31. 2015年5月23日 19:39:23
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極東国際軍事裁判ーいわゆる東京裁判ーは1948年(昭和23年)11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・F・ウエップは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)であった。これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。 そして、1951年(昭和26年)9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印され日本は国際社会に復帰した。 ということになっている。しかし、実際は、いまだに東京裁判は時事問題としてポッポと炎をあげているのである。 なぜか。 というのは、東京裁判における検事側の主張と史観は、そのまま東京裁判史観として強力に日本人の思考を縛り続けているからである。東京裁判は、マッカサー元帥が連合国から全権を委託されて行われたものであった。したがって、裁判も国際法に準拠したものではなく、マッカサー司令部がこの裁判のために作った条例(チャーター)に基づいたものであった。簡単に言えば、東京裁判はマッカサーの権威によって成り立ち、マッカサーを法源としたものであった。そのマッカサーは東京裁判の経過を見て、意外に思うようになった。 日本に来る前、マッカサーは日本人は野蛮で下等な人間ぐらいに思っていたらしい節がある。しかし滞日が長くなるにつれて、天皇についての考えも変わり、日本国民自体に対する考えも変わってきた。第一、簡単に裁けると思った裁判をやってみると、日本の言い分が正しいと思われるところが多すぎるように感じ出したらしい。 アメリカの弁護人に最初に指名された人達の中には、戦時プロパガンダを信じてか、悪の塊みたいな日本側の弁護人になることを辞退した人もいた。しかし実際に弁護人になったアメリカ人達は、本当に「日本の言い分」が正しいと確信するのである。マッカサーにもそれは伝わったに違いない。判決の時も、反日的だったと思われるウエッブ裁判長すら、A級戦犯の死刑には反対だった。日本の敵国側の裁判官の多数決で、ようやく7人の死刑が決まったような具合である。マッカサーに騎士道的、あるいは武士道的なセンスがあれば、死刑を許すことも容易にできたはずであった。しかし、鳴り物入りで正義の裁判を国際的に宣伝していた手前、その終結に恰好をつけるために、7人の死刑の変更を求める弁護側の嘆願を受け付けなかったのである。 それから間もなく朝鮮戦争が始まって、東京裁判における日本側の弁護人達の主張が全く正しかったということを実感した。そのことをマッカサーは、ウエーキ島でトルーマン大統領と会見した時に語っている。その極めつきとも言うべき言葉をマッカサーは1951年(昭和26年)5月3日の米国上院外交合同委員会で述べている。日本人がすべて暗記すべき言葉なのでその原文の一番重要なところを引用しておきたい。 "There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was karagely dictated by security." 和訳: 「日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い。錫(すず)が無い、ゴムが無い。それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてだったのことだったのです」 マッカーサー「自衛戦争」証言 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1951-60/1951_makasa_shogen.html ここにtherefore(したがって)という言葉があることに注目しよう。これはその前に、日本が戦争に突入しなければならなかった理由を挙げているのである。そしてそれは驚くべきことに、死刑になった東条英機大将の「宣誓供述書」の主旨と重なるのである。東京裁判は日本を一方的な侵略国とする歴史観、つまり東京裁判史観をもとにしていたのであるが、その裁判が終結してから2年足らずのうちに朝鮮戦争が起こり、東京裁判をやらせたマッカサーが被告で死刑になった東条英機と同じ歴史観を抱くに至ったのである。何という皮肉であろうか。東京裁判史観vs東條・マッカサー史観という構図になったのだ。 東條・マッカサー史観をもっと精密に法律的かつ史実的に説いたのがパル判事の判決書なのである。パル判事はA級戦犯被告全員の、しかもすべての検事側の告発条項に対して無罪であると述べた。しれは講談社学術文庫版の翻訳で一千数百ページになる膨大なものである。法律的に、かつ史実的にほとんど間然とするところがないと思われる。 つまり大東亜戦争については、2つの対立する史観がある。1つは東京裁判史観であり、もう1つはパル判決書史観である。どちらの史観が正しいかと言えば、言うまでもなく、パル判決書史観が正しいのである。そのことは『東京裁判 却下・未提出 辯護側資料』八巻(国書刊行会・平成7年)という巨大な資料集を見ればすぐ分かる。これは受理したら東京裁判が成り立たなくなるようなものだったからである。この却下・未提出資料には含まれていないが、例えばレジナルド・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』が受理されただけでも、満州事変や満州帝国に関係するすべての告発は無意味になったであろう。 紫禁城の黄昏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E7%A6%81%E5%9F%8E%E3%81%AE%E9%BB%84%E6%98%8F レジナルド・ジョンストン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3 にも拘らず、今なお日本国内でも東京裁判史観がマスコミの主流を成しているように見えるのはなぜか。 1つは敗戦利得者が社会の重要なポストに多く残っているからである。占領期間中に行われた公職追放令によって、20万人以上の重要なポストに空きが生じた。ここを埋めたのは、主として占領軍の中でも左翼傾向の強かった民政局の眼鏡に叶った人たち、つまり戦前において、直接間接にコミンテルンの方針に同調した人たちであった。特に、有力な帝国大学、有力なマスコミにその人たちは根を下し、子分を再生産していった。その試験でエリート官僚になった人たちにもその史観は受け継がれた。 もう1つは、サンフランシスコ講和条約に反対した人たちである。日本をアメリカや自由主義諸国側の一員として復帰させることになる講和条約に、スターリンは反対した。世は東西冷戦の真っ只中だった。日本共産党がそれに従ったのは当然として、野党第一党の社会党もそれに従って講和条約に参加しなかった。多くの進歩的知識人たちは、岩波書店に本部を置く”全面講和論者”であった。全面講和というと人聞きがよいが、実際は「スターリンの要望に従おう」ということに他ならなかったのである。 社会党の中には、日本が占領されている状況を望む勢力が無視できないほど多かったと思われる。それは主として、コリア系の人たちである。彼らは日本が占領されている時代、一般日本人が最も惨めな時代に、闇などで特別いい思いをした。警察が当時、第三国人と言われた人たちの悪行には手を出さない時期があったからである。日本が主権を回復し、自前の統治能力を増すことは彼らには忌むべきことであったのだ。 この2種類の人たちは、東京裁判史観の熱狂的支持者になることは当然である。パル判決史観的な論者には、「右翼」のレッテルを貼ったり、暴行に及ぶこともあった。 しかしそれは、時の流れとともに消えてゆくはずのものであった。しかしそうはならず、今日でも東京裁判はポッポと熱い時事問題である。 それは何故か。 最も大きな原因は、昭和60年(1985年)11月8日の衆議院における質疑応答に遡るのである。この日、社会党の土井たか子議員が次の主旨の質問をした。 「政府は侵略戦争をどう考えているか」 これに対して、政府外務員として小和田 恆(おわだ ひさし)氏がこういう主旨の答をした。 「日本は東京裁判の訴因28条等について有罪とされていますから、そのようにご理解ください」 これはトンチキな問答である。サンフランシスコ講和条約が締結してから30年以上も経っているのに、それ以前の戦争の話を議会でやっているのだ。それはやってはならないことなのである。だからこれは、社会党と外務省の狎れ合いの問答であったと考えてよいだろう。しかしこの問答は、日本にとって致命的な結果を生むことになったのである。 外務省のエリート官僚なら、戦争の話は講和条約で終わっていることを知っているはずだ。東京裁判も今さら議会や公式の場での話になるはずがないのだ。それなのに小和田氏は、「日本は東京裁判を背負っているから、一丁前の外交はできない。ハンデキャップ外交だ」という変な主張を他でもしている人なのである。東京裁判の話が講和条約で片付いていない(第11条の「すでに判決を受けた人」に対する実行以外は)ということを知らないとすれば、外務省の官僚として失格であるし、知っていてそんなことを言うならば、間違いなく国賊である。 また、30年以上も前に講和条約でケリがついた話を知らないとすれば、土井たか子議員も失格である。知っていて日本に不利で、中韓などを喜ばせるような証言を引き出そうとしたのならば国賊である。当時、土井たか子議員の韓国名までまことしやかに囁かれていたのも分かるような気がする。 日本の政治家、言論人に在日がゾロゾロ http://ameblo.jp/inubuse/entry-11518462061.html いずれにせよ、この議会の問答の結果、日本政府は、今も東京裁判を背負ったままでいることが「政府見解」となったことの結果は恐ろしいことだった。これを承認した形になっているのは当時の中曽根首相の責任は大きい。大勲位は褫奪されるべきであろう。これ以後、日本の首相は中国に文句を言われると、靖国神社の参拝をやめるようになった。それ以前に、そのようなことが1回もなかったことを考え合わせるべきである。 そしてその後になると、中韓から歴史教科書の記述の変更について抗議を受けるや、宮澤喜一官房長官は「近隣諸国条項」なるものを出して、日本の歴史教科書の最終検閲権が北京やソウルにあるかの如き状況を作った。この件について、中国の抗議に根拠なきことが指摘され、中国が抗議を撤回した後のことだから全く恐れ入る。 近隣諸国条項 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E9%9A%A3%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E9%A0%85 さらに細川首相は、首相として最初に「日本は侵略国だ」と公言し、後に続く村山内閣や土井たか子衆院議長は東南アジアにまで出かけて行って謝罪し、却ってマハティールなどからたしなめられるようなことさえあった。そして福田内閣の外相だった麻生太郎氏は、「日本は東京裁判を受諾して国際社会に復帰した」と公の場で述べた。東京裁判を「受諾」したA級戦犯など誰もいない。「判決」を押し付けられただけだ。講和条約の第11条は、判決をすでに受けた人だけに関係があるものだ。日本が国際社会に復帰したのはサンフランシスコ講和条約を「締結」したからであって、東京裁判を「受諾」したからではない。外務省の役人からレクチャーされたのであろうが、祖父の吉田茂が墓の下で生き還るほど(!)驚いていることだろう。 このように東京裁判史観は、悪質な外務官僚や悪質な旧社会党系の人々によって悪用され続けていることを我々は忘れてはならない。その悪質な東京裁判史観に対する最も強力・有効な解毒剤として、パル判決書の見解が、1人でも多くの日本人、否、世界の人々に知られることを希望するものである。
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