★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK186 > 446.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
戦後70年首相談話懇談会プレゼン資料:「20世紀の、そして戦後70年の日中関係」川島真氏
http://www.asyura2.com/15/senkyo186/msg/446.html
投稿者 あっしら 日時 2015 年 6 月 10 日 03:13:04: Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 戦後70年首相談話懇談会第5回議事要旨:安倍首相を「歴史修正主義者」と見る米国の識者もいるので談話により払拭をとの声 投稿者 あっしら 日時 2015 年 6 月 10 日 03:11:28)


20世紀の、そして戦後70年の日中関係
川島真(東京大学)

1. 20世紀前半近代日中関係史

(1) 日清戦争後に不平等条約関係、「近代」的な課題を共有。日本初の「近代」。
(2) 1915年の21ヵ条要求による関係の転換。日本の単独行動。排日運動。五四運動。
(3) 1930年代、次第に国際秩序との齟齬。その矛盾が、中国、国際連盟などに現れる。

(国際連盟規約、九カ国条約、パリ不戦条約などと抵触)

(4) 満洲事変、満洲国、連盟脱退、日中戦争、仏印進駐、真珠湾攻撃、シンガポール占領、ポツダム宣言(但し、反戦、停戦、終戦への動きは随時あった。)

[評価]「近現代の日中関係史は、激しい戦争を含む時期であり、近現代の歴史に関する記憶は、今になっても両国民衆の心の中においてまだ生々しい。とくに日本による侵略の被害を受けた中国民衆にとって、その記憶はさらに深刻である。そのため前近代の日中関係史に比べ、日中両国民の間で、戦争の本質と戦争責任の認識に関し、相互に理解するにはかなりの困難が存在する。」(日中歴史共同研究、近現代史総論[北岡伸一])

[ポツダム宣言]「六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」

2. 戦後七〇年の和解と課題

■1945−1972年の日中関係

(1)軍民二元論(2)「二つの中国」と日華条約
(3)日本と中国大陸の関係(4)「和解」に向けての動き

■1972年以降

(1) 日中国交正常化

▶1972年9月29日、日中国交正常化。日中共同声明。
「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」

(2)日中平和友好条約

▶1978年、日中平和友好条約←改革・開放政策
「両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。」

(3)1980年代の日中関係:日本の対中政策の基調は「協力」

▶「歴史教科書」についての官房長官談話(1982年8月26日)宮澤官房長官

一,日本政府及び日本国民は,過去において,我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し,このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んで来た。

(4)1990年代の日中関係

▶天皇陛下訪中(1992年10月)
「この両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました。」

▶「戦後50年に向けて村山内閣総理大臣の談話」(1994年8月31日)
過去と和解という二つの要素

▶国会決議「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(1995年6月9日)

▶「戦後50年に当たっての村山内閣総理大臣の談話及び記者会見(村山内閣総理大臣談話、村山談話)」(1995年8月15日)

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

(5)21世紀の日中関係

▶2005年(戦後60年)、いわゆる小泉談話

また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。

▶2005年9月3日胡錦濤国家主席談話

▶2007年4月12日温家宝総理国会演説「友情と協力のために」

中国の古い世代の指導者がかつて度重ねて指摘したように、あの侵略戦争の責任は、極少数の軍国主義者が負うべきであり、一般の日本国民も戦争の被害者であり、中国人民は日本国民と仲良く付き合わなければなりません。(中略)中日国交正常化以来、日本政府と日本の指導者は何回も歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、そして被害国に対して深い反省とお詫びを表明しました。これを、中国政府と人民は積極的に評価しています。(中略)日本は戦後平和発展の道を選び、世界の主要な経済大国と重要な影響力を持つ国際社会の一員となりました。貴国の友好隣国として、中国人民は日本人民が引き続きこの平和発展の道を歩んでいくことを支持します。

(6)戦後70年の動向

3. 未来への提言

近現代史教育、平和友好交流計画、アジア歴史資料センター、歴史対話・共同研究


http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/dai5/siryou1.pdf

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
(2)次に、川島真東京大学大学院教授から「20世紀の、そして戦後70年の日中関係」というテーマの下、以下の発表があった。

総理から提示があった第三の論点のうち、日中関係につき、台湾も含めてお話ができればと思っている。これは20世紀、戦後70年、21世紀という3つの時間軸に関わる議論であると考えている。近代の日中関係については、明治維新の後に結ばれた日中修好条規において基本的に平等な関係が築かれたが、日清戦争を経て日本が台湾、澎湖を領有するに至り、日中関係は不平等条約の下に置かれることになった。しかしながら、これによって日中関係が全面的に悪化したというわけではなく、日清ともに近代国家になるという共通の課題をもち、また、近代国会の建設において先行した日本が、「近代」のモデルを中国に提供し、とりわけ法律や国家機構、立憲君主制などの近代国家の仕組みを、中国から来た多くの留学生が日本で摂取するということが見られた。そうした意味では、20世紀初頭の日中関係には、将来的に様々な選択肢、可能性があったと言うことができる。しかし、日本では明治が終わって大正に入り、中国では1911年の辛亥革命を経て中華民国が成立すると、その後にあった第一次世界大戦において、日中関係は新たな局面を迎えることになる。1915年、いまからちょうど百年前の1月18日に日本が中国に対し行った二十一ヵ条要求が大きな転換点になった。中国では排日運動、いわゆる反日運動が生じるなど、日中関係が悪化した。その後、五・四運動等を経て日本への反発が強まり、1920年代には幣原外交などで関係が落ち着くという見方もあるが、大筋として中国側の日本への視線は厳しくなっていった。二十一ヵ条要求は、それまで中国に於いて基本的に欧米列強と共同歩調をとっていた日本が単独で中国に要求をつきつけたものである。そしてちょうど1910年代には、中国において国家意識や国民意識が高まっていたということもあり、日本を主な単独の侵略国と見なす風潮が中国で生まれていった。

前回の懇談会でも議論したように、1930年代から40年代の日本は、国際秩序への挑戦者と見られることがあった。中国に対しても、1931年の満洲事変、その後の満洲国の建国は、国際連盟規約、九カ国条約に抵触するものと考えられた。また、1937年の日中戦争は、当時「戦争」とは呼ばなかったという呼称の問題はあるが、パリ不戦条約から見て問題視されるということもある。また、日中戦争が始まってからは、台湾等で皇民化運動という運動を展開し、統治を強化したが、これは現地でも反発を生んだ。日中戦争は、南京虐殺など不幸な事件を伴いつつ、仏印進駐、真珠湾攻撃を経て、1941年12月には世界戦争の一部となった。その結果、中国は連合国の中でも四大国の一員となった。当時、日本内部で反戦思想、停戦の試みなども多々あったが、最終的に日本は敗戦し、1945年8月に日本の戦争を「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯」したなどとするポツダム宣言を受諾するまで、多くの犠牲者が日中双方に出ることになった。

この戦争については様々な観点や評価があるものの、日中歴史共同研究において北岡伸一教授は、近現代史部分の総論で、以下のように総括している。「近現代の日中関係史は、激しい戦争を含む時期であり、近現代の歴史に関する記憶は、今になっても両国民衆の心の中においてまだ生々しい。とくに日本による侵略の被害を受けた中国民衆にとって、その記憶はさらに深刻である。そのため前近代の日中関係史に比べ、日中両国民の間で、戦争の本質と戦争責任の認識に関し、相互に理解するにはかなりの困難が存在する。」

また、台湾の植民地統治についても、様々な解釈があり、日本のもたらした「近代」については肯定的に見る向きもあるが、先ほど申し上げた1937年以降の皇民化運動などについては、批判的な言論が多くとられているところであるし、植民地となった状態で近代を体験したことが多くのひずみやゆがみを台湾社会にもたらしたことは銘記しなければならない。

戦後の部分に変わるが、ここからお話する内容は、日中両国が、とりわけ日本側が戦争の反省を踏まえて、双方がどう和解をおこなってきたかという、本日の主題に関わる部分である。この点について、戦後の70年間を、日中国交正常化のあった1972年の前後に分けてお話したいと思う。

第一の時期は、終戦直後から、日本がサンフランシスコ講和条約締結を経て、台湾の中華民国を承認していた時期、72年までの時期である。1945年9月2日、日本は降伏文書に調印するが、その時期、中国は連合国の四大国で国連安保理の常任理事国であるなど、戦勝国の代表格であったので、対日占領政策にも深く関わっていた。極東委員会などにおいては、芦田修正案に中国が疑義を呈し、日本国憲法第66条の文民条項の形成に関わった。また、極東軍事裁判においても中国代表の判事が日本側の戦犯に厳しい姿勢をとった。ただ、当時の中国は日本の戦争責任をいわゆる「軍民二元論」で考えていた。これは戦争責任を一部の軍国主義者に帰して、民間人や一般の兵士の責任を問わないというもので、相前後して蔣介石も、毛沢東も共にこうした考え方を持っていた。中国は、BC級戦犯について処罰したが、日本の一般兵に対しては武装を解除して、民間人とともに粛々と引き揚げさせた。この日本人の引き揚げは1950年代、あるいはそれ以後も継続した。また、中国国内では民族の裏切り者を裁く、漢奸裁判もおこなわれた。ここで対日協力者も処罰された。戦時中、あるいはそれ以前に日本に協力した中国人に対して、その行為を否定的に評価して、中国人が処罰するということが行われたわけである。これはそれ以後の日本との関わりにおいて大きな意味を持った。

これまでの懇談会でも話題になったように、連合国の対日占領政策は、1945年から46年には平和と民主化を徹底しようとしていたが、1947年から48年にかけて、欧州での冷戦形成、また、中国における国共内戦がおきて、国民党が次第に劣勢にたったということもあり、アメリカの対日政策は変容していき、対日賠償請求も打ち切られた。中国側は、47年以後の政策よりも、46年までの対日占領政策に共感をもっていたであろう。他方、中国側は対日賠償請求を戦時中から準備しており、この45年から46年にかけて、日本から中国に対して民間の工場設備などの現物賠償、また、戦艦大和と共に沖縄戦に行った駆逐艦雪風をはじめとする軍艦などによる軍事資材による現物賠償が行われていた。だが、47−48年の対日占領政策の転換によって賠償が打ち切られたことだけでなく、国共内戦の激化などで戦災調査などが十分におこなわれなかったことも看過できない。そのため、中国での戦争被害について日中双方で過大評価、過小評価など、さまざまな認識があらわれることになった面もある。

1949年10月1日に中華人民共和国が成立し、中華民国が台湾に遷ると、世界に二つの中国政府が成立することになった。日本がどちらと講和し、正式な関係を結ぶのかということが問題になったが、国共内戦から朝鮮戦争を経て、東アジアが次第に冷戦に組み込まれていく過程の下で中華民国が選択されることになった。欧米では冷戦であっても、この東アジアでは、「熱い戦争」というものが、朝鮮戦争、台湾海峡危機、ベトナム戦争などが、相次いで起きた。こうした戦争と日本の戦後処理、あるいは周辺国との和解というものは、深く関わることになったわけである。日本のサンフランシスコ講和条約署名も朝鮮戦争中に行われ、また、1952年の台湾、中華民国承認も朝鮮戦争中に行われた。また、もう一つ、戦後のアジアを見る際に重要なのが、敗戦国であったはずの日本が統一国家で、かつ民主主義国家となったのに対し、戦勝国や新独立国が分断国家となり、かつ民主国家になったわけではないという点である。この点は、欧州との相違であり、戦後の東アジアの和解に大きく影響したものと考えられる。

中国との関係では、1951年のサンフランシスコ講和会議に中国が招聘されなかったこともあり、日本はダレスの要請を踏まえ、台北の中華民国と1952年4月に単独で講和条約を締結した。これが日華平和条約である。この条約において、中華民国は日本への賠償請求権を放棄し、以後、日本と中華民国の間では、いわゆる「以徳報怨」という言葉が重視されるようになる。これは徳を以て怨みに報いるという言葉で、日本人がこれを用いて蔣介石の寛大政策に対する感謝を示すようになった。この言葉がある意味で、日本と中華民国の間で歴史問題を防ぐ抑制装置になったわけである。また、この講和条約作成過程で、中華民国の状況を一瞥しておきたい。

当時、中華民国は憲法を停止し戒厳令を施行しており、事実上、民主国家でなかったため、50年間日本統治下にあった台湾住民や国民との間で合意形成をおこなった上で政府が対日講和をおこなったわけではない。つまり、国民と合意形成をした上で対日講和を行ったわけではないため、やがて台湾において民主化が起きると、植民地支配や戦争をめぐる問題が政府ではなく社会から改めて提起される可能性があったわけである。つまり、民主化以前に一度、外交的な講和を日本と中華民国は行ったわけであるが、民主化以後には、今度は台湾社会との「講和」が待っていたわけである。それが日本が昨今になって直面している歴史認識などをめぐる事態だと考えることもできる。

日本は台北の中華民国を承認したわけであるが、中華人民共和国、北京の方では1950年代半ばにかけて共産党一党独裁が形成され、抗日戦争の勝利や中国統一なども基本的に共産党の統一の正当性を支える歴史過程として強調するような歴史観が育まれていった。勿論、中国共産党は、日本に厳しい歴史教育、いわゆる抗日教育を行ったが、先ほど申し上げたとおり、毛沢東も蒋介石と同様、軍民二元論をとっていた。つまり、戦争の責任を一部の軍国主義者に帰して、民間人の多くや一般兵士は被害者だとしたのである。なぜ毛沢東にとって軍民二元論が必要だったのは、中華民国との承認をめぐる争いがあり、日本の民間人を中国に惹きつけ、中国(北京政府)を承認するような運動を起こしてほしい、あるいはアメリカへの対抗上、日本国内の反米運動や革新派の動きと結びつきたいと考えていたからだろう。そうした日中友好人士や核心派と結びつき、日本の中立化を目指すということは、当時は対日工作と中国で位置づけられていた。日本ではアメリカとの太平洋戦争を中心に戦争を振り返る向きが強かったので、中国との関わりがアジアとの戦争、加害者との側面を想起する契機となった。

このように、中国から見れば、日本との歴史を巡る問題も、軍民二元論なども、一種の対日戦略の下に位置づけられていた面があった。「日中友好」は軍民二元論を踏まえたものだったのである。またこの時期には、一定の範囲で日中間の民間貿易も模索され、経済界や日中友好人士の活動もあり、一定程度の進展をみた。

この時期、つまり、日本と中国が国交のない時期、中国から日本への引き揚げは引き続きおこなわれており、民間による和解の動きもあった。戦争への反省を踏まえた日中友好運動は云うまでもないが、例えば日本軍の元兵士による和解も試みられた。戦時中、岐阜の連隊が杭州に攻め込んだが、戦後になって岐阜市長をはじめ岐阜の人々が西湖に「日中不再戦」の記念碑を1963年に立てた。また、いわゆる戦後知識人が戦争を悔い、戦争責任論を多く論じたことも周知の通りである。しかし重要なのは、日本で1950年代、60年代に戦争責任論や反省などに関して議論が行われていたとき、日中間には国交がなく、また台湾との間でも人的交流が自由ではなかったため、東アジアの人々も交えた和解が進展したというわけではないということである。そこは逆に言うと、台湾などが自由化、民主化した頃は、日本での反省や責任論が落ち着いた後であり、その時期に社会どうしの関係が開かれたということがある。その時間差が東アジアの歴史認識問題のひとつの特徴である。しかし、先ほどご紹介した「以徳報怨」や「日中友好(運動)」など、歴史をめぐる問題を抑制するための象徴的な言葉というものがあり、一定程度シェアされたということが重要である。昨今そうした言葉があるかというと、なかなか難しいものがあると思う。

次に1972年以降について言及したいと思う。1972年以降の状況については、ご存じのように中ソ対立にともなう日中の接近、あるいは国際情勢の変容がある。日中共同声明では、「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」といった文言が盛り込まれた。

また、78年の平和友好条約においては、「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する」ということが盛り込まれ、かつて戦火を交えた両国がまさに平和的な関係を築くことになったわけである。

他方、日中国交正常化に伴って日本と台湾は断交した。しかし、経済関係、文化関係が続くのみならず、安全保障の面で台湾は引き続き日本と同じ西側に属し続けることになった。

中国では、1976年に文化大革命が終結し、ケ小平らによるいわゆる改革開放政策が1978年から始まる。1979年に大平正芳首相が訪中し、対中経済協力、いわゆるODAが開始されることになった。現在まで、円借款、無償資金協力、技術協力なども含めて、総額3兆円の対中ODAが実施されたとされている。

ODAは必ずしも賠償と明記されたものではないが、関係者の心情としては戦争への反省を基礎とし、中国の発展と、国際社会へのコミット、あるいは中国の孤立化を防ぐことが期待されたものであることは、よく言われることである。そして日本は1980年代には中国経済を支える存在となり、中国自身も日本を経済発展の師と位置づけた。日本の対中感情も外交に関する世論調査にあるようにきわめて良好であった。そうした意味で1980年代は非常に重要な時期である。しかし、ここで重要なことは、ケ小平が、一面で日本を経済の師と言いながら、他の一面では経済で日本に学ぶことだけを協調すると青少年が歴史を忘却すると心配し、同時に歴史を強調するようになったことである。1982年の教科書問題発生以前に中国はこの政策をとっていた。教科書問題に際しては中国も日本側に抗議した。1982年の教科書問題については、宮澤官房長官談話による「日本政府及び日本国民は,過去において,我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し,このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んで来た」などといったコメントが出され、近隣条項を設けることで一定の解決を見た。宮澤官房長官談話には日中共同声明、日韓共同コミュニケ等が引用された。また、教科書問題が重要であったのは、これが以後の歴史認識問題の雛形を形成したということである。教科書問題の発端となった「侵出を進出に」という検定(A意見)があったというのは「誤報」なのであるが、日本国内で起きたメディアによる論争、対立がまず生じ、それが中韓の方に結びつくことになった。この日本国内のメディア論争が東アジア諸国に飛び火するというひな形がここで出来上がったと見ることができる。

1979年には、東京大学で中国近代史の劉大年教授が講義をもたれるなど、中国とも様々な対話が始まったが、ケ小平の歴史を強調する方向は続き、1985年にケ小平の指示により建設された南京虐殺記念館、盧溝橋の抗日戦争勝利記念館が開館した。しかし、経済の側面もあったため、それでも日中双方の国民感情は比較的良好だった。歴史認識に問題があっても、経済の方で解決することが当時は可能であった、つまり、円借款等によって譲歩すると歴史問題が収まるということがあった。経済と歴史を両輪とする体制であったと見ることができる。つまり、毛沢東の時期には対日工作と関連づけられた歴史をめぐる問題は、ここでは経済と絡むファクターとなっていったのである。

1989年の天安門事件によって、日本の対中認識は大きく変化した。外交に関する世論調査でも、最も大きな変化があったことの一つが1989年の天安門事件であるが、「親しみを感じる」が減少し、「親しみを感じない」も増加した。しかしながら、この後、冷戦が崩壊した1990年代初頭おいて、西側諸国がおこなっていた対中経済制裁の中で日本はいち早くその制裁解除に動き、中国の孤立化を防ぐ側に回ったのである。

そして、1992年には天皇陛下が訪中し、「この両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました」という言葉を述べられた。

1989年から90年代の変動期においては、東アジアではベルリンの壁のような大きな変動はなく、ソ連の後退はあっても、38度線や台湾海峡などの対立線は維持された。だが、その頃の中国は非常に強い危機感を持っていた。社会主義国家がなくなっていくわけであり、いかに自存していくか、残っていくかが大きな問題であった。その中で国内の正当性を再構築することも必要になり、いわゆる愛国主義教育が始まった。これは日本だけをターゲットにしたものではないが、抗日戦争勝利などが重要な要素であったこともあり、日本との歴史問題がクローズアップされた。これは、実際に戦争を体験していない、また中国が豊かになる時代を生きた文革終結後に生まれた子どもたち、若い世代に大きな影響を与えることになった。

1990年代半ばになり、日本では55年体制が揺らぎ、戦後50年は村山政権の下で進めることになった。1994年8月、これは前回の細谷教授も取り上げられていたが、翌年の戦後50周年に向けた「内閣総理大臣談話」を村山総理は発表した。ここでは、「我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です。戦後50周年という節目の年を明年に控え、このような認識を揺るぎなきものとして、平和への努力を倍加する必要があると思います」というように、過去の歴史を直視する部分と、対話と相互理解、いわゆる和解に属する部分という、二つの構成となっていた。その具体的な事業計画として平和友好交流計画が策定され、各方面で大きな成果をあげた。この事業を通じて立ち上げられたアジア歴史資料センターは戦前の日本の歴史資料を見ることのできるサイトとして、東アジアでも現在でも広く使われており、歴史認識問題、和解に対する貢献が大きい。

1995年には、6月9日に「また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」などとする国会決議が出された。続いて8月15日には、いわゆる1995年の村山総理談話が発表された。これは広く知られた談話だが、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」という部分が有名な文言である。

当時、これらの日本側の取り組みや談話に対して、中国側が公の場で肯定的な回答をしたわけではなかった。つまり、中国側がすぐに村山談話は素晴らしいという反応をしたわけでは必ずしもない。こうした一連の談話に対する中国側の「評価」は2007年4月の温家宝主席の訪日によってなされることになる。

また、1990年代の現象として指摘しておくべきことは、中国での経済発展などに伴って、80年代には機能した経済と歴史の両輪が機能しなくなっていった。そして、経済発展に伴い、中国社会内部から民間の賠償を求める動きも生じた。これは、人権派弁護士や日中友好団体の活動ともリンクしていたが、日本の裁判所が日中国交正常化で放棄されたのは国家賠償であり、民間賠償の請求権はあるとの判断をしたこともあって、司法が歴史認識をめぐる場となった。様々な裁判が起こり、除斥の問題と国家無答責の問題さえクリアすれば、論理的には原告勝訴となる局面も生まれることになり、花岡事件など一部和解に到る例も見られるようになった。

台湾については経済発展と民主化により日本国内の台湾観が好転し、村山政権下においていわゆる確定債務問題にも取り組みがなされた。台湾では民主化にともなって、戒厳令施行下で抑圧されていた言論を開放すべく、日本の植民地統治を評価する言論も多く見られたが、同時に日本統治時代の諸問題の解決や補償を求める声も高まった。

1990年代後半には核実験や台湾海峡危機などもあり、日本で対中脅威論が高まり、中国の方では日米のガイドラインなどに敏感に反応し、98年の江沢民国家主席の訪日、日中共同宣言の採択があっても、国民感情は好転せず歴史問題は継続した。しかしながら、1999年7月30日に日本が「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」を締結し、以後年間100億から200億円の予算が計上されて現在も続けられているという点は、和解の一つと考えることもできるかもしれない。

1990年代には、戦後50年という一つの節目を迎え、日本で様々な試みがなされた時であった。しかしながら、冷戦の崩壊によって中国では愛国主義教育がなされるなど、日本と中国の動きがずれたため、象徴的な和解には至らなかった。また、中国が経済発展するなかで、1980年代には機能していた、経済の部分によって歴史を抑制する、あるいは、歴史と経済が連動するという動きが弱まって、歴史の方が前に出るような状態になり、日本国内においても、バブル崩壊後の社会状況の変化、政界の再編などにともなって、日中友好運動も担い手の高齢化などにより低調になっていった。

今世紀にはいると、領土問題や靖国神社参拝問題、さらには国連安保理改革問題などが歴史認識問題に絡めとられ、歴史認識問題がまるで日中間の諸問題の象徴のように扱われた。2005年の反日デモは非常に強い傷跡を日中関係に残した。しかし、日中間の経済関係は緊密化して日本にとって中国が最大の貿易パートナーになる等、お互いの関係が緊密化し人的交流も活発になった。戦後60年に際しては、小泉総理による60年談話が出され、下線部にあるような言葉が述べられた。ここでは、「また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します」というように、村山談話を継承した言葉が述べられたわけである。ただ、この時に発表された9月3日の胡錦濤国家主席の談話は、日中戦争の勝利を唱えるだけで、必ずしも村山、小泉談話との対話がなされたわけではなかった。

しかし、2007年4月の温家宝総理の日本の国会での演説は非常に注目すべきものであった。「軍民二元論」を継承しながら、「中日国交正常化以来、日本政府と日本の指導者は何回も歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、そして被害国に対して深い反省とお詫びを表明しました。これを、中国政府と人民は積極的に評価しています。日本側が態度の表明と約束を実際の行動で示されることを心から希望しています。(中略)日本は戦後平和発展の道を選び、世界の主要な経済大国と重要な影響力を持つ国際社会の一員となりました。貴国の友好隣国として、中国人民は日本人民が引き続きこの平和発展の道を歩んでいくことを支持します」というように、日本歴史問題への取り組み、そして戦後日本の平和発展の道についても評価するとした。これは、日中関係のひとつの到達点、あるいは和解のプロセスのひとつの道標であろう。

以後、今世紀に入っていくわけであるが、ここで多くは申し上げないが、日本が対中ODAを停止し、経済と歴史の両輪が機能しなくなる中で、中国が経済第二位になり、日本は第三位になるなど、両国関係の基礎が変化したようにも見える。だが、それでも経済面での交流が拡大し、ヒトやモノの往来も活発になり、インターネットによって情報が行き交い、お互いの日中双方の議論や論調が互いに結びつく、そういう時代になった。そこでは複雑な対立も生まれたが、逆に対話の場も生まれるようになった。そして、世界の色々な場で和解というものが大きなテーマとなり、日中の関係が世界から注目されるようになった。

そうした中で2005年に東京高等裁判所で、そして2007年には最高裁判所で、日中国交正常化によって国家賠償は放棄されたが、民間賠償は放棄されていないという立場が大きく変更され、民間賠償をも放棄されているという判決が下り、司法の場における議論が事実上収束に向かった。それに代わって、2006年からは日中歴史共同研究が行われ、またこのほかにも数多くの対話が行われている。昨今では、領土問題などをめぐって日中間に問題もあるが、2007年の到達点をいかに継承、発展させていくかが課題となっている。そうした意味で、社会の各層による様々な交流、対話を維持していくことが求められる。

以上、70年の経緯を見て参ると、日中間の歴史を巡る問題、和解の問題は、対日工作、経済関係など、その時々の様々な状況と絡みついて日中関係全体の中に位置づけられていたと言える。他方で、対話と交流の成果として、実際に和解の進展も見られている。問題拡大を防ぐような方式も一定程度機能したし、和解に向けての交流や対話、そして共同研究などの試みもなされてきた。とりわけ、村山談話と小泉談話を受けたと想われる温家宝総理の2007年演説は、平和国家としての歩みを評価し、また日本の戦後の取組を評価しており、日中間の和解の一つの到達点を示すものであると言える。

台湾においても、日本との間にさまざまな問題を抱えながらも、ヒト・モノ・情報の往来が活発になり、震災に対しての支援にもあるとおり、良好な関係が築かれており、一定の和解が成立しているように見える。だが、これらが和解への試みの結果であるかは検証が必要であり、残された課題をめぐって和解に向けての対話と努力が必要なことは言うまでも無い。

しかしながら、まだまだ課題は多く、和解に向けた取り組みは不十分とも言える。日中関係には多くの困難がある。和解は当事国がそれぞれ歩み寄ることが前提であるが、日本としては過去への反省を踏まえつつ、和解へ向けての努力を今後とも怠らずに継続することが必要となろう。

最後に提言をして終わりたいと思う。第一に、日本での歴史認識について、日本では近現代史の教育が不十分であると言われているが、高校、大学等で近現代史教育の強化ができないか。第二に、和解に向けた市民レベルの交流を目指す、現政権版の平和友好交流計画ができないか。第三に、世界的に評価されているアジア歴史資料センターについて、現在の戦前部分だけでなく、戦後の「和解」のプロセスについても公開して、それを情報発信することができないか。第四に、可能であれば分野別の歴史をめぐる対話、歴史共同事業ができないか、ということを提案したいと思う。


http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/dai5/gijiyousi.pdf
より抜粋

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK186掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
政治・選挙・NHK186掲示板  
次へ