1. 2015年6月02日 21:20:32
: mqnOiDewuU
(インタビュー 核といのちを考える)米国で原爆神話に挑む ピーター・カズニックさん 2015年6月2日05時00分「米国は特別という例外主義が問われているのです」=ワシントン、田井中雅人撮影 http://digital.asahi.com/articles/photo/AS20150602000131.html 広島・長崎への原爆投下は、日本の降伏をもたらし、本土侵攻で失われる数多くの命を救った――。そんな「原爆神話」に挑み続ける米国人がいる。20年前、退役軍人の反対で頓挫したスミソニアン博物館の原爆展を引き受け、被爆70年の今年、新たな原爆展を開催するアメリカン大のピーター・カズニック歴史学教授に聞いた。
――オリバー・ストーン監督と手掛けたドキュメンタリーと本「語られない米国史」で、原爆投下の経緯に疑問を投げかけました。米国内の反応はいかがでしたか。 「作品への批評の85%は極めて好意的です。しかし、これを嫌う保守派もいるし、ヒラリー・クリントン元上院議員らに代表されるベトナム戦争を支持した民主党の『冷戦リベラル』と呼ばれる人々も、私たちに批判的です」 ――20年前、スミソニアン博物館が企画した原爆投下機エノラ・ゲイと広島・長崎の被爆資料を並べて展示する原爆展は、退役軍人らの猛反対で中止になりました。米国の原爆投下をめぐる言説に挑戦するような作品に、いま好意的な反応が寄せられるのはなぜでしょう。 「20年前に猛反対した世代の多くは亡くなり、原爆投下決定をめぐる議論は沈静化しました。戦争終結50周年だったその時が、彼らの遺産を残す最後だったのでしょう。第2次世界大戦を戦った退役軍人らは『よい戦争』だったと信じていました。それに対する批判を少しでも許すと、彼らが信じる物語全体が壊れてしまうのです」 「日本本土に侵攻すれば、徹底抗戦にあい、米兵らに多くの犠牲が出るだろうとの言説を、当時の米国人らは信じていたのです。しかし、私たちは『米国の兵士らのおかげで戦争に勝ったのであって、原爆のおかげではない。原爆は逆に兵士らの功績を傷つけるものだ』と訴えてきました」 「年配の世代の人たちは(原爆投下を命じた)トルーマン大統領は英雄だったと信じています。実はトルーマンは日本側が降伏したがっていることを知りながら、かたくなに日本側が求めた降伏文書の文言変更を拒んだりしました。そうした事実を知らぬまま、『原爆神話』を信じているのです」 ――トルーマンが広島・長崎に原爆を投下した真の狙いは何だったと考えますか。 「トルーマンの頭の中にソ連の存在があったのは間違いありません。ソ連が参戦する前に日本の降伏を促したかったのです。原爆投下によって、ソ連に対してメッセージを送ったのです。日本の最高戦争指導会議は1945年5月、ソ連の仲介によって、よりよい降伏文書を得ようとしていました。広田弘毅元首相は駐日ソ連大使に6月初めに会って、一刻も早い降伏の意思を伝えています」 ――ソ連への牽制(けんせい)ですか。 「米国が広島・長崎に原爆を投下した時、ソ連の指導者らは真の標的は日本ではなく、自分たちなのだと理解していたはずです。米国の原爆開発を指揮したレスリー・グローブス将軍も『ソ連が我々の敵だ。日本ではない』と明言しています」 ■ ■ ――原爆が勝利をもたらしたというのは「神話」であって、実際にはソ連の参戦が決定打だったということですか。 「トルーマンは『8月15日までにスターリンが対日参戦する。そうしたら日本は敗北する』と述べていました。4月11日や7月2日の機密文書には、『ソ連が参戦したら戦争が終わる。日本はそれ以上抵抗できない』と明記されています。米国は日本側の通信を傍受しており、7月18日の日本側の公電によると、天皇が和平を求めていることをトルーマンとその周辺は知っていたのです。だから、原爆によって戦争を終わらせたのではなくて、戦争が終わる前に原爆を使いたかったのです」 「原爆投下で米軍は日本本土に侵攻する必要がなくなり、多くの米兵の命が救われたという言説は、論理的にもつじつまが合いません。米軍の本土侵攻はそれより2〜3カ月後に予定されていました。日本側が降伏を求めて、よりよい降伏文書の文言を模索しているのが分かっていながら、3カ月後に予定していた侵攻をしないために原爆を落としたというのは、どうにも整合性がありません」 ■ ■ ――戦後、米政府は原爆投下を正当化しましたが、今も米国人一般にそう受け止められているのでしょうか。 「残念ながら、米国人は一般的にあまりこの問題を考えていません。教育現場もメディアも、批判的に見ようとはしませんし、深く考えていません。オリバー・ストーンが私と『語られない米国史』のプロジェクトを始めたのは、彼の娘の高校教科書の広島・長崎についての記述が原爆投下を正当化するひどいものだったからです」 「人々が関心を持ってくれれば、より効果的に挑戦することができます。ドキュメンタリーや本を携えて、米国内外の学校や高齢者施設を飛び回っています。老若男女、あらゆる年齢層に話しています。8日間で九つの米国の大学を回ったりもします。歴史教師たちにも講演します」 「私が講演で、第2次大戦当時の7人の米軍最高幹部のうちの6人までが原爆投下は不要か道徳的ではないと言っていたと話すと、これを聞いた退役軍人らは衝撃を受けます。ソ連の参戦や日本の食糧事情など、戦争の全体像を示すと、自分たちが信じてきたことと全然違うとなるからです」 ――米軍の内部では、原爆観の変化は見られますか。ワシントンの海軍博物館の原爆の展示には「広島・長崎への原爆投下は日本軍にほとんど影響を与えなかったが、ソ連の参戦は日本側の考えを変えた」との説明がありました。 「それは正しい認識ですが、米国人の一般的な認識にはなっていません。ニミッツ提督ら当時の海軍指導者らは原爆投下に反対でした。(当事者の系譜を継ぐ)空軍は決してそうは言わないでしょう。スミソニアン博物館の別館に原爆投下機エノラ・ゲイが展示されていますが、論争を呼ぶような説明はありません」 ■ ■ ――「核なき世界」を訴えるオバマ政権になっても、そういう認識は変わらないのですか。 「オバマ大統領自身はこの問題に関心を寄せているはずです。学生時代の82年にはニューヨークの反核行進に参加しています。09年のプラハ演説では核兵器のない世界を訴えました。ただし、米国は最初に核兵器を廃絶するのではなく、最後の国になると言いました。抑止は必要だと。しかし、戦争で原爆を使用した唯一の国である米国には特別な責任があるとも述べました」 「政権発足当初は、彼に広島訪問を促す声が今よりありました。まだ、その可能性はあると思いますが、被爆者に謝罪するようなことはないと思います。依然として米国では論争になるからです。しかし、核軍縮を掲げるオバマ政権の実際の核政策を見ると、巨費を投じて近代化を進めることにしているのです。核廃絶を訴えながら、正反対の行動をしている。偽善的なことです」 ――6月13日からアメリカン大で丸木位里(いり)、俊(とし)夫妻の「原爆の図」の展示を開催しますね。なぜ、今なのですか。 「スミソニアン博物館から引き継いで原爆展を開いた95年から毎年、学生を連れて8月6日の広島と9日の長崎を訪れ、被爆者らの話を聞いてきました。前回の原爆展から20年、原爆投下から70年にあたる重要な年です。丸木美術館や広島市などから打診を受け、20年ぶりの原爆展の開催を決断しました。『原爆の図』は、米国ではほとんど知られていません」 ――米国の若者に期待しているのですね。 「米国の若者たちは好奇心を持っていますが、原爆についてはほとんど知りません。先日、『広島に原爆が落とされた日付を知っていますか』と尋ねると、学生20人中だれも知りませんでした。ゼロです。以前なら、『8月6日』と答える学生が必ずいたものですが、彼らにとって原爆は、70年前の遠い祖父母の時代の出来事になってしまいました」 「それでも、若者は核兵器に批判的ですし、もっと知りたいと思っています。イラク・アフガニスタンの戦争を経て、米国人の間に厭戦(えんせん)気分が強まっています。リビア、シリア、イエメンと続く戦闘にうんざりしているのです。だからこそ、原爆展も心を開いて見てくれるものと期待しています」 ――伝えたいメッセージは何ですか。 「広島・長崎の重要な教訓は、原爆が人類を絶滅のふちに置いたことです。原爆を投下したトルーマンは、地上の生きとし生けるものを絶滅させてしまう扉を開いてしまったと分かっていました。トルーマン、ブッシュ、オバマ、プーチン、どんな指導者に対しても生命存続の拒否権を与え続けるわけにはいきません。そのことを、どうしても訴えたいのです」 (聞き手・田井中雅人) * Peter Kuznick 1948年、米ニューヨーク生まれ。高校時代にベトナム反戦運動に参加。首都ワシントンにあるアメリカン大学の教授、核問題研究所長。 ◆英文は朝日新聞の英語ニュースサイトAJWに掲載しています。http://ajw.asahi.com/別ウインドウで開きます http://www.asahi.com/articles/DA3S11785770.html
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