03. 佐助 2015年5月30日 18:41:45
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日本は建前では「民主主義は理念でなくルール」。しかし本音は多数決原理であり、独裁主義に対立する理念と信じられている。日本は首相を国民が直接公選するルールを採用していない。そして政治家は圧勝すると、与党政権に反対すると,大本営報道や武器と武力のように踏み絵で追放処分されてる。しかも政治家は「国民を安心させる」ために、確信犯的大ウソをつく。例えば自民党保守はすべて正義であり,自分にとってプラスは善で、マイナスは悪とハッキリしている。企業や国家の正義/不正義・善/悪・味方/敵は、この個人の善/悪の判定や踏み絵にしている。これはあきらかに民主主義を否定していることになる。 しかも「国家」行政・立法・司法などは,多数決こそ正義・真理で,少数意見は多数意見に従うべしとなる。個人と社会は,国家に奉仕し従属すべき義務がある。愛国主義・国家主義となる。 なので日本は韓国よりもっと性質が悪い,偽装国家と云える。 しかも日本の政治経済と司法は多数意見は常に正義で絶対服従沈黙せよとの先輩の意見は軍国時代と同じで、少数意見尊重こそ民主主義だ。そして三権分立は偽装であることを国民は知らない。 民主主義は少数派の意見が時間と共に多数派の意見になり、政治のルールは変化してきた。だが、どんな少数派の意見が多数派になるのか、あらかじめ判定することは難しい。だから、少数意見はひとまず多数意見に従い、多数意見は少数意見に耳を傾けるルールが誕生したのだ。 ドイツとイタリアの国家社会主義党と日本の大政翼賛会は、一党独裁に反対する人が立候補できぬ選挙制度ルールで、独裁権力を国民の総意だと思わせた。社会主義国家も、共産党に反対する人は立候補できない。病人を投票所に運び高投票率を競争させ、その独裁的権力が国民総意と思わせた。どんな政治制度史でも、独裁選択の時期を記録している。 政治の基本対立要素の一つは「民主主義は理念でなくルール」なので、ルール(制度)の対立構造が変化するのだが、理念(政治的概念だと思い込んでいるために、その対立要素と周期が全く見えない。もう一つの政治の基本対立要素は「自由」「平等」という理念(政治的概念)なのだが、この理念は個人と集団(企業・国家)によって異なっているのに、全く同じ理念だと思い込んでいるため、その対立要素と周期が全く見えない。 ZAKZAKやNHKや読売や産経そして日経と政治家特に自民党保守(安倍政権)らの,政治家は「国民を安心させる」「真意を隠して反発させないため」に、確信犯的大ウソをつくためウソ発見器で検知できない。マレに、日頃考えていることが口から飛び出し失脚するために、役人の玉虫色のウソの原稿に頼らざるをえなくなる。 今日2000〜2020 年代の「ルールを否定破壊する少数派に寛容な時代」は、1%の金持ちが99%の富をもつ「不平等の是正」の思考と行動を台頭させている。それと平行して宗教の原理主義が、暗殺やテロリズムの思考と行動を台頭させ、戦争の瀬戸際に押し進めていることになる。 政治現象は、民主・民本主義政治体制と、そうでない体制とが対立していると信じられている。だが、民主主義はルールにスギないため、どんな政治体制も、多数決を集団の総意として利用してきた。だから、多数意見は正義・善であり、少数派の意見は間違っているので、転向しなければ抑圧排除してもよろしい、という常識は間違っている。 したがって、民主主義はルールではなく、自由・平等と同じような政治的理念だと仮定して観察すると、政治のルールの基本対立要素とその周期が、全く見えなくなる。 政治家は当選した瞬間、その政治のルールの中に思考と行動は閉じ込められる。そして、ルールのコップの中で権力争奪のため、離合集散する。その駆け引きは、現実に次々と発生する問題解決を論じながら、実際には、応急手当の試行錯誤を攻撃し、互いに足を引っ張りあう。それなのに、政治家は国民と国家の利益のためだと確信することができる。そのために、根本的解決を常に先延ばしされるだけなので、いっそ古いルールをブチ壊した方が手っとり早いと、ルールをブチ壊せと怒号する思考と行動の独裁者を待望する。 戦前ヒットラーや日本の軍国主義ヘの期待は大きく,小泉氏など奇人変人に期待し,安倍軍国政権に期待する跋扈がマスコミと国民の25%が該当する。このように独裁者を待望するのです。民主主義より独裁者を待望する。特に民主主義と叫ぶものに民主主義を否定しているのである。 |