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5月に新刊『ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書)を上梓した安田浩一氏
両論併記に逃げるメディアの傍観者たちは「ヘイト」の意味も危険性もわかっていない!
http://lite-ra.com/2015/06/post-1160.html
2015.06.04. リテラ
ヘイトスピーチの問題に関心を持つ人々の中で、ジャーナリスト・安田浩一の名前を知らない人間はいない。「在日特権を許さない市民の会」(在特会)がまだ現在ほど世間にその存在を知られておらず「一部の変わった人々」で片づけられていた2000年代後半から丹念に現場取材に通い、その実態を『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)という一冊のルポルタージュへと昇華させた。同書は2012年度の講談社ノンフィクション賞とJCJ(日本ジャーナリスト会議)賞をW受賞。翌年以降、在特会をはじめとする排外主義者へのカウンター(対抗)活動が立ち上がるひとつのきっかけとなった。
そんな安田がこのほど文春新書から新刊『ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力』を出版した。『ネットと愛国』以降も取材を続けているのはなぜか。ここ数年ヘイトスピーチの実態や内実にかかわる報道も増えてきたが、安田自身はどのような姿勢でこの問題に挑んできたのか、話を聞いた。
■問題は在特会だけじゃない、弱者を敵に仕立てて吊るす社会だ
──今回出された新刊(『ヘイトスピーチ』)は、どのような本ですか?
安田 普段ヘイトスピーチに接したり、考える機会のない人に向けて書いたヘイトスピーチの入門書です。
「ヘイトスピーチ」という言葉がメディアの中で取り上げられるようになったのは2013年からです。新大久保で行われた在特会のデモを端緒に、それまでは彼らの存在を無視していたメディアが遅ればせながら食いつきました。ところが現在でもメディアの人間と話をしていると「ヘイトスピーチ」とは何であるのかということがほとんど伝わってこない。つまりメディアも含め、ヘイトスピーチ=罵詈雑言の類だと思っている人がまだまだ世の中には少なくないんです。なので今回はヘイトスピーチという言葉自体を知らなかったり、問題に興味はないけど店頭で見かけて手に取ってみたという人に向けて、わかりやすく問題の背景を解説しました。
一番主張したいのは、ヘイトスピーチは「被害を伴う」ということです。ヘイトスピーチが被害者を生み続けるものであることを明確に主張したかった。「被害者の視点」というものを取り交ぜながら、ヘイトの醜悪さを日本社会のなかで許容していいんですか? 〈表現の自由〉という枠組みのなかで容認してもいいんですか? それによって私たちの社会で何が奪われていくのかきちんと考えてください、と問いかける意味を込めて書きました。
──安田さんとはこれまで何度もヘイトデモの現場でお会いしてきました。人によっては、一冊本を出したらそこで取材を終わるという人も多いのではないかと思います。『ネットと愛国』を出して以降も取材を続けていらっしゃるのはなぜなんでしょう。
安田 僕自身「書いて終わり」という仕事はこれまでさんざんしてきました。そういうその場を通り過ぎるだけの取材が嫌になって、フリーランスになったわけです。
ヘイトスピーチの問題に関して取材を続けている理由は、カッコつけたいわけじゃありませんが、僕のなかで「まだ何も終わっていない」という思いがあるからです。現状何の解決もしておらず、出口が見えていない状況だということです。
もう1つ、僕は記者としてこの問題に取り組むと同時に、自分を明確に「カウンター」(対抗者)のひとりだと思っています。もちろん記者なので時に冷静な視点も求められるし、あるいは僕に罵声を投げつける側にあえて飛び込んで話を聞いたりもします。取材者としての自分を失わないようにはしている。ただ、いずれにせよ僕は差別集団に反対する側であるということを十分に自覚してものを書きたいと思っています。前線で彼らと対峙している人からすれば「いつも後ろのほうにいる」と思うかもしれない。でも、僕自身は自分のことを記者であると同時に、ヘイトスピーチやこうした差別集団に「反対する側のひとり」でありたい。なので僕にとっては本を出すことも、カウンターのひとつです。
──そのような意識が出てきたのはいつ頃ですか。
安田 『ネットと愛国』を出版して以降です。取材を続けながら「これからは反対者として覚悟決めてやらなきゃいけない」という思いがだんだん明確に自分のなかで固まってきた。
もう1つ、『ネットと愛国』以降に自分のなかでもはっきり意識するようになったのは「在特会だけが問題じゃない」ということです。朝日だろうが毎日だろうが、あるいは産経だろうが週刊新潮だろうがメディアの人間は「在特会ってどうですか?」と言われたら「最低です」くらいのことはみんな言いますよ。つまり、在特というのはその醜悪さゆえにわかりやすいし、目立つ。彼らを批判するのは誰にでもできるんです。
でもそれだけでなく、彼らのような存在を後押しする人々に対してもきちんと批判を加えなければいけないと思うようになりました。今回の新書では在特会に限らず、イスラム教徒や水俣病患者への嫌がらせや誹謗中傷についても取り上げています。今社会の一部ではとにかく「敵」を発見して、その相手を叩く・吊るすという回路が出来上がっている。そこで「吊るされる」側というのはたいてい社会的弱者で、何らかの形で権利獲得や権利回復につとめている人だったりするんですね。その安易な構図が僕は気に入らない。彼らを許容しているのはそうしたこの社会のシステムなんです。
これからも彼ら・彼女らはどんどん新しい敵を発見しては、安全圏から叩き続けると思うんですよね。その空気感みたいなものについては、さらに取材をしたいなと思っています。「あなたがたは間違っている」ときちんと主張し続けなければ、僕らが住んでいる社会そのものがおかしくなってしまう。主張するのは僕自身のためでもあります。
■大江の安倍批判はヘイトじゃない! 言葉の定義すら知らない新聞社
──この2年間、ヘイトスピーチに関する報道も増えました。安田さんから見て、この2年間でメディアの報道姿勢は変わっていると思いますか?
安田 変わっている部分と変わっていない部分、両方あります。在特会が社会に出てきたのは2007年でした。外国人労働者の取材をライフワークとしていた僕の視界に、彼らの姿は嫌でも飛び込んできたんです。
それで取材を始めましたが、同業のライターとか編集者に彼らについての企画を持ちかけてもみんな断られました。「あれは一部のバカがやっていることだ」「いずれ消えてなくなる」といった理由をさんざん聞かされた。反発心はありつつ、一方では僕自身もそうした理屈を受け入れつつありました。
そういう当時の状況と現在を振り返って変わったのは、この問題にしっかり精通して、正当な批判を加えることのできる同業者が増えてきたこと。存在を知っていながら意図的に無視したり、自分の手を汚すことなく彼らの存在を論じていた人々が、今は少なくとも現場に出向くようになった。もちろん、数としては少ないですよ。でもそういう人が出てきたということは、やっぱり僕はメディアも変わったと思います。
ただ、まだまだメディアの無理解というものがなくなったくわけじゃない。ヘイトスピーチをめぐる議論がこの2年間活発に行われてきた一方で、例えば産経新聞は憲法記念日に行われた護憲集会で大江健三郎が行ったスピーチのなかで安倍晋三が呼び捨てにしていたことを踏まえ「一国の首相を呼び捨てで非難するのは、『ヘイトスピーチ』そのもの 」と報じました。ヘイトスピーチとは人種・民族・国籍・性などのマイノリティに対して向けられる攻撃で、一国の首相を呼び捨てにすることはヘイトスピーチでも何でもありません。新聞社が未だにそうした報道をすること自体驚きですが、普段周りの同業者と話したり、メディアの学習会に参加すると、近い考え方をする人は決して少なくないと気づかされることもあります。
ヘイトへの議論が一部では積極的に交わされていても、まだ社会全体はそこに追いついていない。僕らはもっともっと伝え続ける必要があるんだと思うことの方が多いですね。
──報道が増えた一方で、自分も個人的に懸念していることがあります。報道が出たときにWebではあっという間にまとめが作られたり、YouTubeに動画がupされることである種プロレス的に出来事が消費されてしまう。しばき隊×在特会にしても、昨年10月の橋下×桜井会談にしてもそうです。「何が問題なのか」が掘り下げられないまま、ケンカの面白さだけが消費されているんじゃないかという懸念があるんです。
安田 ある種の活劇ですよね。カウンターとデモ隊が衝突をしているような現場で大事なのはヘイトスピーチが「かき消されている」ということ。でも衝突が「面白けりゃいい」なら、その場の風景だけにしか興味を持たれない。
そもそも、醜悪なデモが行われている時点で社会は敗北しているわけですよね。その場で誰かが投げたヘイトスピーチの弾は、誰かの胸に必ず突き刺さっている。その時点で社会は負けていると、きちんと報じる役割をメディアは果たしているんだろうか。そうしたことは自問自答し続けなきゃいけないと感じますね。反対者が出るのはいいことだし、デモでの抗議が面白いからメディアが集まってきているという側面はたしかにあると思います。でも、その部分だけをYouTubeやニコ動で引っ張り出してきて、プロレス解説風に面白おかしく論じることに、今はさほどの意味もないと思います。
■ネトウヨ取材への反発に答える
──相対主義的視点を招く事例としてもう一点挙げたいのが、メディアの両論併記問題です。私自身もヘイトスピーチに反対する立場で現場取材を続けています。ただ、別の媒体ですが反対側の立場に立って記事を書いたときに「なんでカウンターの言い分ばかりを取り上げるのか」「在特会の言い分も取り上げないと」とデスクから言われてしまったんですね。
安田 それは両論併記のもっとも悪い見本じゃないかな。両論併記しておけば訴えられることもないだろう、というメディアの免罪符になっているんだよ。両論併記も原則的には大事なことだと思うんだけど、この差別の問題で今必要なのは差別者の言い分を聞いて、その理解を社会に求めることではない。その醜悪さを、あるいは彼らのトンチンカンな思想を、きちんと批判するがゆえに言葉を引っ張ってくる。そのために必要なんであって、差別者とその対象との間に圧倒的な不平等関係があるなかで、なんで両論併記なのかと思うわけですよ。
90年代までには週刊誌的な報道を指して「ゲリラジャーナリズム」と呼ぶ人々がいました。新聞が正規軍であれば、週刊誌はゲリラである。ゲリラは大新聞が見落としてしまったこと、書けないことを、あえて探し出して書くものなのだと『噂の真相』を中心とした文脈のなかで言われ続けてきた。僕自身「大企業や権力と個人がケンカをした場合には『公正さ』なんて考える必要はない。週刊誌の役割は圧倒的な力の前で脅えている人、権力の犠牲になっている人の声を拾い上げること」だとずっと先輩から言われていて、その通りだと思っていた。僕はその教えを真面目に守ろうとはしてきた。だからイデオロギーの問題ではなく社会的な力関係の中で『どっちを取り上げるべきか』を常に考えてきた。そのときに報道の公平さというものは、自分に課していませんでした。
この問題もそうですよね。マジョリティの方が圧倒的に媒体も発信手段も持っているのに、なぜ差別されている側とする側を並列に扱って両論併記という原則を進めようするのか、僕はさっぱりわからない。
これはカウンターを擁護するとかいうレベルの問題ではない。イデオロギーとは別の部分で、差別や偏見をしないというのはメディアの仕事の中でもマストに入ってくる部分だと思っています。だからせめて差別や偏見に手を貸すような報道はやめようよと。
まあ、メディア全体を見れば、こうした立場自体が少数派なのかもしれないなと思わざるを得ない部分もあるんですけどね。
──メディアも含めて、社会全体の相対主義的な態度をもう一つ感じたのが、本書にもあるんですけど安田さんがある有名なネトウヨを取材した記事を発表したときに起こった反応です。安田さんが彼の周辺情報を調べて、追い詰めていく。でもそれに対してネット上では個人情報を暴くことが「2ちゃんの祭りと一緒」「ヘイトスピーチだ」といった批判が巻き起こりました。
安田 まず言っておきたいのが、あの記事の目的は個人情報を暴くことではなかったということです。そもそも実名で書いてもいいと思っているものを匿名にして、彼の所在がわかるような書き方もしていない。個人情報を出さないように、僕自身もかなり抑制的に書いています。それから僕に対しての「ヘイトスピーチ」という批判に関しては、まあ、僕の本を読んだうえで出直していただけますか、と返す以外にない。
僕が気になったのは「正義感気取り」という批判。ツイッターのメンション欄を通して、直接送られてきたものです。「正義」という言葉は、これまで僕自身あまり使ったことがありません。でも僕は差別に反対し、差別と偏見を振りまいている人間を批判する正義というのはなくてはいけないと思っている。そこに介在する「正しさ」への信念は、僕もやっぱり抱えていますよ。それをきちんと主張することがなぜいけないのかと思います。
ネット時代にはそうした相対主義的な批判は絶対来るよね。差別─被差別の関係というものをいわばプロレスのように見ている人が多いわけ。差別の現場をリングの上とか野球場とかテニスコートと並列に扱う人々がいて、メディアは観客席で、あるいは火の見やぐらや給水塔の上で眺めているだけ。こんな現状でいいのかよ、という苛立ちはすごくあります。火の見やぐらから見ているだけ、あるいは給水塔の上から望遠レンズでこの現象を追い続けているだけのメディアには本当に腹が立ちます。首に縄つけて引きずり下ろすか、足首に縄つけてバンジージャンプのように突き落として現実をちゃんと見ろよと迫りたい思いがある。
……「その意味で、最近すごく気になっていることがある」と安田は続けて、先日ドローンを飛ばして逮捕された15才の少年の名を挙げた。
後編(近日公開予定)へ続く。
(インタビュー・構成 松岡瑛理)
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