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米国から見た日本の集団的自衛権審議
責任政党なら党利党略を排し、国家の未来を懸けた論戦を
2015.5.28(木) 太 栄志
日米が防衛協力体制を見直し、新指針発表 「歴史的変革」
米ニューヨークのウォルドーフアストリアホテルで外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)に臨む岸田文雄外相(左)、中谷元防衛相(左から2人目)、ジョン・ケリー米国務長官(右から3人目、2015年4月27日)〔AFPBB News〕
安倍晋三内閣が今国会で最重要課題に掲げる安全保障関連法案が5月26日の衆議院本会議で審議入りし、国会論戦が始まった。集団的自衛権の限定的な行使容認などを決めた昨(2014)年7月の閣議決定を具体化するものだ。実現すれば、戦後の我が国の安全保障政策の大きな転換点になる。
冷戦終結から四半世紀が経過し遅きに失した感はあるが、ようやく長年の安全保障上の懸案を解消する見通しとなった。
我が国を取り巻く安全保障環境の変化に合わせ、抑止力を高めるための安全保障体制の改革は日本の将来にとって極めて重要だ。
国会論戦を通して国益を見据えた現実的で大局的な視点からの法整備と国民からの強い支持を得るために政治のリーダーシップが、いま問われている。
戦後の安全保障政策における政治の不作為
集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある国が攻撃された場合、それが自国の存立にかかわる明白な危険がある事態であれば、自国に対する武力行使とみなし、自国が直接攻撃されていなくとも反撃する権利のことをいう。
国連憲章の第51条は、加盟国に対し武力攻撃が発生した場合には、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を行使することが認められているとしている。そしてサンフランシスコ講和条約、旧日米安全保障条約、日ソ共同宣言、現行の日米安全保障条約にも日本が集団的自衛権を保有することが明記されている。
ところが日本政府は、我が国は「国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法上の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されない」(参議院決算委員会提出資料、1972年10月14日)とする内閣法制局による解釈をとっている。
憲法9条に照らして自衛権の行使は我が国を防衛するため「必要最小限の範囲」にとどめるべきであるが、集団的自衛権はこの範囲を超えるため認められない、と説明される。
しかし個別的自衛権は「必要最小限の範囲」内で行使可能だが、集団的自衛権はその範囲内では行使不可能だとする見解は、法的には説得力を欠き、安全保障の常識に照らしても適切な認識ではない。
主権国家にとって自衛権は当然の権利であり、他国からの不当な武力攻撃から国民をいかに守るかを考える際に個別的か集団的かというのは国防政策の本質をとらえた議論とは言えない。
このように分けて議論しているのは世界中で日本だけだ。また憲法上行使できない権利をなぜ上記の4つの国際条約で確認してきたのかとの疑問に対し、政府と内閣法制局から合理的な説明は一切なされていない。
集団的自衛権の問題は、その行使の必要性が1980年代から問題提起され始め、冷戦終結直後に大きな政治課題となった。
米国からは1991年の湾岸戦争で後方支援が求められ、1994年の北朝鮮核危機でも船舶検査の支援要請があったが、日本は現行の憲法解釈では自衛隊の派遣は不可能と断ってきた。
この判断は日本の国益に照らし合わせた上でのものではなかった。
その後1997年の日米防衛協力のための指針の改訂や1999年の周辺事態法、2001年の9.11米同時多発テロ事件後のテロ対策特別措置法など集団的自衛権の行使容認を検討するタイミングは何度もあったが、政治はそれを先送りし、集団的自衛権行使の必要性が本格的に議論されることはなかった。
また米国の超党派の外交・安全保障研究グループが、「決めるのは日本自身だが」としながらも、集団的自衛権の行使を容認しない現行の憲法解釈が日米同盟の協力を制約しているとする見解を2000年、2007年、2012年の3回にわたって発表していた(いわゆる「アーミテージ・ナイ・リポート」)。
そして何よりも問題なのは、これまでの集団的自衛権に関する政府解釈が、防衛政策上の要請からの政治的決断ではなく、内閣法制局の判断に依拠してきた点である。
1970年代初めにこれまでの憲法解釈が定着していった背景には、政府が国会での野党対策を優先させ、役人にその場しのぎの法律解釈で対処させてきたことがある。
政治が真正面から安全保障政策の問題に取り組むことを放棄してきた結果といっても過言ではない。
国の存立に直結する国防政策で責任を全うすることができるのは、一行政機関ではなく、選挙で国民の付託を受けた政治だけである。集団的自衛権行使の問題は、憲法解釈との関わりの前に、まずはこれまでの政治の不作為が問われるべきである。
国民の広い支持を得る努力を
今回の集団的自衛権の行使へ向けての議論は、これまでの安全保障政策を大きく変更する法整備にもかかわらず、国民の理解と支持を十分に得られているとは言えない。
自公両党による安保法制の基本合意直後の3月23日付の日本経済新聞では、集団的自衛権の行使を可能にするための関連法案について、今国会での成立に「賛成」は31%にとどまり「反対」の51%を大きく下回った。
これは、昨年7月の閣議決定後に行われた主要各紙の世論調査で、集団的自衛権の行使に「反対」が過半数を超え「賛成」は3割程となった結果とほぼ同じである。閣議決定からのおよそ9か月間、国民への集団的自衛権の必要性の説明が適切になされてきたとは言えない。
さらに昨年12月の衆議院議員選挙において、主要政党は集団的自衛権の問題を選挙の争点とすることを避けていた。
前回の衆院選(2012年)の際には明確に「集団的自衛権の行使を可能とし、国家安全保障基本法を制定します」と謳っていた自民党は、今回は「平時から切れ目のない対応を可能とする安全保障法制を速やかに整備します」と、「集団的自衛権」の文言を使わずに間接的に触れるにとどめていた。
また民主党も「集団的自衛権の行使一般を容認する憲法の解釈変更は許しません」と、集団的自衛権の行使をどうするかを正面から論ずることを避けていた。
国政の重要課題を国民に提示して国民的議論を喚起し、自らの政策を広く訴える最大の機会である選挙を生かさなかったのは政治の怠慢と言えよう。
外交・安全保障問題は生活実感を伴う内政問題と異なり、具体的にイメージすることが難しい分野である。同様の理由から選挙の際に直接投票に結びつかないため、この分野に使命感を持って取り組む政治家は少ない。
しかし今回の法整備が戦後の大きな政策転換であるからこそ、国民的な議論を深めることがまさに求められている。
政治には国会論戦などあらゆる機会を利用して、集団的自衛権行使がなぜ必要なのかを国民に粘り強くていねいに説明し、納得してもらう努力を続けることが肝要だ。
かつて吉田茂首相は、「外交感覚のない国民は必ず凋落する」と述べているが、普段から政治が安全保障政策への国民の強い支持を得る努力を重ねていくことが、激動する国際社会で我が国が生存を図っていく上で必要不可欠であろう。
政治の決断で最も国益に適った安全保障政策を実現せよ
昨(2014)年7月の閣議決定で限定的ながらも集団的自衛権行使容認への道を開いた現政権のこれまでの方向性は高く評価できる。
大事なのは、今まさに始まった国会審議において与野党が、選挙や政局上の理由からの妥協や党利党略のためだけの反対を排した安全保障政策の論議を展開し、真に我が国の国益と将来を見据えた関連法案を成立させることである。
成熟した政党政治では、内政上の課題では与野党の対立が激しいものがあっても「政争は水際まで」が原則とされる。
国家が1つに団結して臨まなければならない安全保障上の課題では国益重視の観点からの論戦が望まれる。野党第1党の民主党は政権時代の2012年、集団的自衛権の行使容認へと政策転換を模索していた。
党内の意見の集約を早急に果たし、建設的な姿勢からの国会対応を期待したい。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43891
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