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日本の“リベラル”は、世界標準の“リベラリズム”とは別モノだった
[橘玲の日々刻々]
『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムを嫌いにならないでください』(毎日新聞)の著者、井上達夫氏(東京大学大学院法学政治学研究科教授)は、日本法哲学会理事長も務めた法哲学(正義論)の第一人者だ。井上氏の立場はリベラリズムだが、これは「リベラル」とはちがう。本書の帯に「偽善と欺瞞とエリート主義の「リベラル」はどうぞ嫌いになってください!」とあるように、ここでは正統な(世界標準の)リベラリズムの立場から、日本の特殊な(土着的な)「リベラル」がきびしく批判されている。
世界標準の「リベラリズム」とは何か?
リベラリズムは近代主義の思想で、その歴史的起源は「啓蒙」と「寛容」にある。
啓蒙は、理性によって因習や迷信を打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動。寛容は、宗教改革で始まったカトリックとピューリタンの血なまぐさい戦争を終わらせるための共存の技術。これを両輪として、リベラリズムは「正義の思想」を成熟させてきた。
だがいまや、リベラリズムは啓蒙を捨て、寛容だけを強調するようになったと井上氏は嘆く。
啓蒙は理性の独断化、絶対化によって、スターリンによる強制収容所国家や、3000万人が餓死したとされる毛沢東の大躍進運動・文化大革命を招いた。その歴史を真摯に受け止めれば、立憲民主主義の伝統のない国や社会にリベラリズムを無理矢理押しつけても、かえって圧政と混乱を招くだけだ。
民主選挙によるお墨付きから独裁が生まれるアフリカの「民主主義国家」や、アメリカがリベラルデモクラシーの理想を持ち込んだイラクの惨状を見れば、この事実は否定できない。だとすれば、リベラルな政治体制とは異なる伝統や文化を持つ社会に対しても、それが許容範囲を超えなければ(政治犯を片っ端から処刑していくようなことをしなければ)、互いの違いを認めて共存していくしかない、というのだ。
だがこの「寛容」が、内政不干渉を絶対化して、世界のあちこちで起きている悲劇の原因になっていることも確かだ。
ソ連の崩壊とともに多民族国家ユーゴスラヴィアが解体しはじめたとき、ヨーロッパの国々はそれを(ユーゴという)主権国家の内政問題と見なし、介入を手控えた。その結果、セルビア人、クロアチア人、ボスニア人による凄惨なジェノサイド(民族浄化)が起きたのだ。――これについては以前書いたが、彼らはそもそも「異なる民族」ですらなかった。同じ言葉を話し、同じ文化を持つひとたちが、宗教のちがいを利用して人工的に「民族」をつくりだし、「俺たち」のナショナリズムによって「奴ら」を皆殺しにしはじめたのだ。
[参考記事]
●W杯、ボスニア代表の背景にある凄惨な”民族紛争”の歴史
啓蒙を捨てて寛容のみを称揚するリベラリズムは口当たりがいいが、それは欺瞞だと井上氏はいう。なぜなら、正義には絶対的な基準があるからだ。
この正義の基準(正義概念の規範的実質)は、「反転可能性」「ただ乗りの禁止」「二重基準の禁止」だ。
反転可能性というのは、自分が受け入れられないことを相手に課してはならないというルール。自分と相手の立場を反転させて、それでも許容できることだけを相手に要求できるのだ。
「ただ乗り(フリーライド)の禁止」は、コストを払わずに利益だけを得るのは不正だということ。「二重基準の禁止」は、ダブルスタンダードを使ったご都合主義を許さないことだ。
従軍慰安婦問題や福島原発事故の誤報で批判されている朝日新聞は、この「二重基準の禁止」に抵触する。「リベラルが、言っていることとやっていることが違うという、ダブルスタンダードを見せたら、リベラルの主張そのものが自壊してしまう」のだ。
リベラリズムの視点で各種の問題を判断する
「世界標準」のリベラリズムの視点から、現在のさまざまな政治問題(正義に関する問題)はどのように判断できるのだろうか。まずは従軍慰安婦問題。
井上氏は、歴史的事実として、日本軍が慰安婦施設の管理にかかわったことは否定できないとしたうえで、「アジア女性基金」を設立して1人200万円の償い金を支払うとともに、総理大臣(小泉純一郎)による「お詫びの手紙」をつけたことを指摘する。この手紙には、
「私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。」
と書かれている。
このモデルになったのは、レーガン大統領が1988年に、第二次世界大戦中に強制収容した日系アメリカ人に対して行なった謝罪だ。このときは、生存者に対して1人2万ドルの補償金が支払われている。
この両者を比較して、井上氏は次のように述べる。
「決定的な違いは、アメリカは自国民に対して謝罪したのに対し、アジア女性基金の場合は、他国民に謝罪したことです。
アメリカは、自分が侵略した他国に対し、謝罪なんかしませんよ。それどころか、ベトナム戦争後、統一ベトナムに対し、南ベトナム政府に貸したカネを返せなんて要求しているくらいですからね。米国下院が慰安婦問題について日本非難決議をあげたときには、「厚顔無恥」とはこのことかと思いました。
そんなアメリカに比べればもちろん、国際的に見ても、アジア女性基金のように、法的責任について争いがあり、決着できないときに道義的責任としてではあれ、戦争責任の問題にここまで踏み込んで、他国民に賠償・謝罪した例はないはずです。日本としては、それを誇るべきなんですね。
ところが、韓国や日本の支援団体や人権団体の一部が、アジア女性基金を「政府の法的責任を隠蔽するための欺罔的手段だ」なんてめちゃくちゃ批判した。彼らも「リベラル派」と呼ばれるかもしれないけれど、こういう人たちがいるから「リベラル嫌い」がふえても仕方ないと私は思います。
リベラルといえば、何が何でも自己否定の土下座外交、というイメージを生んでしまったのは、そういう運動です。それに対して「自虐的だ」という反発が起きても無理はないと思います」
これに続けて井上氏は、「ドイツは、自分たちの戦争責任の追及を、日本によりもずっと立派に行なった」というのは「神話」だと述べる。
そもそもドイツでは、戦争責任の主体はナチで、国民は「ナチの犠牲者」だとされている。おまけに責任の対象は侵略戦争の相手ではなく、ユダヤ人に対する強制収容と集団虐殺に限定されている。ホロコースの犠牲者の大半はドイツ国民(ドイツ系ユダヤ人)だ。
1970年に(当時の)西ドイツ首相ブラントがポーランドのユダヤ人ゲットーの慰霊碑に跪いたが、ポーランド人がドイツ支配に対して蜂起した慰霊碑は訪れていない。ワイツゼッカー大統領の有名な演説も、「ドイツ人もナチの被害者だと言っているし、しかも、ドイツ人自身が戦争で受けた被害や、敗戦後占領地から帰国する途中で多くのドイツ人が殺されたとか、そういったことも強調している」点で、リベラリズムの立場からは戦争責任のとりかたとして限界がある(ドイツ人の「反省」もその程度)。
「いずれにせよ、日本が、ドイツにくらべて、戦争責任の追及をしっかりやっていないと言われるのは、おかしいですよ。おかしいんだけど、そういうイメージが国際的にもつくられてしまった。日本のリベラル派でもそう思っている人が多い。それはあまりにもひどい自己否定ですね。そういうことが逆に、自虐史観批判とかいう名前の、過度の自己肯定を招いてしまっているんではないか」と井上氏はいう。
憲法9条の判断は?
次は、日本国憲法9条について。
井上氏は、「戦争の正義」についての考え方に、(1)積極的正戦論(自分の信じる宗教や道徳のために武力を使って構わない)、(2)無差別戦争観(国益追求の手段として、外交の延長として戦争を行なってもいい)、(3)絶対平和主義(侵略や専制は不正だが、抵抗の手段はデモ、ゼネストなど非暴力的抵抗でなくてはならない――暴力に対して暴力で闘うのは侵略者・専制的支配者と同じ不正を犯すことだ)、(4)消極的正戦論(自衛のために不可欠である場合にのみ戦争に訴える)の4つがあるとする。
憲法第9条2項には、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。
憲法学者のなかには、「専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は9条に違反しない」と主張するひとたち(長谷部恭男氏など)もいるが、井上氏はこれを「修正主義的護憲派」と呼んで否定する。なぜなら9条解釈としては、文理の制約上、絶対平和主義を唱えているとしか解釈しようがないからだ。
9条2項については、「前項の目的(国際紛争を解決する手段としての戦争放棄)を達するため」が挿入されたことで自衛戦力を合憲にできるという解釈もあるが、これは「およそ通常の日本語感覚では理解不能」だ。さらに、こうした「密教的解釈」を許すことは「秘密法の禁止」という法の大原則に反する。
そもそも1946年の帝国議会憲法改正委員会で、共産党の野坂参三が「自衛のための戦力まで放棄するのはおかしい」と述べたのに対し、吉田茂首相は「これは自衛のための戦力も放棄したという趣旨だ」とはっきり答弁している。ところがその後、アメリカの占領政策の変更で自衛隊を創設することになり、「自衛隊は軍隊ではない」との詭弁を弄さなくてはならなくなった。日米安保条約を締結するに至っては、仮に自衛隊が戦力未満だとしても、日本に駐留するアメリカの軍事力が「戦力でない」などとはとうていいえない。
「これは解釈改憲以外のなにものでもない」と指摘したうえで、井上氏は次のようにいう。
「私がまず修正主義的護憲派に言いたいのは、自分たち自身が解釈改憲をやっているのだから、安倍政権の解釈改憲を批判する資格はない、ということ。安全保障に関する自分たちの政治的選好を解釈改憲で実現・維持しようと自分たちがしていながら、安倍政権が、自分たちと違う政治的選好を解釈改憲という同じ手段で実現しようとするのはけしからん、というのは通らない」
だったら、原理主義的護憲派が正しいのだろうか。しかしこちらは、さらにひどい。
「9条を守れ」というのなら、その解釈は非武装中立なのだから、自衛隊と安保を廃棄せよと主張しなければならない。だが彼らは、「専守防衛の範囲なら」といって、自衛隊と安保が提供する防衛的利益を享受している。そのうえで、政治的カードとして、安倍政権を「違憲だ、違憲だ」と批判している。
「利益を享受しながら、(自衛隊と安保を)認知せずその正当性を認めない。私に言わせれば、これは右とか左とかに関係なく、許されない欺瞞です」
それでは、憲法9条をどうすればいいのだろうか。井上氏は端的に「削除すべきだ」という。なぜなら、安全保障の問題は、一時の政権が憲法改正によって将来世代に永続的に押しつけるのではなく、通常の政策として、民主的プロセスのなかで議論されるべきだからだ。
「何が正しい政策か、というのは、民主的な討議の場で争われるべき問題です。自分の考える正しい政策を、憲法にまぎれ込ませて、民主的討議で容易に変えられないようにするのは、アンフェアだ」
ただし、9条の削除にあたっては徴兵制の導入が条件になる。徴兵制は、「軍事力をもつことを選択した民主国家の国民の責任」で、「富裕層だろうが、政治家の家族だろうが、徴兵逃れは絶対に許さない」と徹底すれば、自分たちの軍事力を無責任に濫用することができなくなるからだ。
「民主主義といっても、遠い他国に志願兵が送られて戦闘している自国の戦争を、遠くでながめている限りでは、人々はなかなか真剣には考えない。やはり、下手な戦争をすると、自分や、自分の子供たちが本当に命を落とす、あるいは人を殺さなければならない立場になる、ということが切実に感じられて、初めてその戦争はやるに値するのか、真剣に考えるようになる」のだ。
天皇を奴隷化している?
最後に、天皇制に対する井上氏の主張も紹介しておこう。
天皇制を「民主主義に反する」として批判するひとがいるが、天皇を国民統合の象徴とする「象徴天皇制」は民主主義とは必ずしも矛盾しない。天皇制が国民を支配しているのではなく、国民が天皇・皇族を自己のアイデンティティのために使っているからだ。
だが問題は、天皇・皇族に職業選択の自由がなく、政治的言動を禁じられ、表現の自由もないことだ。これは、主権者である国民が天皇・皇族を奴隷化しているという意味で、「最後に残された奴隷制」以外のなにものでもない。天皇制は反民主的だからではなく、民主的奴隷制だからこそ廃止しなければならないのだ。
これまで「右」の勢力が皇室の権威を利用してきたが、最近になって「左」の側が、リベラルな皇族の発言を使って安倍政権を牽制するようになった。井上氏は、この傾向を危険な依存だという。リベラルな価値の擁護は、皇族に任せるのではなく、自分たちでやるべきなのだ。
「天皇制の問題は国民のアイデンティティを確保するために天皇・皇族から人権を剥奪して記号的存在にすること、皇室を「最後の奴隷」にすることにあると言いました。人権尊重を掲げるリベラル派が、自分たちの政治目的を実現する手段として、この最後の奴隷制を利用するというのは、思想的な自殺です。今の日本のリベラルが、そのことをわからなくなっているとしたら、これは末期症状ですね」
日本の”リベラル”は「異形の思想」
日本の“リベラル”は世界基準で見れば「異形の思想」で、従軍慰安婦問題や憲法改正の議論を通じてその矛盾が明らかになってきた。その一方で、まっとうなリベラリズムの学者が、メディアに頻繁に登場するごく一部を除き、現実的な問題に沈黙を守っていることがずっと不満だった。厳密な法の解釈も大切かもしれないが、法哲学が正義の根拠を明らかにする学問であるのならば、正義をめぐって社会が分裂しているときに「学問的に正しい」解釈を示すのは、学者としての責任だと思うからだ。
その意味で今回、井上氏のような法哲学の大家が、編集者との対話というわかりやすい形式で、戦争責任から天皇制までアクチュアルな問題を縦横に論じたのは画期的だ。似非リベラルのきれいごとに辟易しているひとたちも、こうした“まっとうなリベラリズム”であれば、真剣な議論に値すると思うはずだ。
なお、ここで紹介したのは本書の第一部「リベラルの危機」で語られたことで、第二部「正義の行方」では小林氏自身の学者としての歩みを振り返りつつ、「法哲学では正義をどのように考えるのか」が平易に解説されている。これを読めば、一見暴論とも思える井上氏の主張に確固とした学問的支柱があることがわかるはずだ。
あとがきで井上氏は、「本書は、私にとって冒険である」と率直に書いている。法哲学の学者として、「少なからざるためらいが、さらには恥じらいもあった」とも。しかしこの冒険は、今後、日本の閉塞した「正義をめぐる議論」に大きな風穴を開けるにちがいない。
AKB48時代の前田敦子の名言をもじったタイトルも俊逸。似非リベラルとネトウヨの、“論争という名の馴れ合い”にうんざりしているひとたちに本書を強く勧めたい。
P.S.編集者様 次は、井上達夫氏と同じく日本を代表する法哲学者で、リバタリアンでもある森村進氏で、『ネオリベのことは嫌いでも、リバタリアニズムを嫌いにならないでください』の企画をぜひ!
あと、本書P159「マハティールのインドネシア」とあるのは「マレーシア」です。
<橘 玲(たちばな あきら)>
作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、政治体制、経済、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ最新刊 『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。
●DPM(ダイヤモンド・プレミアム・メールマガジン)にて
橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を配信中!(20日間無料体験中) 。毎週木曜日17時配信。
http://diamond.jp/articles/-/73877
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