のドライバーと似た経験しています。2歳の時に
家族と満州に渡り、敗戦後に生まれた妹さんを飢餓で亡くしました。違うのは
ご両親が万策尽きた時息子を生かすために断腸の思いで地元の中国人に預けて
帰国したことです。
ぎりぎりの生活する貧しい養父母達が13年間にわたり彼を育て上げ、最後に
日本の実母のもとへと送り返しました。
悲しい出来事でありながら、この本の内容はユーモアに溢れ、暗くありません。
中島幼八さんの養母はたくましく知恵に溢れる女性でした。
若い独身の養母は中島さんをもらってから結婚しました。最初の養父は
貧しい農民でした。自分の子供として大切にしてくれましたが、中島さんが
8歳の時に病気で亡くなりました。養母は中島さんを連れて二番目の養父と
結婚しました。中島さんは12歳の時に重い病気にかかって養父が彼を牛車に
乗せていろいろな漢方医を訪ねて歩きました。
中島さんの三番目の養父は港の日雇い労働者でした。僅かの稼ぎの中から
学費を捻出し、彼を学校に通わせました。
1958年、中島さんが16歳の時、最後の日本人送還船に乗って日本に帰国しました。
上述のドライバーさんのお母さんがテレビでみた帰国の日本人残留孤児達は
日中国交回復後の話であり、敗戦後30年以上も経ちました。中島さんは
敗戦13年後に送還船に乗って帰国できた珍しい残留孤児でした。
中島さんの家の壁に中国農村の画がかかっています。
「それは私が住んでいた黒竜江省安寧県です。日本は私の祖国ですが、
中国は私の故郷です。」と中島さん。
P.S.
中島幼八さんの「この生あるは」は数年前に既に完成しましたが、
出版してくれる出版社がなかなかないため、自費出版しました。
販売チャネルがないので中島さんは近所の本屋に営業に行きました。
本の内容に感動した本屋のオーナーが協力してくれて一気に売れました。
本屋のオーナー曰く「私が売ったのは本ではなく感動です。」
その後、この本にマスコミも注目し始めました。6月10日の朝日新聞も
取り上げました。この本を読みたい方はどうぞ↓
http://r31.smp.ne.jp/u/No/1094444/iBfXCDgbeqiD_42725/150626001.html
来月、この本は中国でも出版される予定です。翻訳ではなく、
中島さんがもう一度中国語で書きあげたのです。
今回の論長論短へのご意見はこちらへ↓
http://r31.smp.ne.jp/u/No/1094444/3c4-e4gbeqiD_42725/150626002.html
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また、次回以降の宋メールでご意見を掲載させていただく可能性がありますので
ご了承お願い致します。
宋のTwitterはこちら↓
http://r31.smp.ne.jp/u/No/1094444/HBiSkkgbeqiD_42725/150626003.html
今までの論長論短はこちら↓
http://r31.smp.ne.jp/u/No/1094444/bBeKHkgbeqiD_42725/150626004.html
- 日中、不測の軍事衝突回避へ連絡体制 来月にも合意=関係者 rei 2015/6/26 11:44:05
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