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米戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印に随行した宮崎周一中将が 親族に残した言葉、「たった一人になっても戦争には反対しなさい」 -- 中日新聞 --
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2015.06.23 リュウマの独り言
宮崎周一中将(少将時代)
太平洋戦争の終結を受け、一九四五(昭和二十)年九月二日、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号上で行われた降伏文書調印式。大本営陸軍部の最後の作戦部長としてこの場に随行した宮崎周一中将=長野県飯山市出身=が、その一週間ほど前に同県内の親族を訪ね、「たった一人になっても戦争には反対しなさい」という言葉を残していたことが分かった。宮崎中将のいとこの娘にあたる同県飯田市の西村節さん(77)が、中将の回想記を保管していることを明かすとともに、当時の様子を初めて語った。
回想記には「終戦直後信州帰郷」と記されていた。西村さんはこれまで当時のことを親族以外には語らずにきた。多くの犠牲を出した戦争で、作戦指導の中枢にいた宮崎中将とのかかわりが知られれば、迫害されるかもしれないと恐れたからだ。しかし、戦後七十年がたち、ようやく「おじさんの言葉を残したい」と思えるようになった。
「よおく覚えておきなさい」。同県下條村にあった宮崎中将の叔母の家。当時七歳だった西村さんに、中将はそう話しかけた。
ポツダム宣言受諾を知らされた八月十五日から一週間余りたった日の夕方。玄関先にいた西村さんの目に宮崎中将の姿が飛び込んできた。薄茶色のジャケット姿。持ち物は何もない。
その晩、西村家の家族八人といろりを囲んだ宮崎中将は静かに語りだした。「戦争とは大河の濁流のようなものだ。さおを一本、二本さしても止めることはできない」。西村さんは「戦争を止めたかったんだと思う。でも、一人二人じゃどうしようもなかったんだろう」と振り返る。
さらに言葉は続いた。「これからは真っすぐを見て、生きなさい。誤りに気づいたら、その場で直しなさい。戦争がまた起きそうなことがあったら、自分一人になっても反対しなさい」 別れの杯も交わした。「おじさんは調印式後に自決しようと考えていたんじゃないかな」と幼心に思えた。
「私に関するものはすべて燃やせ」。宮崎中将はそう言って、翌日には家を出た。西村さんは叔母と一緒に、アルバムから大好きなおじさんが写った写真を剥がし、手紙と一緒に燃やした。今は五枚ほどの写真だけが手元に残る。
調印式後、宮崎中将は武装解除や日本兵らの復員業務に従事。その後は時折、講演などはしたが、定職には就かなかった。親族の別の女性は「多くの部下を亡くしたからだろう。『私の人生は戦争と一緒に終わった』と言っていた」と話す。
戦後七十年の今、国会では安全保障関連法案の審議が続く。特定秘密保護法制定など、この数年のめまぐるしい変化は、西村さんの目には「濁流が起こる兆候なんじゃないか」と映る。もし、おじさんが生きていたらなんて言うだろう…。幼い自分に何度も言い聞かせてくれた言葉が頭に浮かぶ。「よおく考えなさい」 (引用終り)
こういう話が出るとき、 その『戦争』が 「正義あったか否か」は 語られていない。 『正義の戦争』などはないのであって、 戦争はすべて 「止めさせるもの (悪) 」である。 敗戦まじかであるから、 それも「中将」という地位にあって もし第2次大戦を 今「特定の勢力」がいうように 「正義の戦争」という思いがあれば こういう発言には ならなかったろう。 当時は 特に上層部は 「理念」として 「正義の戦争」という思いは強かったはずであるが、 実際に行われた戦争は そうではなかった、ということでもある。
「誤りに気づいたら、その場で直しなさい。
戦争がまた起きそうなことがあったら、自分一人になっても反対しなさい」
とは そういう思いではないだろうか。
宮崎周一中将が写っていた写真が剥がされたアルバム=長野県飯田市の西村さん宅で
「1人でも戦争に反対しろ」 大本営作戦部長、親族に
http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2015062202000069.html
2015年6月22日 中日新聞
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