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尖閣諸島、日本もまた領有権の明確な主張は。1960年代末、70年代初め(苫米地真理論文)−(孫崎享氏)
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30th May 2015 市村 悦延 · @hellotomhanks
多くの人は、「日本は昔から尖閣諸島の主権を唱え、
中国が石油があるという調査の後、尖閣の主権を主張した」と思っている。
苫米地真理氏は、世界2014年10月号に『「固有の領土論」を超え、解決の道を探る』を発表した。
苫米地真理氏は国会答弁をとうして、
日本は尖閣諸島にどのような領有権主張を行ってきたかを丹念に分析した。
1. 1950年代の国会答弁では、島の名前すら明確に認識しておらず、領有権主張は実に曖昧である。
2. 沖縄返還の可能性が出るにつれて、この島の存在が論議され始める、
3. 1968年東郷省アメリカ局長は、尖閣諸島周辺の海域が領海だとの認識を示す。
4. 閣諸島の帰属については1970年の4月、山中貞則総理府総務長官が
「明らかに石垣島に属する島でございまする」と初めて答弁した
5. 中国や台湾の領有主張は、石油が出てからの後出しジャンケン」的な表現は、
日本領有の根拠として巷間に流布している「定説」である。
しかし、これまでに筆者が明らかにした日本政府による国会答弁の変遷をみれば、
1970年9月までは、日本政府も尖閣諸島の領有権について明言していないことがわかる。
貴重なデータを含んでいるので、歴史上の主要点を記す。
本稿は、筆者が2014年1月に法政大学大学院公共政策研究科に提出した修士論文
「領土政策に関する政府見解の変遷――尖閣諸島をめぐる国会答弁を中心に――」の要約である。
尖閣諸島に関する国会答弁を中心とした政府見解の変遷を検証し、
その上で、尖閣諸島をめぐる問題を解決し、
安定した日中関係を構築することを目的とした公共政策の史的研究である。
・外務省のホームページにある「尖閣諸島についての基本見解」では、
「尖閣諸島が日本固有の領土であることは,歴史的にも国際法上も疑いのないところであり,
現にわが国はこれを有効に支配しています。
したがって,尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません」と
謳われている。これを見れば、明治政府が1895年に尖閣諸島を日本に編入して以来、
120年間一貫して日本政府がそのように主張していたものと考えがちである。
しかし、筆者は、国会会議録を精査し、
日本政府が尖閣諸島の領有権を明言したのは1970年になってからであること、
さらに、1895年の閣議決定の根拠を「国際法上の先占の法理」と表明したのは
1972年になってからであることを提示した。
・1972年9月の日中国交正常化交渉に参加し、
「日中共同声明」草案を作成した当時の外務省条約課長であった栗山尚一
(後に外務事務次官、駐米大使)は、「尖閣問題は『棚上げ』するとの暗黙の了解が
首脳レベルで成立したと理解している *2」と述べている。
(栗山尚一「尖閣諸島と日中関係『棚上げの意味』」『アジア時報』2012年12月号、4〜10頁。)
・日本の国会における尖閣諸島に関係する最初の言及は、
1954年2月15日の参議院水産委員会における水産庁の立川宗保漁政部長による発言である。
「ヘルイ演習場と申しますのは、私どもどこかはつきりわかりませんが、
想像いたしますのに、漁釣島だろうと思います。
魚釣島でありますならば、これは実はいわば琉球政府の所管と言いますか、
琉球附近の島嶼の演習場でありまして……」。
・ 立川に次ぐ尖閣諸島に関する日本政府の答弁は、
同年3月26日の伊関祐二郎外務省国際協力局長の答弁である。
・伊関は「あれは行政協定の問題になりますかどうか、
(中略)沖繩の南でございますね。
私のほうもあの点は詳しいことは存じません」(参議院大蔵委員会)と答弁した。
・その翌年の1955年も、
尖閣諸島の魚釣島付近で発生した第三清徳丸事件をとりあげた
7月26日の中川融外務省アジア局長の以下の答弁がある。
「琉球の一番南の方の台湾に近い島、非常に小さな島のようでありますが、
その島の領海内で……」(衆議院外務委員会)というもので、
「尖閣」とも「魚釣島」とも答えず、やはり島名を認識していないことをうかがわせる。
1972年の沖縄返還前は、沖縄の施政権は米国にあった。
しかしながら、「日本国民である」「琉球住民」が被害にあったにもかかわらず、
事件の発生した付近の島名を外務省は答えられない。
当時は「固有の領土」とは認識していなかったのであろう。
・それ以降は、沖縄返還が現実的な問題となる1967年まで、
尖閣諸島に関する質問がされることはなかったようである。
1967年6月20日、衆議院沖縄問題に関する特別委員会において
公明党の渡部一郎衆議院議員が塚原俊郎総理府総務長官に
「尖閣群島に先ごろから台湾の人が住みついて」いることを問題視した質問をしている。
しかし、沖縄問題の担当大臣である塚原は領有権の問題には触れず、
「何ら報告を受けておりません」と答弁をしている。
同年7月12日にも渡部は質問を行った。
佐藤栄作首相は領有権や主権の問題には触れず、
「沖繩の問題、これはいわゆる施政権がこちらにございませんので、
(中略)これはやはり施政権者から話さすのが本筋だ」(衆議院外務委員会)と答えた。
これが尖閣諸島に関する最初の首相の国会答弁である。
1968年8月9日衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会において、
東郷文彦外務省アメリカ局長は、「尖閣列島その他における領海侵犯の問題」と述べ、
尖閣諸島周辺の海域が領海だとの認識は示し、
領海侵犯等を「まことに遺憾なる事態」とはしているが、尖閣諸島の帰属については明言していない。
・1970年の4月15日、参議院予算委員会の分科会で、
山中貞則総理府総務長官が「明らかに石垣島に属する島でございまする」と初めて答弁した。
・他方1970年8月31日には、
琉球政府立法院が「決議第12号 尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」を採択した。
決議には「元来、尖閣列島は、八重山石垣市字登野城の行政区域に属しており、
(中略)同島の領土権について疑問の余地はない」とあり、
尖閣諸島の帰属・領有権について日本側が最初に明言した見解であると
沖縄大学名誉教授の新崎盛暉は指摘している。
・尖閣諸島の領有権に関する日本政府の最初の明快な国会答弁は、
1970年9月7日、衆議院科学技術振興対策特別委員会において、
外務省条約局の山崎敏夫参事官が
「領有権に関しましてはまさに議論の余地のない」
「明らかにわれわれの領土」と初めて明示的に答弁した。
・尖閣領有権に関する最初の大臣答弁は、3日後の9月10日、
愛知揆一外相の答弁である。
愛知外相は、「尖閣諸島の領有権問題につきましては、
いかなる政府とも交渉とか何とかを持つべき筋合いのものではない、
領土権としては、これは明確に領土権を日本側が持っている、
こういう立場をとっておる次第でございます。
(中略)一点の疑う余地もない。日本国の領有権のあるものである」(衆議院外務委員会)と明言した。
・同年9月17日には、「琉球政府声明 尖閣列島の領土権について」が発表された。
この声明は、尖閣列島を初めて「我が国固有の国土」と謳い、
領有の根拠として、「国際法上の無主地であった」尖閣諸島を
1895年1月14日の閣議決定によって編入し、
1896年4月の勅令13号によって「国内法上の領土編入措置がとられた」ことを
最初に述べたものでもある。
・琉球政府声明が発出された直後の10月7日、参議院の決算委員会で、
山中総理府総務長官は「明治二十八年の閣議決定、
二十九年の勅令による石垣島の区画決定による日本の尖閣列島に対する
明確なる領土権のもとにおいて」と答弁し、
1895年の閣議決定と翌年の勅令によって尖閣諸島を編入した旨を初めて明言した。
・「質問主意書」への答弁としては、楢崎弥之助衆議院議員が提出した質問に対して、
1971年11月に佐藤首相が「尖閣列島が日本国の領土であることの根拠」として、
以下の答弁書を閣議決定している。
「尖閣列島は、歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成し、
明治二十八年五月発効の下関条約第二条に基づきわが国が
清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
したがつて、サンフランシスコ平和条約においても、
尖閣列島は、同条約第二条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、
第三条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下におかれ、
本年六月十七日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国と
アメリカ合衆国との間の協定(沖繩返還協定)により
わが国に施政権が返還されることとなっている地域の中に含まれている。
以上の事実は、わが国の領土としての尖閣列島の地位を何よりも明瞭に示すものである」
(「衆議院議員楢崎弥之助君提出 尖閣列島に関する質問に対する答弁」
内閣衆質67第2号、1971年11月12日)。
・背景:1968年10月から11月にかけて、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)と
アジア海域沿岸鉱物資源共同調査会の提携のもとで米海軍海洋局、日本、韓国、台湾
の地質学者たちが東シナ海で海底調査を実施した。
それによって、堆積盆地が黄海に一つ、東シナ海に二つあり、
これらに豊富な石油埋蔵の可能性があることが明らかになってきた。
それ以前。外務省には、尖閣列島を領土編入したいきさつはこうだったと、
ただちに説明できるファイルはなかった。
尖閣列島の島々についての正確な地図もなかったし、
尖閣列島の位置を経緯度で示したものもなかった。
・2014年3月現在、外務省ホームページに掲載されている「尖閣諸島について」に、
「石油資源が埋蔵されている可能性が指摘された後、
1971年から中国政府及び台湾当局が同諸島の領有権を公に主張 *10」との記述があり、
「尖閣諸島についての基本見解」の中でも同様の趣旨が述べられている。
「中国や台湾の領有主張は、石油が出てからの後出しジャンケン」的な表現は、
日本領有の根拠として巷間に流布している「定説」である。
しかし、これまでに筆者が明らかにした日本政府による国会答弁の変遷をみれば、
1970年9月までは、日本政府も尖閣諸島の領有権について明言していないことがわかる。
けだし、尖閣周辺における石油埋蔵の可能性が出てきたからこそ、
日本政府は南方同胞援護会や奥原の協力のもとで関係資料を収集し、
領有権の根拠を論理だて、その整理がついた1970年の9月になって、
初めて日本の領有権を明言したのであろう。
・1972年3月8日、「外務省統一見解 尖閣諸島の領有権問題について」が発表された。
しかし、「先占」という言葉は用いられておらず、
「国際法上の先占によってわが国の領土に編入した」とは明示されてはいない。
同年5月、外務省情報文化局が『尖閣列島について』というパンフレットを発行した。
その中で、「明治28年(1895年)1月14日の閣議決定により、
尖閣諸島を沖縄県の所轄として、標杭をたてることにきめました」、
「これは国際法的には、それまでどこの国にも所属していなかった
それらの諸島の領有権を、わが国が、いわゆる『先占』と呼ばれる行為によって
取得したのだということになります *18」と、初めて文書で「先占の法理」に言及した。
それに先立つ1972年3月21日、外務省の高島益郎条約局長は、
楢崎弥之助衆議院議員の質問に対して
「先占の法理によって日本が合法的に取得した」(衆議院予算委員会第二分科会)と初めて答弁した。
また、明治28年=1895年の閣議決定で編入する前は尖閣が無主地であったことは
認めつつも、沖縄県による最初の上申から10年も放置しておいて、
日清戦争に勝利する直前に編入した実効支配の正当性を中国側は
争点にしているのではないかとしている。
のみならず、トラブルを避けるため竹島のように防空識別圏から
尖閣をはずすべきだと主張し、
また米国が施政権と主権を使い分けて中立の立場を表明していることの不合理性、
さらに赤尾嶼と黄尾嶼にある米軍の射爆場は撤去を求めるべきだと、
具体的な諸問題について踏み込んだ質問している。
・ ここから明らかなように、日本政府が尖閣諸島領有の論拠を再構成し、
歴史的経緯に関する日本政府の「物語」が完成したのは1972年3月である。
それ以前には、現在の日本政府が主張する尖閣領有の国際法上の根拠となる
「先占の法理」は言及されていなかった。
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