安保法制論議が5月26日から始まった。しかし、野党の委員は「戦争に巻きこまれる」「自衛官のリスクが高まる」「死者が出る」などの煽動的な質問ばかりして、「法律制定の必要性」にはほとんど触れようとしない。木を見て森を見ない論戦としか言いようがない。
真に議論されるべきは、「国際情勢」と「日本への危機」であり、これに対処して「国益をいかに守るか」である。そのために国家の危機対処体制と自衛隊の現状を国民に可能な範囲で知らせ、足らざるところを埋める「安保法案」の審議である。
本質論戦に至らないために、国民の8割が説明不十分(「産経新聞」平成27年6月1日)とみている。議論がかみ合わず、ただでさえ政府は説明に窮しているところに、憲法調査会が参考人として招いた与党推薦の学者までが安保法制は憲法違反であると述べた。
当該学者の学説を知らない与党議員の不勉強や心の緩みが招いた醜態としか言いようがない。
かみ合わない議論
隊員のリスクは大きな関心事項であるが、それのみに焦点を当てるのは異常である。真の課題は国家と国民を含めた「日本へのリスク増大」を認識することであり、そのリスクに「シームレスな対処」ができるようにすることではないだろうか。
日本では国家の安全、なかでも軍事問題や戦争などについては、言霊信仰があって用語の使用さえ憚られてきた。
憲法で戦争を放棄して軍隊を保有しないことになっているために、学校では戦争のことも軍隊に関わることも教えないし、「軍事」を語れば好戦主義者と見られかねない状況にあった。
今回は自衛権問題で集団的自衛権を一部行使することが焦点になっている。しかし、江田憲司委員が政府、すなわち内閣法制局の解釈する個別的・集団的自衛権と異なる、国際司法裁判所のニカラグア判決や国際法学会の通説に準拠すべきであると主張する。
それによれば、今回の議論になっている集団的自衛権行使の一部容認は国連解釈では個別的自衛権の範疇であり、国民を混乱させる集団的自衛権を持ち出すまでもないという見解である。
このように、根幹とも言うべき集団的自衛権の理解が異なっている。これでは議論がかみ合うはずもない。
個別的自衛権と集団的自衛権の解釈にすら日本で統一されていない印象を与え、集団安全保障と集団的自衛権の違いはさらに理解されていない。政治家レベルでかみ合わない議論を、国民に分かりやすく説明しようとしても困難であろう。
ざっくり言って、これまでの集団的自衛権の行使一部容認や特定秘密保護法問題では、その意味するところがあまり理解されないままに進んできた。そうしたことから、「安全保障論議」は、初めから食わず嫌いの感があり、世論調査で「説明不足」となるのは当然であろう。
戦争、軍事、安全保障などについて、憲法9条を楯に「教えない」「話さない」「聞かない」できたからである。
「戦争への反感だけで支えられる平和主義は必ず堕落する」(『20世紀日本の戦争』)と中西輝政氏は語っているが、まさしく「平和憲法が日本の危機対応不全」を招いていると言えよう。
「争い」を嫌う国民性
古来、日本は言霊信仰が強い国民性である。また、対立を旨とする狩猟民族と異なり、協同を尊ぶ農耕民族である。従って、「戦争」「闘争」「争う」などの用語を忌み嫌い、避けたがる。
アダム・スミスの『国富論』を手にした福沢諭吉は、大蔵官僚に一読に値すると進言する。官僚は目次だけでも教えてほしいということで、早速翻訳して届けるが、「コンピティーション」という用語を「競争」としたために、官僚には見てもらえなかったと告白している。
今回の安保法制論議に関して言えば、野党は国民が嫌う「戦争」「戦地」「死者」などの用語を頻用して、国民を不幸にする大変な法案を政府は創ろうとしていると批判する。
しかし、それで日本の安全・安心が保てるかというと、尖閣諸島の領海侵犯や小笠原周辺に押し寄せた赤サンゴ密漁魚船に有効に対処できていない一事が雄弁に物語っている。
これまでの日本人は戦争についても軍隊についても考えることをしてこなかった。共産党や社民党が言うように「憲法が平和を守ってくれる」と思い込んできた節がある。
こうしたことから、安保法制には関心がないうえに、理解できるはずもない。「説明不足」ではなく、しょせん「聞く耳がない」ということであろう。
各国の世論調査機関が加盟し、ジュネーブ(スイス)に本部を置く「WIN-ギャラップ・インターナショナル」が、「自国のために戦う意思があるかどうか」を64か国・地域で実施した世論調査の結果を2015年3月18日に発表した。
「意思あり」が高いのはモロッコ(94%)、パキスタンおよびベトナム(89%)など情勢が不安定な国である。中国(71%)やロシア(59%)は中位にあり、米国(44%)、フランス(29%)、英国(27%)などの米欧はやや下位に列している。
そうした中で、日本の「意思あり」は11%で最下位である。「意思なし」も43%と多いが、「分からない」が47%で最高になっており、安全や軍事について教育していない結果を如実に示している。
なお、安保法制の目的は国家としての抑止力と安全性を高めることであるが、もう1つ重要かつ忘れてならないことは、日本の名誉と派遣部隊・隊員の威信(プライド)を高めることである。
日本の名誉と隊員の威信
国会論戦ではときおり徴兵制が取り上げられてきたが、その時引き合いに出されたのが憲法18条の「奴隷的拘束及び苦役の禁止」条項などであった。
平成26年7月15日の参院予算委員会で質問に立った吉田忠智社民党党首が集団的自衛権についての憲法解釈の変更が閣議決定で許されるならば、徴兵制についても同様に変更が許されるのではないかと質した。
これに対し、横畠裕介内閣法制局長官は「わが国の憲法秩序の下では、社会の構成員が社会生活を営むについて、公共の福祉に照らし当然に負担すべきものとして社会的に認められるようなものではないのに、兵役と言われる役務の提供を義務として課されるという点にその本質があり、平時であると有事であると問わず憲法第13条、第18条などの規定の趣旨からみて、許容されるものでない」と述べ、(徴兵制についての従来の)「解釈変更の余地はないと考えております」と答弁している。
吉田党首は徴兵制について「憲法18条の意に反する苦役に当るわけでありまして、これ(註:徴兵制)は認められない」と切り出し、横畠局長も「環境の変化によって意に反する苦役であるかどうかということが変化することはあり得ない」と念を押している。両者の問答からは、隊員の役務をいまだに苦役と理解していることが分かる。
自衛官は志願して自衛隊に入隊しているので、国民全般を対象とする徴兵制とは制度的に異なるが、基本的な役務内容はさして変わらない。してみると、自衛隊員の役務も苦役と見られていることになる。
ところが、自衛官は全く別次元の意識に立っている。
入隊時の動機はともかくとして、自衛隊で3か月の教育を受けた後には、ほとんどの隊員が国家の安全を守り、国民の生命・財産を守る崇高な任務に服しているという意識を持つようになる。
PKO(平和維持活動)などで海外に派遣された自衛官は、日本の名誉を担って赴き、自衛隊員としてのプライドをもって任務に邁進することになる。国家の名誉と隊員のプライドは、同様な任務を有す外国軍隊、中でも自衛隊を護ってくれる外国軍隊に対しては、彼らが危険に遭遇した場合には助けたいという情理として働く。
陸上自衛隊最初のPKOとなったカンボジア、そしてやや長期にわたって復興人道支援をしたイラクに派遣された自衛隊は外国の軍隊に守られて活動した。しかし、守ってくれる外国軍隊が危機に直面した場合、日本は助けることができないことになっていた。
これほど派遣部隊の指揮官を傷つけ、隊員の自尊心を踏みにじってきたものはなかった。それはとりもなおさず、日本の名誉を汚すものでしかなかったことは言うまでもない。今次の安保法制は、こうした卑屈を解消し、派遣部隊・隊員の威厳を回復させるものでもある。
役務が「苦役」であるはずがない
抑止力と一言でいうが、これは何も兵器装備に裏づけられた軍事力を言うばかりでなく、国家の意志との相乗効果でもたらされるものである。国家の意志とは政治であり、いま議論されている安保法制である。その駒となるのは、一義的には自衛隊であり、自衛官である。
安倍晋三首相は、2014年3月に行われた防衛大学校の卒業式で、「雪中の松柏、いよいよ青々たり」を引用して、雪が降り積もる中でも青々と葉をつけ、凛とした松の木の佇まいを、全人生を傾けて国と国民を守ろうとする自衛官の姿に重ねる訓示をした。そのうえで、次のように述べた。
「国家の存立にかかわる困難な任務に就く諸君は、万が一の事態に直面するかもしれない。その時には、全身全霊を捧げて、国民の生命と財産、日本の領土・領海・領空は、断固として守り抜く。その信念を、堅く持ち続けてほしい。(中略)今ほど自衛隊が国民から信頼され、頼りにされている時代はかつてなかったのではないでしょうか。諸君には、その自信と誇りを胸に、どんなに困難な現場にあっても、国民を守るという崇高な任務を全うしてほしい。そして、国民に安心を与える存在であってほしい」
日本が「徴兵制」をとるはずがないことを示すために、過去には兵役を「苦役」などとした解釈で切り抜けてきた。これは、「国家の存立にかかわる困難な任務」「国民を守る崇高な任務」を果たす自衛官を評価し、敬意を表するものではなかった。しかし、国際情勢は大きく変わり、今や自衛隊はPKOなどでも国際社会で活躍している。
「環境の変化によって意に反する苦役であるかどうかということが変化することはあり得ない」など、どうして言えようか。もはや、兵役を苦役の切り口で説明するには無理がある。
従来は派遣している自衛隊を外国(軍隊)が護ってくれても、彼らを守ることはできない、国家の尊厳も派遣隊員の名誉も奪い、恥辱しか与えない法制であった。この欠陥を修正して、国家と国民の安全・安心を高めるための安保法制であり、自衛隊および自衛官に名誉を与える法制を目指しているのである。
徴兵制は敷かないだろうが、兵役を「意に反する苦役」とか「奴隷的拘束」などとする解釈自体は、自虐であり変更が必要であろう。
明治維新時の国軍問題
大東亜戦争終結までの日本では徴兵検査があった。徴兵逃れを画策する人もいたが、逆に「何で俺は甲種(あるいは乙種)合格でないのだ」と嘆き悲しむ者も多かったと聞く。当時の国民は戦時色に染まっていたこともあろうが、純粋に兵役で国家に奉仕したいという意識も時代世相を反映して高かった。
三島由紀夫は徴兵検査に合格し召集令状を受け取るが、風邪をこじらせて入隊検査ではねられる。もともと徴兵に消極的であったこともあり、後々、三島のコンプレックスになったようである。
明治維新で廃藩置県となり、各藩が保有していた武士は解体され、国軍を持つことになった。ところが、薩長の藩士たちが近衛兵などとして採用されると、徳川御三家であった紀州(和歌山県)では「なぜ、我が県の武士は国軍に採用されないのか」と怒り、元藩士たちが反乱を起こす。藩の少壮官僚であった陸奥宗光などは、説得に大変苦労している。
藩を守るという崇高な任務を解かれた士族の混乱は、和歌山県ばかりでなく他の多くの県でも生じていた。士農工商と称されたように、幕藩体制下では武士階級が施政も行っていたからである。
武士と近代日本の軍隊(今日では自衛隊)を同一線上で論じることはできないが、安全や安心に寄与する主体であり、彼らには「苦役」などの意識は微塵もなかった。日本だけにしか通用しない、戦後憲法が生んだ倒錯でしかない。
以上のように、当人たちは兵役を断じて苦役や奴隷的拘束などとは思っていなかったし、世間も同様であった。だから、徴兵検査に合格しなかったり、入隊検査ではねられると、「名誉を傷つけられた」「世間に顔向けができない」「悔しい」という思いに駆られたのである。
国家の安全に寄与する、(維新から敗戦までは)国体を守るといった意識で兵役に服していたのであり、一命を賭するに値する職業という意識で任務に邁進したのである。募集の態様が如何様であれ、昔も今も、兵役はその目的からして崇高ではあっても、断じて苦役ではない。
おわりに
筆者の住む中心街で弁護士会が憲法改正反対と安保法制阻止の街頭演説をやっていた。ビラ配りをしている人に、「ここに書いてある趣旨を知ったうえでやっていますか」と聞いたら、「いや」という返事が返ってきた。
そこで、改めて「本当に憲法改正しない方がいいと思っていますか」「正しい日本語で憲法が書かれていると思いますか」と質問すると、「しっかり読んでいないので分からない」という答えであった。
その他の2、3人にも「安保法案は戦争するためのものだと思いますか」「自衛隊の海外での活動を知っていますか」「中国の南シナ海での動きをどう見ますか」など、内容を変えて聞いてみた。
みな同様に、単なる日当稼ぎで動員され、憲法改正に賛成でも反対でもないし、安保法案の幾分かを知っていてビラ配りをしているわけでもなかった。
かつて米国の安全保障に関する議会議事録を調べたことがあった。安全保障について微に入り細にわたって論議しているが、空白や数字抜きが多く見られた。真摯な議論は必要であるが、秘密に関わることも多く、明記すれば国益を害するということである。
日本は、いわゆる平和憲法下で「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」してきた。建前では日本を侵略するような国はあり得ないし、万一あるかも知れない敵の侵略に備えることは不遜と見なされてきた。だから軍隊など日本にはあり得なかったのである。
しかし、情勢は激変してきた。日本が何もしなければ、日本の存立が脅かされかねない状況が現に出てきた。国際情勢を真正面に受け止めた論議の場が、公開、非公開を問わず必要になってきている。
議論の本筋は、日本の国益を守るという一点である。安保法案は細々した字句もさることながら、必要性の面から議論されるべきではないだろうか。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44012
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