http://www.asyura2.com/15/senkyo186/msg/423.html
Tweet |
米中との総力戦が生んだ“ゆがんだ平等”〜成人男子の半数が犠牲に 労働者と農民は“市民”になれず“大衆”にとどまった
2015年6月9日(火)
1945年の終戦から70年が経った。
これだけの月日が経ってもなお、我々は、この戦争に端を発する問題と直面し続けている――慰安婦問題、韓国徴用工訴訟、閣僚による靖国神社参拝の是非…。
そこで、あの戦争がなぜ起こったのかを改めて考える。
今回のテーマは戦争と格差だ。
格差が戦争を生む――という見方がある。他方、戦争が平等化をもたらしたと見る向きもある。戦争と格差はいかなる関係にあるのか。(司会は森 永輔・日経ビジネス副編集長)
今回は、「戦争と格差」をテーマに坂野潤治先生(東京大学名誉教授)と井上寿一先生(学習院大学学長)にお話を伺います。1937年に始まった日中戦争と1941年に始まった太平洋戦争を通じて、日本国内で格差が是正され平等化が進んだという見方があります。これについて、どうお考えになりますか。
井上 寿一(いのうえ・としかず)氏
学習院大学学長。専門は日本政治外交史。1956年生まれ。一橋大学社会学部卒業、同大学院法学研究科博士課程単位修得。学習院大学法学部教授などを経て現職。法学博士。著書に『第一次世界大戦と日本』『吉田茂と昭和史』『政友会と民政党』など。(写真:新関雅士、以下すべて)
井上:確かに、そのように見える現象は起こりました。社会の平準化が進み、労働者も農民も、そして女性も地位が向上しました。軍需生産が拡大したため完全雇用が実現し、労働者の賃金は向上。男子の出征に伴う労働力不足を補うべく、女性の社会進出も進みました。
坂野:1945年の敗戦まで続いた総力戦体制の下で、多くの小作農が自作農になってもいます。しかし、真の意味で格差が是正されたわけではありません。
数字を挙げて説明しましょう。復員について調べたところ、陸海軍合わせて約800万人いました。戦死者は200万人強。合わせて1000万人が終戦時点で陸海軍にいたか、戦死したかなんですね。
一方、生産者人口、働ける男子の数は約2000万人でした。2000万人のうち1000万人が戦争に動員されたわけです。こうした環境ならば、国内にいる男子の間の格差は縮小せざるを得ません。
格差が縮小して、失業の心配がなくなった男子は2000万人のうち2人に1人だけです。残りの半分は内地や戦地で辛い思いをしていたか、亡くなったかした。つまり、格差が縮小したとしてもすさまじい代償を払ったわけです。これを果たして真の平等と呼べるでしょうか。
井上:ゆがんだ形の平等が生まれたと言ってよいでしょう。
「総力戦体制下での平等」ではない平等がどうしてできなかったのか――これが大きな問題だと思います。戦争に至る前に政党はなぜ、8時間労働制を導入するとか、工場の環境を改善するとか、社会政策を実施することが十分にできなかったのかを考えたいと思います。
坂野:そうですね。1937年7月7日に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まる前に、何か手段がなかったのか。
平等が意識され始めたのは第1次大戦後
井上:私は国民の間で格差が明確に意識されるようになったのは、第1次世界大戦がきっかけだったと思います。それまでは格差をあまり意識していなかった。格差が悪だという認識もなかったと思います。四民平等と言われても、実際には家父長制が強く、長男が民法上も優遇されていました。それを格差と思うことなく、当たり前のこととして、皆、生きていた。一方、労働者を保護することは当たり前のことではありませんでした。
そこに、第1次世界大戦をきっかけとして、デモクラシーの波が押し寄せてきたのです。「格差は社会問題だ」「労働者が劣悪な環境で働いているのはよくない」「そろそろ普通選挙を実施すべきだ」「その次は婦人参政権だ」――社会の格差を是正しなければいけないという潮流が世界的に盛り上がり、日本も不承不承ながらこれに乗らざるを得なくなりました。
日本が国際連盟に加盟したことも契機でした。国際労働機関に入らざるを得なくなったからです。これにより労働者を保護する法律を制定する必要が生じました。外圧で変わらざるを得なくなったのです。
こうした政策を実行する役割を担ったのが政党と官僚でした。けれども、彼らの取り組みが十分に進まないうちに満州事変が起き、日中戦争が起きた。そして戦争が“下方平準化”というか、国民が低い方で平等になっていく状況をもたらしました。
戦前に労働組合法は成立しなかった
坂野潤治(ばんの・じゅんじ)氏
東京大学名誉教授。1937年生まれ。東京大学文学部国史学科卒業、同大学院人文科学研究科博士課程中退。東京大学社会科学研究所教授、千葉大学法経学部教授を経て現職。著者に『日本近代史』『<階級>の日本近代史』など
坂野:今、井上さんが言われた政党と官僚の取り組みの1つに労働組合法の実現がありました。これは、まず内務省と労働運動に携わる人々が力を注ぎました。第1次世界大戦の後、後藤新平*の肝いりで内務省の官僚がドイツへ行き、労働協約や労働組合法を勉強しています。だから、当時、内務省社会局の官僚が労働組合の設立にいちばん熱心だったのです。その次に熱心だったのが松岡駒吉、西尾末広など労働運動に取り組んでいた面々。彼らが現場で労働組合を作りながら、内務官僚と協力しました。
*後藤新平:明治〜昭和初期に活躍した政治家。台湾総督府民生局長や南満州鉄道の初代総裁を歴任した後、寺内正毅内閣で内務大臣。関東大震災からの復興にも取り組んだ。
その後、民政党も労働組合法制定の動きに乗りました。いくつかの留保をつける必要がありますが、当時の二大政党は「平和と民主主義」を重視する民政党と、「侵略と天皇中心主義」を進める政友会です。民政党・浜口雄幸内閣の下で1931年に、内務大臣を務めた安達謙蔵をトップに、永井柳太郎や中野正剛らが労働組合法案を提出しました。
ところが民政党は、この法案を衆議院では可決させたものの、貴族院で頑張る気はなかったのです。第1次世界大戦後、井上準之助蔵相をはじめとする民政党の主流派は健全財政と金解禁*を目指しました。こうした政策を進めれば、企業は合理化が必要になるので失業が発生します。そのような状況で労働組合法の制定などやっていられないというのが主流派の考えでした。だから、内務省の社会局と労働運動に取り組む面々、安達など民政党の社会改良派が一生懸命やっても実現できなかったわけです。
*金解禁:1930年に浜口雄幸内閣が実施した経済政策。第1次世界大戦期に禁止していた金の輸出を解禁した。この措置により日本は円高を伴う不況に陥った
社会主義政党は労働者と農民に支持されなかった
松岡駒吉や西尾末広は1926年に合法的な社会主義政党である「社会民衆党」(後に「社会大衆党」に改組する)を結成します。彼らは労働者や小作農の地位向上を目指しました。格差縮小の観点から、彼らがどれだけの力を持ち、どのような役割を担っていたのか、あまり知られていません。ご説明いただけますか。
坂野:1925年に普通選挙法が成立して、男子の政治的平等が実現しました。これを社会的な格差の是正に結びつけようとする勢力が社会民衆党でした。
しかし、衆議院で多くの議席を獲得することはできなかったのです。1928年に行われた最初の男子普通選挙で、合法社会主義政党が得た票は46万にとどまりました。当時の労働者の数は約310万人、小作農は約150万人いました。だから、本来なら彼らに投票してもおかしくない層が460万人はいたわけです。しかし、得票はこの10%にとどまった。切りが良すぎて、まるで作ったかのような数字です。
井上:この460万人の労働者、農民は「市民」ではなく「大衆」だったのですね。市民であれば、政治的な見識を持ち、自分たちの地位を向上させるためには社会主義政党を伸ばす必要があるとは考えたはずです。しかし大衆であった彼らは、政友会か民政党か、二大政党の大きい方に票を入れれば自分たちにも利益が回ってくると考えました。
坂野:社会主義政党が多くの票を獲得できない状況は、民政党をより「右」(=緊縮財政)に寄せる効果を持ちました。「もし民政党が、井上準之助蔵相が導く緊縮財政を続ければ、労働者と貧農の票は社会主義政党に流れますよ」と危機感をあおる左ばねが働かなかったからです。
井上:1930年に浜口内閣の下で行った総選挙で、民政党は選挙公約に緊縮財政と均衡予算を掲げ、失業者が増えることを否定しませんでした。それでも273議席(総議席数は466)を獲得しています。
なぜ選挙で勝ったのか。民政党を支持した有権者は「今、ここで緊縮財政に耐えて健全財政にすれば、日本の国力が外国に正しく評価されて、通商貿易が拡大していく」と信じていたのではないでしょうか。井上財政に国民は賭けたのだと思えます。
日本が緊縮財政と金解禁を進めるのと前後して世界恐慌が起きました。日本経済にとってはダブルパンチです。後から見れば、「大恐慌下でなぜ金解禁をしてしまったのか」と言えるけれども、同時代の人たちには異なる風景が見えていた可能性があります。
坂野:それでも、労働者と農民にとって金解禁は有り難いものではありませんでした。民政党政権は「クビ切り」に対して全く手を打たなかったのですから。
1930年の選挙では、今、井上さんが言われたように、夢みたいな話に有権者は乗っかったのでしょう。だから、民政党が圧勝した。でも、金解禁を実施し、続いて大恐慌が起こると、企業は次から次へと従業員のクビを切りました。農村出身の労働者はどんどんお里帰りさせられた。民政党社会改良派の安達謙蔵ですら、解雇され実家の農村に帰る人たちを「失業者とは認めない」と突き放したのです。
「労働者と農民の民政党」は選挙対策
民政党のアイデンティティーについて確認させてください。民政党は1928年に発表した七大政策で「労働者と農民の党である」と強調しました。具体的には以下の文言が並んでいます。「労務者生活の向上を図り、労使関係の合理化を促進」「自作農の維持創定、小作問題解決の促進」。
しかし、さきほど坂野先生が指摘されたように、左ばねが利かずにどんどん右=緊縮財政にシフトしていった。格差の縮小と平等を目指していた民政党が、徐々に性格を変化させたということなのでしょうか。
井上:そうではなく、七大政策は選挙対策だったのだと思います。当時は男子普通選挙の実施が当然視されていました。新たに有権者になるのは労働者と農民です。だから政党は当然、「労働者と農民のためにやります」と言うわけです。政党である以上、票が欲しい。資本家、地主の票数と労働者、農民の票数を比べれば、どっちが多いのかは自明です。
坂野:党内闘争の影響もあったでしょう。憲政会(民政党の前身)時代の幹事長の横山勝太郎は、吉野作造*が唱えた民本主義を受け継いで「少数の特権階級の生活を引下ぐると同時に最大多数の階級殊に貧民階級の生活を向上させる」社会改良をやるのが我が党の使命だと訴えていました。
*吉野作造:東京帝国大学法学部教授。民本主義や普通選挙を提唱した。「経済上に優者劣者の階級」を生むことは「民本主義の趣意に反する」としている。
ところが、彼らは党内闘争で負けてしまうのです。仮に1928年に行われた第1回男子普通選挙で、合法社会主義政党が20議席ぐらいを獲得していれば、民政党内で改良派がぐっと強くなっていたと思います。
1930年の総選挙で民政党は、社会政策をかなり強調しました。労働組合法も提案しています。だから、1930年選挙までは、社会改良派と健全財政派のどちらが勝つか、きわどいところだったのだと思います。
社会的平等を目指す勢力が育つ時間がなかった
井上:左ばねが働かなかったことには、何か別の理由もある気がします。
坂野:合法的な社会主義政党が多くの票を得られる存在に育つための時間が足りませんでした。確かに、1925年に男子普通選挙法が成立した。しかし、日本と欧米とは歴史のステージが違いました。二大政党の一角が、当時の英国労働党のような政党になれる状況ではなかったのです。保守党と労働党ではなく、政友会(保守党)と民政党(自由党)の二大政党のまま固定してしまいました。
加えて、合法社会主義政党の代表的な存在である社会民衆党の結党は1926年です。1928年の第1回男子普通選挙まで時間がなくて、十分な候補者を立てることができませんでした。
社会主義政党を取り締まる役割を担った内務省特高(特別高等警察)課が『特高外事月報』という資料を作成していました。それを見ると、男子普通選挙が始まっても、最初の頃は社会主義政党を警戒していません。議会勢力としては警戒に値しなかったのでしょう。しかし1937年頃になると、社会大衆党(前出の社会民衆党が改組した)も地盤ができてきて、候補者も増えてきた。これを受けて月報は「彼らが獲得議席を増やすトレンドは今後も続きますよ」という警告を発しています。
男子普通選挙の経験が増え、社会的平等を目指す勢力が力を付け始めた時に、日中戦争の嚆矢となる盧溝橋事件が起こってしまったのです。
井上:最初の男子普通選挙から3年で満州事変が起きています。確かに時間が足りなかったですね。
(次回は6月11日木曜日に掲載する予定です)
終戦から70年、改めて歴史に学ぶ
2015年が幕を開けた。1945年の終戦から70年が経つ。
これだけの月日が経ってもなお、我々は、この戦争に端を発する問題と直面し続けている――従軍慰安婦問題、韓国徴用工訴訟、閣僚による靖国神社参拝の是非…。
そこで、あの戦争がなぜ起ったのかを、識者の対談を通じて改めて考える。
まず取り上げるテーマは「政党政治と戦争」だ。
なぜ、政党政治は戦争を止めることができなかったのか?
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20150605/283965
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK186掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。