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安倍首相に自ら「兵站」を連呼させたってのは、志位氏の討論戦闘力がよほど高いか、相手がアフォか、その両方か……
http://www.asyura2.com/15/senkyo187/msg/115.html
投稿者 gataro 日時 2015 年 6 月 19 日 08:19:21: KbIx4LOvH6Ccw
 













 

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コメント
 
1. 2015年6月19日 08:43:12 : 5IuSlC3a1Y
太平洋戦争のときは、日本の「兵站」→「後方支援」の輸送船のほとんどが、アメリカの潜水艦に沈められたのは、有名なのにね。

2. 2015年6月19日 08:54:30 : l27XIzWv6w
 日本は兵站を軽視して戦争に負けた、インパール作戦、ガダルカナル退却、兵站破綻で作戦は失敗。兵站攻撃は戦略の基本であることを知らない安倍は頭が弱い。どんなに離れていても兵站拠点は攻撃される戦場だ。た途へ日本国内に兵站拠点を置いても、ミサイルで攻撃される。

 全滅を「玉砕」、退却を「転進」、敗戦を「終戦」、兵站を「後方支援」日本人はどこまで官僚に言い転がされる馬鹿なんだ、いい加減に目を覚ませよ君たち!


3. 2015年6月19日 10:46:29 : 5IuSlC3a1Y
後方支援
logistic support
logistics《軍事》
logistics assistance
logistics support
rear area support
rear-area logistic support
rear-echelon support
rearguard support

4. 2015年6月19日 10:54:19 : 5hv4Ec6AG9
うちの親戚の男性も輸送船に乗って戦地へ行く途中で沈められて亡くなったと聞いています。
当時、そういう話はたくさんあったようです。
“戦艦”でないからといって、敵が容赦してくれるはずはありませんからね。

5. 2015年6月19日 10:56:44 : RRHB3K9wS6
 先日「三国志」を見ました。当時でさえ「兵糧・武器」補給は戦術の最重要部分であり、いかに其れを阻止するか?または無事に輸送・補給するかは、戦いの基本中の基本の1つとして大変に重要視されていました。

 大日本帝国は約2000年も前から戦争では最重要であった兵站を無視していたということで、いかに当時の戦争指導者層が「無能」であったか証明しています。

 今回の安倍の答弁を聞いていると、大日本帝国の戦争指導者と無能さにおいて全く変わらないということ(単なる、法案成立のための適当な言い逃れかも知れないが・・・)を良く表していますね。


6. 2015年6月19日 16:40:42 : yIslIB7gp2
 しかも兵站線は非常に防御しにくい。しかし、兵站が滞ると直ちに自軍の戦闘力が低下する。
 日本は大東亜戦争終結時、本土への物資輸送の95%を破壊されていました。

7. 2015年6月19日 20:17:52 : R7H2zBLS8Q

日本の戦術は、現在の中国と同じだから、全て現地調達(略奪)なのさ

相手が軍とも言えない素人なら勝てるけど、作戦立ててくるプロなら勝負にならない

武器は持ってるけど、わずかしか撃たないんだよな、、、補給概念がないから

撃ち合いになったら、もう終わり、、、航空攻撃しても、七面鳥撃ちと言われるほど「狙う必要無い」

飛行侵入ルートが全て1番機と同じであるため、機銃を固定して銃撃すれば、勝手にクロスファイア

ポイントに日本機が飛行してきて撃墜できたと言われる、、、もう言われた通りしかできないんだよ

日本の軍部に支配洗脳された兵士ってのは

[32削除理由]:削除人:連続コメント

8. 2015年6月19日 23:34:32 : hdNY6z2Xpc
>>7. 2015年6月19日 20:17:52 : R7H2zBLS8Q
>言われた通りしかできない
>日本の軍部に支配洗脳された兵士

だいぶ国防関係が好きなようだが、今の時代の戦争は国の滅亡を覚悟せにゃならぬだからな。

とっとことっとこ兵隊さんが匍匐前進なんてないからな、国家間の戦争になれば。消されるだけ。

だからという訳じゃないが、今時の自衛隊の装備で燃えるようなヒヨコじゃ国防は無理だってこと。

余計な心配を自衛隊や国防関係者らに与えないようにするのが憲法を尊重する正統な日本人だ。

You see ?



[32削除理由]:削除人:連続コメント

9. 2015年6月20日 00:20:24 : eOBGjwhYEc
米国は次のような情報機関を設置していた。
1.統合情報委員会(統合幕僚長会議下部機構)
2.陸軍情報部極東課
3.極東攻撃目標課(陸軍)
4.海軍情報部極東課
5.太平洋戦略情報部(海軍)
6.統合陸海軍情報部
7.戦略情報部
8.作戦分析委員会
9.経済戦争局
10.外国経済局
11.敵国石油委員会
12.統合極東石油委員会
多く、重複する仕事を行っていたと思うが、日本の状況と比べ質,量とも膨大な組織と陣容であった。 これらの情報が一人大統領に集まったのだから、国力や生産力以前の問題をはらんでいる。東條英機に何一つ情報が集まらなかったことに比べれば総じて組織力化の違いだろう。

艦艇用レーダーは艦政本部(海技研)で航空機搭載用レーダーは航空本部で開発した。情報交換は一切行われていない。 航空機搭載のIFF(敵味方識別装置)は艦艇から質問波(電波)を発し、航空機が応答波(電波)を返す。海と空との一体化でなければ話が進まないのに、 艦は海技研が航空機は空技研の担当だったので縦割り的組織の壁が崩せなかった。 航空機搭載の識別装置として、「五式空電波識別機改1」及び「同改1甲」が試作されたが航空機に装備されることはなかった。

* 第一条の「国力並国力の維持増強に遺憾なきを期す」とあるが、 単なる空念仏である。 米軍にる通商破壊戦で南方からの輸送ルートは途絶し、 船舶も沈められボロ船しか残っていなかった。1944年(昭和19年)後半頃から 南方資源輸送の組織的計画的運行は不可能となった。 それは、海軍の無責任から来ている。 開戦時の護衛艦は前述したようにたった四隻だった。 船舶損耗に気付いた海軍は1944年(昭和19年)度から 低速・鈍足の番号で呼ばれる丙型・丁型海防艦建造に着手する。

■戦争をはじめたときの海軍には、たった四隻の海防艦しか存在しなかった。 諸外国の駆逐艦は対潜水艦作戦に多くのエネルギーを使ったが、 日本海軍の駆逐艦は艦隊決戦魚雷発射訓練に明け暮れていた。
■駆逐艦は輸送船を空軍力から防衛する方法も、潜水艦の魚雷攻撃から防衛する 方法を訓練したことも、組織として考えたこともなかった。
■戦訓に学ぶということを盛ん唱えたが、戦訓に学び真摯に組織力で対応したことは一度もなかった。
  1944年2月の段階でも「艦隊決戦」を転換しない海軍トップに対し心ある人間の必死の叫びも一顧だにしなかった。
開戦時、軍令部総長の永野修身は、「戦争だから少しの犠牲はあるよ」と呑気に語ったが船舶損失実態は、米軍の船舶攻撃に 為す術のない海軍だった。 敗戦後A級戦犯として潜水艦のことを聞かれると「僕、知らァなァーい」と答え連合国判事,検事を唖然とさせた。

渡邉恒雄(読売新聞・主筆)下劣で戦争犯罪組織と化した海軍

戻る 海軍の戦争犯罪 誰が航空特攻を主導したか   進む 航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち


強制された名誉の戦死への道程
海軍特攻部長 昭和19年(1944)年9月13日任命 中将 大森仙太郎
昭和19年(1944)10月1日 人間爆弾桜花使用の目的をもって721航空隊編成。
昭和19年(1944)10月19日 神風特別攻撃隊を編成。
昭和19年(1944)10月20日 第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎着任。
昭和19年(1944)10月21日 以降成功の25日まで特攻出撃を繰り返す。
昭和19年(1944)10月21日 特攻出撃の久納好孚中尉未帰還。
昭和19年(1944)10月25日 発ダバオ 菊水隊(加藤豊文),朝日隊(上野敬一),07:40 護衛空母に突入。
昭和19年(1944)10月25日 発マバラカット 関行男大尉 11:15 米艦突入成功。 大々的報道と全軍布告。

世界の海軍にあって最も下劣で戦争犯罪組織と化した海軍をほかに知らない。
渡邉恒雄(読売新聞・主筆)氏は、『人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく 汚辱だと思わざるを得ない』と言い切る。 これを誰が否定しえようか。

国を挙げての戦争をキッチリこなす組織体ではなかった。株式会社の一般的組織を念頭に置いて考えて頂ければ、海軍全体の組織がいびつであったことをご理解頂けるだろう。あるとき、突然代表権のない会長(海軍省)から、経営の根幹に係わる命令がおりてきて、 次の日代表取締役(軍令部)から、会長の命令に反する指示がおりたとき、現場は混乱するだけである。  米国の戦争遂行組織を見るにつけ勝てないと実感するだろう

VT信管
 米国のこの技術開発は「セクションT」と呼ばれた。1942年3月にはこの研究のみに1,000人近い科学者と技術者が 開発に携わった。正式には Proximity Fuse (近接信管)であるが、悟られないため、Variable Time Fuse と 呼称された。それぞれの頭文字。直訳すれば「可変型時限式信管」金属感知近接信管のことである。 銃砲弾が機体命中しなくともある範囲の金属を検知すると爆発する。 それまで、艦船より発射される銃砲弾は対航空機に1万発に1発程度命中とされたものが飛躍的に向上した。 ましてや防弾構造となっていない日本機にはVT信管は致命的打撃を与えた。




10. 2015年6月20日 00:26:33 : eOBGjwhYEc
「兵站」→「後方支援」

国を挙げての戦争に「自存自衛」のバカさ加減 東南アジアの原油から潤滑油は採れない!

-- 南部仏印進駐 --
ヨーロッパ戦線でオランダがドイツに屈服し、政治的に空白化していた情況の中、南方石油資源獲得の 足がかりを得ようとして、1941年(昭和16年)7月28日、 日本軍は仏印南部(仏領インドシナ)への進駐を開始。英米は進駐が行われた場合には、 貿易制限を強化することを宣言していたが、これを無視して強行された。 この結果として、英米蘭は在日本資産の凍結、 日英通商条約廃棄、米の対日石油禁輸のなど日本側の予想を上回る措置を発動した。


この危険極まりない南進作戦は、すでに泥沼化していた中国との戦争継続のために石油が必要だったことによる。 すなわち国益より武勲を誇る軍部の独走だった。 よって何のために総力戦を戦うかという戦争目的はあいまいなままだった。


-- 石油危機に直面した日本 --
石油の80%を米国に依存していた。自給率はわずか8%。悪いことに、 海軍はその潤滑油のほぼ100%を米国に依存していた。 また航空機用ハイオクタンガソリン抽出の石油精製技術も大きく立ち遅れていた。
石油禁輸で軍部は南進して石油資源を抑えろ!と声高に叫び、ついには太平洋戦争へと突き進む。
当時の政策決定集団は統帥権を背景に圧倒的政治力*1を保有していた軍人政権は、
1.何を根拠に「経済・工業大国の米国と戦争して生存」が可能と考えたのか。
2.獲得石油の主管部署と資源還送の方法と手段を考えていたのか。
3.スマトラ・ボルネオ産原油の性状を知り得て戦争を始める決断を行ったのか。
* 近代戦に必要な潤滑油が採れない実態を知っていたのか?
4.自国の工業基盤整備に意を払ったのか。
1項、米国と戦争すれば敗けると知っていた。 ニューヨーク在住の新庄健吉主計大佐は日米国力格差の分析を行い、黒畔豪雄(くろいわひでお)大佐に託された。 この米国力評価報告書に海軍が反発。東條陸相の懲罰人事で前線勤務となった。
1941年7月2日の御前会議に
@中国との戦争は継続する。
Aソ連へはドイツの攻勢情況をみながら攻め込む。
B日米交渉を継続しながら戦争準備を整える。
C南方への進出を図り、米英と戦争になっても仕方がない。
三方面の戦争姿勢を示し、国力、兵力の集中、補給線の確保など戦争の基本から大きく外れるものだった。 そして、仏印進駐で石油全面禁輸。これを受けて、 二年程度は暴れてやる!。という根拠なき根拠で戦争を始めてしまった。 始めるからには終わりがあるが、その終わり方も研究していない杜撰なものだった。
一方海軍は海軍国防政策委員会を発足させ石川信吾*2・富岡定俊(とみおか・さだとし)・高田利種(たかだ・としたね)・ 大野竹二らが南進論を展開した。これに神 重徳(かみ・しげのり)、 岡 敬純(おか・たかずみ)などの親独・対米強硬派が陸軍作成の国力評価報告書「日米国力格差の分析」を封じ込め「戦争推進」への途を選択させた。  陸軍が戦争開始主導権を握ったのではなく海軍が握っていた。
2項、戦争は国と国との戦いだが、石油資源獲得後の生産・精製・還送方法と手段を陸海軍は全く調整せずに 戦争に突入した。陸軍と海軍の石油施設の占領比率は85対15であった。またこれらの油田・製油所の操業を 別々に行ない、石油生産量・消費量・備蓄(在庫)状況は政府(企画院)に報告されることはなかった。
この年度別実態が明らかになったのは、敗戦にともなうGHQの調査結果によらざるを得なかった。 バカみたい。
陸海軍とも戦争の経済的側面を全く理解していなかった。
また、還送輸送船舶防御のためのハードとソフト。攻撃のためのハード(兵器)を全く考えず、 ただ船がスクリューを回せば日本にたどり着けると海軍は楽観していた。 防御は輸送船個船(艦)で行え!
3項、油があれば戦争出来ると考えただけで、原油からどんな性状の油が抽出できるのか知りもしなかったように思える。 山本五十六さえ「水からガソリン」が出来ると信じていた。
油の確保は「自存自衛」の第一歩と云いながら、占領した油田・製油所を日本の国力増強に活用するという視点が欠落していた。 海軍は東ボルネオのサンガサン油田・タラカン油田、唯一高級潤滑油を生産していたバリックパパン製油所*3を占領した。 陸軍は最大の原油生産地である南スマトラパレンバン油田周辺全てを手中に収めた。
海軍の占領したタラカン油田の原油から東南アジア産には稀な潤滑油が精製できたが、 それがどの程度日本に運ばれ戦争に寄与したのか、確たる数字を探し出せなかった。 おそらく蒸留窯や精製技術の未熟さで米国製品ほどの品質を確保できなかったであろうことは容易に察しがつく。
陸軍は1940年(昭和15年)2月に陸軍航空技術研究所で「近い将来、北緯20度以南(熱帯地方) で作戦する可能性があり、航空兵器、装備の調査研究を邁進すべし」との指示が出され陸軍 燃料関係者の間で蘭印の油田に関する情報収集・分析が開始されている。
4項、戦争優先。よって民需用の燃料を大幅にカットし生産力は低下。陸軍は人の技術力や知識・能力に関係なく 徴用し単なる「穴掘り(持たす鉄砲がなかった)」をさせたので、品質と生産力が激減した。

-- 南方資源獲得情況・還送・原油性状 --

表−1   南方地域での石油精製量
  1940年

(昭和15年) 1942年

(昭和17年) 1943年

(昭和18年) 1944年

(昭和19年) 1945年

(昭和20年)
製油所通油量 63,958 13,870 28,396 26,845 4,448
航空ガソリン  4,613  2,937  5,411  5,526  829
普通ガソリン 13,585  2,499  3,658  2,656  600
灯油  7,076 1,120  1,312  1,201  193
軽油 − 233  572  674  158
潤滑油  387

 (61,525)  301

 (47,853)  687

 (109,219)  798

 (126,866)  107

 (17,010)
重油 17,692  6,963 15,013 14,466 2,166


出典:戦略爆撃調査団報告  潤滑油( )内KL  他は千バーレル
この石油の実態は日本政府でなく、敗戦にともなう米国調査団によって解明された。

当時軍が使用していたであろうガソリンのオクタン価
『日本石油百年史』 1940年(昭和15年)10月8日、日・蘭印石油輸入回答数値に
1.オクタン価71以下。  --- 軍関係資料に自動車用揮発油はこのオクタン価であろう。
2.オクタン価72以上87以下。  --- 航空機使用揮発油と思われる。
3.オクタン価88以上。  --- 高出力設計航空機エンジンに使用したと思われる。
『悲劇の発動機「誉」』  --- 海軍より100オクタン価ガソリンは供給できないので 88〜91オクタン価でエンジンを完成すべし。 と中島飛行機「誉」エンジン開発チームは通告された。 とある。 よって、使用されていたガソリンオクタン価は4種類あったのであろう。 前掲表−1も戦後米国調査団によって解明されたもので、
本当に一部の軍関係者しか知らなかったはずであり、数値が発表されることもなかった。
徳山海軍燃料廠史に92オクタン価のガソリンは製造できなかったとある。
1941年(昭和16年)4月、南部仏印に進出を目論む軍部は国家総力戦を研究する「総合戦研究所」を開所した。 この研究所には、中央官庁、陸海軍、民間から平均年齢三三歳の研究生36人が集められた。
玉置敬三(商工省勤務、のちに通産次官、東芝社長)
千葉 皓(外務省勤務、のちに豪州・ブラジル大使)
林 馨(外務省勤務、のちにメキシコ大使)
清井 正(農林省勤務、のちに農林次官)
吉岡恵一(内務省勤務、のちに人事院事務総長)
芥川 治(鉄道省勤務、のちに会計検査院長)
佐々木 直(日本銀行勤務、のちに日銀総裁)
成田乾一(斉南特務機関員、のちにテレビ番組製作会社経営)
彼らは、日本にその概念が薄かった総力戦の観点から、調査、研究、討議を重ねたが、 最後まで分からなかったのは、「陸海軍の石油備蓄量」だった。  備蓄量が分からないのだから愚輩も軽質油や潤滑油など調べようがなかった。 例えば、 既述しているが、海軍自慢の長射程93式酸素魚雷を製造しなくなり、95式2型(射程 5 Km)となった理由にスクリュー軸用潤滑油の枯渇だと勘ぐった。エンジンは、 灯油(ケロシン)を純酸素で燃焼さすのでそれほど逼迫は考えられず、そうか推進軸の潤滑油に高品位なもを供給できなくなった。のだと得心した。 高速回転軸に粗悪潤滑油を使えば直ぐに焼損(固着し回転不能)する。

表−2   南方地域での石油生産量と日本への還送量
  昭和15年度 昭和17年度 昭和18年度 昭和19年度 昭和20年度
原油生産量 65,100 25,939 49,269 36,928 6,546
  〃 KL  1,033.3  411.7  787.7 586.2 103.9
還送量 - 10,524 14,500  4,975 -
  〃 KL   167.0  230.2 79.0 -
企画院見込(KL) - 30.0  200.0 450.0 -
消費・損失 - 15,415 35,126 31,953 6,546
  〃 KL - 224.7 557.2  507.2  103.9
生産余剰    187  231 79 0
企画院見込差   137.0  30.0  -371.0 -


出典:石油で読み解く完敗の太平洋戦争  単位:KL=万KL   単位:千バーレル 
1バーレル=158.98リットル

表−3 各出油地区原油性状
原油名 セリア タラカン エルクヒル*
所在 ボルネオ ボルネオ アメリカ
性状区分 芳香族基原油 芳香族基原油 パラフィン基原油
比重15/4゚C  0.833  0.948  0.937
軽質油留分  75.3  18.5  27.0
潤滑油留分  -   31.0  40.0
残留分  24.7  50.5  33.0
出典:「実用燃料油と潤滑油 明星四郎/冨田正久共著」

表−1にみられる、1943年〜44年にかけて、生産は順調に回復したが、表−2のように それが、そのまま日本に還送されたわけではない。
1944年企画院が見積もった必要量を371万KLも下回った。
また、全ての原油から潤滑油は採取できない。東南アジアの原油はそのほとんどが、芳香族基系原油で 唯一、タラカン原油から潤滑油がとれた。


* 芳香族基原油から上質の潤滑油は生産できない。一方パラフィン基原油は 潤滑油のために存在するような原油だった。 タラカン原油はそのまま直燃(原油のまま)が可能だった。
次、[ 図−1 ] バリックパパンのみ航空機用高級潤滑油が生産できた。


[ 図−1 ]


海軍が確保した原油地帯はボルネオ島の東側だけで、その他は全て陸軍が抑えた。よって 生産の大部分は陸軍。消費の大部分は海軍だったが、 その国内タンカーの7割(32万トン*)は海軍徴用船として確保され、 1942年4月の段階で早くも陸軍との軋轢を生んでしまった。 海軍は接収した設備と油田からの石油供給量では大量の消費に追いつかず、 陸軍の確保地帯の原油と生産量の50%提供を提案したが陸軍に拒否された。


逆に陸軍は海軍の抑えている徴用余剰タンカーを求めている。 米国との開戦決意は、 石油禁輸政策の結果を受け、石油確保のために南進(東南アジア)を決定したが、 確保した石油の配分と還送方法を全く決めずに戦争に突入している。 陸海両軍は協力して連合国との戦争を行っていない。   国内海軍保有燃料の実態はこちら


* 開戦当時の油送船総トン数は48万5千トン。徴用船海軍32万3千トン。陸軍1万4千トン、残りが内需である。  ちなみに、何度も書いたがミッドウェイ海戦で使用した燃料は60万トンと云われている。

海軍バリックパパンでの精製高     海軍が占領し運用した国外の製油所はこちら。  場所はこちら。


表−4   海軍バリックパパン製油所の実態     単位:KL
  1944年8月 1944年12月 1945年1月 1945年4月 1945年8月在庫
1号重油 4,258 2,523 2,990 0 4,987
2号重油 4,361 0 0 0 4,397
3号重油(缶用) 15,717 2,937 7,596 0 72,857
航揮 91オクタン 8,913 1,680 1,263 42 1,436
航揮 87オクタン 1,487 478 305 220 230
原 揮 16,121 1,678 1,408 − 13,740
航空潤滑油 387 182 98 0 142
普通潤滑油 2,870 563 8,155 0 1,283
海軍省軍需局長「月頭報告書」所載:太平洋戦争と石油

* 上表悲劇的な数字である。一般的最小のガソリンスタントでも地下に 40KL の地下タンクを埋設している。
昨今、都市近郊の、俗にトラックステーションと呼ばれているGSでの軽油販売量は1店舗で月間1,000KL以上もある。


ボルネオ島北西部、ミリ、セリア油田、ルトン製油所は陸軍十八師団川口支隊が制圧した。 破壊は小規模でルトンから最初のタンカー橘丸が原油6,000トンを積込み1942年3月22日に日本に到着している。
スマトラ島パレンバンは陸軍降下部隊が制圧した。ここの製油所はコメリン河をはさむように、 東岸に(NKPM・米スタンダード社系)、西岸に(BPM・シェル系)があった。NKPMは徹底的に 破壊されたが、BPMは、わずか4基のガソリンタンクが破壊されただけで製油設備はほぼ無傷で確保された。
海軍が占領したボルネオ島東地区の破壊は徹底していた。ロイヤル・ダッチシェルの精製設備と貯油タンクで健在なものは皆無だった。


-- 軍人は国際政治とテクノロジーに全く無知だった --
1.英米の禁輸警告に「石油の禁輸」は無いと、楽観的見方に終始した。   海軍石川信吾はその筆頭。
2.技術模倣国家の軍隊は、軍事訓練というソフト重視に偏重し、 自ら使っている兵器が全て模倣から始まっているとの認識さえなかった。
3.南方占領地の原油から良質な潤滑油が採取できないという知識も無かった。
北緯50゚ 南緯10゚ の広範囲の海上で海軍艦艇・航空機は戦闘を行っていた。  この両極端な気温に通用するオールマイティーな各種潤滑油は日本の精製技術では不可能であった。  現在、レシプロエンジンに使用されている化学的合成油でも適応できないのではなかろうか。
レシプロ機関の潤滑油とスクリュー回転軸に使用する潤滑油は全く別種の性状である。 それぞれに適合した油を使用しなかったとき艦艇の機器は焼損を起こし運行不能となる。
1項の規制に陸海軍省部の関係者は驚愕する。 それ行けドンドン南方だ!。と短絡する。
2項、中島飛行機開発の"誉"エンジンもカーチス・ライト社の技術者によって指導を受けながら開発していた。  工作機械は全て欧米の工作機械だった。 技術導入の途を失った日本は、ドイツの技術援助を受ける ことを考え、訪独潜水艦の試みを行う。 結果は不成功。
3項、蓋をあけてビックリ。まず、潤滑油が枯渇した。よって、 オイル交換したオイルを濾紙でこしただけで再使用(再生潤滑油)した。 すでにこの段階で色こそ油だったが、油本来の潤滑効果は失われている。   最後には良質潤滑油が枯渇し、航空機エンジンの不調が続発する。
航揮製造技術も開戦当時のオクタン価87程度だったが 最終到達でも91オクタン価*4だった。 中島飛行機が開発した誉(21型)エンジン搭載の彩雲11型偵察機(C6N1)の日本公式最高速度は329Kt(609Km/Hr)だったが 敗戦後米国が米国製航揮と米軍使用潤滑油でテスト飛行すると時速695Kmを記録した。実に14%も速力増となっている。

-- 日本が到達できなかった石油精製技術 --
ガソリン製造は、ウイリアム・バートンによって熱分解法が開発されて、良質な軽質油の製造が開始された。 それによって得られるガソリンに四アルキル鉛(四塩化エチル・猛毒)を加えることで87オクタンを91程度に高めることが出来た。  日本では、練習機によるパイロット養成には87オクタンガソリンが使われたが、 航揮枯渇の情況で訓練は大きな制約を受けることになった。
そのような状態では歴戦の数少ないパイロット以外は、離着陸がかろうじて出来る程度の錬成度しか望めなかった。  また、第三海軍燃料敞(徳山)でも四アルキル鉛添加作業による多くの鉛中毒者を輩出している。
第三海軍燃料敞で高オクタン価ガソリン製造のために、 水素添加装置の巨大なコンクリート建物が敗戦後も存置されていたが順調に運転したという資料を探せ出せなかった。  あの水添装置は87オクタン価ガソリンを92オクタン価ガソリンにする程度の装置であろう。  100オクタン価ガソリンが製造不能の状況下で、航空機エンジン開発技術者は、一時的高出力発揮の手段として、 水+エタノール噴射を試みるが機構の複雑化(各気筒に均質な噴射プランジャー製造不能)し実用化にほど遠かった。
中島飛行機が試作開発していた海軍名「誉」、陸軍名「ハ45」は、 空技敞和田敞長より「最も高級な材料、燃料、潤滑油」での試作(1940年9月15日試作命令)を命ぜられが1942年に入ると、100オクタン価のガソリンは供給できない。と通告されている。  出典「悲劇の発動機『誉』前間孝則 草思社」


フランス人化学者ユージン・フードリー(Houdry)とサン石油が開発した接触分解法で容易に100オクタンガソリンが得られた。 これによってメッサーシュミットの87オクタンガソリン使用のドイツ戦闘機は英スピットファイヤー戦闘機が使用する100オクタンガソリンの敵ではなかった。
* ガソリンのように直接的兵器でもない代物も戦勢を大きく左右した。 航空機エンジン開発・航空機燃料開発・ 空気過給器・高純度潤滑油など、ハイドロカーボン時代の戦争は一国の運命を左右した。
日本でのハイオクタンガソリンの商業プラント化は1960年代である。石油の流動接触分解(FCC : Fluid Catalyst Cracking)装置が造られ実現する。  FCCについてはこちら


-- 米国の戦略「総合戦」 --
1.無資源国日本の生命線(オイルロード)を断て!。
2.工業力を無力化する戦略爆撃機を製造せよ!。
1項、無制限潜水艦戦を実行。戦争初期魚雷の早発が改善されるや、 輸送船に牙を剥いた。 米海軍でたった2%の兵員が日本の輸送船の55%程度を撃沈した。
2項、B-17爆撃機より高性能を目指して、B-29長距離爆撃機を戦場に投入。そのほとんどは戦術爆撃に使用されず、 戦略爆撃を行った。これにより工業基盤が喪失した。 彼らは、補給に便利なテニアン・グァムなどを基地としたので、 中間点硫黄島はその不時着場として必要だった。これで生起したのが"硫黄島の戦い"である。
テニアン・グァムへの米軍補給線を遮断する作戦を一切行っていない。手持ちの潜水艦にも米輸送船を攻撃しろと命令していない。 B-29 もガソリンと爆弾がなければどうにもならないのにそれを遮断する作戦という発想さえなかった。

*1 自らの意に沿わない人間を抹殺する恐怖を発信し続けた。中野正剛の自殺は好例。
*2 1941年7月、米国石油禁輸発動はありえないと公言していた。 だが、石油禁輸発動を聞いて「禁輸は覚悟していた。石油は俺たちの生命である。それを止められたら戦争だ」とうそぶいた。 石川は敗戦を海軍輸送本部長兼大本営戦力補給部長でむかえ、1964年(昭和39年)12月17日死去(七〇歳)。 発言が揺れ動いたのでつけられたあだ名が「不規弾」であった。
*3 バリックパパン製油所で精製された潤滑油および、 タラカン油田で採取された原油が国内に運ばれた確かな史料が探せだせなかった。  おそらく石油精製技術に係わる研究所は第三海軍燃料敞(山口県・徳山)にあったが「海軍徳山燃料敞史」には潤滑油精製の細部が書かれていない。
中島が開発した「誉(21型)」・「陸軍ハー45」など、電気系統と潤滑油不具合が多く発生した との記録があるので、最後まで国産航空機用潤滑油の精製は不可能だったのではなかろうか?。
そのような情況の中で、九三式3型魚雷(48Kt/15,000m)が九五式2型(48Kt/5,000m)の低射程魚雷の製造に退化したものであろう。 エンジン用高級潤滑油入手不能(あれば航空機優先)と軸(スクリュー)潤滑に再生油にせざるを得なかったものと考えられる。 長射程はエンジン焼損。スクリュー軸焼付固着に見舞われたのか?
*4 石油精製技術の立ち遅れで中島飛行機は戦前カーチス・ライト社の技術指導を受けながら開発した発動機、 ハ四五(海軍名「誉」)により四式戦闘機「疾風」(はやて)は91オクタン航揮と水エタノール噴射装置の組合せで時速624Kmの速度に到達した。 この発動機の基本設計は100オクタン航揮と、 最良潤滑油の前提設計だったので、潤滑油枯渇の中で初期の性能を発揮しえなかった。 石油精製技術を 欧米に頼った悲しさである。


参考図書
 石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」 岩間 敏/著 朝日新聞社:刊 2007/7/30発行
 石油の危機 支配者たちの興亡(上) ダニエル・ヤーギン/著 日本放送出版協会 1991/4/20発行
 実用燃料油と潤滑油 明星四郎・冨田正久共著 成山堂書店 1965/10/15発行





[32削除理由]:削除人:関係が薄い長文

11. 2015年6月20日 00:28:36 : EmjwIwW5GM


安倍「 北朝鮮からミサイルが日本に向いてるゾー。」

自衛隊「 やっちまえ !」

集団的自衛権行使〜

米軍が世界中で引き起こした戦争にどこへでも出かけ、
戦闘機への空中給油を可能にするのが兵站。

安倍「 後方支援は安全です 」

米軍「 給油サンキュー 」

「 停戦合意 」はされていますが、まだ戦乱の続く地域に自衛隊は派兵される。

当然襲撃も受けるし、

「 ドーン 」

自衛隊「 紛争勃発だー!! 」

国民「 うわっ、僕は絶体戦争に行かないゾ 」

安倍「 敵の攻撃で破損した陣地を補修せよ 」

国民「 戦争は行かないゾ… 」

憲兵「 業務従事命令違反だ! 逮捕だ!」

国民「 助けて… 」

安倍「 有事は国民総動員でのぞまないと 」

以上アベゲリゾ〜の集団的自衛権行使です。


12. 2015年6月20日 00:30:30 : eOBGjwhYEc

 特攻は作戦にあらず用兵にあらず。  特攻 悲しき歴史


山本親雄
【山本親雄】 昭和19年2月の段階で、海軍省軍務局岡敬純,海軍大臣兼務軍令部長嶋田繁太郎(S20/2/21付),伊藤整一軍令部次長,中沢佑軍令部第一部長,山本親雄(ちかお)第一課長ら軍政、軍令トップは必死特攻兵器「回天」の試作命令を出した。 彼らは戦後詭弁を弄したりダンマリを決め込む。中沢佑はこともあろうに特攻は大西瀧次郎が言い出しっぺとシラを切る。


昭和19年 (1844)に入り戦局の態勢挽回が絶望的になった3月
海軍省軍務局は人間魚雷3基試作を支持した。

強制した戦死(特攻)に息を吹き込んだ卑劣漢ら


黒島亀人 軍令部 第二部長(軍備担当) 黒島亀人 (任期 1943/7/19〜1945/5/26)
1944年(昭和19年)4月4日、特攻兵器に対する要望(作戦上急速実現を要する兵器)。
(イ)体当り戦闘機。 爆装零戦で特攻実現。
(ロ)小型にして飛行機における戦闘機の如き潜水艦。 海龍(海竜)全長17.28m  昭和19年6月・完成224隻、乗員2人で実現。
(ハ)走行爆破艇 艇首に一屯(爆薬)以内。 震洋1型として全長5.1m 昭和19年5月製造。


 この時期、この男をこのポストに付けたことが日本の不幸であった。 この部局に、第三課(軍備・兵器)と第四課(出動・動員)があった。第三課が考え出した兵器は漫画チックで話にならないものばかりであった。 結局彼が率いる部局は特攻兵器製造に狂奔する。
 昭和18年(1943)9月18日 - アメリカ機動部隊がギルバート諸島を空襲。この時、零式艦上戦闘機の強敵となる F6F が戦場に出現する。 零戦神話はずるずると崩れて行く。 F6F に対抗するためではなかったが、昭和18年4月に次期戦闘機「烈風」の試作が始まる。国力の無さが災いする。 戦局が守勢に傾くや、軍令部第二部は局地戦闘機に熱を入れる。雷電、紫電、紫電改などの量産と特攻兵器量産に血眼になる。


震洋艇
ベニア板で造られていた。これも絶対死前提である。人の命を屁とも思わない武器を考案した黒島亀人を海軍機関学校卒者は悪く言わない。 機関科は海軍内での地位もステータスも高くなく、どんなに彼らが有能でも駆逐艦の艦長にさえなれなかった。そんな彼らに分け隔てなく接したという。 現在の我々からみれば黒島亀人はとんでもない犯罪者だが海軍という蛸壺社会ではどうも黒島は善人だったようだ。 すなわち、海軍そのものが常識の通用しない社会だったように思える。

海軍で秘密裏に行った㊀〜㊈金物研究     下劣で戦争犯罪組織だった海軍

㊀ 金物 潜航艇 →特殊潜航艇『甲標的』『甲標的丁型蛟龍』として量産、蛟龍の実戦参加なし。
㊁ 金物 対空攻撃用兵器。
㊂ 金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)小型特殊潜水艇『海龍』として試作・量産,実戦参加なし。
㊃ 金物 動力付き特攻艇 水上特攻艇ベニヤ板艇『震洋』として量産・実戦使用。
㊄ 金物 自走爆雷。
㊅ 金物 人間魚雷 『回天』として量産・実戦使用。

 肝心のエンジンは光工廠で製造していた。海軍の工員だろうと招集されたので1945年(昭和20年)に入ると動員学徒(現在の中学1〜3年生,女子含む)が製造した。 設計図があるので一応形はそれらしき格好をしていたがほとんど始動しなかった。この頃になると工作用の切削油も なくなり、程なく製造は中止された。  『日本空襲の記録 七 (中国・四国)』
 魚雷の命でもある慣性式爆発尖は欠陥品でもあった。魚雷航走中に爆発する事例が相次いだ。この爆発尖改造工事が海軍光工廠水雷部精密工場に舞い込んだ。 指示された仕様通りに主任以下全員泊まり込みで生産に当たったり指定された納期に間に合わせたがその改善爆発尖が精密工場に舞い戻されてきた。
  −出典:回想の譜 光海軍工廠−
 この回想の譜には驚くべき内容が記されている。爆弾に尾翼をつけない爆弾の製造が指示された。動員された学徒工員は気付く。これは特攻用爆弾だから尾翼の必要がないと。  嗚呼ー。

㊆ 金物 電探。
㊇ 金物 電探防止。
㊈ 金物 特攻部隊用兵器。

 よく見ると漫画チックな兵器のオンパレードである。自ら秀才と信じていた輩のおつむがこの程度である。   この期におよんで金物電探(レーダー)は笑止千万。昭和14年(1939)春、伊藤庸二技術中佐から、年度研究項目として電探実験が提案された。この提案に対して軍令部,海軍省軍務局,艦政本部の合同会議で軍令部は『左様な消極的防御兵器は海軍に必要ない』そのような暇と金があれば攻撃兵器に力を入れろ! と声高な調子でまくし立てた。この時期、海のものとも山のものともつかない電探を「防御兵器」と断定した。 実験もせずナゼ防御兵器と断定できたのだろうか??
 戦後異口同音に米軍の電子兵器(レーダー)に敗けた。 いかにも自分(用兵側)に責任がなく、開発を担当する艦政本部や航空本部(空技廠)などの怠慢に責任を転嫁した。


当時(昭和14年)の各長官・及びTOP
•海軍省軍務局 井上成美(期間 S12.10.20〜S14.10.17) 海軍の良識派?

•艦政本部長 塩沢幸一(期間 S14.1.27〜S14.8.29) 後任は豊田貞次郎

•軍令部長 伏見宮博恭王(期間 S8.10.1〜S16.4.8) 最悪の人物だった。昭和14年別人だったら歴史は変わった?

•軍令部次長 古賀峯一(期間 S12.12.1〜S14.10.20) 一番戦争を知らない部類にはいるなァー

•軍令部第一部長〔作戦〕宇垣 纏(期間 S13.12.15〜S16.4.9) バカだったから航空特攻にのめり込んだ?

•軍令部第二部長〔軍備〕三川軍一(期間 S12.11.15〜S14.11.14) 記憶力だけ確かで洞察力はパーか?
 この連中に洞察力が備わっていなかった。 行け行けドンドン。六バカ提督。 固定観念にとらわれず、スケールの大きさが備わってない最右翼? 先見性の無さは確定。  井上成美は海軍切っての良識派?? レーダー開発を封じ込めるのが良識派の職掌だったのだろう。

昭和17年(1842)ミッドウェイ作戦途次猛烈な濃霧に見舞われ、戦艦陸奥に試験的に搭載されていた電探の有効性は同艦から上申されていた。
これら金物と呼ばれた兵器の開発運用がこの戦争をなんと醜悪で愚劣なものとしたことか。


航空特攻は、日本海海戦(日露戦争)の成功体験を墨守し築きあげた砲術系の終焉を意味していた。戦艦では 中佐クラスが砲術長だったが、その指揮下に少佐クラスなどが発令所,測的所,各砲塔,弾庫,弾薬庫などに配置されていた。 戦艦では1発の弾丸発射に何百人もの組織ピラミッドを構成していたのだ。
ところが、爆装零戦は一人で、これら何百人もの組織ピラミッドに勝った。  これほどのパロディーがあろうか。


山本五十六存命中の黒島亀人は、山本の右腕として作戦を担当した。  作戦は精緻であったと伝えられている。  その一つは、北緯50゚ (キスカ・アッツ島)付近の寒冷地と南緯10゚ までの広範囲な平面に将兵をばらまいた。  攻撃する米軍は、その任意の対日戦で痛打を浴びせることの出来る一点を狙えばよかった。  この広大な面に彼は将棋の駒に相当する艦艇を将兵を、米国に挑発されながら指していた。  作戦家として有能だったかも知れないが、対米戦争に勝つ戦略を持ち合わしていたという彼に関する 詳伝を筆者は見ていない。 当然ながら、戦略なき者に戦術があるわけがない。という図式になってしまう。
緯度の開きが60゚(北緯50゚ 南緯10゚) に及ぶ状況で、ハイドロカーボン(hydro-carbon)の性能が戦いの帰趨を制する時代 になっていたことを、この男は果たして知っていたのであろうか?。  海軍が使用する兵器のあらゆる機器類に潤滑油を使わざるを得ないが、 この広緯度をカバーする潤滑油は存在しなかった。  原油系物質でエンジンオイルを製造するとなれば、パラフィン系が優れているが、 この作戦屋は果たして知っていたのか?。それを知らなかったのであれば、帝国海軍は米国と戦争すべきではなかった。

(ニ)自走大爆雷。
(ホ)大威力魚雷 一人搭乗 回天1型として14.75m 昭和19年8月正式に兵器化。
この要望が黒島亀人より提出された。 更にもう一人立役者がいた。軍令部第一部長(作戦担当) 中沢 佑(任期 1943/6/14〜1944/12/4) 卑怯にも戦後講演などで、 特攻は大西瀧治郎が進めた言い張った。 ちなみに、軍令部 第三部長(情報担当)大野竹二。 第四部長(通信担当)も黒島亀人だった。
それまで極秘に特攻自爆装置として先の試案研究がなされている。 中沢 佑

嘘を信じるな!
昭和19年(1844)10月初旬、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎が任地比島に出発する直前、航空特攻を切り出し、軍令部もしぶじふ追認した。など戯言が膾炙している。 必死兵器の回天を8月に正式兵器として採用しながら、戦後自決した大西瀧治郎に一人に責任をおっ被せている。 海軍トップエリートとされた人間は、個々の人間の尊厳を踏みにじった大罪人で犯罪者である。 この小項は戦艦大和沖縄水上特攻から筆を起こした。 大和は壮図空しく挫折した。  すなわち、大和が沈没した昭和20年4月7日をもって帝国海軍は壊滅した。 この壊滅した日以降執拗に?に航空特攻を行った真意を問いたい。 また問う権利がある。

1944年(昭和19年)7月までに、船舶喪失は 4,822,344 トン に達した。 数字的にこの段階で戦勢挽回は不可能であった。 戦後この特攻兵器開発に血道をあげる節目となった、1944年(昭和19年)6月〜7月期を、 旧海軍軍人が出版する書籍の多くに、『背に腹を変えられず』という記述を行う。 絶対必死の人命軽視は何に対して、背に腹を変えられなかったのだろうか?

人間消耗品計画
対米戦争に一矢を報い彼をして厭戦気分を醸成し和平に持ち込む。という相手任せのずぼらな目論見を達成するために、 若人(16〜22才)を消耗品にすることを考えついた海軍首脳部は実態を伏せ、予科練習生(予備学生)の大募集を行った。 1944年手持ちの練習機は1,600機あまり、予科練募集総数はこの年11万人強。 この頃政府(軍部首脳)は天皇制を頂点とした国体護持を最終目的にしていた。現在我々は主権在民の憲法下、 国とは国民の総意に基づく主権国家である。当時の国を守るという言葉と現在の国を守るとい言葉は全く異質で同義ではない。 ここを履きちがえないで欲しい。 無知な太平洋戦記物Webサイト管理者が祖国や国民を守るために特攻隊員は散華した。 など戯言をUPしている。当時国とは国体のことであり寡聞にして国民を守るためと記した特攻隊員の遺書を見ていない。 幼児期より絶対天皇制の教育を受けて成長しており国民という概念が理解できなかったものと考えられる。
また、軍部は国民を守るということは一切その念頭に無かった。国民は天皇の赤子(せきし)であり消耗品であったし、人格を認めてはいない。
耳障りのよい言葉にだまされてはならない
■ 痛みを伴う改革
バラ色の未来がくるかのように、狐目の総理は獅子吼した。痛みの矛先は庶民だった。 政治家も高級官僚も蚊に刺されたほどの痛みさえ感じていない。
■ 多様なライフスタイルの提供
ポマードを塗りたくった総理がこの言葉を囁いた。そして多くの大学教授がそれは素晴らしい人生を拓くと語った。  絶望した若者は秋葉原事件で応えた。 少なくとも更に多くの予備軍が控えているだろう。
派遣社員を「安い労働力」と割り切る企業経営者、搾取する人材派遣会社、 穴だらけの法律によって、政治家やそれに迎合する学識経験者らは「ライフスタイルの多様化に対応する」という甘い言葉をささやいたが、 それはとりもなおさず加齢という引き返すことのできない人生を切り売りさせることだった。
ポマード総理誕生まで企業にとって人件費は固定費だった。労働関係諸法の改悪により人件費は変動費に変質した。 特攻隊員と同じく使い捨てとなったのだ。
■ 弁護士くずれでいっぱしの政治家もどき
大阪府。橋○なんとかいう弁護士崩れが、府の財政を改革する!。と叫んだ。 一番の目玉は株式会社でいう社員の賃金カット。経営者のまず行うことは収入の確保。収入の伸長。 これにより損益分岐点は大幅に改善する。賃金カットを行うと確かに効果がありそうだがとんでもないことになる。 人間は感情の動物で人生意気に感じたら100%のものが120%もの力をいくらでも出す。賃金カットは100の力を80にも70にも下げてしまう。  給与が下がれば消費支出(購買力)も下がる。購買力が下がれば消費が沈滞する。よって税収も下がる。下がる下がるの悪循環。
日本の弁護士の脳みそがこの程度ということを白日にさらした功績は大である。国民栄誉賞でも差し上げようではないか諸君!。 維新の会などとぬかし、憲法に抵触するような府条例をつくりまくろうとしているクソバカ。日本の弁護士はせいぜいこの程度。
戦国時代。社員を大切にした武将松永弾正久秀は死ぬことを覚悟した。 俺は信長に反旗を翻し死ぬまで戦う!。それを聞いた社員。 社長が死ぬなら俺も戦い抜いて死ぬ。一説には1000人近い人間が社長と行動を共にして果てた。 大阪府。橋○さんが同じ事を叫んだら、何人一緒に死んでくれるだろうか?。社長たる者徳がなければ値打ちなし。 昨今世の中値打ちのない社長が多すぎませんか。グッドウイルの何とか。その他もろもろ。 文明が進歩して物の質は大幅に向上したが、TOPたる人間の質は超インフレ。値段の付けようナシ!
1944年8月5日
人間爆雷「伏竜」隊誕生。実際の訓練は3月頃密かに始まっていた。

人間爆弾 "桜花" 開発小史

► 1944年8月16日、桜花開発は、航空技術敞管理下で『日飛』『富士飛』『茅ヶ崎製作所』その他工場で行われた。
■ 1944年6月27日、館山海軍航空隊司令岡村基春*は軍需省を訪れ体当たり戦法を建議。
■ 1944年10月1日、桜花を使用する目的で、721航空隊を新編成。司令岡村基春大佐

  神之池基地に新設。桜花搭乗員は、主として操縦教育課程の者から、桜花が必死の特攻兵器であること
  を知らせず募集した。 訓練を概成した721空は昭和20年3月1日、陸攻二個特設飛行隊(陸攻72機),
  援護戦闘機三個飛行隊(戦闘機107機)の兵力でもって第五航空艦隊に編入された。
  桜花一一型は昭和20年3月末までに750基の生産計画であったが、実際に配備された基数は216基で
  あった。 この部隊に配置させられることは特攻兵になることを意味していた。特攻以外の作戦はない。

■ 1944年10月23日、空技敞、相模湾上空でマルダイ部品の投下試験に成功。
■ 1944年10月31日、マルダイ部品練習機(桜花K1型)の試験飛行を百里原基地で行う。
■ 1944年11月20日、マルダイ部品(桜花11型)の着水時の起爆装置作動テストを鹿島灘で行う。
この成功を受けて721空は茨城県神之池基地(司令 岡村基春)で錬成訓練開始。
■ 1945年1月、鹿島灘で無人投下実験を行う。これで、一連の実験が終了し "桜花11型" 量産体制に入る。
■ 1945年3月、実戦投入の結果、桜花11型投下前に母機が撃墜されたことで、より航続距離のある桜花の開発が計画されたのが "桜花22型" である。ジェットエンジン『ツ11型』を後部に装備し、 緊急増速用として4式1号20型火薬ロケットを胴体下部に装着した。
■ 1945年8月12日、海軍の非人間冷血漢らは、"桜花22型" の空中投下試験(神之池基地)を行う。 母機銀河から離脱直前ロケット異常噴射のため尾部破損?し錐揉み状態で墜落。
"桜花22型" 開発と同時進行で "桜花43乙型" の研究開発を行う。それまでの母機懸垂投下方式でなく、海岸近くの山中に軌条を設置し火薬カタパルトから発射し『ネ20型』ターボジェットで敵艦に突入しようとする兵器だった。
■ 1945年6月、武山海兵団(横須賀)飛行場で『43型練習機』の射出試験に成功。実戦投入は9月の計画だった。
世界の海軍にあってこれほど非人間性集団の海軍を筆者は知らない。ロケットで死出の旅に旅出させることを冷静に命令出来る人間(司令)も養成していたのであろうか?。  レシプロ特攻機は、まだエンジン故障で引き返すことが出来た。実際のところ、陸軍特攻機に多くこの事案が発生し生き延びた航空兵が存在したが、 海軍の桜花は一度射出(投下)されると生還は期しがたい。  人間魚雷回天もしかり生還絶無。
桜花開発に関する出典:『日本海軍史 巻七 第5章航空機 頁484〜』
なお、人間爆弾桜花開発と運用に関しては、戦史叢書沖縄方面海軍作戦と加藤浩/著 神雷部隊始末記を併せて読まれることをお奨め。


殉国の至情は大嘘


海軍は装置と仕組みを先に作成し貴様の戦死は明日になったと命令した。  一度指令すると生き残りを許さなかった。
特攻を突き詰めると、海軍兵学校や大学校の教育にあった。科学音痴教育の実態はこちら
人間を消耗品とした狂気・冷血の海軍だった。  また海技研が材料入手困難な状況で開発した、艦載機搭載レーダー[空六号]を取り外して惨敗したマリアナ沖海戦だった。
別項に譲るが、沖縄突入艦隊二水戦通信兵として、奇跡の海を生き残った16歳の誕生月に海軍に志願入隊した『佐藤義一』は云う。当時の若者は『大義』のために身を投じることに全く違和感はなかった。  一刻も早く『大義』に殉ずる気持ちさえあった。だが現場にあったものは、理由にならない理由での『殴打』の連続であった。 人間をボロクズの如く扱う海軍だった。殴られることで兵が強くなることは、自分の体験からして絶対あり得ない。と断言する。 Imperial Navy の中に、人間的に高い見識と魅力ある人物もいたであろうことは容易に察しがつくが、 彼らの属していた環境は、人間を消耗品として扱った組織であったことも、また消すことの出来ない事実であった。  光輝ある建国以来の海軍が汚辱に満ちた海軍として終焉を迎えた。
NHKテレビ『ETV特集 城山三郎』(2007/10/5再放映)で、終戦前の大竹海兵団(現:広島県大竹市三井ポリケミカル)で 国の安危を救わんとしてはせ参じた、16〜17歳の少年兵らに、兵団首脳は平然と、 『貴様らは今日から全員伏龍隊員となった』と告げられた。  それは、水中に潜伏し持った棒の先の爆雷を上陸用舟艇に突き刺す隊員だった。 絶対死を意味した。  これほど次から次に人間を消耗品とする武器を考えついた海軍に言葉を失う。

海軍特攻部長 昭和19年(1944年)9月13日任命 中将 大森仙太郎

源田 実は第一航空艦隊 司令長官  大西瀧治郎比島到着前に一通の電文(1944/10/13)を起案した。
『神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、 純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・』
人間爆弾『桜花』の命名も源田である。


すなわち、特攻部長を決め、特攻隊名まで決めて人間爆弾となる人選を行った。そして突入は関大尉10月25日。 航空機による艦船突入は機そのものの脆弱性で打撃力は低い考えられていた。 戦歴の結果はそのとおりとなり人的被害のみ膨らんだ。人間も動物であり、死が必然となる環境にさらされると、 厭戦気分がみなぎる経過をたどり、組織的としての命脈は尽きる。
* 源田起案の電文『戦史叢書海軍捷号作戦 P108』 『昭和史1926〜1945半藤一利/著』
► 【写真が語る『特攻』伝説】(原勝洋:著 2006/11/25発行 KKベストセラーズ)P286でこの電文は特攻が成功した10月26日と記述する。
戦史叢書『海軍捷号作戦フィリピン沖海戦』P108 に記載されているのは、 航空特攻が初期の戦果を挙げた場合の発表時期と、その場合攻撃隊名も忘れず発表されたいという指令であり、電文起案と発信は別の問題である。ちなみに、大西瀧治郎中将の予定は10月8日10:35 東京(羽田)発, 12日比島到着の予定であった。電文起案は10月13日である。 戦史叢書も書くように、特攻成功の場合に攻撃隊名まで主務者との打合せがすんでいた。更に、現地に赴く大西に零戦150機の準備を源田は約束した。 よって人類史上最悪の作戦を物心両面で支えたのが源田 実である。 戦後のうのうと空幕長となり、こともあろうに参議院議員にまでなってしまった。

時系列的には、 •昭和19年(1944)10月5?*日 大西、航空特攻について軍令部*1とすり合わせを行う。 これは、戦後中澤 佑が言いふらしたことで、保阪正康(ノンフィクション作家)はこれを否定している。

•昭和19年(1944)10月13日 源田 実による特攻隊名決定電文起案と特攻部長任命。
•昭和19年(1944)10月17日 大西瀧治郎マニラ一航艦司令部着。
•昭和19年(1944)10月18日 捷一号作戦発動。
•昭和19年(1944)10月19日 特別攻撃隊を編成する旨搭乗員に説明。
•昭和19年(1944)10月20日 深夜 01:00 過ぎ 神風特別攻撃隊発令。特攻機13,直掩機13。
              敷島、大和、朝日、山桜隊。
•昭和19年(1944)10月20日 15:00 すぎ一航艦司令長官。猪口参謀、門司副官を同道。"神風特攻隊" 命名訓示。
•昭和19年(1944)10月20日 マバラカット飛行場。夕日の中を特攻機発進。 敵を見ず帰還。
•昭和19年(1944)10月20日 20:00 寺岡謹平前長官引継ぎ。 大西瀧治郎一航艦司令長官就任。
•昭和19年(1944)10月21日 特攻出撃の久納好孚(こうふ)中尉*2レイテ東方出撃未帰還。
•昭和19年(1944)10月24日 左足骨折入院中の201空山本栄大佐*3従兵に抱えられ特攻隊員の前に現れる。
•昭和19年(1944)10月25日 06:30 菊水隊(一飛加藤豊文),朝日隊(同上野敬一),特攻機4,直掩機2 ダバオ発進。
                   07:40 護衛空母サンティ,スワニー突入。
•昭和19年(1944)10月25日 07:25 過ぎ敷島隊マバラカット発進。 関行男大尉 10:51 セント・ロー突入。
* 中澤佑は大西が現れたのは10月5日と話した。 これは否定されている。
*1 大西瀧治郎は、10月5日軍需省航空兵器総局総務局長から南西方面艦隊司令部附発令を受ける。
この日大西は旧知の陸軍航空総監菅原道大中将のもとに挨拶(菅原日記・特攻の真実 深堀道義/著 P126)に現れている。
*2 特攻出撃の久納好孚(中尉愛知・法政大学)は関大尉より先に出撃し未帰還となったが 久納は学徒兵で関行男は兵学校卒。よって海軍は、久納を特攻突入散華としなかった。  だが明らかに久納機は特攻出撃している。最初の特攻は兵学校出身者も源田 実の差し金と思える。 学徒出身者が先に特攻したことを封じ込める(久納機特攻)悪知恵は源田以外に考えられない。 これは、筆者(当Webサイト管理者)の主観。
現在普通に探せる戦史でも時系列な特攻1号の名誉は、菊水隊の勇士に与えるべきである。
*3 航空特攻によく見られる写真で1944年10月25日マバラカット飛行場。円陣手前左、防暑服?で松葉杖の後ろ姿は201空司令山本栄大佐。 大佐は19日大西中将に会うため18:00ニコルス飛行場を中島 正(少佐)操縦の零戦に同乗し出発。 直後エンジン故障し、マニラの陸軍飛行場外の畑地に不時着。中島は顔面に軽傷。 山本は左足骨折。 この激励姿を多く玉井副長としているが誤り。撮影は報道班員として はただ1人許された日映カメラマン稲垣浩邦。 なお、10月20日、稲垣がマバラカットで撮影した特攻隊員のフイルムは、その日の内に 大本営報道部宛に送られた。

戦史叢書 海軍捷号作戦 フイリピン作戦による 10月25日の特攻隊
隊名 発基地名 発時刻 突入時刻 特攻機数 直掩機数 突入機数 合計機数 摘要
山桜 ダバオ第1 06:30 * 2 2 0 4 直掩機のみ帰投
朝日 ダバオ第2 06:30 * 2 1 * 3 敵発見せず帰投
菊水 ダバオ第2 06:30 07:40 2 1 1 3  
敷島 マバラカット 07:25 10:40 5 4 2 9 直掩2帰投
大和 セブ 09:00 11:15 2 2 2 4  
合計   13 10   23  

* 特攻唱道者たち
► 中澤 佑,黒島亀人らは海軍で特攻を最初に唱道した。  開発試案に人間爆弾『桜花』は含まれていない。  桜花*4に息を吹き込んだのは、当時軍令部部員だった源田 実である。 特攻に関して、黒島が声を出し、 源田が息を吹き込んで、大西が花を咲かせた。
ここまで進むと、強制戦死(特攻)に歯止めがかからず、 航空隊司令官や司令らの罪悪感は吹き飛び自らの武勲を誇るためのシステムを構築した。  最初の特攻隊命名者や人間爆弾 "桜花" の名付け親は源田 実(中佐・軍令部,任期 1942/12/10〜1945/12/14)だった。
大本営陸海軍部は1944年7月、『敵空母及び輸送艦を必殺する』との方針を打ち出した。 この後、大田正一(特務少尉)が "人間ロケット爆弾" を持ち込む。 飛びついたのが源田 実である。
大西瀧治郎がマニラ第一航空艦隊司令長官*5に着任する前の10月初旬*6、軍令部で、部長及川古志郎,次長伊藤整一(後、第2艦隊司令長官で大和沖縄特攻),山本親雄(1943/1/20〜1944/10/5)軍令部第一部,第1(作戦計画),第2課長(編成)兼務も同席した。
大西はここでフィリピンを最後の戦いとするためにと条件を付け『航空特攻』を次のように切り出した。 と中澤は云う。だが、 中澤らは、桜花の投下実験や721空の新編など、また人間魚雷回天の製造と、 基地整備及び搭乗員の錬成が行われており、 かつ正式兵器(1944/8)としている。そのような経緯を含め航空特攻を考える必要がある。 及川古志郎軍令部総長も伊藤整一軍令部次長もこれらのことを知らなかったという立場にない。
また、軍令の実施的最高責任者であった伊藤整一は特攻専門部隊創設を承認した。 源田 実や、黒島亀人。伊藤整一らは大提督とされる山本五十六の信任厚かったと 云われている。それでなかったら、あのミッドウェイ海戦大敗北の要因をつくり出した源田が、軍令部に返り咲ける訳がないであろう。 彼らは山本五十六の申し子だった。 源田のポストは黒島亀人の口添えか?

*4 "桜花" 特攻専門部隊 721空発足が 1944年10月1日。721空は特攻以外の作戦を行わない専門部隊だった。 ここに配置されることは特攻を意味した。  志願もクソもない部隊である。
*5 一航艦長官寺岡謹平。 1944年8月7日〜1944年10月19日
*6 大西の異動(南西方面艦隊司令部附)発令が10月5日。 この日旧知の陸軍菅原道大に会っている。常識的に辞令交付、挨拶の順になるだろう。大西は1944年10月8日10:35 台風通過後羽田発。
 菅原道大は第六航空軍(福岡)司令長官となって陸軍航空特攻を推し進めた。 彼はことある毎に最後の一機で俺も特攻に行く。と送り送り出した。 終戦のその日部下が閣下一機の特攻機が準備出来ました。と告げた。 菅原は、ばかやろう!。これからは奉公の道が違う。 と叫んだ。 打ち首獄門にしてもまだ足らない卑劣漢であった。

陸軍遠藤三郎中将の日記
「10月8日(1944年)、日曜日、朝台風後晴れ、六時やや前大西中将より電話あり、天候の都合上出発10時に変更の旨 直接伝えられる。(中略) 九時羽田飛行場に着く。(中略) 10時35分、台風通過を待ちて出発」


以下大西の発言とされる内容
『最近の敵は電波兵器を活用し、空中待機の戦闘機をもって、我が航空機を遠距離から捕捉して阻止することが巧妙になったので、 我が方の犠牲者は多くなり攻撃も困難となってきた。 このさい第一線将兵の殉国の至誠に訴えて、必死必殺の体当たり攻撃を敢行するほかに良策はない。  これが大義に徹するところと考えるので、これについて大本営の了解を求めたい。
勘ぐれば、この第一線将兵発言も大西の発言かどうかもあやしい。 戦後の特攻批判でこのように流布されたことを否定できない。
指揮官率先で遺書まで残して一式陸攻に搭乗して戦死した有馬正文も海軍は特進させず特攻と認めていない。理由は簡単。彼のような 将官が率先特攻に散華したと認めたら、並み居る将官や大佐、中佐、少佐に至るまで特攻せざるを得ない。 以降特攻は第一線将兵の中で "将" は皆無である。
結論:海軍は戦史まで身内(兵学校)に作為が働く虚飾と欺瞞に満ちた組織である。
部長及川は承認を与える。結果フィリピンの海や(レイテ沖),陸で(レイテ・ルソン)大敗北を喫したが『陸・海軍機全機特攻』を決定した。 以上は戦史叢書『海軍捷号作戦』P106〜の基礎史料による筆者見解
かなり前から、城英一郎(1944年6月10月25日戦死),山本親雄らで特攻に関する謀議が あったのかも知れない。おそらく特攻について語らなかったと思えるが山本親雄は、 1980年(昭和55年)11月4日(享年84)まで生きた。
城英一郎は侍従武官時代の1943年(昭和18年)6月29日に特攻意見書を提出している。

1944年10月初頭、大西がフィリピンで航空特攻を行うと切り出した席に、 伊藤整一(軍令部次長・1944/11/20付第二艦隊司令長官)も同席していたのである。 1945年4月月頭、大和の沖縄特攻が関係者の口にあがるようになるが、 三田尻沖に結集していた第二水雷戦隊の司令や艦長は成算なき特攻に異論を唱えていた。 4月5日・電令作第603号(13:59)により沖縄特攻を命じられるが長官以下がすんなり受け入れた訳ではない。 4月6日、午後鹿屋出張の帰り、草鹿参謀長が第二艦隊司令部を訪問し、 "一億特攻のさきがけ" と話すと、伊藤長官は『それならわかった』と応えたとされる。それは、航空特攻が切り出されたその席の四人衆に入っていたし、彼は特攻専門部隊神雷部隊創設を推進した一人でもあった。  恐らく伊藤は、この老兵が特攻行くことはあるまいと思ったことであろう。  そして、沖縄突入が決まると伊藤は生きていても仕方がない。とつぶやいたという。

特攻機搭載爆弾威力・効果判定 人間を消耗品としながら冷静な判定を行った。

特攻機搭載爆弾の威力判定
  桜花 爆  弾
炸薬量 1,300Kg 800Kg 500Kg 250Kg
威力点 5 3 2 1

テ足母機、銃火で簡単に発火する一式陸攻機、また護衛機が足らず成算なし」との反対を押し切って 第五航空艦隊司令長官宇垣 纒*7の“断固出撃すべし”の令により第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊を沖縄攻撃中 の米機動部隊に向けて、桜花実戦部隊として初出撃させた。

宇垣(海軍)は桜花特攻の威力の前に人命の損耗など眼中になかった。
宇垣 纒、終戦後私兵特攻の謗りを受けた。
野中少佐のささやかな抵抗。出撃以降全機だだの一本の電信も発しなかった。

威    力
  空母 巡改空母 護衛空母 戦艦 巡洋艦
桜花×2 * * * 10 *
桜花×1 * * * * 8
桜花+800Kg 8 8 * * *
800Kg×1 * * 3 * *


 特攻は自然発生的な『憂国の至情の先の志願特攻』であるのなら、なぜ出撃時に佐官以上(死後昇進ではなく)の高級将校が特攻しなかったのか?。  彼らは憂国の至情が無かったのか?。操縦できなくても複座のペアは組めたはずだ。  当時腐るほどいた皇室(含む公家)関係者はなぜ特攻に出なかったのか?

宇垣 纏 *7 宇垣は軍令部第一部長(S13.12.15〜S16.4.10)だったとき三国同盟(1940年(S15年)9月27日)に賛成している。  GF長官山本五十六は宇垣のバカが賛成しやがったと冷たく接し、その宇垣が1941年(S16)8月1日付でGF参謀長に就任したが、 ハワイ奇襲作戦もロクに相談しなかったと伝えられている。
第1航空艦隊司令長官が小沢治三郎だったらハワイやミッドウェイなど、その戦史は少し違ったものになったであろう。小沢の半年先任が南雲忠一。
► 公刊戦史も特攻は志願が前提で出撃命令した。としている。ならば志願しなかった佐官以上の幹部クラスは殉国の至情がまったく無く、 そのような人物が『殉国の至情に基づく特攻志願』を継続的、計画的に行った説明が必要だろう。 何度も云うが、複座、三座機で同乗は出来たはずだ。
► 作戦を立案する高級参謀ら一度テ足一式陸攻機に添乗し、戦闘海域まで実際に出撃し桜花射出が可能なのか体験すべきであった。
► いくら特攻で死ぬ気になっても、死ぬまでは生きており、必然的に恐怖心と自己防衛本能が働く。その人間たる人間性を否定し、 特攻システムを構築した人物を戦後国民は検証し断罪すべきであった。  また国家の装置としての軍隊だったので当然国の責任として、戦時中に国民に対して行われた非人間性を検証し断罪すべきでもあった。


続き 海軍の戦争犯罪 源田 実は人命軽視の超国賊


参考図書等
戦史叢書 海軍捷号作戦 朝雲新聞社
戦史叢書 沖縄方面海軍作戦 朝雲新聞社
特攻の真実 深堀道義 原書房
特攻と日本人 保阪正康 講談社

[tokkou] 内の各 htm ファイル
元山航空隊 航空特攻 予備学生の墓場   特攻の時代と特攻隊員の遺書を考える   誰が航空特攻を主導したか 科学音痴海軍兵学校出身者   海軍の戦争犯罪 源田 実は人命軽視の超国賊   海軍の非人間性+戦争犯罪 大和水上特攻作戦と連携   航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち   なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄   渡邉恒雄(讀賣新聞・主筆) 下劣で戦争犯罪組織と化した海軍   菊水作戦と第六航空軍 陸軍第22振武隊   人間魚雷回天特別攻撃隊   回天搭乗員の戦死と投入潜水艦   人間魚雷回天特別攻撃隊の悲しい戦果   人間魚雷誇大戦果はなぜ?




[32削除理由]:削除人:関係が薄い長文

13. 2015年6月20日 00:34:02 : eOBGjwhYEc

海軍の戦争犯罪 源田 実は人命軽視の超国賊

海軍の戦争犯罪 大森仙太郎特攻部長選任 源田実は素早く乗った。   進む 海軍の非人間性+戦争犯罪


特攻、この非道な作戦。
 陸海軍あわせて 5,845人、航空特攻で 3,948人が死ぬことを強制された。 一人ひとりに両親があり、兄弟・姉妹があり、妻や子があったと思う。一人ひとりに、喜びがあり、希望があり、弾けるような命があったはずだ。そしてなによりも生きていた。 海軍の特攻 4,156人、そのうち士官はたったの 116人、2.79%しか記録されていない。戦争が彼らの命を虫けら同然に扱ったのではない。海軍という組織が彼らの命をボロ屑の如く弄んだに過ぎない。 組織はそれだけでは何もしない。その組織を動かしている人間がいる。 その最右翼が源田実であり、真珠湾航空攻撃飛行隊長だった淵田美津雄らであった。
 昭和20年4月7日、海軍に残っていた戦艦大和以下、僅かな艦隊が坊之岬南西海上で潰えた。既に海軍の名に値しない組織であり、沖縄の地上戦も断末魔を迎えんとしていた。
 5月26日日本軍守備隊が壊滅し、陸軍参謀本部は沖縄諸島方面での継戦を断念した。沖縄戦は戦う意味さえなくなった。 そのような情況にもかかわらず、海軍軍令部はなお戦闘に固執し、白菊という練習機まで投入して菊水作戦を継続した。
 昭和20年5月24日、海軍串良航空基地に徳島空白菊機上練習機14機が列べられた。串良から沖縄まで約600Km。白菊はこの海域まで5時間飛行しなければたどり着けない。
 昭和20年7月29日、台湾の新竹基地から宜蘭基地を経由して、石垣島へ。 石垣島から宮古島へと移動した属に赤トンボといわれた陳腐な複葉機五機が飛び立ち帰らぬ人となった。


― 源田 実は第一航空艦隊 司令長官大西瀧治郎宛に
  彼が比島到着するより前に一通の電文(1944/10/13)を起案した。


『神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、 純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・』
神風特別攻撃隊の隊名とその発表について注文をつけた。当時源田は軍令部の航空作戦参謀であった。
この電文の文言に軍令部が考えていた意図が読み取れる。すなわち、この捨て身の特攻が成功しなくても、発表のしたかによっては国民の戦意鼓舞に大いに役立つ。これにより、彼らは戦争に勝つことよりも戦争を続けることに意味を見いだしていたといえよう。 若者の死を自らの栄達につなげようとしていたようにも見える。

淵田美津雄
昭和20年4月6日から始まる最大の航空特攻は真珠湾攻撃飛行隊長だった淵田美津雄が取り仕切った。 4月2日GF参謀長草鹿龍之介,艦隊参謀三上作夫と同道した。淵田の死後遺稿が発見され『真珠湾攻撃総隊長の回想 講談社;2007/12』として刊行されたが航空特攻を取り仕切りながら謝罪と反省の言葉はない。 特攻は冷静に誰が考えても用兵にあらず作戦にあらず!。 非人道的なもので犯罪行為であり企図した者たちは犯罪者であろう。

源 田実は人命軽視の超国賊。戦後事もあろうに日本を焦土とした非人道的都市無差別爆撃を指揮したカーチス・E・ルメイに国家最高の勲章授与を推進した。     大ほら吹き源田司令第343空撃墜機数のウソ

源田 実 源田最大の大罪はこちら。   海軍の戦争裁判(B,C級)総数はこちら
あの惨敗を喫したミッドウェイ海戦の大敗は源田の進言による。 この第一機動部隊はもっぱら源田艦隊と呼ばれるほどのさばっていた。
防衛庁(省)防衛図書館 昭和18年(1943)5月3日付タイトルは「戦訓二依ル戦闘機用法ノ研究」
「戦闘機ト雖(いえど)モ将来機ニ対シテハ防御ヲ考慮スルヲ要ス。 空戦ニ於イテ戦闘機ノ被撃墜機ノ大半ハ火災ニ依ルモノナリ。故ニ火災ヲ防止スルヲ得バ、 現状ヲ以テシテ戦闘機ノ戦闘能力ハ脅威的ニ向上スルコト些(いささ)カノ疑念ナキ所ニシテ、以下 略」


現場は一撃で火災の発生する機体とそれによるパイロットの搊失に悲痛な声を上げた。 現場の声を無視することも出来ないので、早速技術検討会が開催された。その会議に源田 実(当時中佐)がいた。 「がたがた現場は云うな、大和魂をもって腕をあげる訓練を繰り返そう」 更に1機でも多く製造し前線に届けるべし!。と大演説を始めた。 会議場はしらけ以降海軍で火災消火装置+防弾構造を施した機体の製造と研究がなされることはなかった。 腕をあげるための訓練用ガソリンも枯渇した。 攻撃優先,防御軽視の海軍において、全体としてとりあげる機運さえなかったのが本音であろう。  この件以前の1942年6年5日ミッドウェイ海戦の大敗北の元兇は彼だった。
航空潤滑油も枯渇し航空機も粗悪品だらけとなり、概ね25%程度(4機に1機)は機器が故障し本来の目的を達し 得ないまでになった。
* 1944年3月完成の零戦52型乙に至って胴体タンクに自動消火装置と乗員保護防弾ガラスを装備した。
  1944年末に製造を始めた丙で乗員保護防弾鋼板取付。並びに胴体内タンクを内袋式防弾タンクとした。
  だが、エンジン出力が同一だったことで速力低下等を招き、不評で取外すケースが多かったという。

参照: [エレクトロニクスが戦場を制す]所載 NHK取材班/編(H6/1/10発行)


戦闘詳報12号(第732海軍航空隊)
 (イ)飛行機ノ性能、特ニ火力及ビ防禦(ぼうぎょ)力(主トシテ火災防止)ニ於イテ甚ダシク劣ルコト。
  ここでも悲痛な現場の声があがるが、海軍首脳部は取りあげもしなかった。
マリアナ沖海戦
現場の声無視の、その付けを直ぐに支払わされることになる。昭和19年(1944)6月19日から マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で第58任務部隊と海軍の第三艦隊 第一機動部隊が激突した。小沢治三郎中将は、日本海軍の艦載機の特徴である航続距離の長さを活かし、 アメリカ艦載機の作戦圏外から攻撃部隊を送り出すという独自の戦法(アウトレンジ戦法)を採用した。 しかしながら、レーダーを活用した防空システム(空戦誘導システム)による戦闘機の迎撃、 また近接信管(VT信管)を搭載した対空砲弾の増強などにより、日本海軍の攻撃隊は大半が阻止された。人間を研究したこともない海軍高官は、 パイロットの緊張がどの程度長時間保持できるかも知らず、米撃滅確実との皮算用ばかりしていた。 源田 実提言の大和魂は科学技術の前に吹き飛んだ。


*源田 実がいう大和魂の先に航空特攻があったは大嘘。 航空特攻の嚆矢は大西瀧治郎とされているが彼は現場の司令官で特攻主導の首魁は軍令部次長の伊藤整一であり、航空作戦参謀の源田 実らであった。 菊水作戦頃に入ると、特攻機パイロットの技量は低く、出撃・実線経験も積んでいなかったため、 初めて目にした米軍小型艦艇を大型艦艇と見誤ってか小型艦艇に多く特攻した。
源田のいう『大和魂の先に航空特攻』があった。という話は、外道の作戦をこれにより正当化しようとしたに過ぎない。たんなる弁解である。 正々堂々とした作戦なら、大和魂もクソもなく胸を張れるではないか。戦後特攻死を命じた、または編成した司令、飛行長などの自己正当化が目立つ。すなわち特攻隊員を責めてくれるな。


*1944年10月台湾沖航空戦での過大戦果報告も同じ 写真(左):1944年11月25日,空母「エセックス」に突入する艦爆「彗星」;Photographed by Lt. Comdr. Earl Colgrove, USNR. U. S. Navy Photo. 「彗星・2座」は爆弾搭載量500キロで、全備重量4.5トンの急降下爆撃機。
<= 揚力を高めるためか主翼フラップは大角度である。


搭乗員の練度と特攻機の有効性
日本の特攻機搭乗員たちは、燃料不足のため、大型艦艇を目標に攻撃訓練することも、 十分な燃料で飛行訓練をすることもできなかった。特攻隊の世話をした知覧高等女学校勤労女子学生の日記には、 特攻機の故障、不調の話が何回も出てくる。(知覧は陸軍基地)
空母や戦艦を捜索して,敵の警戒網を突破し特攻することは,旧式な中古機に乗った 未熟な搭乗員には不可能に近かった。(練習機の白菊まで特攻に使われた)
航空機は3トン以上あるが、剛体ではなく、突入速度も時速500-680km程度にすぎない。高空から自由落下する剛体の爆弾や砲弾は高速であるが、 急降下する飛行機に縛り付けられた爆弾は低速で、衝撃力は小さい。

戦艦ミズーリ突入零戦 米軍大型艦艇に、特攻機が命中しても、沈没することは少なかった。 寄木細工のように軽く華奢なジュラルミンの航空機は、体当たりしても、 鋼鉄の艦船に大打撃を与えられなかった。左舷側に特攻を受けた米戦艦ミズーリはその部分の フレーム159〜165の間3mほどが少し凹んだのみ。なぜか爆弾が爆発しなかった。 そして、 日本側に見せつけるためか、そのままの状態で東京湾での降伏調印式に使われた。


「君は6時間後に死ぬ」という本が人気('06/05)だが、「君は6時間後に死ね」と命じられた若者がせめて自分の死に意味を見いだそうとして、もがき苦しんだ先に「俺は君のために死んでゆく」があった。 どこかの国の首都の知事が一人ではしゃぎ、若き特攻兵を母親代わりに世話をしたとかいう女性の銅像を建てようと躍起。その女性、出来ない相談かもしれないが、複座に忍び込んで特攻はしなかった。 彼女の銅像建立より、あの非人間的な特攻を誰と誰が推進したのか、千年程度消えない碑に名前を刻み建立すべきだ!。 それこそ人権に反するテ・・。 笑止千万却下!。
彼女の銅像を建てるより先に犯罪組織帝国海軍の責任を検証すべきと小生は考える。
沖縄戦(1945/04/01)に入るや菊水作戦の名の下に志願で入隊した青少年 (現在の高校1年生程度) を司令の武勲を誇るための人間爆弾とした。軍統帥部は若者を単なる消耗品とし、練習機「白菊*」まで特攻機として使われ16歳から25歳の青少年たち52人が不条理な死を命ぜられた。
この程度の航空機での特攻が有効であるかどうかというテスト(若者の命)に使ったと戦後の戦史にある。 自分の子供をテストで殺せるのか!。海軍上層部に深い憤りを覚える。 白菊の最初の特攻は1945年5月24日(鹿屋・高知空)が最初。 特攻隊の司令たちは、一機一艦を屠ると取らぬ狸の皮算用ばかりしていた。生を断ち切られる若者の無念さと、残された肉親の深い嘆きと悲しみを、思い遣る心さえ持ち合わせない卑劣漢や冷血漢らであった。
これらの若者を死に追いやった加害者と、被害者の若者が同じ靖国神社に祭られることを筆者は許さない!
戦艦「大和」の46センチ砲弾1発の重量は1.46トン、炸薬は36Kg、砲弾速2,826km/h (秒速785m) であるのに対して、特攻機1機は、爆弾250-500Kg、全備重量3.1〜4.5トンと大和主砲の2倊の重量がある。 しかし、特攻機の突入速度は600Km/Hr程度と遅く,  機体は剛体でないため、艦船に命中したとき壊れてしまい、破壊・衝撃力は、 砲弾や投下された爆弾よりも遥かに小さい。戦艦大和の46センチ主砲弾よりも大きく重い特攻機と搭載する爆弾が艦船に命中しても、大和主砲よりも、爆弾投下によるよりも、破壊力は小さなものだった。
* 「白菊21型」固定脚 5座 搭載爆弾30Kg×2発, 巡航速度176Km, 重量2,644Kg。
後続距離350浬(648Km) 鹿屋から飛び立ち喜界島南方海域で敵を発見できなかったら何所にも戻れなかった。

前掲の写真は1945年4月11日12:30すぎ鹿屋発進の第五建武隊四区隊13機の内1機が 14:43 ミズーリ右舷後部120° より接近し激突した。すでに爆弾は装着されていなかった。突入は石井兼吉二飛曹(3番機・丙17)か石野節雄二飛曹(4番機特乙1)とされている。 さらに絞り込んで99パーセントの確率で石野二飛曹(19歳)だという。 決め手はミズーリに残った13mm機銃だという。 爆装していなかったので操縦者の上半身が甲板に残された。 遺体は水兵三人の不寝番をつけ医務室に安置された。 翌4月12日09:00「ミズーリ」艦上ではキャラハン艦長以下多数の乗組員により、米海軍葬礼の五発の弔銃が発射され水葬された。
キャラハン艦長は突入を受け、冷めやらぬ興奮状態の乗組員に 「この日本のパイロットは我々と同じ軍人である。 生きている時は敵であっても、今は違う。烈しい対空砲火や直衛戦闘機の執拗な攻撃をかい潜って、 ここまで接近してきたパイロットの勇気と技量は、同じ武人として称賛に値する。 よってこのパイロットに敬意を表し明朝水葬にする」と告げた。
伝えられる、キャラハン艦長の人間愛と、卑劣な Imperial Navy 首脳部のどちらに、あなたは人間としての暖かみを感じるだろうか。
詳しくは「戦艦ミズーリに突入した零戦・加知 晃/著・2005年5月21日発行 光人社」ご参照下さい。
二十歳や一九歳で命を絶ったこの両士に深い哀悼の誠を捧げる。 更に、中澤、黒島、源田を許さない!。


源田は戦後も饒舌だった。再軍備の中で航空自衛隊空幕長にまで登りつめた。そして参議院議員となる。 あの捷一号作戦で全艦隊を囮艦隊として、見事その損な役割をこなした寡黙の提督小沢治三郎はひっそりと生きた。 法螺を吹きまくり、ミッドウェイ海戦の大敗北を引き起こし、更に、航空特攻を推し進め、戦後特攻のことを聞くと、その饒舌は消え憮然とした態度だったと伝えられている。
源田は国賊。民族の恥。
空幕長に登りつめた源田は、こともあろうに米戦略爆撃機で都市無差別(市民殺傷)爆撃と非人道兵器である原子爆弾投下を指揮したカーチス・E・ルメィに日本国最高の勲章授与を働きかけ実現させた。 民族をこれほどコケにした人間を源田以外に筆者は知らない。

-- 潤滑油について --
海軍は燃料と潤滑油のほぼすべてを米国からの輸入に頼っていた。南部仏印進駐(1941/7)による米国の禁輸と軋轢が強まる中で、急きょ潤滑油の開発と製造が開始された。  実際のところ、どの程度のグレードと特性を持った潤滑油を生産し供給できたのか「海軍燃料史」を読んでも判然としなかった。 内燃機用潤滑油でも ガソリンエンジンとディーゼルエンジンで同一性状のものは使えない。軸受け潤滑などまた別の性状でなければならない。海軍が誇った九三式酸素魚雷も、敗戦前には製造できなくなり、一世代前の魚雷に逆戻りしている。 熟練工(徴兵)の不足と潤滑油の問題があったと考えられる。兵器は戦争中でも進歩するものだが、 退歩した若しくは逆戻りした軍隊は、 人類に戦争が始まって以来日本海軍が軍事史上でも希有の例かもしれない。
特攻機も多くエンジン不調でひき換えすか、不時着している(25%程度)。 これも潤滑油にその問題の要因があったような気がしている。当然日本国内と熱帯で同一の潤滑油は使えない。  国内製造潤滑油が本当に使えるようになったのは、石油民族系 I社 が1980年代にリリースした10W-30(テン・ダブリュ・30)の潤滑油からだった。  当時の日本国内で夏冬通期で使える潤滑油が始めて出現した。それ以前は、冬は冬用、夏は夏用の潤滑油に交換する必要があった。  また駆動軸のプロペラシャフトにも潤滑油注入ニップルが付けてあり定期的に補油する必要もあった。  当然のことながらトランスミッション(変速機)やデフレンシャル機構(側輪の駆動)の潤滑油も定期交換が必要だった。 ではなぜ最近の車輌は女子供でも乗れるようになったのか。 それはひとえに潤滑油の進歩による。 おそらく、多くの女性ドライバーがエェーそんなところに油が必要なの?知らなかったー。の声が聞こえそうである。
魚雷が逆戻りした考えられる理由は二つ
熟練工員が徴用で生産現場から去り、もう一つは高純度の潤滑油が枯渇した。
近代戦は、兵隊が鉄砲を撃つだけでは戦えなくなっていた。  現在も掃いて捨てるほどの戦記ものWebサイトがあり、 艦隊決戦だの航空戦だの勇まし限りだが、潤滑油と兵器の相関について書いたものを見ない。 航空機に防御構造が無いだけでなく、エンジン不調(工作精度+潤滑油)により、現場のモチベーションの低下なども見過ごされない問題だったはずだ。  潤滑油 ここで。  航空燃料と潤滑油 こちら。


 ■ 海軍燃料史にみる航空機潤滑油   国内生産の状況,徳山・四日市燃料廠


1、 徳山工場溶剤抽出法(第三海軍燃料廠)
 第1抽出工場 試運転終了 昭和15年10月
 液体プロパンを用い脱瀝青(アスファルト分を除く事)及脱蝋し液体プロパン及石炭酸クレゾールを用い抽出の上真空蒸留、白土処理を行うもの
 第2抽出工場 試運転終了 昭和17年6月
 第1抽出工場と同力量、同形式であるが、脱蝋方式をプロパン脱蝋に代わりバリゾール式脱蝋方式を採用し、作業工程は脱瀝青(アスファルト分を除く事)、抽出脱蝋の順序とす。
 真空精製装置 試運転終了 昭和15年3月
 (他に廃航空鉱油、廃混合航空鉱油及廃カストル油(ひまし油)処理装置の作業系統もある)
 運転成績
(1) 国内始めての120番航空鉱油の生産に成功した。
(2) 昭和16年春頃より製品の出荷を開始し、緒戦の要望に応えた。
(3) 終戦迄の製品総生産量は約10,000竏に達し、大東亜戦争における海軍鉱油の推定消費量の凡そ60%を賄った。
(4) 本装置で生産の航空鉱油には添加剤を使用しなかった。
2、 四日市工場溶剤抽出法(第二海軍燃料廠)
 第1装置(グーブロ式真空蒸留装置)
 第2装置(脱瀝青(アスファルト分を除く)、抽出)徳山工場参照
 第3装置(脱蝋)
 第4装置(白土精製)
 運転成績
(1)昭和18年10月完成した。
(3)年原油80,000竏処理し、2,000竏の航空潤滑油を生産(実数は上明)。
(4)廃航空潤滑油も再生。
3、 四日市工場合成潤滑油製造(第二海軍燃料廠)
 本法は精汗蝋又は粗蝋を気相熱分解してモノオレフィンを作り、これを塩化アルミニウム触媒の存在下において接触重合することにより航空潤滑油を合成するもので、バリックパパン第百二燃料廠の装置に改良を加え設計し、昭和18年5月起工、19年4月完成した。
 年粗蝋20,000竏処理し、航空潤滑油4,000竏を生産(実数は上明)。


海軍燃料史には次の記述がある。
潤滑油添加剤  航空発動機の馬力の増大に伴い潤滑油は次第に高温高圧を受ける様になり、これらの苛酷条件の下に粘度、粘度指数、安定度、炭化分、凝固点等の各性質に対する要求を一種類の油を以て同時に充たすことは困難であるから単に要求する性質を向上する添加剤が必要となった。昭和15年より航空潤滑油の酸化防止剤と油性向上剤の研究が行われ、酸化防止剤としてはトリクレジルホスファイトとトリクレジルホスフェートの混合物は天然鉱油に対し実用された。
この記述で見る限り開戦直前にはじめて国内生産による航空機用潤滑油が製造でき、国内使用量の60%で残りは米国から輸入しストックのあった潤滑油で戦ったことが判明する。 その後の熾烈な航空戦で潤滑油の枯渇?が始まったのか?第二海燃(四日市)で航空機用潤滑油が製造できるようになるのが昭和18年(1943)10月、開戦2年目を迎える段階である。 ご存じのように昭和19年(1944)に入ると占領した南方からの原油還送が上可能となり、かつ南方原油は必ずしも潤滑油製造には適していなかった。
海軍燃料史で120番航空潤滑油の性状について記述されていないし、航空潤滑油に「ひまし油《が使われたであろうことが推察できる。ひまし油は現在普通に使われている自動車用潤滑油より、 高い粘度を有しその使用によって高出力が得られたとも思えない。


 ■ 徳山海軍燃料史にみる航空潤滑油生産データ       (同誌単位:バレルをKLに直す)


単位/年 昭和16年 昭和17年 昭和18年 昭和19年 昭和20年 計
生産量(KL) 4,006.80 12,036.30 7,075.50 4,134.00 863.37 28,115.97


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元山航空隊 航空特攻 予備学生の墓場   航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち   なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄   渡邉恒雄(讀賣新聞・主筆) 下劣で戦争犯罪組織と化した海軍




[32削除理由]:削除人:関係が薄い長文

14. 2015年6月20日 00:37:37 : eOBGjwhYEc

世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)


世界の海軍にあって最も下劣で戦争犯罪組織と化した海軍をほかに知らない。
渡邉恒雄(読売新聞・主筆)氏は、 『人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく 汚辱だと思わざるを得ない』と言い切る。 これを誰が否定しえようか。


中央公論 2006年10月号に掲載された、渡邉恒雄 (読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆) 1926年東京都生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。読売新聞社入社後、政治部記者、ワシントン支局長、解説部長、政治部長、編集局総務、論説委員長などを経て社長。日本新聞協会会長。2004年に現職。著書に 『ポピュリズム批判』など。
『なぜ、今、戦争責任の検証か』の部分をここに掲げる。 以下、氏は
『昭和戦争』に自らの手で決着を付けよう。
日本はいまだに歴史問題で外交に躓いている。なぜか。 その理由の一つに、戦後60年以上たっても自分たちで戦争責任の検証ができてい ないことがあるのではないかとする。
◆ 私の軍隊体験
私は、戦争末期に東京大学入学直後赤紙召集で徴兵された昭和戦争最後の最下級兵士、つまり陸軍二等兵として、非条理な軍組織の中にいた。 一階級上の兵でも上官であり、理由もなく、気まぐれで、二等兵を殴った。 三食は茶碗一杯の高梁(こうりゃん)飯と味のない味噌汁であった。味がなかった理由は、革の上靴(スリッパ)で毎日顔を殴られた結果、口内の粘膜が切れて、味覚を失っていたからであろう。この野蛮性は、全国、どこの師団、連隊、中隊、小隊、内務班(兵営内で下士官の指揮する陸軍の最小単位の集団)でも共通する、訓練という名のリンチ公認から発するものだった。 人間が犬馬以下に扱われる社会が軍隊だった。これが、各戦地で兵士を大量に無駄死にさせた人命軽視の基本的観念でもあった。 『軍人勅諭』『戦陣訓』は、こうした人命軽視や野蛮行為の“教典”として悪用された。 私は、相模湾から上陸作戦をする米軍を遊撃するのを目的とした10サンチ榴弾砲中隊に属する兵であった。しかし、8月15日時点で、この砲兵中隊には一発の実弾もなく、木製の模倣弾で演習をしていた。それどころか、小銃も、兵の吊る『ゴボー剣』と称する短剣も、ほとんどなかった。砲兵部隊というけれど、竹槍部隊と同じであった。
◆ 反軍学生時代
敗戦直前に一度あった外泊の時、旧制高校時代の下級生がわが家に集まった。その時、ポツダム宣言の全内容を読み、原爆という人類史上かってない恐ろしい爆弾が投下されたことや、一、二カ月で敗戦に至るだろうとの情報を得た。 私の在学していた旧制東京高校の同級生には、たまたま真崎甚三郎陸軍大将の弟である真崎勝次海軍少将の息子さんや、田中隆吉陸軍省兵務局長の子息、井上準之助・元蔵相の孫といった人々がいたし、後輩に国会議員の子息もいた。 こういう諸君から得たわけではないが、各方面から敗戦情報が入ってきていた。学生仲間にも、『勝ち組』と『負け組』がいて、それなりの対立があったことも事実であるが、大勢は反軍思想の持ち主であったと思う。 旧制中学・高校時代から、軍国主義教育の先端に立った配属将校による乱暴な訓練を強いられ、さらには特高憲兵による強圧統制下で読書の自由もなかった。マルクス主義関係の文献(主として岩波文庫)は、高校の寮生活でも、バケツの下とかベッドの下などに隠し持っていた。特高、憲兵は、マルクス主義文献を持っているだけで逮捕したものだ。 高校時代の『勤労動員』で、軍需工場で働かされていた時、長刀をぶら下げて工場を闊歩する憲兵に、態度が悪いとして一入の同級の親友が、路上でメッタ打ちに殴られた。それを目前にしながら、身体を張って立ちはだかり助けることができなかったことを、私は今でも恥じている。助けに出たら、私も殴打され、蹴飛ばされ、血まみれになっていただろうが。 もちろん、私は自らの軍隊生活の中から発した恨みや怒りで、戦争責任を論証しようというのではない。前記のような野蛮性、非人間性は、特に陸軍にあってはかなり普遍的であって、そのような精神的土壌から無謀な作戦が生まれたと思うからだ。ただ、将校、下士官の一部には、人格が高く、人間性もあり、兵の信望を集めた人々がいたことも事実である。
◆ 非人間的特攻作戦
軍の非人間的作戦の中で、今でも許せないのは、特攻作戦である。学生時代、私たちが徴用されたのは、特攻機製造の鉄工場であった。そこで一個不良品を作れぱ、一人の徴兵された学生の命を救えると思って、鋳型に流し込む溶けた鉄の中に、ひそかに石ころを投げ込んだこともある。もちろん見つかれば、重罪とされたであろう。 私は、新兵の二等兵だったから、特攻機に乗せられることなどはなく助かったが、私より一年か二年上級の学生たちの多数が、この特攻で死んだはずだ。 生還不可能の無謀な作戦のはしりは、パールハーバーにおいて特殊潜航艇で自爆した九人の若い将兵たちで、『九軍神』とされ二階級特進した。新聞は、全員写真入り、一面トップで報道、賞賛した。当時、中学生だった私は、この自爆行為を称賛する気にはなれず、軍の非情さに対する反発と、死んだ若い将校たちへの同情の入り混じった不思議な思いで記事を読んだ。その記憶は今も鮮烈に甦る。 さすがに、海軍内には、その後、特攻作戦に対して人道的抵抗からの反対もあり、一時中止したが、ミッドウェイとガダルカナルの大敗以来、再び陸海軍の双方の将校レベルから、体当たり特攻作戦の上申が始まった。
◆ 誰が『特攻』を推進したのか
本格的航空特攻隊編制の命令を最初に出したのは、大西瀧治郎中将だと言われる。大西中将は、敗戦後自宅で割腹し、介錯を拒み、一五時間のたうち回って苦しみ死んだ。 しかし、彼は当初、非人間的特攻作戦に慎重であったようだ。彼は幕僚たちの提議したこの残虐非道な作戦を決するまで一年あまり躊躇し、実行にあたっては、『これは統率の外道である』と自認して語っている。また『特攻に狎れるな』とも述べており、この非道な作戦に心中抵抗があったことがわかる。とはいえ、ついにこの作戦を隊員に指示した時の訓話の内容は、超精神的皇国史観で貫かれ、理性のかけらもなかった。 人間そのものを兵器として使用する特攻作戦が立案されたのは、大西の決断する一年あまり前(四三年八月)のことで、推進者は海軍軍令部の黒島亀人第二部長、中沢佑作戦部長らであった。大西は彼らの進言を一年あまり抑えた。サイパンが陥落して敗戦が決定的になってから、ついに及川古志郎軍令部総長に提議した。及川大将は『涙を飲んで申し出を承認する。しかし、あくまで命令だけはしないでくれ』と語ったという。 この大西が主導し、軍令部が従ったとするのは、中沢が戦後語った責任回避のための作り話だという説もある。多数の青年将兵を特攻で殺した立案者の中沢は、戦後生き残り、講演などで特攻作戦は大西の決定であり、軍中央は考えていなかったと述べている。 一応、『志願』の形をとって実行した特攻の第一号は、フィリピン作戦での、関行男大尉の率いる特攻部隊であった。特攻を命じた上官に対し、関大尉は、『体当たりせずとも、爆撃で戦果をあげうる』と反論したが、結局命に服したという。関大尉もその功により、『軍神』とされ、二階級特進をした。 特攻隊の編制は、形式的には志願で始まったが、間接的強制、そして実質的な命令に進んだ。その結果、未来ある若い学生出身の下級将校たちが、肉弾となって意味もなく殺された。 特攻はあの戦争の美談ではなく、残虐な自爆強制の記録である。イスラム原理主義者の自爆は宗教上の妄信や、指導者のマインドコントロールによる自発的自爆だが、『特攻』はほとんどが実質的には『命令と強制』であった点で、イスラム・テロリストのケースとはまったく違う。 悪い意味で合理的な計算に立ち、こういう非道、外道の作戦を考え、実行した軍の参謀や司令官、さらには、人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく 汚辱だと思わざるを得ない。
黒島亀人,中澤佑コンビは1944年8月人間魚雷回天を正式兵器化した。同年9月、徳山において基地整備隊員と錬成に着手。
海軍は関の特攻に先立ち1944年9月13日、大森仙太郎を特攻部長に任命。一元管理した。大西瀧治郎着任前に特攻隊名を決定している。
一般的には、特攻一号は関 行男大尉(兵学校出身者)を嚆矢とするが、関より4日早い10月21日に久納 好孚(くのう こうふ)第一次神風特別攻撃隊『大和隊』隊長として出撃未帰還となった。 彼は学徒兵で源田 實の意に叶わなかった。 少なくとも 学徒兵では"見せ金" としての値打ちがなかったのだ。
◆ 『桜花』特攻の発明者は
特攻作戦も初期には一定の“戦果”を上げたが、直ちに米軍も対抗策を強化した。特攻の標的とされる戦艦はレーダーで特攻機を捕捉し、対空砲火を強化し、戦艦(空母、巡洋艦等も同様)の上空には、 グラマン等新鋭戦闘機が迎撃態勢をとっていたから、特攻機は目標に近づく前に、次々に撃墜された。そこで費用対効果を考えて発案された究極の“新兵器”が、人間爆弾『桜花』と入間魚雷『回天』である。 『桜花』は、プロペラも脚もない人間爆弾そのものだ。『一式陸上攻撃機』を母機として吊るされて、出撃した。 前部に1200キログラムの炸薬が装填され、後部には三本の火薬ロケットが装備されている。小さな翼がついているが、人間一人が搭乗したこのグライダーのようなロケット滑空機は、もはや飛行機ではない。体当たり専用の人間爆弾である。目標に達する前に切り離し、母機は航空機節約のため帰還する。 しかし帰還能力がない人間ロケットたる桜花乗員は確実に死ぬ。さらに、通常積載量の二倍になる約二トンの重い子機『桜花』をぶら下げた母機『一式陸攻』は、飛行能力が低下するから、 目標に達する前に母機・子機もろとも撃墜された。55機が出撃し、 米艦に命中したのは2機だけで、ほかは全滅した。この“新兵器”も作戦上ほとんど何の効果もなかった。 敗戦直前のこの“新兵器”を『桜花』と名づけたのは、特攻推進者の一人、 源田 實中佐であって、桜花とともに死んだ特攻隊は『神雷隊』と呼ばれた。戦果としては、駆逐艦一隻撃沈しただけで、当初の目標だった空母や戦艦に対しては、 命中ゼロ。 『桜花』の命名者源田中佐は戦後生き残り、自衛隊の空幕長を経て、参議院議員として栄華を享受している。 この桜花特攻を発案し、上申し、実現させたのは、大田正一少尉であった。 大田は兵士上がりのノンキヤリアの下級将校でパイロットでもない技術士官であった。 彼は、このような無謀な『非人道的新兵器』を作った『功労者』として、当時の新聞には賞賛的に報道された(たとえば1945年5月31日付『北海道新聞』)。彼はまもなく中尉に昇進している。 このようにして、多数の若者を、生還絶対不可能な兵器によって殺した大田は、終戦直後、八月十八日に、茨城県の海軍神ノ池飛行場から、ゼロ式複座練習戦闘機で、鹿島灘の沖合に向け飛び立った。遺書まで残していた。 見た者は、桜花特攻推進の責任をとって、自爆すべく飛び立ったと思ったようだ。ところが、彼は反転北上した。金華山沖の洋上に着水し、北海道の漁船に救われ、 上陸した。にもかかわらず、彼は『航空殉職』とされ、一階級特進して『海軍大尉』となり。『戸籍抹消済』となっていたのである。 逃亡後、彼は、はじめは戦犯に指定されることを恐れ、さらに戸籍がないので定職につけず、各地を転々としながらも、二人の子供まで作っている。 対ソ密貿易をはじめ、闇屋のような商売を続けながら、一時、消息を絶ったが、実は1994年まで生き延びていた。 これが、あの戦争中の日本軍の野蛮な制度、組織、思想、道徳観の裏側の真実を示す適例である。 このことは、秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う』上巻(文春文庫)にくわしく書かれている。また『大田少尉』の名は、『特攻』について書かれた複数の書に 『桜花』の発案者として明記されている。それにしても、徹底的に大田の戦後の行動を追跡した秦氏の執念には驚かされるし、 また学者として事実をここまで調査し、検証した秦氏の努力を賞賛したいと思う。 大田の行為は、非道徳的であり、追及されるべきは戦争責任というよりは、非人間的な戦争犯罪だと思う。大西中将は、責任をとって割腹した。大田は巧妙に逃げて生きながらえた。 『桜花』を発明、使用を推進した大田は、下級将校とはいえ、二十歳前後の若者を多数死地に追い込んだ。その責任は許されるものだろうか。彼の進言通り桜花特攻を承認し、 賞賛さえした軍の上層部も、この非人間的、犯罪的行為の共犯者というべきだ。 』回天』も同様な特攻兵器であったが、多くの『特攻』に関する書籍に詳述されているので、ここでは省く。
*大田正一 山口県熊毛郡室津村(現・上関町)出身。
◆ 『玉砕』の非人間性
特攻とともに、東条が陸軍大臣時代に作った『戦陣訓』の『生きて虜囚の辱しめを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』という思想から生じた『玉砕』作戦も、あまりにも非人間的かつ非科学的であった。 軍事作戦上、勝ち目がゼロな戦争で玉砕するよりは、捕虜になったほうが、米軍に与える損失は大きかったろうに。米軍は、原則としては捕虜をまず殺すことはないから、食料を与えるだろう。 そのための糧秣輸送には経費がかかるし、人手もいる。むしろ米軍にとって負担増となったであろう。にもかかわらず、大本営は、アッツ島で全員自決せよとの命令を出し、最初の大量玉砕を強いて、これを美談とした。 当時、政府もマスコミも『鬼畜米英』と言っていたが、玉砕、特攻こそ、陸海軍最高首脳と幕僚たちの、前線の将兵に対する鬼畜の行為であった。 日本の政府、軍首脳および幕僚たちは、無謀な昭和戦争で、軍人、民間人を含めると300万人余りの日本国民を死に至らしめた。特攻、玉砕による死者はその5パーセント前後に過ぎないかもしれない。しかし、 特攻、玉砕を強いた陸海軍の野蛮性を実証する重要な事実であると確信する。 この非人間的野蛮な作戦は、沖縄、インパールを含めたアジア・太平洋各地で形を変えて実行されていたのである。 若い将兵たちは『被害者』であって、彼らを死地に追いやる作戦を立案し、実行した軍首脳と幕僚たちは『加害者』である。その差は峻別しなければならない。  加害者と被害者を同じ場所に祀って、同様に追悼、顕彰することは不条理ではないか。
◆ 植民地解放戦争ではなかった
この戦争は、欧米からアジアの植民地を解放することを大義とした戦争だったと言えるだろうか。アジアの植民地解放のためと言うなら、日本自身、朝鮮半島と台湾という完全な植民地を保有し、また満州を事実上、植民地化しようとしていたことをどう説明するのか。とうてい、 満州事変から日米戦争に至る昭和戦争について植民地解放を大義とした戦争と言うことはできないと思う。 以上、日本の戦争責任についての考えを述べてきたが、米国および旧ソ連についても次のことを問いたい。


◆ 米軍の無差別大量殺人作戦を問う
B29によって非戦闘員、民間人を何十万人と無差別爆撃し、焼夷弾で焼き殺したこと、および、あれ以来、二度と使われず、国際的にその使用が厳に否定されている原爆二発を二つの都市に投下し、多くの民間人を、その後遺症による死を含めて殺傷した。今日、中東紛争等で何十人という規模でも民間人の殺傷は、激しく非難されているが、米国民はこの無差別大量殺人作戦をどう考えているのであろうか。 もとより、日米戦争は、日本軍のパールハーバー奇襲によって始まったものであり、敗戦後、国際法上の処理は、東京裁判の諸判決によって一応終了している。しかしながら我々が日本側の罪科を認めた以上、道徳的、哲学的に考えてあの無差別大量殺人の責任は全部日本側にのみ帰せられるのであろうか−−と問う歴史検証上の権利はあると考える。特に『ハル・ノート』によって、意図的に日本を対米開戦に追い込んだと思われる点に私は疑念を感じるが、それは今後の課題として残し、ここでは深く論じない。
◆ ソ連の戦争犯罪
次に、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本軍に全面攻撃を開始し、日本が8月15日に無条件降伏した後も9月まで戦争行為を続け、約60万人をシベリア等に拉致して、強制労働を課し、その結果5万数千人を死に至らしめた。このスターリン独裁下のソ連の行為は、明らかに戦争犯罪ではないか。 降伏後も、千島列島を次々に侵略、日本の固有領土たる国後、択捉、特に北海道に近接する歯舞、色丹までも占領し、自国の領土とした。あわよくば、北海道をも侵略して属領としようとしたスターリンの意図は否定できない。 プーチンのロシアは、『スターリンのソ連』の非道をどう認識しているのか。もしスターリンの世界観と戦争謀略を否定するなら、日本固有の北方領土を返還すべきではないか。私は『スターリンのソ連』とプーチンのロシアを別個のものと認識している。 スターリンのソ連は解体されたが、米国は原爆を投下したエノラ・ゲイ機を今でも博物館に陳列している。原爆投下について、当時、陸軍長官であったスティムソンは、『もし原爆を投下していなかったら、日本本土上陸作戦で100万人の米兵が死んでいたはずだ』と弁明している。また、エノラ・ゲイの機長ティベッツ大佐は、 『原爆投下のおかげで、結果的には米兵だけでなく、数千万人の日本人を救うことになったはずだ』と言ったことがある。
► 敗戦後ソ連は推定 57万5千人もの将兵を捕らえ強制労働に従事させた。陸軍参謀瀬島龍三もソ連に11年間抑留されたが、この将兵への抑留疑惑がつきまとっている。 抑留将兵の最後の釈放は1956年10月だったが、無事故国の土を踏めた者は 453,849 人だった。 その差10 万人余がシベリヤの凍土で非業の死を遂げた。
いつ帰るか分からない凍土で将兵が唄った『異国の丘』は戦後NHKのど自慢で歌われ、その後大ヒットする。歌はこちらで。 
作曲家の吉田正も抑留者の一人であった。 シベリアの凍土で消えかかる命がこの歌で救われた。 北方四島国際法に照らし不法占拠問題と、ソ連(現ロシア)シベリヤ抑留の悲劇は、民族が続く限り糾弾し続けなくてはならない。 この抑留に瀬島龍三がこれに一枚荷担した疑惑は消えない。
◆ トルーマンの想像力欠如か
こうした弁明の一方で、スターリンとトルーマンの駆け引き説がある。卜ルーマンは、満州、朝鮮のみならず、北海道まで侵略し、 属領化しようとするスターリンの野望を阻止するため、原爆投下で日本の降伏を早め、ソ連の侵略を阻止したのだという説である。 それは想定できない作戦でもない。原爆二発投下されても、陸海軍の強硬派は、本土決戦を主張していた。天皇聖断により、やっとポツダム宣言を受諾した。 敗戦必至の状況下で、終戦を使命として登場したはずの鈴木貫太郎首相が、『ポツダム宣言を黙殺し、戦争を継続する』との発言をしたのは、軍部のテロを恐れたためかもしれないが、その間の優柔不断さが原爆投下を招いたとも言える。
さまざまな理由や経過はあろうが、トルーマンたちには、原爆投下がもたらす、非戦闘員に対する非人間的な残酷さへの想像力がいささか欠けていたのではあるまいか。 原爆製造の基礎理論となるアインシュタインの相対性理論を解説したデイヴィッド・ボグニス著『E=mc2』(早川書房刊・184ページ)によると、当時の米統合参謀本部のレーヒー議長やルメイ戦略爆撃部隊司令官も『原爆を使う必要がなかった』 と述べたという。アイゼンハワー元帥も『自軍の安全のためなら何千という敵をなんのためらいもなく殺すのに、原爆を使用することには強硬に反対した』。その理由の『第一は、日本は降伏する準備ができていたので、あんな恐ろしい兵器で攻撃する必要がなかった。第二に、アメリカを原爆の最初の使用国にしたくなかったからだ』と言っている。 さらに同書によると、原爆の開発・製作者オッペンハイマー博士は、日本の降伏条件に『天皇の保護』を入れることを支持したという。『国体護持』を継戦の理由とした軍部の本土決戦派も、『天皇の保護』つまり『国体の護持』が認められれば、もっと早く降伏に同意していたであろう。 当時、国体護持ということは天皇制の維持を意味した。米側の言った『天皇の保護』ということは、戦争裁判の対象とせず、天皇の地位を守ること、言い換えれば天皇制の維持、日本側の言う『国体の護持』となり、ポツダム宣言受諾の名分となったわけだ。ポツダム宣言受諾を鈴木首相や軍首脳が国体護持の保証がないとして引きのばしたために、二発の原爆を投下されたのだから、この仮定は非現実的でない。 また、自国民の殺害という点では、スターリンは『粛清』の名のもとに、2,000万人の自国民を殺したし、中国の毛沢東は『大躍進』運動で、2,000万人以上の餓死者を出し、『文革』によって、過労、飢餓等により40万ないし100万人を死なせている。こうした事実は、ロシアや中国でも人道の名において検証してもらいたいものだ。
◆ 天皇の戦争責任は
次に天皇の戦争責任について言っておきたい。 明治憲法上、天皇は無答責であったが、統帥権は天皇に直接帰属し、内閣の輔弼の対象外であった。 したがって、統帥の最高権力者として、法的形式的には天皇に責任があるとも言える。 しかし、歴史の実態から見て、天皇は外界から隔離されて宮中にあり、 内大臣を通じなければ自由に政府や軍の幹部にも会えなかったし、 謁見した政府が軍首脳も真実の状況を伝えることはほとんどなかったと思われる。それでも、 張作霖事件、二・二六事件では御決断の効果もあった。だが、昭和戦争のほとんどの局面に関しては、 正確な情報を知り得ず、限られた情報源から判断せざるを得なかったのではないか。 終戦時、近衛師団が皇居に乱入し、天皇を拉致、隔離し、また終戦詔勅の録音盤を暴力で奪取し、 降伏という天皇聖断を阻止しようとした。反乱軍のテロの恐怖は、天皇個人の側近に及んだ。事実、 鈴木首相の家は焼かれたし、8月15日未明、近衛師団の将校によって、 森赳近衛師団長は殺害されてしまったのだ。  昭和戦争の多くの局面で、天皇に国政を左右し、国運を決する判断と軍部に対する下命を求めることは、 不可能であった。率直に言って、昭和戦争の時代天皇には統帥の最高権力者としての能力は奪われ、 または保有し得なかったことは間違いない。したがって、昭和天皇の責任を間うのは、妥当性を欠くし、 一方、終戦と戦後の混乱を収束したその国民的人気と徳望と努力は十分評価される。 よって、我々の検証では天皇の戦争責任を闘わないこととした。
渡邊恒雄氏のこの論拠、すなわち正確な情報*1を知り得ず、限られた情報源から判断を前提に話すと、場合によったら 殺人の共犯者も無罪となる。 天皇の位置付けが内政法理論的どのようになっていたのか?。
大日本帝国憲法(明治憲法)で
1.統治権の総攬(そうらん*2)者 (第四条)
2.宣戦・講話の締結者 (第十一条)
3.天皇は立憲君主であり、国務大臣の補弼(ほひつ*3) (第五十五条) をどの局面でも受けていた。
立憲君主制の法治国家だった。天皇個人のテロの恐怖から無問責論を展開すると収拾が付かなくなる。
*1 渡邊氏は、「〜得なかったのではないか」と疑問符的に書いているが、実際は統帥最高責任者だったので、逐一情況は報告された。参謀総長、軍令部部長。 陸海軍武官は常駐していたし、自軍の損害は非常に正確に伝わっている。 陸軍参謀総長だった杉山 元は、『今日天ちゃんから怒られた』と周囲に洩らしている。
*2 一手に掌握すること。
*3 天皇の行為としてなされ、或いはなされざれるへきことについて進言すること。
◆ おわりに
我々、新聞界の責任についても語る必要がある。その責任は重大だったと言わざるを得ない。 読売、朝日をはじめ、 新聞界の実力者がA級戦犯容疑者として逮捕されたが、ことごとく不起訴となっている。 戦争批判をすれば、停刊、廃刊、筆者の拘束という、軍・警察の権力の統制下にあった。東条により懲罰召集され、 戦地に送られた毎日新聞の新名(しんみょう)丈夫記者の例もある。 しかし、満州事変、日中戦争の初期の段階から、各新聞が声を合わせて、勇気を持って政府、軍への批判を展開していれば、 あの戦争は防げたかも知れない。この責任も大きなものがある。 さて、私たちの戦争責任検証を、一部の極右思想家*4たちによって単なる 自虐史観ととられるのは、納得できない。 当時の政府、軍の非を明らかにしたうえでなければ、ことの道理から諸隣国の日本非難に応答できないではないか。 また、金正日の蛮行やサダム・フセインの独裁と、隣国侵攻等の好戦的心理の解明にも、昭和戦争の責任検証は役立つだろう。 『読売新聞』の一年間にわたる戦争責任検証報道の前半部分はすでに中央公論新社から刊行されているが、その後半部分は、まもなく単行本『検証・戦争責任 U』 として出版され、かつ年内に英訳版も出される。諸外国の指導者たちにも贈りたいし、 特に金正日にもし英語力があるなら、読んでもらいたいと思う。英語力がないなら、 日本語版を、拉致、抑留している日本人被害者に翻訳してもらえばよい。 軍国主義独裁者の犯罪とその末路について、ぜひとも金正日に学んでもらいたいものだ。
--- 以上読売新聞主筆 渡邊恒夫氏『なぜ、今、戦争責任の検証か』終わり ---
*4 中曽根康弘元首相は東京裁判史観は『自虐史観』である。また上智大学渡部昇一は暗黒裁判と云っている。  中曽根康弘は海軍主計課短期現役志願6期生であった。
A級戦犯問題は日本で裁くべきであった。B,C級裁判に該当する例として、戦略爆撃機における都市無差別爆撃の実行者が撃墜されその乗員が国際法理に照らして保護される立場にはない。
戦争責任の精算について
極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯、BC級戦犯が訴追されたが、A級戦犯訴追の経過を見ると、明らかに昭和天皇の戦争責任について回避している。 いきおい矛先は陸軍首脳に向けられた。BC級戦犯についても、正統な裁判だったのかという疑問符を各識者が提起している。  これも単なる、提起の提起で終わっているところに問題がある。すなわち、本気で正面から我々は取り組もうとしなかった。  国内的にも国際的にも未決済で今日に至っている。 ここに政治の枢要にある者たちが、先の大戦の責任についてあいまいな態度をとり続けている原因になっている。  それは、国内的に決裁しなければならなかった問題を先送りでうやむやしてきた結果なのだ。
昨年(2007年)も、久間某大臣が、『原爆しかたがなかった』発言で国会が紛糾したが、昭和天皇さえ『原爆しかたがなかった』と独白しているのだ。  国会議員が喋ると大問題で、昭和天皇はなぜ免責なのだろうか?
海軍の戦犯と起訴人員5,700人にも及ぶ戦犯はこちら

2007年8月15日の読売新聞社説  (社説末尾のみ)
静謐な追悼の日となるように
 『読売新聞は、東京裁判の『戦犯』概念とは距離を置きながら、 日本の政治・軍事指導者の『昭和戦争』の戦争責任について検証し、昨年(2006年)8月に最終報告をまとめた。
 その結果、特定された戦争責任の中には、昭和天皇が名指しで靖国神社に合祀されたことを批判した2人の『A級戦犯』、 松岡洋右外相と白鳥敏夫駐イタリア大使も含まれる。
 2人は国際情勢を見誤り、日独伊三国同盟の締結を強力に推進し、 日本と米英両国の関係を決定的に悪化させた。このことが、対米英開戦の道を開く大きな要因となった。
 東条英機首相をはじめとする『A級戦犯』の多くが、日本を無謀な戦争へと導き、 日本国民に塗炭の苦しみをもたらした『A級戦争責任』と重なることは間違いない。
 彼らの引き起こした戦争が、東アジアの人々に、様々な惨害をもたらしたことも確かだろう。
 こうした経緯を考えれば、靖国神社が天皇参拝を復活させようと望むなら『A級戦犯』を分祀するしかあるまい。
 しかし、靖国神社が神道の教学上、どうしても分祀できないということであれば、 それも宗教法人としての固有の選択である。その選択に政府が関与することは、憲法の政教分離の原則に違反することにもなろう。
 ただ、こうした靖国のあり方、新たな国立追悼施設建立、あるいは千鳥ヶ淵戦没墓苑の拡充などについての広がりを避けがたいものにすることになるのではないか。
中央紙で『読売』『産経』新聞といえば、右派に属する。 慰安婦問題の論調も軍が関与した事実は『記録にない』などとし硬派の論調に終始する。

歴史の暗部を見据えて(渡邊恒雄)
『自存自衛』を唱えながら、戦線を拡大し南はニューギニアから南太平洋の島嶼*5に何百万という兵員をばらまいた。 彼らは上陸と同時に補給路を断たれ、ほとんどの兵はジャングルの中で飢え斃死にした。 戦後、彼らの内で祖国の土を踏めたものは1割程度という。 靖国神社はこの多くの野たれ死にした兵士を『英霊』と呼び、『御遺徳を顕彰』するとする "社是" には見逃すことのできない、 戦争を美化する作為と欺瞞がある。 あれだけの兵士を無意味な餓死という死に追いやった戦争 発起と戦争指導上の責任の所在は『英霊』という呼び方からは浮かび上がってこない。  兵士たちにずさん極まりない作戦を強いた軍中枢部を恨んで空腹のうちに息を引き取った彼らを "英霊" と呼ぶ欺瞞を許してはならない。 誰が、あれ程の無意味な死を強制した責任の追及を放棄したのか。今からでも遅くはないこの問題をキチント検証することが、国際貢献が叫ばれる今こそ我々に課せられた最大の課題であろう。
当Webサイト閲覧者の方へ。もし、少しの時間がとれるなら『魂鎮への道 無意味な死から問う責任 飯田 進/著 不二出版 1997/04』 を読んで頂きたい。 共通認識にたち、靖国の問題を論じたい。
* 肉親が祭神にもなっていない小林某なる人物が「新ゴーマニズムなんとか靖国論」なる本でしきり煽っている。 危険な兆候を憂慮する。欺されてはならない。
*5 日本軍は太平洋の島嶼25に守備隊を配置した。 実際米軍が上陸占領した島は10島である。 残りの島に放置された人間は16万人。彼らのうち4万人近くは、米軍と戦うことなく飢えと 栄養失調と病気で死亡した。 なお輸送途次、輸送船で撃沈され戦没した陸軍関係者は17万6千人に及ぶという。 これが、米国との開戦を決めるとき、海軍軍令部永野修身総長が戦争だから『多少の損害』は あるでしょう。の答えだった。 彼には17万6千人が少しだったのだ。  『大本営参謀の情報戦記 堀栄三/著 文春文庫 1996.5』
米軍が上陸占領した島 (順不動)
@ガダルカナル Aタラワ Bマキン Cクエゼリン Dエニュタク Eアンガウル Fペリリュー Gグアム 
Hテニアン Iサイパン  トラック島は大空襲を受けたものの占領されず終戦を迎えた。 
硫黄島は日本領土で除く




15. 2015年6月20日 00:46:49 : eOBGjwhYEc

天1号作戦と連携 4月6〜7日 菊水1号作戦(航空特攻)と米軍艦艇の損害

人間魚雷回天
戦艦大和TOP 第一章 【開発小史 歴史編】
第二章 【開発小史 技術・機能編】 一人では乗りこなせない欠陥兵器。また後進・停止が出来ない最悪な兵器。
第三章 【運用編】 回天はその誕生から許されざる兵器であった。また隊員の募集も詐欺師・ペテン師的な方法だった。
第四章【回天戦の実態】 
第五章【搭乗員の戦死と投入潜水艦】 


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1.強制された航空特攻名誉の戦死への道程
► 昭和19年(1944)10月5日?注1) 大西瀧治郎、航空特攻開始の稟議。及川軍令部総長, 伊藤整一軍令部次長,(中澤 祐軍令部作戦部長),大西瀧治郎(後、一航艦司令長官)の3名。および軍令部第一部山本親雄(1課,2課長兼務)も同席。 及川軍令部部長 特攻承認。 中澤 祐出張中不在

注1) 中沢 祐は航空特攻の責任を大西瀧治郎におっ被せた。
戦後中澤 祐は「1944年10月5日、南西方面艦隊司令部付に補せられ、内地出発前の大西中将と軍令部総長及川古志郎、同次長伊藤整一、同第一部長中澤祐の四人で話あった。」と喋った。 しかし、中澤は10月2日〜10月9日 まで、台北経由マニラに軍務出張しておりこの会談はあり得ない。
中澤は昭和19年(1944)10月2日横浜を飛行艇で出発。帰着10月9日16:45羽田着。 大西は10月8日10:35 台風通過後羽田発。 9日鹿屋。大西を羽田に見送った陸軍遠藤三郎中将の日記などから中澤との接点はどこにもない。  仮定の話として、遠藤日記の日付が一日ずれの9日であろうと、大西羽田発時刻と中澤の羽田着時刻からこの会談話は起こりえない。
戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」頁101 軍令部第一部長中澤佑少将は10月2日から9日まで台湾、比島沖縄方面に出張し・・・・ と書かれている。 中澤のウソはバレバレ。
また別の席上で10月1日人間爆弾桜花を使う神雷部隊を開隊しながら作戦部長の中沢さんが特攻作戦について知らないとはおかしい。と問いかけると絶句した。と伝えられてる。
中澤は戦後講演などで、特攻は崇高なる精神の発露と述べている。特攻隊員が単独で、飛行機に爆弾を積み込み、勝手に出撃した。すなわち崇高なる精神的発露だと強弁する。 この論理で行くならば、昭和20年4月6日から開始された菊水1号航空特攻は作戦として成り立たなくなる。何百人もの若者がある日一斉に崇高なる精神の発露を具現しようとし、国家の財産である航空機と爆弾を自ら積み込み、 燃料を補給し飛び立とうしたのなら、それは集団ヒステリー状態であり、 冷静に止めにはいるのが司令官などの職務であろう。


戦史叢書海軍捷号作戦 フィリピン沖海戦 頁109 大西の動向として
10月9日東京を出発し、10日鹿屋基地に着いた。ところが同日、敵機動部隊が沖縄に来襲したので、 上海(中国)を経由して11日高雄(台湾南部)に到着した。たまたま豊田長官が比島視察の帰途新竹(台湾北部) に飛んだ。 (中略)  大西は16日新竹を出発し、17日マニラの一航艦に到着した。 となっている。
いずれにしても(8日が9日になっても)10月上旬、中澤と大西の接点はない。

中澤 祐は戦後、大西瀧治郎がいきなり軍令部に現れ、航空特攻の話を切り出し、 軍令部としては考えてもいなかった内容でビックリしたというのが実状である。と述べたと伝えられているが、 戦後のとある席上で、この話を中澤が開陳した折、ある戦史研究家*2が、あなたはその時期 戦線視察の出張中で大西さんとは時間的に会えないはずと指摘され。次の言葉を発しなかったと伝えられている。 軍令部はすでに 人間魚雷回天の正式兵器化、人間爆弾艇震洋の正式兵器化(いずれも8月)を決定し搭乗員の組織化を 始めている。 現在では航空特攻の言い逃れとみなされている。
読売新聞主筆渡邊恒雄氏は彼らを痛烈に批判している。 渡邊恒雄氏による批判はこちらで
*2 1977年(昭和52年)7月中澤(当時83歳・同年12月21日死去)が水交会の講演で特攻に関して前出の話をしたとき、海兵74期妹尾作太男氏が 「10月1日に桜花の721空が開隊しているのに、軍令部がそれを知らないとは考えられぬ」と質問したところ、これまた絶句したと伝えられている。 * 海兵74期は 昭和20年 3月卒。この中から沖縄島水上特攻に向かう戦艦大和,矢矧に配属された。出撃の朝離艦を命ぜられ31戦隊駆逐艦花月が海軍徳山燃料廠まで輸送した。

 大西瀧治郎が特攻を始めるあたって、零戦に 250Kg 爆弾を積んだ程度で空母が沈む訳がない。一時的に敵空母の飛行甲板を破壊し艦載機の離着艦を不能にさせればよい。 それによって栗田艦隊のレイテ突入を成功に導く。ためと書いているものが多い。
 これもウソぽい。その理由は、 基地航空隊が入手した(在比,第一航空艦隊,第二航空艦隊)偵察情報は艦隊に配信する義務もなかったし、連合艦隊にも情報を統合し活用する仕組みさえ作られていなかった。 また、囮艦隊だった小沢艦隊が知り得た敵情報を統合し必要な部隊に配信する仕組みも存在しない。
 すなわち、敵空母の飛行甲板が使えないというような事になっても、その情報を有機的にリアルタイムに作戦活用する方法が構築されていない。 大西の弁とされる「空母飛行甲板云々」は戦後の戦史家の詭弁と思える。
 当時の軍人のおつむの程度が知れるが、帝国海軍は三次元で戦われる戦闘において戦場のビジュアル化を行わなかった。 レーダーのPPIスコープが開発される以前のAスコープ(日本軍のレーダースクリーン)でも英国は戦場のビジュアル化を行った。 地図若しくは海図に敵の航空機,艦艇の動きを色分けした駒で表現し戦場の推移をリアルに表現した。 すなわち敵の動きが誰の目にも一目瞭然だったのだ。

  レイテ沖海戦は日本の運命を決める一大決戦であった。 虎の子の戦艦武蔵,大和を含めた決戦であった。空母を囮として使う小沢艦隊, 敢然として殴り込みを掛ける旧式戦艦で構成された西村艦隊, 補完する志摩艦隊,共同戦線の一翼を担う基地航空隊の第一・第二航空艦隊。 レイテに殴り込む栗田艦隊。もし、栗田艦隊の作戦室に海図を広げ、 各艦隊・航空隊の動きをビジュアル化していたなら、 囮となった小沢艦隊から米機動部隊を引きつけたという無電が届かなくても全体状況は把握できたであろう。
 栗田艦隊ナゾの反転は海軍の知恵のなさの反転であった。 戦後各方面から色々と取りざたされた海戦ではあったが海軍士官の"おつむ"の程度が誰の目にも歴然と判明した海戦でもある。 日本には近代産業を支える鉱物資源もなかったが、彼らの頭(陸・海軍)の柔らかな頭(頭脳)の資源も全く枯渇していた。
 当時の海軍ではどうしていたのか? 淵田美津雄の話である。作戦室に海図を広げ、 壁の黒板に、入電した情報等を箇条書きに書いた。また、残念なことに敵信や友軍の電信など総合的に判断する情報士官を持たなかった。 この役務は通信参謀の片手間役務であった。
 彼らには、創造力も能力も企画力、構成力もおおよそ力(リキ)が付く全てのものが備わっていなかった。海上護衛総司令部の作戦参謀大井篤など、還送船団の会敵率が100%超える月が続いても全く不思議だ?とも思っていなかった。 海軍大学校卒業だそうだが、海軍大学校は海軍幼稚園だった考えなければ説明が難しい。小学校を半分ぐらいしかこなしていない会社の社長でも、赤字が3ヶ月も続くと何らかの手を打つはずである。

 突き詰めると、幼稚園の児童が太平洋戦争を戦った。負けるべくして負けたのである。 ここは、特攻に際しての源田実の発した電文にある全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作が第一義ではなかろうか。
 そして、昭和20年に入ると、第一義は忘れられ、天皇の云ったとされる、敵にもう一泡吹かせて、終戦を有利に導く手段にされたのであろう。
 陸海軍とも、撃沈!,撃沈!と云いながら敵勢力が衰えず、日本が沈めたと信じている空母の活躍をたびたび米国放送が伝えることで、我が爆弾の威力に対する疑問を感じ、 未完成空母阿蘇への爆撃実験後も特攻作戦を継続している。 自らのステータスを守るために若者に死を煽った以外に説明がつかない。

海軍特攻部長 昭和19年(1944)年9月13日任命 中将 大森仙太郎
  特攻隊員の募集方法など下準備が完了し「海軍特攻部」創設


−海軍特攻部
海軍省より9人、軍令部から7人、艦政本部から9人の課長以上が加わり、航空を除く特攻兵器に関する検討がなされた。
(一)、特攻兵器ノ実験、考案及ビ之ガ用法ニ関スル事項。
(二)、特攻兵器ノ量産及ビ整備ニ関スル事項。
(三)、特攻兵器関係要員ニ関スル事項。   隊員募集の方法機密第三号−62すでに進行中
(四)、特攻兵器関係ノ教育訓練及ビ基地整備ニ関スル事項。
(五)、特攻兵器関係ノ編成及ビ進出準備等ニ関スル事項。
これらの事項について、調査、研究及び企画を掌理し、その実行促進に当たる部署とされた。
(海軍特攻部既定、昭和19年9月13日官房軍機密第一一五九号)
考えるだけでもおぞましい組織を海軍は創設した。 1945年4月15日付特兵部に統合。特兵部長 山崎重暉。

山口県大津島に人間魚雷回天の基地建設と特攻部長選任は期を一にする。


1944年(昭和19年) 10月1日 人間爆弾桜花を使用する目的で721航空隊新編。
10月19日 神風特別攻撃隊を編成。
10月20日 第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎着任。
10月21日 以降成功の25日まで特攻出撃を繰り返す。
10月21日 特攻出撃の久納好孚中尉未帰還。
10月25日 07:40 護衛空母に突入 発ダバオ 菊水隊(加藤豊文) 朝日隊(上野敬一)
10月25日 11:15 米艦突入成功 発マバラカット 関行男大尉 大々的報道と全軍布告。

2.航空特攻 (1945年4月6日〜7日)
 1)航空総攻撃「昭和20年4月 6日〜7日 菊水一号作戦」を開始。
   この航空特攻を取り仕切ったのは真珠湾攻撃の飛行隊長淵田美津雄。 こちらかこちらで。

― 沖縄方面作戦米軍 ―
上陸部隊(バックナー中将指揮) 238,700人。(含予備兵力)  ※中将は6月18日沖縄南部戦前で戦死。
揚陸支援部隊(タナー中将指揮) 1,213隻の艦船。 上陸用舟艇(LST含む)564隻。
陸上射撃支援艦隊(デイヨー少将指揮)戦艦:10,重巡9,軽巡4,駆逐艦23。
機動部隊(ミッチャー中将指揮)空母16,戦艦8,重巡4,軽巡11,駆逐艦48,艦載機919機。
護衛空母部隊(ローリング中将指揮)空母4,戦艦2,軽巡4,駆逐艦12,艦載機244機。
 ― 特攻機の命中率は13%程度だったという。これだけの艦艇に戦線離脱させるにはいかほどの特攻機が必要か?―



写真左は、筑波航空隊で特攻隊を編成したときの記念写真である。写真右は第一次筑波隊指揮官となった 福寺中尉。石橋中尉も列機となって沖縄に突入した。

菊水一号作戦(航空特攻)


■ 1945年4月6日の海軍航空特攻
時 刻 航空隊 隊 名 機 種 出撃数 出撃地 指揮官名 未帰還者数
10:20 三航艦210空 彗星隊 彗星 7 第一国分 大尉児玉光雄 13
11:02 五航艦 721空 第三建武隊 零戦 18 鹿屋 中尉森 忠司 18
12:00 五航艦 征空隊発進
12:30 12連空 宇佐 第一八幡護皇隊 九九艦爆 15 第二国分 中尉寺内 博 19
12:30 12連空 宇佐 第一八護皇幡隊 九七艦攻 14 串良 大尉山下 博 39
12:45 12連空 姫路 第一護皇白鷺隊 九七艦攻 13 串良 大尉佐藤 清 39
13:00 十航艦 名古屋 第一草薙隊 九九艦爆 13 串良 中尉高橋義郎 26
13:10 三航艦252空 第三御楯隊 零戦 5 第一国分 中尉宮本十三 5
13:30 十航艦 百里原 第一正統隊 九九艦爆 10 第二国分 大尉桑原 知 20
* 使い古しの九七艦攻や九九艦爆で特攻させた。後継機「彗星」,「天山」で、夜間雷爆撃を反復することで、 昼間強襲の「特攻隊」に、決して劣らぬ戦果を挙げたであろうと確信する。
13:39特攻十航艦筑波第一筑波隊:爆戦17機:鹿屋:中尉福寺 薫 未帰還17
13:39 十航艦 筑波 第一筑波隊 零戦 17 鹿屋 中尉福寺 薫 17
13:55 12連空 元山空 第一 七生隊 零戦 12 鹿屋 大尉宮武信夫 12
15:35 三航艦 131空  菊水天山隊 天山 5 串良 中尉斉藤録郎 15
菊水天山隊 天山 4 串良 少尉熊澤庸夫 12
15:35 三航艦 210空 第三御楯天山隊 天山 1 串良 少尉吉田信太郎 3
15:55 三航艦 252空 第三御楯隊 彗星 4 第一国分 中尉荒木 孝 8
16:10 十航艦 第一筑波神剣隊 零戦 16 鹿屋 中尉松林平吉 16
16:45 三航艦 601空 第三御楯隊 彗星 2 第一国分 中尉百瀬甚吾 3
彗星は2座であるから4人であるはず。記録は百瀬,川合,杉本3人である。

4月6日の海軍航空特攻 台湾方面から
時 刻 航空隊 隊 名 機 種 出撃数 出撃地 指揮官名 未帰還者数
8:37 台湾空 勇武隊 銀河 2 台南 中尉根本道雄 6
14:43 台湾空 勇武隊 銀河 1 台中 一飛曹吉村一誠 3
15:00 台湾空 忠誠隊 彗星 3 新竹 一飛曹南 義雄 6
15:06 台湾空 勇武隊  銀河 1 台中 二飛曹村田守二 3

■ 1945年4月6日の陸軍航空特攻
  航空隊 隊 名 機 種 出撃数 出撃地 指揮官名
陸軍 第八飛行師団 誠第36飛行隊 九八直協 10 新田原 中尉住田乾太郎
誠第37飛行隊 九八直協 9 新田原 少尉小林敏男
誠第38飛行隊 九八直協 7 新田原 少尉小野生三


この日新田原から出撃した第八飛行師団の出撃機数は 28 機で未帰還が 26 機としているので前掲の表の通りであろう。実際の出撃機数はよって 28 機が正しく、帰還 2 機。
当時の米軍の対応はレーダーピケットによる戦闘機の迎撃で減殺し、残りは対空弾幕で撃墜した。これらをかいくぐるには飽和状態の特攻機数でなければ突入は困難であった。


  航空隊 隊 名 機 種 出撃数 出撃地 指揮官名
陸軍 第六航空軍 第22振武隊 一式戦 2 知覧 少尉西長武志
第43振武隊 一式戦 5 知覧 少尉浅川又之
第44振武隊 一式戦 4 知覧 少尉小原幸雄
第62振武隊 九九襲 5(4) 万世 少尉富澤健児
第73振武隊 九九襲 12 万世 少尉高田鉦三
第1特別振武隊 四式戦 7(8) 都城西 少尉友枝幹太郎
 ( )は別の記録に書かれている数字である。

陸軍の航空特攻に関して戦史叢書沖縄・台湾硫黄島方面陸軍航空作戦は、輻輳し混乱している。また記述の省略があり分かりづらい。
同書 頁463 特攻として出撃出来た機数は 54 機としているが、続いて第六航空軍隊別出撃機数は前掲のとおり 35 機である。 また、同書付表第三その一で4月6日の出撃機数は 57 機としているが計算が合わなくなる。日置英剛/偏,年表太平洋戦争(国書刊行会)で第62振武隊4機、第1特別振武隊四式戦(疾風)8機8人としている。よって特攻突入者数数は+,−すると同数である。


* 航空特攻記録に「爆戦」とあれば爆弾を装着した「零戦」である。 双発機銀河の 燃料タンクは 5,400 リットル入った。 燃料満タンで出撃させたか? なにしろ、航空ガソリンは枯渇していたのだから。
1945年4月月頭航空ガソリン在庫は各基地、燃料敞をかき集めても 36,491KL で その量は B-29 戦略爆撃機による 3月10日(東京・325機)、 3月11日(名古屋・310機)、3月13日(大阪・295機)、3月16日(神戸・331機)の給油 よりはるかに少ない量なのだ。 B-29のわずか4回の爆撃行で使った燃料は 44,000KL に達している。
* 4月6日菊水一号作戦参加機数は陸軍133機。海軍391機。合計542機。 海軍内訳 九州372機。台湾18機。未帰還179機。 うち特攻出撃215機。未帰還162機である。 悲しい戦果として航空特攻が開始されて以降最大の損害を米艦艇に与えた。
慶良間上陸以降米海軍は特攻機早期発見のためレーダーピケット艦を配置した。
* 韓国元山航空隊青木泰二郎司令は1945年8月11日、 日本の敗戦を悟ると家族と逃亡。元山空の特攻隊は全て七生隊である。 組織的には、十航空艦隊(前田稔)麾下12連空所属となる。
11連空所属谷田部空(梅谷薫)、12連空元山空(朝鮮)は競うように学徒兵を特攻させた。 詳しくは「特攻隊の記録 押尾一彦:著」を参照されたい。

■ 1945年4月7日の海・陸軍航空特攻
  *大和が撃沈されたこの日、
天候不順で航空特攻は不振だった。  この日小磯内閣崩壊。


海軍特攻隊
時 刻 航空隊 隊 名 機 種 機 数 出撃地 指揮官名 未帰還者
06:40 三航艦252空 第三御楯隊 零戦 5 第一国分 中尉富岡崇吉 5
10:20 五航艦721空 第四建武隊 零戦 12 鹿屋 中尉日吉恒夫 9
11:20 三航艦601空 第三御楯隊 彗星 11 第一国分 大尉国安 昇 18
12:30 三航艦706空 第三御楯隊 銀河 5 宮崎 少尉徳平宰郷 15
12:43 五航艦762空 第四銀河隊 銀河 4 宮崎 少尉三木 光 11
陸軍特攻隊
第六航空軍 第21振武隊 一式戦 1 喜界島    
第22振武隊 一式戦 1 喜界島 少尉大上 弘
第29振武隊 一式戦 1 知覧 少尉中村 實
第44振武隊 一式戦 2 徳之島 少尉甲斐玉樹
第46振武隊 九九襲 5 喜界島 少尉小山勝實
第74振武隊 九九襲 7 万世 大尉伊藤 實
第75振武隊 九九襲 4 万世 大尉大岩 覺
司偵振武隊 百式司偵 1 万世 中尉竹中隆雄
戦史叢書はこの日の特攻出撃機数を前日より多い 61機としている。


* 陸軍の航空特攻について沖縄戦関係は戦史叢書「沖縄・台湾硫黄島陸軍航空作戦」がある。記述が粗雑でどの隊が何時に出撃したのかさっぱり分からない。 またと特攻指名を受けたが乗機の不具合等で 出撃後に帰還した者は福岡の振武寮に収容?されたが、その振武寮について一言の記述もない。 誠に不誠実である。 国家事業とし後世に残す戦史としてはお粗末の限りだ。
この方のWebサイトで在福岡は 特攻帰還者収容施設 "振武寮" 収容者である。 多くはエンジン故障で引き返すか、不時着した者を収容した。特攻は死が前提であり、 帰還することを(例えエンジン不調でも)考えていなかったが、 現実生還者が発生したから精神教育を行う収容所を設けた。
  よって特攻指名されたものの敗戦まで生存できたケースがある。
大上 弘少尉は学徒兵で、教師になり子供の教育にたずさわることが夢だった。 喜界島上空で敵戦闘機に撃墜されてしまう。 第22振武隊は学徒兵が中心である。 陸軍は、 特攻兵を募るとき「熱望」する。「希望する」する。「希望しない」。のどれかに○を付けらせたが、希望しないに○を付けても関係なしに特攻兵にした。 陸軍では特攻兵になった瞬間からその人間は "神" とされ、天皇は人間の兵を率いるのであって神(天皇と同等)を率いることはしなかった。 天皇の軍隊は最新式でなければ天皇に対して失礼だったが、神が操る航空機は旧式でよかった。
  航空特攻に関して海軍と、第6航空軍司令官・菅原道大(中将・沖縄方面特攻責任者)で協議し、海軍は米機動部隊へ、 陸軍は沖縄近海輸送船団に特攻を振り分けた。海軍に引きずられ陸軍特攻を主導した富永恭次(中将), 菅原道大(中将)は若者に死をあおったが戦後ものうのうと生を偸んだ。 菅原道大は航空特攻を送り出すたびに、 本職も最後の1機で特攻すると言い続けた。そしてその時、1機の特攻機が準備された。 菅原は飛び立たなかった。 卑怯卑劣で人間のクズだった。


Webサイトにみる航空特攻
海軍 航空特攻 はこちら。  沖縄方面 航空特攻 はこちら。   陸軍 第22振武隊 はこちら。


*131航空隊(芙蓉部隊)戦闘第812飛行隊附海軍中尉大沼宗五郎、上飛曹宮田治夫は陸軍特攻隊の誘導に任じ、その完遂後自機も特攻を敢行。   これをみても「天一号作戦」が海陸軍の間で綿密に打ち合わされ、実行されたことがわかって頂けると思う。
*特攻隊名称は同一名称で複数の航空隊で編成したものもある。
*4月6日〜7日の海軍航空特攻で337人が死んだ。
*人は希望しても生まれてくる場所と時間を選べない。この若者らは国難に応ぜんとして はせ参じたが、時系列的に並べてみると「君は明日死ね!」と命じた武勲をのみを誇る司令官に消耗品として扱われた。
*海軍関係特攻を時系列的に示したが、命溢れる若者に、次々と君は死ね!と命じた 海軍上層部が戦後ものうのうと生き残ったことが許せない。日本国民による先の太平洋戦争に関する裁判(敗戦した以上誰かが責任をとる。企業の倒産しかり)を行ったとしたら、 海軍も死刑相当は多数に及ぶだろう。第12連空(元山空)、青木司令は市中引き回しの上斬首。 筑波空中野忠二郎も左に同じ。
*菊水一号作戦・第一次航空総攻撃(4月6日〜4月9日)  参加航空機数は,陸軍133機 海軍特攻215機,未帰還178機。 多くの若者の命が消えた。菊水作戦は第十号(6月21日-22日)まで実施されたから、この第一次菊水作戦に通常攻撃で参加したパイロットらも生き残れなかったであろう。
*アメリカ海軍艦艇の強力且つ効果的な対空防御網により、特攻する航空機は壊滅的な打撃を受け、いくつかの例外を除けば、これといった戦果を挙げることはできなかった。  費用対効果からすれば、日本そのものが自殺するようなものだった。 零戦は現在価格で1億円若の製造費だったという。
*特攻隊は突入したのち帰還しその体験を報告するパイロットは絶無だったから、攻撃方法改善のデータを発展さす手がかりは全くつかめなかった。
*特攻機だけで二六隻の海軍艦艇が沈没したが駆逐艦以上の艦艇は一隻も沈んでいない。
*一番問題は人間を消耗品としながら、戦果という計算を行ったことに尽きる。

3.確認できる航空特攻の戦果(米側の損害)
 1)1945年4月6日

1945年4月6日(金) 沖縄方面の米軍損傷艦艇  [〜第二次大戦米国海軍作戦年史〜]
by suicide plane  (特攻機で)
No 損 害 艦 種 艦 名 識別符合 沈没海域
1 損 傷 駆逐艦 MORRIS (DD-417) 25-55N 127-52E
2 掃海艦(施設) FACILITY (AM-133) 26-00N 127-00E
3 駆逐艦 HUTCHINS (DD-476) 26-00N 128-00E
4 掃海艇 YMS 321   26-00N 128-00E
5 護衛駆逐艦 WITTER (DE-636) 26-04N 127-52E
6 駆逐艦 MULLANY (DD-528) 26-24N 128-10E
7 掃海艦 DEVASTOR (AM-318) 26-26N 127-40E
8 駆逐艦 HOWORTH (DD-592) 26-32N 127-40E
9 駆逐艦 LEUTZE (DD-481) 26-38N 127-28E
10 掃海艦 DFENSE (AM-317) 26-38N 127-31E
11 駆逐艦 NEWCOMB (DD-586) 26-38N 127-40E
12 掃海艇 YMS 311   26-38N 128-48E
13 駆逐艦 HYMAN (DD-731) 26-45N 127-42E
14 軽空母 SAN HACINTO (CVL-30) 26-46N 129-43E
15 護衛駆逐艦 FIEBERLING (DE-640) 26-48N 128-04E
16 高速掃海艦 RODMAN (DMS-21) 26-48N 128-04E
17 掃海艦 RANSOM (AM-283) 26-48N 128-04E
18 駆逐艦 HAYNESWORTH (DD-700) 26-55N 129-29E
19 駆逐艦 HARRISON (DD-573) 27-05N 129-22E
20 駆逐艦 BENNETT (DD-473) 27-16N 127-48E
damaged by suicide plane,sunk by United States forces  (特攻機で損傷し)
1 海没処分 掃海駆逐艦 EMMONS (DMS-22 1,190トン) 26-48N 123-04E
2 駆逐艦 COLHOUN (DD-801 2,050トン) 27-16N 127-48E
by suicide plane  (特攻機で)
1 沈 没 駆逐艦 BUSH (DD-529 2,050トン) 27-16N 127-48E
2 戦車揚陸艦 LST 447 (1,940トン)  
accidentally by United States naval (友軍の誤射)
1 損 傷 戦艦 NORTH CAROLINA (BB-55)  
2 軽巡洋艦 PASADENA (CL-65)  
3 潜水艦支援艦 PCS-1390    
4 輸送艦 BARNETT (APA-5)  
5 運搬艦 LEO (AKA-60)  
6 戦車揚陸艦 LST 241    
7 戦車揚陸艦 LST 1000    
by collision 衝 突
1 損 傷 高速輸送艦 DANIEL T. GRIFFIN (APD-38)  
by horizontal bomber 水平爆撃
1 損 傷 駆逐艦 TAUSSIG (DD-746)  
2 高速掃海艦 HARDING (DMS-28)  
「第2次大戦米海軍作戦年史」 1945年3月以降の特攻機による損傷艦艇一覧表は戦史叢書沖縄・台湾硫黄島陸軍航空作戦付表六に掲載がある。

丸木政臣「沖縄無残なり」に次の記述がある。    4月6日。知覧の第二次特攻総攻撃の日。松田中尉が汚名挽回の出撃をしたとき、 知覧通信隊は沖縄アメリカ艦艇間の無線の交信を傍受している。
「06:45北西、怪物接近中、自殺機命中、火災発生」
「06:53 BARNETT(バーネット) 右舷ニ自殺機、曳キ船タノム、ケラマニ向ウ」  この6日早朝出撃の海軍機はいないので陸軍特攻機と思える。
この日第六航空軍司令官は萬世、知覧(鹿児島県)で特攻隊員を激励し、続いて都城(宮崎県)で特攻隊を見送った。
沖縄海域ピケット艦配置はこちら

 2)1945年4月7日


1945年4月7日(土)
accidentally by United States naval (友軍の誤射)
No 損 害 艦 種 艦 名 識別符合 沈没海域
1 沈 没 貨物運搬艦 AUDRAIN (APA-59)  
by mine  (機雷もしくは魚雷)
1 沈 没 砲艦 PGM-l8   26-13'N 127-55E
by suicide plane  (特攻機で)
1 損傷 駆逐艦 LONGSHAW (DD-559) 26-29N 127-41E
2 掃海艇 YMS-81   26-35N 127-53E
3 戦艦 MARYLAND (BB-46) 26-40N 127-29E
4 護衛駆逐艦 WESSON (DE-184) 26-48N 127-55E
5 空母 HANCOCK (CV-19) 27-00N 130-00E
by mine  (機雷もしくは魚雷)
1 損 傷 掃海艇 YMS-103    
by coastal defense gun   (陸上からの攻撃で)
1 損 傷 掃海艇 YMS-427    
by grounding  (座礁)
1 損 傷 戦車揚陸艦 LST 698    
by collision   (衝突で)
1 損 傷 戦車揚陸艦 LST 890    

 空母HANCOCK (CV-19)
 空母ハンコックの攻撃時刻は12:12 攻撃は零戦。死者62人。傷者17人に達した。
 五航艦721空第四建武隊の一人と思われる。高度150mで爆弾投下。機はそのまま突入。
*空母エセックスに彗星の至近突入が記録されている。三航艦601空第三御楯隊の1機と思われる。
*戦車揚陸艦 LST 890は前日6日、衝突艦 DANIEL T. GRIFFIN (APD-38)がありその相手方か? 何らかの錯誤で7日損傷と計上されたのか?
*米側記録、この2日間での沈没最大艦は駆逐艦2隻。揚陸艦1隻。掃海艇1隻。砲艦1隻だが
日本側は
► 轟沈 戦艦二、艦種不詳二、大型三、小型二、計九隻。
► 撃沈 輸送船五、艦種不詳一、計六隻。
► 撃破 戦艦一、炎上 駆逐艦一、輸送船六、小型二、艦種不詳一九、計一九隻。
総計三四隻に損害を与えたと報じた。
 あれだけの航空特攻を仕掛けて少ない戦果では陸海軍の面子にかかわるとしてウソを垂れ流したのであろう。  また、沖縄32軍電報として沈没巡洋艦三を含む総計六九隻を撃沈破したと連絡している。
沈没・損傷艦の検証を行う方法を持たなかったので、このような過大戦果が毎回報告されたのであろう。 


*海軍首脳部は水中特攻兵器回天とロケット特攻 兵器桜花と比し、航空機の250Kg爆弾での破壊力は5分の1とみており、 これだけ多数の轟沈、撃沈できるはずがないと もう少し科学性のある検証をすべきであった。あれだけの特攻突入しても戦力の減少をきたさない米軍に、 特攻効果に疑問を感じだしたのが1945年5月末頃であった。 よって、進水したものの艤装が出来ない未完成空母「阿蘇」 を特殊潜航艇基地(倉橋島)沖に引き出し陸海軍最強と考えている爆弾投下実験を行った。 結果は惨憺たるもので「阿蘇」はビクともしなかった。
■4月6日、日本機による攻撃のすさまじさがわかる。低空突入の特攻機に対する応射の砲火が?味方艦艇に命中したのか、7隻が損傷している。回避行動の衝突艦まである。
■4月7日、掃海艇 YMS-427は陸上から攻撃されている。陸に接近しすぎたのか?
 「特攻機による被害は、艦船に対する直接的攻撃だけでなく、日本機がまっすぐ自分たちに体当たりしてくる奇想天外な作戦におびただしい戦闘疲労者(神経症)を出した」とも記録されている。 米艦対空機関銃手はSuicide attack(自殺攻撃)に泣きながら半狂乱で突入する特攻機に銃弾を発したともある。
菊水作戦すなわち、沖縄島攻防戦での航空特攻の戦死者はこちら。


4.1945年8月15日の特攻
@ 三航艦寺岡謹平麾下第752空菊岡徳次郎司令の命令により流星1機。縄田准二、中内 理の二人は10:15木更津を飛立ち戦死。
A 三航艦寺岡謹平麾下第601空杉山利一司令の命令により第四御盾隊彗星11機。 谷山春男中尉以下8機16人が百里原(茨城県東茨城郡)基地を11:05〜11:30の間に飛立ち戦死した。狂気の海軍を見る。
B 戦術的に有効でない特攻を五航艦トップとして指揮した宇垣 纏は終戦の詔勅後に大分基地より艦爆11機(彗星)で出撃した。一人で自決すれば済んだはずだ。
未帰還8機。不時着3機。うち1機偵察員死亡。搭乗員総数22人+宇垣纏。死亡。
宇垣を乗せたのは、中津留達雄大尉(海兵70期)遠藤秋章飛曹長(乙飛9期)。 同機は同日夕刻沖縄県伊平屋島海岸付近の岩場に激突。
城山三郎は著書『指揮官たちの特攻』【新潮社】で この戦争は海軍による真珠湾のだまし討ちで始まり、そしてポツダム宣言受諾後の海軍はまたもや「卑怯な終わり方」を中津留達雄大尉は避けたという見方をしている。 すなわち、不名誉な帝国海軍の謗りを回避した行為であろうとの見解を示している。城山三郎のこだわり、特攻死を受け入れられない残された家族の深い悲しみと怒りを込めつつ描いている。

* 宇垣纏私兵特攻と云われているが、純法理論的には、私兵特攻に当たらない。 海軍の交戦停止命令は、翌16日16:00 大海令第48号でもって、海軍全部隊に即時戦闘行動停止命令が発令された。
 人間魚雷回天は平生基地から神州隊を8月16日朝出撃させている、
決して宇垣の弁護ではないが、彼の死と大西瀧治郎の自決は同一ではない。大西はその自決に際し贖罪の遺書を残した。宇垣は五航艦長官として多く特攻命じた。命じた以上自分も最後には特攻に行く。その公約の実行である。 人に死ねと命じておきながら生き延びるを潔しとしなかった。 大西は捷号作戦からずるずると特攻を引きずり、宇垣は五航艦長官として菊水作戦(天一号作戦)を仕切った。その仕切りの仕上げが自らの特攻であった。
一部伝えられる陸軍の高官のように、自分も後から行くと約束し、戦いが終わるや軍人恩給で平穏な生活を送ったことと比べれば人間的優劣は自ずと判定できるであろう。
その間にも、ソ連の北方4島への進攻は続けられ、根室の目と鼻の先の歯舞諸島まで進攻された。翌、 17日、海軍は大海令49号で、陸軍は大陸命1382号で一切の武力行使(自衛も含む)の禁止と作戦任務の解除が発令された。

*最初の特攻を行わせた大西瀧治郎は詔勅の翌16日に自決。本来自決すべきは源田 実であった。
*マリアナ沖海戦で惨敗した後の、 1944年(昭和19年)6月27日館山航空隊司令だった岡村基春(大佐)は舟木中佐とともに軍需省を訪れ、 航空兵器総局長だった遠藤三郎陸軍中将と総務局長の海軍大西瀧治郎を訪れ「もはや(航空機)体当たりのほかはない」と建言。
それ以前に、侍従武官だった城英一郎(マリアナ沖海戦で戦死)は航空特攻が開始される1年以上前の1943年(昭和18年)6月29日に特攻意見書を航空総務部に提出している。
第721航空隊(百里原)で桜花特攻隊を編成した岡村基春司令は1948年(昭和23年)7月13日千葉県の茂原付近で鉄道自殺*をする。自殺まで胸中なにが去来したのか?
*関大尉以下特攻パイロットの人選を行った201空戦闘機隊副長玉井浅一(中佐)は、 戦後出家し仏門に入る。特攻で死んだ若者の位牌から片時も離れず端座し 合掌していたと伝えられている。その態度と行為から特攻が大義の発露でないことを示しいる。 彼は組織でいうと中間管理職だが、職を賭してでも特攻に反対すべきであろう。
*中島正は、1944年7月以降 第201航空隊飛行長として航空特攻を指揮したが、その著書で、特攻を指揮した責任は認める。 だが、特攻で戦死した搭乗員を責めてくれるなと発言している。冗談じゃない、前途ある若者を無慈悲に殺害したお前を国民は責めているのだ。勘違いするな。
『神風特別攻撃隊(猪口力平/中島正:著)』で出来もしない敵艦突入方法を書いている。率先垂範。それが海軍の伝統ではなかったのか?? 戦後彼らは航空自衛隊に加わる。
*海軍関係は手間暇掛ければ漏れはあるだろうけど特攻の時系列的記述ができる。陸軍特攻は悲しいかな、最適な資料が探せ出せなかった。これも、海軍びいきの陸軍嫌いか?
*岡村基春の自殺は女性問題だったという説がある。


戦後60年たった今でも特攻を美化する
知覧特攻平和会館編 『特攻隊員たちが残した言葉』 草思社 にみる新聞広告
特攻隊員たちが残した手紙・遺詠を美しい風景写真とともに紹介する一冊。再び還ることのない出撃を前に、 隊員達は取り乱すことなく感謝の手紙をつづり、飛び立った。六十年前の若者達の無垢な想いが胸を揺さぶる感動の書。
知覧特攻平和会館は、鈴木勘次著『特攻からの生還』 を読んで見たのか。 整備兵の証言。出撃直前、腰を抜かして失禁したパイロットを抱きかかえて航空機に乗せた事実を!。 あの卑劣で組織犯罪を美化する言葉をなぜ、悲しい歴史を刻むべき特攻平和会館ともあろう組織が許すのか。
知覧特攻平和会館が全エネルギーを傾注して次世代へ伝えるメッセージは 「なぜ特攻が行われ数千の若者が死んでいったのか」 という事実と、 それを、誰と誰が組織し命令を下したのか。またそれを組織し実行した人間が戦後ものうのうと生を偸んだ事実を伝えるべきである。このような無責任体質が今日もなお、 政治や高級官僚らに連綿と受け継がれている事実こそ伝えるべきである。 国土交通省管下北海道開発局局長は、国民の税金執行に自分の金のような感覚で官制談合を取り仕切った。
2008年1月橋なんとか云う大阪府知事に当選したとかいう小僧が、地方自治体の首長が「一国の防衛政策を一地方自体が異論を差し挟むべきではない」と喋った。 橋なんとかいう小僧は弁護士だという。憲法の主権在民を知らない人間がこの国では弁護士が務まるらしい。 先の大戦で物言われぬ民が300万人死んだ事実と焦土と化した国土があったことさえあのバカは知らないらしい。 彼がそのような暴言を吐けるのも、多くの先達の流した血と涙で現在があるからなのだ。


続き 航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち   戻る 海軍の戦争犯罪 誰が航空特攻を主導したのか?


航空特攻関係記録にかかわる書籍や資料
■『特攻隊の記録 押尾一彦:著』
■『真相・カミカゼ特攻 原勝洋:著』  押尾一彦氏の著書では、予備学生(士官)は全て出身校が記載されている。
原勝洋氏の書籍では全く不明。 よって筆者は前書を奨める。
■『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』
1945年3月11日から敗戦までの海軍航空特攻抄録が附表第2で添付されている。本表で予備学生・兵学校出身者の別はわからない。
重い証言ほか
■『特攻からの生還 鈴木勘次:著』 銀河で特攻し撃墜されて米側に救助された。
■『特攻の真実 深堀道義:著』
■『特攻総決算 永沢道雄:著』 総論的に流れるような文章で秀逸。

[tokkou] 内の各 htm ファイル
元山航空隊予備学生の墓場   特攻の時代と特攻隊員の遺書を考える   誰が航空特攻を主導したか 科学音痴海軍兵学校出身者   海軍の戦争犯罪 源田 実は人命軽視の超国賊   海軍の非人間性+戦争犯罪 大和水上特攻作戦と連携   航空特攻 逃亡と無能な陸海エリートたち   なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄   渡邉恒雄(讀賣新聞・主筆) 下劣で戦争犯罪組織と化した海軍   菊水作戦と第六航空軍 陸軍第22振武隊   人間魚雷回天特別攻撃隊   回天搭乗員の戦死と投入潜水艦   人間魚雷回天特別攻撃隊の悲しい戦果   人間魚雷誇大戦果はなぜ?




[32削除理由]:削除人:関係が薄い長文

16. 2015年6月20日 00:48:53 : J2At9LzOvk
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 兵站の用語解説 -
軍事装備の調達,補給, 整備,修理および人員・装備の輸送,展開,管理運用についての総合的な軍事業務

主語と述語だけを書き出せば、「兵站とは総合的な軍事業務」って事。

つまり戦争のことでしょ。

私の叔父も15歳である会社の養成工に受かった。
それは会社が勉強をさせてくれて、給料がもらえ、将来はその会社の幹部にまで上れる出世を約束されたコースだった。

喜んだのもつかの間。

入学してすぐ先生から「兵隊に志願する書類に名前を書け、そして親の許可は明日もらって来い」と言われ、書かないものは「腰抜けが!それでも日本男児か!非国民が!」と散々言われ、クラスの全員が名前を書いて先生の帽子の中にその札を入れたそうだ。
。幼いころはいつもおんぶをせがまれた、かわいい弟だっだ。
志願をしてしまったことを聞いた当時もう当主だった私の父は、一番下のかわいい弟を始めてぶん殴ったそうだ
国は騙したのだ!最初から生徒がほしいのでは無く志願兵がほしかったのだ。

そして19歳で全員輸送船とともに海へ沈んだそうだ

戦争とはそういうものよ。
当然輸送船が一番先に狙われる
元を断つのは兵法の常

それ以来父は酒乱になった。
弟を止められなかった自分を責めて
正体を失うまで愚痴を行っては泣いて、泣いては飲んで飲んで飲んで飲まれて暴れた。

死んでしまったものはいくら嘆いてももう帰ってはこない。
それでも一時を忘れるために酒を飲んだ。
54歳で事故死するまで続いた。

19歳で未来を奪われて若者達もあわれ、そしてその家族も哀れ。

それが戦争
戦争で積極的な平和にするなどとうそも方便か?あべ

戦争で死んだ人はたまにあたって一思いに死ねた人ばかりじゃなく、蛇を食べつくし、虫を食べつくし、ミミズを食べつくし何にもなくなって泥水を飲んでしまいには共食いさえしたそうな。
それでも最後には飢え死にが待っている世界、それが戦争。

安倍が行けや!取り巻きが行けや!筋書き書いた官僚が行けや!
一般人を巻き込むな!


17. 2015年6月20日 00:51:24 : eOBGjwhYEc
開戦後すぐに米英軍は無条件潜水艦作戦を実行に移しました、
通常、潜水艦は公海上で敵の商船を捉えた場合停船命令を出して臨検し
乗組員を退船させてからこれを砲撃か魚雷で撃沈させますが米軍はこの臨検等を省き
発見、即攻撃です。
一方、帝国海軍は輸送船団の護衛を軽視し開戦時に就役していた海防艦は僅か
4隻!
護衛の無い羊の船団はただただ一方的に沈められる恐怖の航海を
強いられました。
開戦翌年の1942年は70万トン、隻数にして約140隻を失いました。
これは帝国海軍の船舶喪失予想内でしたが1943年には180万トン
1944年には230万トンにも登り帝国海軍の予想を3倍も上まり国力の
大幅な低下と戦争遂行能力を極端に失う事態に発展します。
慌てて護衛艦の建造に着手しますが時、既に遅し・・・
1945年になると船員も商船も払底し食料や資源の輸送は100トン足らずの
小型漁船すら徴用される始末。
当時の米海軍潜水艦の16ミリカラー映画にこれらの漁船を攻撃する様子を
撮影した物がありますが低速で航行する漁船に猛烈な機銃掃射を浴びせると
木造船はたちまち木っ端微塵に砕かれ沈没してゆき浮遊する船員にも情け容赦無く
機銃で殺戮を繰り返し見ていて哀れを極めるやりかたでした。
終戦までに沈没した商船は600万トン、2000隻にものぼる商船が海底に沈み
数万人の有為な船員達が今も永久墓場に眠っています。
敵を知らず己を知らない帝国陸海軍と政府、そして戦前の日本人達の
奢った精神が戦争遂行の基本的行動すら軽んじた為の大きな代償を
強いられた教訓です

18. 2015年6月20日 10:34:42 : hdNY6z2Xpc
>>17. 2015年6月20日 00:51:24 : eOBGjwhYEc
>大きな代償を強いられた教訓

だからさ、日本国憲法の戦争放棄のおかげで今の日本人が生活できるんだ。

どれだけ無駄なコメントにある兵站が平気で海に沈められたのか。

馬鹿馬鹿しいほど無駄だったな。もう共産党の志位くんに軍配が上がった。

自公靖国カルト政権は既に論理で負けて勝ち目がなくなったということだ。



[32削除理由]:削除人:カルト

19. 2015年6月20日 14:48:54 : rRwgGKRbR2
先の大戦では大和や武蔵が最後まで
逃げ回ったから生き残った。

しかし
南の島々の海底には
アメリカの爆撃機がやってくると言う情報で逃げた
大和や武蔵の代わりに物資の輸送船として徴用された
何千という民間の船が乗り組員共々眠っている。
それも、爆撃機が来ることも知らされずに。

歴史は事実を教えてくれる!
「兵站」がア安全かい安倍


20. 2015年6月20日 15:39:42 : YDSIdIOZ42
安倍くん
知覧に行って
特攻隊の遺書を呼んで来い
うら若き青年兵が帰りの燃料も
積まず飛んで行ったんだよ
お母さんお母さんと心で叫び

21. 2015年6月20日 21:12:27 : xzwoQ9MwAE
ファミコンの「三国史」は,食料がないと士気が下がり,兵数が急速に減少したよね。だから,食料や武器の運搬は狙いだった。
それが安全なんていう安倍は,ファミコン三国史をやったことがないんだ。
なぁいいけど。

22. 2015年6月21日 13:26:55 : G9pRncd5P6
>>16

痛ましいお話をあえて聞かせて頂き、ありがとうございました。
私は戦後十数年経って生れた身なので、あまり詳しいことは聞いてはおりませんが、
それでも親戚に輸送船に乗って撃沈させられた人がいると父母から聞いてはおります。
今の若い人たちにはこうした話はあまり伝わっていないようですので、16さんのようなお話は貴重なものと思います。

>>17

>開戦翌年の1942年は70万トン、隻数にして約140隻を失いました。
これは帝国海軍の船舶喪失予想内でしたが1943年には180万トン
1944年には230万トンにも登り帝国海軍の予想を3倍も上まり国力の
大幅な低下と戦争遂行能力を極端に失う事態に発展します。

こちらも貴重なお話をありがとうございます。
私の親戚が沈められて死んだのは敗戦の年か、その前年辺りと聞いていましたので
開戦翌年からそのように犠牲が出ていたとは知りませんでした。
日本の軍部はそこまで兵站を軽視していたのでしょうか?
だとしたら沈められた兵隊さん、装備不足や食糧不足のために死んでいった兵隊さん、
お国のために徴用され、彼等を運んでいて共に死んだ船員さんたちもあまりに哀れです。

右翼的な人たちは何かと言えば特攻隊ばかりを賛美します。
もちろん特攻で亡くなった方々もお気の毒ではありますが、
他にもおびただしい数の兵員が空しく亡くなって行ったことを言ってもらいたいです。



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