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[中外時評]大学と政府のあいだ その一線を越えていいか
論説副委員長 大島三緒
「大学公社」と聞いてピンとくる人は、昨今ほとんどいないだろう。三木武夫内閣の文相、永井道雄氏が持論とした大学改革構想である。国立大を政府から切り離し、独立した組織で行財政を担うというアイデアだった。
公社の予算は特別会計として計上する。経営感覚のあるスタッフがその運営にあたる。外部識者を含めた委員会がチェック役を果たす……。
提案はしかし、1974年に永井氏が文相に就任して以降も具体化することはなかった。当時の文部省から見ても、大学人にとっても奇抜すぎる案だったに違いない。
もっともこの構想には、大学と政府の関係を考えるうえで本質的な指摘が含まれていた。憲法23条が保障する「学問の自由」とその条件である「大学の自治」は、突きつめれば政府から独立した財政と事務なくして成り立たないという問題意識である。
大学人がいくら「大学の自治」を叫んでも、結局カネを握っているのは政府だ。ここを変えなければ本当の自由はない、というわけだ。
こんな話が頭をよぎるのは、国立大の入学式や卒業式での「国旗・国歌問題」が浮上しているからである。
さきの参院予算委で安倍晋三首相は「税金によって賄われていることに鑑みれば、(入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱は)教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」と述べた。下村博文文部科学相は、近く開催の国立大学長が集まる会議で掲揚・斉唱を要請するという。
「税金によって賄われている」とはあけすけな物言いだが、その通りである。国立大の財政は国による運営費交付金が大きな支えだ。その配分権限を持つ大臣からの「要請」がどんな力を持つか。かつて永井氏が抱いた懸念は、まさにこれではなかったか。
今回の動きに対しては、多彩な顔ぶれの大学人から批判が噴き出している。その多くは国旗・国歌自体の問題より、式典で掲揚・斉唱を一律に求めることへの疑念だ。
「入学式や卒業式はたんなる儀式ではなく大学教育の大切な一場面。その具体的な内容に踏み込むことは学問の自由を侵しかねない」と日本大学文理学部の広田照幸教授は言う。「大学ガバナンスなどについての注文と、今回とは質が違う。大学と政府の関係の大きな分かれ道になるのではないか」
広田氏らが呼びかけ人となって「要請」撤回をめざす「学問の自由を考える会」には、すでに約3300人の賛同者が集まった。「要請」の根拠として「我が国と郷土を愛する態度を養う」という教育基本法2条が挙げられていることへの不安も強い。抽象的なこの条文を持ち出すと、国公私を問わずさまざまな介入が可能となる。
それでも肝心の国立大学長らからは、おもてだった非難は聞こえてこない。下村文科相は「要請」を「強制ではなくあくまで『お願い』だ」としているから意に介さぬ人もいるかもしれない。しかし交付金を握られている以上、うかつなことは言えないのが実際のところだろう。
「今回の要請は明らかに圧力です。少なからぬ学長がそう考えている」とある国立大関係者は語る。「それでなくても学長は交付金を確保するために苦労している。そのうえ、こんな非生産的な問題で悩むことになるとは……」
だから大学公社が必要なんだ、と永井氏が存命なら嘆くかもしれない。「来春の入学式・卒業式で『要請』に従わなかったからといって、交付金を減らすことはない」と文科省幹部は言うが、そんな言葉を額面通りに受け取れないのがいまの国立大なのだ。
往年の大学公社構想は日の目を見なかったが、じつは国立大法人化の理念にはそれを受け継いだ部分がある。
大学の独自性を高め、教授会と経営を切り分け、学長の権限を強める。そういう考え方は共通しているのだ。ただし文科省は財政だけは手放さず、むしろ交付金配分と改革督励を通して国立大への支配を強めてきた。その延長線上に今回の問題がある。
公社構想など今は昔。文科省と国立大との関係は容易には変えられまい。しかし、そんな時代だから教育・研究への無頓着な干渉もやむなしというなら大学は衰弱するばかりだ。学問の自由が保障されぬ大学からは多様な「知」は生まれず、イノベーションも遠ざかろう。
大学に対して強い権限を持つ政府であるからこそ、むしろ禁欲的な一線を保てるかどうかが問われている。
[日経新聞5月31日朝刊P.11]
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