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「「論理性」が無視される世相って本当にキツイ。民主主義の大前提は「合理性」への信頼だから。」
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2015/6/20 晴耕雨読
toriiyoshiki氏のツイートより。
佐々木俊尚氏の「リベラル批判」は全くピントを外しているのではないか。
例えば政治哲学的に全く相反する内田樹氏と古賀茂明氏を同列に置いているのがその証左。
佐々木氏は「日本型リベラル」は「根本の部分に政治哲学を持っていない…彼らの拠って立つのは、ただ『反権力』という立ち位置のみ」と書くが、これは佐々木氏が各々の「政治哲学」を無視して、みそくそ一緒に「反権力」というカテゴリーに放り込んでいるだけの話ではないか。
つまり、佐々木氏は実名を挙げた「リベラル」たちの「政治哲学」を読み取ろうとせず、「反権力」というひとつ袋にぶち込んで「政治哲学がない」と切って捨てているのである。
これは如何にも乱暴な「論法」である。
それぞれの差異を捨象した、実体のない「日本型リベラル」という理念型を作ってそれを批判するのは、藁人形に五寸釘を打ち込むようなもので、批判は有効性を失う。
「論理性」が著しく無視されている世相に、佐々木氏のような経験豊かなジャーナリストがこういう乱暴な議論をされるのは残念だ。
佐々木氏が「リベラル」を恣意的に規定して「政治哲学を持たない反権力」「思想ではなく立ち位置」だと決めつけるのは、一種の「レッテル貼り」であって、逆に佐々木氏こそが「思想ではなく立ち位置」に依拠していることを雄弁に物語ってしまっている。
(最後に)夫々の思想的バックボーンの検証を等閑にして「思想ではなく、立ち位置」だなどと決めつけるのは、その「論理」(?)の乱暴さにおいて「非国民」というレッテル貼りと五十歩百歩である。
むろん、佐々木氏にそうした、ためにするキャンペーンの一翼を担うつもりなどないとは信じているが…。
「論理性」が無視される世相って本当にキツイ。
民主主義の大前提は「合理性」への信頼だから。
安倍さんの国会答弁など見ると、最初から論理破綻していて取り繕おうともしない。
説明しようとも、説得しようとも、論破しようともしない。
これって無敵だよね。
最初から論理がないから論破されようがない。
私たちの「民主主義」はとんでもない「無敵の権力者」を生み出したことになる。
こうした権力者に対しては、対案の提示などという「民主主義的手続き」は無効で、アンチを明確にして多数派の形成を目指すより対抗手段がない。
どうあるべきかを語る「政治哲学」は背景に下がらざるを得ないところがある。
もうひとつ佐々木俊尚氏に反論するなら、「反権力」に「政治哲学がない」とは限らない。
ぼく自身のことを書く。
大学時代は政治学を専攻、「スターリニズム」を研究した。
「プロレタリア民主主義」が如何に虚妄であり、「社会主義がなぜ堕落するのか」をソビエト共産党の党内抗争史からたぐろうとした。
むろん20歳になったばかりの学生の手に余るテーマだった。
ただ、補足すれば、ソビエト崩壊に先立つ1970年代後半のことであり、中国での文革批判もまだ始まってはいなかった。
その時代に、「社会主義」という変革の選択肢には絶望していた。
そうしたなかで心惹かれた「政治哲学」はアナーキズムだった。
ただし、「無政府主義」と言ってしまうと語弊がある。
ただちに国家権力を廃絶するなどできっこないのは自明だった。
ただ、右であれ左であれ、権力は往々にして人間性を踏みにじることだけは肝に銘じた。
政治の世界には常に、大の虫を活かすという名目で押し潰される小の虫がある。
職業としてそこを見つめていこうと考え、ジャーナリズムの道を選んだ。
それは佐々木氏のいう「マイノリティー依拠」とは似て非なるものだ。
依拠して自分の言説の正当性を担保しようと思ったことはない。
ただ、見つめるのだ。
その基本は現在の福島取材までぼくの背骨としてあり続ける。
ぼくはジャーナリストは「反権力」であるべきだと考えている。
権力という「必要悪」に対する監視を怠ってはならない。
一人一人が人間として尊重される世の中の実現を目指して、前途遼遠なる道を歩き続け、その過程に倒れることをよしとする。
権力から距離を置いて批判的に見つめる立ち位置からは、現在の集団安保やアベノミクス、グローバル経済化、あるいは原発再稼働政策の問題点が鮮明に見えてくる。
それぞれの政策が強引極まる「小の虫の切り捨て」に他ならないからだ。
ぼくには理想だと考える政治の在り方が明確にある。
しかし、そんなものが一朝一夕に実現するとは思っていない。
また「◯◯党支持」などという言葉にも置き換えられない。
テレビ番組にせよ、Twitterにせよ、トータルとしての思想を発信する場だとは考えていないから、局面ごとに発信していく。
「反権力」が自己目的化しているわけではない。
根底に理想の旗を掲げる「政治哲学」が厳然としてあり、その発現形態が「反権力」にならざるを得ないだけだ。
そして、そうしたあり方こそが、善悪、正邪、右左の単純な二分法で語り得ない現代において普遍性を持ちうるとぼくは思う。
個人的なことを書いたが、一介のテレビ屋風情にもこうした個人史があり、数十年の歳月にさらされたうえで堅持する「政治哲学」がある。
大江健三郎氏や内田樹氏のように、一貫して現代社会における「哲学」を語ってこられた方を「政治哲学の欠如」と決めつけるのはあまりにも傲慢ではないか。
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