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ロッキード事件、金丸脱税事件、新薬産業スパイ事件「検察・国税担当」記者は見た!——検事もワルも、みんな人間臭かった
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43429
2015年05月30日(土) 週刊現代 :現代ビジネス
元東京新聞編集委員 村串 栄一
検事だって人間だ。巨悪に対して憤り、事件が潰れれば涙する。彼らと盃を交わし、ときには出禁処分を受けてでも食らいつく。元エース記者が見た「最強の捜査機関」特捜部と国税庁の実像と虚像。
■金丸の体がぐらりと揺れた
'93年3月6日夜。一報が入ったとき、全身に電撃が走った。自民党副総裁だった金丸信の脱税容疑による逮捕。田中角栄の衣鉢を継ぐ政界最大の実力者だった。
私は当時、中日新聞社(東京新聞)の社会部デスクを担当していた。しかし、この逮捕は寝耳に水だった。すべてのメディアが完全に検察に出し抜かれたのである。私は急いで取材体制を整え、検察担当、事件遊軍、国税担当に連絡して、あちこち走らせた—。
検察は権力の総本山のような、唯我独尊の「ガラパゴス集団」だ。自分たちが「絶対正義」であると信じ、ときには権力を振りかざして事件に取り組む。記者としてその姿を目の当たりにしながら、他紙と「抜いた、抜かれた」のつばぜり合いを繰り広げ、特ダネを狙う日々。その中で見たのは検察・国税と被疑者との攻防や、検事らの使命感、そして葛藤だった。その様子を『検察・国税担当 新聞記者は何を見たのか』(講談社刊)にまとめた。一部を紹介する。
金丸脱税事件に至る前、検察は断崖絶壁に立たされていた。前年の夏、東京佐川急便の元社長側から5億円の献金を受領した金丸を略式起訴したが、処分は罰金20万円のみ。国民は不満を露にし、検察庁舎にペンキが投げつけられた。検察は権威を失いつつあった。
脱税捜査の唯一の手がかりは、国税調査官の発見した割引金融債乗り換えのチャートだった。当時の国税庁幹部が話す。
「亡くなった金丸さんの奥さんの相続や事務所経費などにおかしな動きがあった。そこで調査にかかると、割引金融債が出てきたんです」
東京地検特捜部長だった五十嵐紀男は、国税からの情報に一条の光を見出して、極秘捜査に乗り出した。そして、確信にいたったという。
「政治資金ではなく、割引債に変えた個人蓄財だった。所得申告をしていないから脱税に問える」
金丸聴取にあたった特捜部副部長の熊崎勝彦は、こう核心に迫った。
「先生、もう大人のままごと遊びはやめましょう。割引金融債をお持ちですよね」
金丸の体がぐらりと揺れた。弁解録取で金丸は、「所得の申告はしていなかった」と容疑を認めた。
「失敗すれば自分も含め、総長ら幹部の首が飛ぶような、イチかバチかの一発勝負だった。だが、みんな検察を立て直そうと必死だった」
そう話すのは、当時、最高検検事だった石川達紘だ。沈没しかけていた検察が、国民に存在感を示した。金丸逮捕後の政界は流動化し、自民党は分裂。金丸は一審判決を待たずに逝った。
検察と国税はロッキード事件のときも「命がけ」だった。疑惑が表面化したのは'76年2月4日のこと。旅客機の売り込みのため、ロッキード社が秘密代理人・児玉誉士夫にコミッションを支払い、大手商社・丸紅に巨額資金を提供していたのだ。
国税は児玉の個人蓄財に着目し、調査を進めていく。しばらくして検察が本格始動し、児玉邸に脱税容疑で強制捜査に入る段取りを整えた。
■国税庁長官からの「特ダネ」
こうした動きにことの重要性を予感し、特ダネを放ったのが東京新聞の国税記者クラブ担当だった高羽国広(現在は北陸・石川テレビ社長)だ。国税庁長官に直接当たって取材をしていた高羽が当時を振り返る。
「最初に検察と国税が調査に入る方針であることを朝刊の1面に入れたんです。それまではあり得ないことでしたが、長官は調査方法などを丁寧に解説してくれました。やがて着手時期を聞き出し、『来週後半にも強制捜査』と打ったのです」
2月24日、国税は児玉の脱税容疑の強制捜査に踏み切った。その捜査前夜、検察で国税との連絡役を務めていた特捜検事の小林幹男は、当時の東京国税局長に「おれと心中してくれ」と思いを伝えている。小林はかつて私にこう語った。
「脱税(の捜査)はやってみなければわからなかった。児玉邸の家宅捜索をやって、割引金融債が出てきたときはほっとした」
この児玉邸へのガサ入れが、今太閤・田中角栄を追い詰める端緒となる。しかし、これほどの力を世間に見せながらも、ロッキード事件以降の検察は開店休業状態だった。被告の身ながらキングメーカーとして君臨する田中角栄に裁判で負けたら致命傷を負う。法廷戦略に手を取られ、新たな事件捜査を手がける余裕がなかったのだ。
私が群馬・前橋支局から司法記者クラブに異動になったのはそんな頃だ。最初にかかわった大きな案件が、新薬産業スパイ事件である。
無聊をかこつ特捜部の中で一人、内偵捜査を進めていたのが前出の熊崎だった。'83年3月に横浜地検から異動してきたばかりの熊崎は、告訴案件の中に気になる一通を見つける。
「国立予防衛生研究所の技官が、医薬品開発において試験をしないまま製薬会社に合格書を渡している」
コツコツと捜査を続けた熊崎は、同年秋に技官を逮捕する。取り調べ中、家宅捜索部隊から奇妙な報告が入ってきた。
「彼の家には写真というものがないんですよ」
熊崎が技官を問い詰めると、新薬製造承認申請資料のデータを大手製薬会社3社に横流ししていたことがわかった。見返りに旅行などに連れて行ってもらい、一緒に写真を撮ったが、製薬会社との関係がばれないよう、すべての写真を処分したということだった。
事件の頂点にいたのは「抗生物質の父」と呼ばれた某製薬会社の役員。検察は一連の事件で製薬会社幹部、医大関係者ら12人を起訴した。
■涙を流した特捜検事
時を同じくして特捜部は、沈没船による保険金詐欺疑惑の案件を追っていた。'78年11月に千葉県勝浦沖で海上起重機船(200t)が沈んだ。その船には1億2500万円もの保険金がかけられていて、故意に沈められた疑いがあった。そんな告発状が5年以上も経って舞い込んできた。船は某代議士の関連会社が所有していた。
熊崎ら検事が捜査を進めると故意に沈めた形跡が見られ、支払われた保険金が別の人物に移動していたこともわかった。検事らは家宅捜索の段取りを整える。
しかし、肝心の沈んだ船が見つからない。19日間かけて捜索したが、ソナー(音波探知機)でも識別できない。「宿泊先の民宿に戻り、うまいカツオ料理を食べ、酒を飲むことだけが慰めだった」とは担当検事の弁。
彼らは状況証拠だけでも成り立つと考えたが、上層部は捜査の中止を指令。政治家の影があることから、船がない状況での摘発に及び腰になったのだ。捜査主任で、後の検事総長・松尾邦弘も上層部の判断に憤った。
「証拠はかなりあった。死体なき殺人事件もあるのだから、やってやれないことはないと思った。ただ、バッジ(政治家)絡みだから慎重だったのかもしれない。僕は主力部隊を半年以上も引っ張った責任を取って、辞表を出そうとした。慰留されましたがね」
捜査の中止を受けて、特捜部は騒然とした。憤慨する検事、涙を流す検事。理不尽だと辞職した者も何人かいた。
私は、ときにはこうした検事たちと酒を酌み交わし、ときには暗黙のルールから逸脱した取材で検察庁への出入り禁止をくらうこともあった。ただ、検事たちが正義を信じて奔走していたことは間違いない。そして検事もワルも、昔はみんなどこか人間臭かった。
いまの検察は信用が失墜している。マスコミも同様だ。それでも、世の中から悪事がなくなったわけではない。捜査陣、報道側ともに閉塞状況にあるが、殻をやぶって真実を追究する姿を取り戻してほしい。それが新聞記者として40年以上、現場に立ってきた私の願いである。(文中敬称略)
むらくし・えいいち/'48年、静岡県生まれ。明治大学政経学部卒業後、中日新聞社(東京新聞)に入社。司法記者クラブキャップ、社会部デスク、特報部デスク、編集委員などを歴任。著書に『検察秘録 誰も書けなかった事件の深層』など
「週刊現代」2015年5月30日号より
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