15. 2015年6月20日 00:46:49
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天1号作戦と連携 4月6〜7日 菊水1号作戦(航空特攻)と米軍艦艇の損害 人間魚雷回天 戦艦大和TOP 第一章 【開発小史 歴史編】 第二章 【開発小史 技術・機能編】 一人では乗りこなせない欠陥兵器。また後進・停止が出来ない最悪な兵器。 第三章 【運用編】 回天はその誕生から許されざる兵器であった。また隊員の募集も詐欺師・ペテン師的な方法だった。 第四章【回天戦の実態】 第五章【搭乗員の戦死と投入潜水艦】 戻る 海軍の戦争犯罪 誰が航空特攻を主導したか 進む 航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち
1.強制された航空特攻名誉の戦死への道程 ► 昭和19年(1944)10月5日?注1) 大西瀧治郎、航空特攻開始の稟議。及川軍令部総長, 伊藤整一軍令部次長,(中澤 祐軍令部作戦部長),大西瀧治郎(後、一航艦司令長官)の3名。および軍令部第一部山本親雄(1課,2課長兼務)も同席。 及川軍令部部長 特攻承認。 中澤 祐出張中不在
注1) 中沢 祐は航空特攻の責任を大西瀧治郎におっ被せた。 戦後中澤 祐は「1944年10月5日、南西方面艦隊司令部付に補せられ、内地出発前の大西中将と軍令部総長及川古志郎、同次長伊藤整一、同第一部長中澤祐の四人で話あった。」と喋った。 しかし、中澤は10月2日〜10月9日 まで、台北経由マニラに軍務出張しておりこの会談はあり得ない。 中澤は昭和19年(1944)10月2日横浜を飛行艇で出発。帰着10月9日16:45羽田着。 大西は10月8日10:35 台風通過後羽田発。 9日鹿屋。大西を羽田に見送った陸軍遠藤三郎中将の日記などから中澤との接点はどこにもない。 仮定の話として、遠藤日記の日付が一日ずれの9日であろうと、大西羽田発時刻と中澤の羽田着時刻からこの会談話は起こりえない。 戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」頁101 軍令部第一部長中澤佑少将は10月2日から9日まで台湾、比島沖縄方面に出張し・・・・ と書かれている。 中澤のウソはバレバレ。 また別の席上で10月1日人間爆弾桜花を使う神雷部隊を開隊しながら作戦部長の中沢さんが特攻作戦について知らないとはおかしい。と問いかけると絶句した。と伝えられてる。 中澤は戦後講演などで、特攻は崇高なる精神の発露と述べている。特攻隊員が単独で、飛行機に爆弾を積み込み、勝手に出撃した。すなわち崇高なる精神的発露だと強弁する。 この論理で行くならば、昭和20年4月6日から開始された菊水1号航空特攻は作戦として成り立たなくなる。何百人もの若者がある日一斉に崇高なる精神の発露を具現しようとし、国家の財産である航空機と爆弾を自ら積み込み、 燃料を補給し飛び立とうしたのなら、それは集団ヒステリー状態であり、 冷静に止めにはいるのが司令官などの職務であろう。 戦史叢書海軍捷号作戦 フィリピン沖海戦 頁109 大西の動向として 10月9日東京を出発し、10日鹿屋基地に着いた。ところが同日、敵機動部隊が沖縄に来襲したので、 上海(中国)を経由して11日高雄(台湾南部)に到着した。たまたま豊田長官が比島視察の帰途新竹(台湾北部) に飛んだ。 (中略) 大西は16日新竹を出発し、17日マニラの一航艦に到着した。 となっている。 いずれにしても(8日が9日になっても)10月上旬、中澤と大西の接点はない。
中澤 祐は戦後、大西瀧治郎がいきなり軍令部に現れ、航空特攻の話を切り出し、 軍令部としては考えてもいなかった内容でビックリしたというのが実状である。と述べたと伝えられているが、 戦後のとある席上で、この話を中澤が開陳した折、ある戦史研究家*2が、あなたはその時期 戦線視察の出張中で大西さんとは時間的に会えないはずと指摘され。次の言葉を発しなかったと伝えられている。 軍令部はすでに 人間魚雷回天の正式兵器化、人間爆弾艇震洋の正式兵器化(いずれも8月)を決定し搭乗員の組織化を 始めている。 現在では航空特攻の言い逃れとみなされている。 読売新聞主筆渡邊恒雄氏は彼らを痛烈に批判している。 渡邊恒雄氏による批判はこちらで *2 1977年(昭和52年)7月中澤(当時83歳・同年12月21日死去)が水交会の講演で特攻に関して前出の話をしたとき、海兵74期妹尾作太男氏が 「10月1日に桜花の721空が開隊しているのに、軍令部がそれを知らないとは考えられぬ」と質問したところ、これまた絶句したと伝えられている。 * 海兵74期は 昭和20年 3月卒。この中から沖縄島水上特攻に向かう戦艦大和,矢矧に配属された。出撃の朝離艦を命ぜられ31戦隊駆逐艦花月が海軍徳山燃料廠まで輸送した。 大西瀧治郎が特攻を始めるあたって、零戦に 250Kg 爆弾を積んだ程度で空母が沈む訳がない。一時的に敵空母の飛行甲板を破壊し艦載機の離着艦を不能にさせればよい。 それによって栗田艦隊のレイテ突入を成功に導く。ためと書いているものが多い。 これもウソぽい。その理由は、 基地航空隊が入手した(在比,第一航空艦隊,第二航空艦隊)偵察情報は艦隊に配信する義務もなかったし、連合艦隊にも情報を統合し活用する仕組みさえ作られていなかった。 また、囮艦隊だった小沢艦隊が知り得た敵情報を統合し必要な部隊に配信する仕組みも存在しない。 すなわち、敵空母の飛行甲板が使えないというような事になっても、その情報を有機的にリアルタイムに作戦活用する方法が構築されていない。 大西の弁とされる「空母飛行甲板云々」は戦後の戦史家の詭弁と思える。 当時の軍人のおつむの程度が知れるが、帝国海軍は三次元で戦われる戦闘において戦場のビジュアル化を行わなかった。 レーダーのPPIスコープが開発される以前のAスコープ(日本軍のレーダースクリーン)でも英国は戦場のビジュアル化を行った。 地図若しくは海図に敵の航空機,艦艇の動きを色分けした駒で表現し戦場の推移をリアルに表現した。 すなわち敵の動きが誰の目にも一目瞭然だったのだ。 レイテ沖海戦は日本の運命を決める一大決戦であった。 虎の子の戦艦武蔵,大和を含めた決戦であった。空母を囮として使う小沢艦隊, 敢然として殴り込みを掛ける旧式戦艦で構成された西村艦隊, 補完する志摩艦隊,共同戦線の一翼を担う基地航空隊の第一・第二航空艦隊。 レイテに殴り込む栗田艦隊。もし、栗田艦隊の作戦室に海図を広げ、 各艦隊・航空隊の動きをビジュアル化していたなら、 囮となった小沢艦隊から米機動部隊を引きつけたという無電が届かなくても全体状況は把握できたであろう。 栗田艦隊ナゾの反転は海軍の知恵のなさの反転であった。 戦後各方面から色々と取りざたされた海戦ではあったが海軍士官の"おつむ"の程度が誰の目にも歴然と判明した海戦でもある。 日本には近代産業を支える鉱物資源もなかったが、彼らの頭(陸・海軍)の柔らかな頭(頭脳)の資源も全く枯渇していた。 当時の海軍ではどうしていたのか? 淵田美津雄の話である。作戦室に海図を広げ、 壁の黒板に、入電した情報等を箇条書きに書いた。また、残念なことに敵信や友軍の電信など総合的に判断する情報士官を持たなかった。 この役務は通信参謀の片手間役務であった。 彼らには、創造力も能力も企画力、構成力もおおよそ力(リキ)が付く全てのものが備わっていなかった。海上護衛総司令部の作戦参謀大井篤など、還送船団の会敵率が100%超える月が続いても全く不思議だ?とも思っていなかった。 海軍大学校卒業だそうだが、海軍大学校は海軍幼稚園だった考えなければ説明が難しい。小学校を半分ぐらいしかこなしていない会社の社長でも、赤字が3ヶ月も続くと何らかの手を打つはずである。 突き詰めると、幼稚園の児童が太平洋戦争を戦った。負けるべくして負けたのである。 ここは、特攻に際しての源田実の発した電文にある全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作が第一義ではなかろうか。 そして、昭和20年に入ると、第一義は忘れられ、天皇の云ったとされる、敵にもう一泡吹かせて、終戦を有利に導く手段にされたのであろう。 陸海軍とも、撃沈!,撃沈!と云いながら敵勢力が衰えず、日本が沈めたと信じている空母の活躍をたびたび米国放送が伝えることで、我が爆弾の威力に対する疑問を感じ、 未完成空母阿蘇への爆撃実験後も特攻作戦を継続している。 自らのステータスを守るために若者に死を煽った以外に説明がつかない。 海軍特攻部長 昭和19年(1944)年9月13日任命 中将 大森仙太郎 特攻隊員の募集方法など下準備が完了し「海軍特攻部」創設 −海軍特攻部 海軍省より9人、軍令部から7人、艦政本部から9人の課長以上が加わり、航空を除く特攻兵器に関する検討がなされた。 (一)、特攻兵器ノ実験、考案及ビ之ガ用法ニ関スル事項。 (二)、特攻兵器ノ量産及ビ整備ニ関スル事項。 (三)、特攻兵器関係要員ニ関スル事項。 隊員募集の方法機密第三号−62すでに進行中 (四)、特攻兵器関係ノ教育訓練及ビ基地整備ニ関スル事項。 (五)、特攻兵器関係ノ編成及ビ進出準備等ニ関スル事項。 これらの事項について、調査、研究及び企画を掌理し、その実行促進に当たる部署とされた。 (海軍特攻部既定、昭和19年9月13日官房軍機密第一一五九号) 考えるだけでもおぞましい組織を海軍は創設した。 1945年4月15日付特兵部に統合。特兵部長 山崎重暉。
山口県大津島に人間魚雷回天の基地建設と特攻部長選任は期を一にする。 1944年(昭和19年) 10月1日 人間爆弾桜花を使用する目的で721航空隊新編。 10月19日 神風特別攻撃隊を編成。 10月20日 第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎着任。 10月21日 以降成功の25日まで特攻出撃を繰り返す。 10月21日 特攻出撃の久納好孚中尉未帰還。 10月25日 07:40 護衛空母に突入 発ダバオ 菊水隊(加藤豊文) 朝日隊(上野敬一) 10月25日 11:15 米艦突入成功 発マバラカット 関行男大尉 大々的報道と全軍布告。
2.航空特攻 (1945年4月6日〜7日) 1)航空総攻撃「昭和20年4月 6日〜7日 菊水一号作戦」を開始。 この航空特攻を取り仕切ったのは真珠湾攻撃の飛行隊長淵田美津雄。 こちらかこちらで。 ― 沖縄方面作戦米軍 ― 上陸部隊(バックナー中将指揮) 238,700人。(含予備兵力) ※中将は6月18日沖縄南部戦前で戦死。 揚陸支援部隊(タナー中将指揮) 1,213隻の艦船。 上陸用舟艇(LST含む)564隻。 陸上射撃支援艦隊(デイヨー少将指揮)戦艦:10,重巡9,軽巡4,駆逐艦23。 機動部隊(ミッチャー中将指揮)空母16,戦艦8,重巡4,軽巡11,駆逐艦48,艦載機919機。 護衛空母部隊(ローリング中将指揮)空母4,戦艦2,軽巡4,駆逐艦12,艦載機244機。 ― 特攻機の命中率は13%程度だったという。これだけの艦艇に戦線離脱させるにはいかほどの特攻機が必要か?― 写真左は、筑波航空隊で特攻隊を編成したときの記念写真である。写真右は第一次筑波隊指揮官となった 福寺中尉。石橋中尉も列機となって沖縄に突入した。
菊水一号作戦(航空特攻) ■ 1945年4月6日の海軍航空特攻 時 刻 航空隊 隊 名 機 種 出撃数 出撃地 指揮官名 未帰還者数 10:20 三航艦210空 彗星隊 彗星 7 第一国分 大尉児玉光雄 13 11:02 五航艦 721空 第三建武隊 零戦 18 鹿屋 中尉森 忠司 18 12:00 五航艦 征空隊発進 12:30 12連空 宇佐 第一八幡護皇隊 九九艦爆 15 第二国分 中尉寺内 博 19 12:30 12連空 宇佐 第一八護皇幡隊 九七艦攻 14 串良 大尉山下 博 39 12:45 12連空 姫路 第一護皇白鷺隊 九七艦攻 13 串良 大尉佐藤 清 39 13:00 十航艦 名古屋 第一草薙隊 九九艦爆 13 串良 中尉高橋義郎 26 13:10 三航艦252空 第三御楯隊 零戦 5 第一国分 中尉宮本十三 5 13:30 十航艦 百里原 第一正統隊 九九艦爆 10 第二国分 大尉桑原 知 20 * 使い古しの九七艦攻や九九艦爆で特攻させた。後継機「彗星」,「天山」で、夜間雷爆撃を反復することで、 昼間強襲の「特攻隊」に、決して劣らぬ戦果を挙げたであろうと確信する。 13:39特攻十航艦筑波第一筑波隊:爆戦17機:鹿屋:中尉福寺 薫 未帰還17 13:39 十航艦 筑波 第一筑波隊 零戦 17 鹿屋 中尉福寺 薫 17 13:55 12連空 元山空 第一 七生隊 零戦 12 鹿屋 大尉宮武信夫 12 15:35 三航艦 131空 菊水天山隊 天山 5 串良 中尉斉藤録郎 15 菊水天山隊 天山 4 串良 少尉熊澤庸夫 12 15:35 三航艦 210空 第三御楯天山隊 天山 1 串良 少尉吉田信太郎 3 15:55 三航艦 252空 第三御楯隊 彗星 4 第一国分 中尉荒木 孝 8 16:10 十航艦 第一筑波神剣隊 零戦 16 鹿屋 中尉松林平吉 16 16:45 三航艦 601空 第三御楯隊 彗星 2 第一国分 中尉百瀬甚吾 3 彗星は2座であるから4人であるはず。記録は百瀬,川合,杉本3人である。
4月6日の海軍航空特攻 台湾方面から 時 刻 航空隊 隊 名 機 種 出撃数 出撃地 指揮官名 未帰還者数 8:37 台湾空 勇武隊 銀河 2 台南 中尉根本道雄 6 14:43 台湾空 勇武隊 銀河 1 台中 一飛曹吉村一誠 3 15:00 台湾空 忠誠隊 彗星 3 新竹 一飛曹南 義雄 6 15:06 台湾空 勇武隊 銀河 1 台中 二飛曹村田守二 3 ■ 1945年4月6日の陸軍航空特攻 航空隊 隊 名 機 種 出撃数 出撃地 指揮官名 陸軍 第八飛行師団 誠第36飛行隊 九八直協 10 新田原 中尉住田乾太郎 誠第37飛行隊 九八直協 9 新田原 少尉小林敏男 誠第38飛行隊 九八直協 7 新田原 少尉小野生三 この日新田原から出撃した第八飛行師団の出撃機数は 28 機で未帰還が 26 機としているので前掲の表の通りであろう。実際の出撃機数はよって 28 機が正しく、帰還 2 機。 当時の米軍の対応はレーダーピケットによる戦闘機の迎撃で減殺し、残りは対空弾幕で撃墜した。これらをかいくぐるには飽和状態の特攻機数でなければ突入は困難であった。
航空隊 隊 名 機 種 出撃数 出撃地 指揮官名 陸軍 第六航空軍 第22振武隊 一式戦 2 知覧 少尉西長武志 第43振武隊 一式戦 5 知覧 少尉浅川又之 第44振武隊 一式戦 4 知覧 少尉小原幸雄 第62振武隊 九九襲 5(4) 万世 少尉富澤健児 第73振武隊 九九襲 12 万世 少尉高田鉦三 第1特別振武隊 四式戦 7(8) 都城西 少尉友枝幹太郎 ( )は別の記録に書かれている数字である。
陸軍の航空特攻に関して戦史叢書沖縄・台湾硫黄島方面陸軍航空作戦は、輻輳し混乱している。また記述の省略があり分かりづらい。 同書 頁463 特攻として出撃出来た機数は 54 機としているが、続いて第六航空軍隊別出撃機数は前掲のとおり 35 機である。 また、同書付表第三その一で4月6日の出撃機数は 57 機としているが計算が合わなくなる。日置英剛/偏,年表太平洋戦争(国書刊行会)で第62振武隊4機、第1特別振武隊四式戦(疾風)8機8人としている。よって特攻突入者数数は+,−すると同数である。 * 航空特攻記録に「爆戦」とあれば爆弾を装着した「零戦」である。 双発機銀河の 燃料タンクは 5,400 リットル入った。 燃料満タンで出撃させたか? なにしろ、航空ガソリンは枯渇していたのだから。 1945年4月月頭航空ガソリン在庫は各基地、燃料敞をかき集めても 36,491KL で その量は B-29 戦略爆撃機による 3月10日(東京・325機)、 3月11日(名古屋・310機)、3月13日(大阪・295機)、3月16日(神戸・331機)の給油 よりはるかに少ない量なのだ。 B-29のわずか4回の爆撃行で使った燃料は 44,000KL に達している。 * 4月6日菊水一号作戦参加機数は陸軍133機。海軍391機。合計542機。 海軍内訳 九州372機。台湾18機。未帰還179機。 うち特攻出撃215機。未帰還162機である。 悲しい戦果として航空特攻が開始されて以降最大の損害を米艦艇に与えた。 慶良間上陸以降米海軍は特攻機早期発見のためレーダーピケット艦を配置した。 * 韓国元山航空隊青木泰二郎司令は1945年8月11日、 日本の敗戦を悟ると家族と逃亡。元山空の特攻隊は全て七生隊である。 組織的には、十航空艦隊(前田稔)麾下12連空所属となる。 11連空所属谷田部空(梅谷薫)、12連空元山空(朝鮮)は競うように学徒兵を特攻させた。 詳しくは「特攻隊の記録 押尾一彦:著」を参照されたい。
■ 1945年4月7日の海・陸軍航空特攻 *大和が撃沈されたこの日、 天候不順で航空特攻は不振だった。 この日小磯内閣崩壊。 海軍特攻隊 時 刻 航空隊 隊 名 機 種 機 数 出撃地 指揮官名 未帰還者 06:40 三航艦252空 第三御楯隊 零戦 5 第一国分 中尉富岡崇吉 5 10:20 五航艦721空 第四建武隊 零戦 12 鹿屋 中尉日吉恒夫 9 11:20 三航艦601空 第三御楯隊 彗星 11 第一国分 大尉国安 昇 18 12:30 三航艦706空 第三御楯隊 銀河 5 宮崎 少尉徳平宰郷 15 12:43 五航艦762空 第四銀河隊 銀河 4 宮崎 少尉三木 光 11 陸軍特攻隊 第六航空軍 第21振武隊 一式戦 1 喜界島 第22振武隊 一式戦 1 喜界島 少尉大上 弘 第29振武隊 一式戦 1 知覧 少尉中村 實 第44振武隊 一式戦 2 徳之島 少尉甲斐玉樹 第46振武隊 九九襲 5 喜界島 少尉小山勝實 第74振武隊 九九襲 7 万世 大尉伊藤 實 第75振武隊 九九襲 4 万世 大尉大岩 覺 司偵振武隊 百式司偵 1 万世 中尉竹中隆雄 戦史叢書はこの日の特攻出撃機数を前日より多い 61機としている。
* 陸軍の航空特攻について沖縄戦関係は戦史叢書「沖縄・台湾硫黄島陸軍航空作戦」がある。記述が粗雑でどの隊が何時に出撃したのかさっぱり分からない。 またと特攻指名を受けたが乗機の不具合等で 出撃後に帰還した者は福岡の振武寮に収容?されたが、その振武寮について一言の記述もない。 誠に不誠実である。 国家事業とし後世に残す戦史としてはお粗末の限りだ。 この方のWebサイトで在福岡は 特攻帰還者収容施設 "振武寮" 収容者である。 多くはエンジン故障で引き返すか、不時着した者を収容した。特攻は死が前提であり、 帰還することを(例えエンジン不調でも)考えていなかったが、 現実生還者が発生したから精神教育を行う収容所を設けた。 よって特攻指名されたものの敗戦まで生存できたケースがある。 大上 弘少尉は学徒兵で、教師になり子供の教育にたずさわることが夢だった。 喜界島上空で敵戦闘機に撃墜されてしまう。 第22振武隊は学徒兵が中心である。 陸軍は、 特攻兵を募るとき「熱望」する。「希望する」する。「希望しない」。のどれかに○を付けらせたが、希望しないに○を付けても関係なしに特攻兵にした。 陸軍では特攻兵になった瞬間からその人間は "神" とされ、天皇は人間の兵を率いるのであって神(天皇と同等)を率いることはしなかった。 天皇の軍隊は最新式でなければ天皇に対して失礼だったが、神が操る航空機は旧式でよかった。 航空特攻に関して海軍と、第6航空軍司令官・菅原道大(中将・沖縄方面特攻責任者)で協議し、海軍は米機動部隊へ、 陸軍は沖縄近海輸送船団に特攻を振り分けた。海軍に引きずられ陸軍特攻を主導した富永恭次(中将), 菅原道大(中将)は若者に死をあおったが戦後ものうのうと生を偸んだ。 菅原道大は航空特攻を送り出すたびに、 本職も最後の1機で特攻すると言い続けた。そしてその時、1機の特攻機が準備された。 菅原は飛び立たなかった。 卑怯卑劣で人間のクズだった。
Webサイトにみる航空特攻 海軍 航空特攻 はこちら。 沖縄方面 航空特攻 はこちら。 陸軍 第22振武隊 はこちら。
*131航空隊(芙蓉部隊)戦闘第812飛行隊附海軍中尉大沼宗五郎、上飛曹宮田治夫は陸軍特攻隊の誘導に任じ、その完遂後自機も特攻を敢行。 これをみても「天一号作戦」が海陸軍の間で綿密に打ち合わされ、実行されたことがわかって頂けると思う。 *特攻隊名称は同一名称で複数の航空隊で編成したものもある。 *4月6日〜7日の海軍航空特攻で337人が死んだ。 *人は希望しても生まれてくる場所と時間を選べない。この若者らは国難に応ぜんとして はせ参じたが、時系列的に並べてみると「君は明日死ね!」と命じた武勲をのみを誇る司令官に消耗品として扱われた。 *海軍関係特攻を時系列的に示したが、命溢れる若者に、次々と君は死ね!と命じた 海軍上層部が戦後ものうのうと生き残ったことが許せない。日本国民による先の太平洋戦争に関する裁判(敗戦した以上誰かが責任をとる。企業の倒産しかり)を行ったとしたら、 海軍も死刑相当は多数に及ぶだろう。第12連空(元山空)、青木司令は市中引き回しの上斬首。 筑波空中野忠二郎も左に同じ。 *菊水一号作戦・第一次航空総攻撃(4月6日〜4月9日) 参加航空機数は,陸軍133機 海軍特攻215機,未帰還178機。 多くの若者の命が消えた。菊水作戦は第十号(6月21日-22日)まで実施されたから、この第一次菊水作戦に通常攻撃で参加したパイロットらも生き残れなかったであろう。 *アメリカ海軍艦艇の強力且つ効果的な対空防御網により、特攻する航空機は壊滅的な打撃を受け、いくつかの例外を除けば、これといった戦果を挙げることはできなかった。 費用対効果からすれば、日本そのものが自殺するようなものだった。 零戦は現在価格で1億円若の製造費だったという。 *特攻隊は突入したのち帰還しその体験を報告するパイロットは絶無だったから、攻撃方法改善のデータを発展さす手がかりは全くつかめなかった。 *特攻機だけで二六隻の海軍艦艇が沈没したが駆逐艦以上の艦艇は一隻も沈んでいない。 *一番問題は人間を消耗品としながら、戦果という計算を行ったことに尽きる。
3.確認できる航空特攻の戦果(米側の損害) 1)1945年4月6日 1945年4月6日(金) 沖縄方面の米軍損傷艦艇 [〜第二次大戦米国海軍作戦年史〜] by suicide plane (特攻機で) No 損 害 艦 種 艦 名 識別符合 沈没海域 1 損 傷 駆逐艦 MORRIS (DD-417) 25-55N 127-52E 2 掃海艦(施設) FACILITY (AM-133) 26-00N 127-00E 3 駆逐艦 HUTCHINS (DD-476) 26-00N 128-00E 4 掃海艇 YMS 321 26-00N 128-00E 5 護衛駆逐艦 WITTER (DE-636) 26-04N 127-52E 6 駆逐艦 MULLANY (DD-528) 26-24N 128-10E 7 掃海艦 DEVASTOR (AM-318) 26-26N 127-40E 8 駆逐艦 HOWORTH (DD-592) 26-32N 127-40E 9 駆逐艦 LEUTZE (DD-481) 26-38N 127-28E 10 掃海艦 DFENSE (AM-317) 26-38N 127-31E 11 駆逐艦 NEWCOMB (DD-586) 26-38N 127-40E 12 掃海艇 YMS 311 26-38N 128-48E 13 駆逐艦 HYMAN (DD-731) 26-45N 127-42E 14 軽空母 SAN HACINTO (CVL-30) 26-46N 129-43E 15 護衛駆逐艦 FIEBERLING (DE-640) 26-48N 128-04E 16 高速掃海艦 RODMAN (DMS-21) 26-48N 128-04E 17 掃海艦 RANSOM (AM-283) 26-48N 128-04E 18 駆逐艦 HAYNESWORTH (DD-700) 26-55N 129-29E 19 駆逐艦 HARRISON (DD-573) 27-05N 129-22E 20 駆逐艦 BENNETT (DD-473) 27-16N 127-48E damaged by suicide plane,sunk by United States forces (特攻機で損傷し) 1 海没処分 掃海駆逐艦 EMMONS (DMS-22 1,190トン) 26-48N 123-04E 2 駆逐艦 COLHOUN (DD-801 2,050トン) 27-16N 127-48E by suicide plane (特攻機で) 1 沈 没 駆逐艦 BUSH (DD-529 2,050トン) 27-16N 127-48E 2 戦車揚陸艦 LST 447 (1,940トン) accidentally by United States naval (友軍の誤射) 1 損 傷 戦艦 NORTH CAROLINA (BB-55) 2 軽巡洋艦 PASADENA (CL-65) 3 潜水艦支援艦 PCS-1390 4 輸送艦 BARNETT (APA-5) 5 運搬艦 LEO (AKA-60) 6 戦車揚陸艦 LST 241 7 戦車揚陸艦 LST 1000 by collision 衝 突 1 損 傷 高速輸送艦 DANIEL T. GRIFFIN (APD-38) by horizontal bomber 水平爆撃 1 損 傷 駆逐艦 TAUSSIG (DD-746) 2 高速掃海艦 HARDING (DMS-28) 「第2次大戦米海軍作戦年史」 1945年3月以降の特攻機による損傷艦艇一覧表は戦史叢書沖縄・台湾硫黄島陸軍航空作戦付表六に掲載がある。 丸木政臣「沖縄無残なり」に次の記述がある。 4月6日。知覧の第二次特攻総攻撃の日。松田中尉が汚名挽回の出撃をしたとき、 知覧通信隊は沖縄アメリカ艦艇間の無線の交信を傍受している。 「06:45北西、怪物接近中、自殺機命中、火災発生」 「06:53 BARNETT(バーネット) 右舷ニ自殺機、曳キ船タノム、ケラマニ向ウ」 この6日早朝出撃の海軍機はいないので陸軍特攻機と思える。 この日第六航空軍司令官は萬世、知覧(鹿児島県)で特攻隊員を激励し、続いて都城(宮崎県)で特攻隊を見送った。 沖縄海域ピケット艦配置はこちら 2)1945年4月7日 1945年4月7日(土) accidentally by United States naval (友軍の誤射) No 損 害 艦 種 艦 名 識別符合 沈没海域 1 沈 没 貨物運搬艦 AUDRAIN (APA-59) by mine (機雷もしくは魚雷) 1 沈 没 砲艦 PGM-l8 26-13'N 127-55E by suicide plane (特攻機で) 1 損傷 駆逐艦 LONGSHAW (DD-559) 26-29N 127-41E 2 掃海艇 YMS-81 26-35N 127-53E 3 戦艦 MARYLAND (BB-46) 26-40N 127-29E 4 護衛駆逐艦 WESSON (DE-184) 26-48N 127-55E 5 空母 HANCOCK (CV-19) 27-00N 130-00E by mine (機雷もしくは魚雷) 1 損 傷 掃海艇 YMS-103 by coastal defense gun (陸上からの攻撃で) 1 損 傷 掃海艇 YMS-427 by grounding (座礁) 1 損 傷 戦車揚陸艦 LST 698 by collision (衝突で) 1 損 傷 戦車揚陸艦 LST 890
空母HANCOCK (CV-19) 空母ハンコックの攻撃時刻は12:12 攻撃は零戦。死者62人。傷者17人に達した。 五航艦721空第四建武隊の一人と思われる。高度150mで爆弾投下。機はそのまま突入。 *空母エセックスに彗星の至近突入が記録されている。三航艦601空第三御楯隊の1機と思われる。 *戦車揚陸艦 LST 890は前日6日、衝突艦 DANIEL T. GRIFFIN (APD-38)がありその相手方か? 何らかの錯誤で7日損傷と計上されたのか? *米側記録、この2日間での沈没最大艦は駆逐艦2隻。揚陸艦1隻。掃海艇1隻。砲艦1隻だが 日本側は ► 轟沈 戦艦二、艦種不詳二、大型三、小型二、計九隻。 ► 撃沈 輸送船五、艦種不詳一、計六隻。 ► 撃破 戦艦一、炎上 駆逐艦一、輸送船六、小型二、艦種不詳一九、計一九隻。 総計三四隻に損害を与えたと報じた。 あれだけの航空特攻を仕掛けて少ない戦果では陸海軍の面子にかかわるとしてウソを垂れ流したのであろう。 また、沖縄32軍電報として沈没巡洋艦三を含む総計六九隻を撃沈破したと連絡している。 沈没・損傷艦の検証を行う方法を持たなかったので、このような過大戦果が毎回報告されたのであろう。 *海軍首脳部は水中特攻兵器回天とロケット特攻 兵器桜花と比し、航空機の250Kg爆弾での破壊力は5分の1とみており、 これだけ多数の轟沈、撃沈できるはずがないと もう少し科学性のある検証をすべきであった。あれだけの特攻突入しても戦力の減少をきたさない米軍に、 特攻効果に疑問を感じだしたのが1945年5月末頃であった。 よって、進水したものの艤装が出来ない未完成空母「阿蘇」 を特殊潜航艇基地(倉橋島)沖に引き出し陸海軍最強と考えている爆弾投下実験を行った。 結果は惨憺たるもので「阿蘇」はビクともしなかった。 ■4月6日、日本機による攻撃のすさまじさがわかる。低空突入の特攻機に対する応射の砲火が?味方艦艇に命中したのか、7隻が損傷している。回避行動の衝突艦まである。 ■4月7日、掃海艇 YMS-427は陸上から攻撃されている。陸に接近しすぎたのか? 「特攻機による被害は、艦船に対する直接的攻撃だけでなく、日本機がまっすぐ自分たちに体当たりしてくる奇想天外な作戦におびただしい戦闘疲労者(神経症)を出した」とも記録されている。 米艦対空機関銃手はSuicide attack(自殺攻撃)に泣きながら半狂乱で突入する特攻機に銃弾を発したともある。 菊水作戦すなわち、沖縄島攻防戦での航空特攻の戦死者はこちら。
4.1945年8月15日の特攻 @ 三航艦寺岡謹平麾下第752空菊岡徳次郎司令の命令により流星1機。縄田准二、中内 理の二人は10:15木更津を飛立ち戦死。 A 三航艦寺岡謹平麾下第601空杉山利一司令の命令により第四御盾隊彗星11機。 谷山春男中尉以下8機16人が百里原(茨城県東茨城郡)基地を11:05〜11:30の間に飛立ち戦死した。狂気の海軍を見る。 B 戦術的に有効でない特攻を五航艦トップとして指揮した宇垣 纏は終戦の詔勅後に大分基地より艦爆11機(彗星)で出撃した。一人で自決すれば済んだはずだ。 未帰還8機。不時着3機。うち1機偵察員死亡。搭乗員総数22人+宇垣纏。死亡。 宇垣を乗せたのは、中津留達雄大尉(海兵70期)遠藤秋章飛曹長(乙飛9期)。 同機は同日夕刻沖縄県伊平屋島海岸付近の岩場に激突。 城山三郎は著書『指揮官たちの特攻』【新潮社】で この戦争は海軍による真珠湾のだまし討ちで始まり、そしてポツダム宣言受諾後の海軍はまたもや「卑怯な終わり方」を中津留達雄大尉は避けたという見方をしている。 すなわち、不名誉な帝国海軍の謗りを回避した行為であろうとの見解を示している。城山三郎のこだわり、特攻死を受け入れられない残された家族の深い悲しみと怒りを込めつつ描いている。
* 宇垣纏私兵特攻と云われているが、純法理論的には、私兵特攻に当たらない。 海軍の交戦停止命令は、翌16日16:00 大海令第48号でもって、海軍全部隊に即時戦闘行動停止命令が発令された。 人間魚雷回天は平生基地から神州隊を8月16日朝出撃させている、 決して宇垣の弁護ではないが、彼の死と大西瀧治郎の自決は同一ではない。大西はその自決に際し贖罪の遺書を残した。宇垣は五航艦長官として多く特攻命じた。命じた以上自分も最後には特攻に行く。その公約の実行である。 人に死ねと命じておきながら生き延びるを潔しとしなかった。 大西は捷号作戦からずるずると特攻を引きずり、宇垣は五航艦長官として菊水作戦(天一号作戦)を仕切った。その仕切りの仕上げが自らの特攻であった。 一部伝えられる陸軍の高官のように、自分も後から行くと約束し、戦いが終わるや軍人恩給で平穏な生活を送ったことと比べれば人間的優劣は自ずと判定できるであろう。 その間にも、ソ連の北方4島への進攻は続けられ、根室の目と鼻の先の歯舞諸島まで進攻された。翌、 17日、海軍は大海令49号で、陸軍は大陸命1382号で一切の武力行使(自衛も含む)の禁止と作戦任務の解除が発令された。 *最初の特攻を行わせた大西瀧治郎は詔勅の翌16日に自決。本来自決すべきは源田 実であった。 *マリアナ沖海戦で惨敗した後の、 1944年(昭和19年)6月27日館山航空隊司令だった岡村基春(大佐)は舟木中佐とともに軍需省を訪れ、 航空兵器総局長だった遠藤三郎陸軍中将と総務局長の海軍大西瀧治郎を訪れ「もはや(航空機)体当たりのほかはない」と建言。 それ以前に、侍従武官だった城英一郎(マリアナ沖海戦で戦死)は航空特攻が開始される1年以上前の1943年(昭和18年)6月29日に特攻意見書を航空総務部に提出している。 第721航空隊(百里原)で桜花特攻隊を編成した岡村基春司令は1948年(昭和23年)7月13日千葉県の茂原付近で鉄道自殺*をする。自殺まで胸中なにが去来したのか? *関大尉以下特攻パイロットの人選を行った201空戦闘機隊副長玉井浅一(中佐)は、 戦後出家し仏門に入る。特攻で死んだ若者の位牌から片時も離れず端座し 合掌していたと伝えられている。その態度と行為から特攻が大義の発露でないことを示しいる。 彼は組織でいうと中間管理職だが、職を賭してでも特攻に反対すべきであろう。 *中島正は、1944年7月以降 第201航空隊飛行長として航空特攻を指揮したが、その著書で、特攻を指揮した責任は認める。 だが、特攻で戦死した搭乗員を責めてくれるなと発言している。冗談じゃない、前途ある若者を無慈悲に殺害したお前を国民は責めているのだ。勘違いするな。 『神風特別攻撃隊(猪口力平/中島正:著)』で出来もしない敵艦突入方法を書いている。率先垂範。それが海軍の伝統ではなかったのか?? 戦後彼らは航空自衛隊に加わる。 *海軍関係は手間暇掛ければ漏れはあるだろうけど特攻の時系列的記述ができる。陸軍特攻は悲しいかな、最適な資料が探せ出せなかった。これも、海軍びいきの陸軍嫌いか? *岡村基春の自殺は女性問題だったという説がある。 戦後60年たった今でも特攻を美化する 知覧特攻平和会館編 『特攻隊員たちが残した言葉』 草思社 にみる新聞広告 特攻隊員たちが残した手紙・遺詠を美しい風景写真とともに紹介する一冊。再び還ることのない出撃を前に、 隊員達は取り乱すことなく感謝の手紙をつづり、飛び立った。六十年前の若者達の無垢な想いが胸を揺さぶる感動の書。 知覧特攻平和会館は、鈴木勘次著『特攻からの生還』 を読んで見たのか。 整備兵の証言。出撃直前、腰を抜かして失禁したパイロットを抱きかかえて航空機に乗せた事実を!。 あの卑劣で組織犯罪を美化する言葉をなぜ、悲しい歴史を刻むべき特攻平和会館ともあろう組織が許すのか。 知覧特攻平和会館が全エネルギーを傾注して次世代へ伝えるメッセージは 「なぜ特攻が行われ数千の若者が死んでいったのか」 という事実と、 それを、誰と誰が組織し命令を下したのか。またそれを組織し実行した人間が戦後ものうのうと生を偸んだ事実を伝えるべきである。このような無責任体質が今日もなお、 政治や高級官僚らに連綿と受け継がれている事実こそ伝えるべきである。 国土交通省管下北海道開発局局長は、国民の税金執行に自分の金のような感覚で官制談合を取り仕切った。 2008年1月橋なんとか云う大阪府知事に当選したとかいう小僧が、地方自治体の首長が「一国の防衛政策を一地方自体が異論を差し挟むべきではない」と喋った。 橋なんとかいう小僧は弁護士だという。憲法の主権在民を知らない人間がこの国では弁護士が務まるらしい。 先の大戦で物言われぬ民が300万人死んだ事実と焦土と化した国土があったことさえあのバカは知らないらしい。 彼がそのような暴言を吐けるのも、多くの先達の流した血と涙で現在があるからなのだ。
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航空特攻関係記録にかかわる書籍や資料 ■『特攻隊の記録 押尾一彦:著』 ■『真相・カミカゼ特攻 原勝洋:著』 押尾一彦氏の著書では、予備学生(士官)は全て出身校が記載されている。 原勝洋氏の書籍では全く不明。 よって筆者は前書を奨める。 ■『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 1945年3月11日から敗戦までの海軍航空特攻抄録が附表第2で添付されている。本表で予備学生・兵学校出身者の別はわからない。 重い証言ほか ■『特攻からの生還 鈴木勘次:著』 銀河で特攻し撃墜されて米側に救助された。 ■『特攻の真実 深堀道義:著』 ■『特攻総決算 永沢道雄:著』 総論的に流れるような文章で秀逸。
[tokkou] 内の各 htm ファイル 元山航空隊予備学生の墓場 特攻の時代と特攻隊員の遺書を考える 誰が航空特攻を主導したか 科学音痴海軍兵学校出身者 海軍の戦争犯罪 源田 実は人命軽視の超国賊 海軍の非人間性+戦争犯罪 大和水上特攻作戦と連携 航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄 渡邉恒雄(讀賣新聞・主筆) 下劣で戦争犯罪組織と化した海軍 菊水作戦と第六航空軍 陸軍第22振武隊 人間魚雷回天特別攻撃隊 回天搭乗員の戦死と投入潜水艦 人間魚雷回天特別攻撃隊の悲しい戦果 人間魚雷誇大戦果はなぜ?
[32削除理由]:削除人:関係が薄い長文 |