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戦後70年首相談話懇談会第4回議事要旨:戦後日米・日英関係史からアジアの和解模索:リベラルな歴史認識や非親米的意見も
http://www.asyura2.com/15/senkyo184/msg/732.html
投稿者 あっしら 日時 2015 年 5 月 13 日 17:08:09: Mo7ApAlflbQ6s
 


※ 関連投稿

「戦後70年首相談話懇談会(21世紀構想懇談会)第一回議事要旨」
http://www.asyura2.com/15/senkyo182/msg/286.html

「戦後70年首相談話懇談会(21世紀構想懇談会)第二回議事要旨:きわどい内容もあり一読の価値:「敗戦責任」の国民的議論を」
http://www.asyura2.com/15/senkyo182/msg/287.html

「戦後70年首相談話懇談会(21世紀構想懇談会)第三回議事要旨」
http://www.asyura2.com/15/senkyo184/msg/690.html

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 安倍首相は欠席していた第4回目の懇談会は、国家総力戦を敵として戦った国家が戦後に和解に至る流れとして戦後の日米・日英の関係史をたどり、中国及び韓国(北朝鮮)との和解の道を模索するような設定になっている。

 この回に有識者としてこの回でプレゼンテーションを行った二人の資料は、フォローアップで投稿させていただく。

 興味深いのは、議論をリードしていると想定できる北岡氏や岡本氏がそうなのだから当然とも言えるが、戦前の日本の外交政策や先の大戦について「反省」と「お詫び(謝罪)」をすべきという意見が大勢を占めていることである。

 さらに興味を引くのは、日米関係や日英関係をよりどころにアジアの和解を考えていくという筋立てに対し、次のような考え方から異論を唱えるひともいたことである。

「○久保教授と細谷教授の発表は素晴らしいものであり、その肯定的な面については、その通りであると思う。しかし私は、お二人の発表とはニュアンスの異なることを言わなければならない。我々は、本当に和解のための努力をしてきたのかということである。アメリカとの関係については、日米が相互にお互いを必要としていたこと、米国の国民性と寛大さ、そして日米の安保上のつながりによって大変強固な同盟国になった。 」

「○日米、日英、日豪関係において、日本は西側陣営の一員としてやってきたので、それぞれの国との間で戦後それ程大きな波風は立たなかったのだと思う。」

 また、戦後の日本は十分に反省とお詫びを発信し続けてきたという政府などの見解についても、

「戦争についてのお互いへのわだかまりは、日米間に未だ存在する。二日前のNYタイムズに、未だに歴史問題が決着していないのは安倍総理のせいであるという敵対的な社説が出ていたが、特に日本政府によるマグロウヒル社への米国教科書修正要求以来、外国メディアの日本への批判が目立ってきている。
(中略)
細谷教授の発表にあったように、戦争中、日本の捕虜収容所については、捕虜の致死率が他国よりもはるかに高い25%に上るなど、日本は非常に残虐なことをした。また、中国人の民間人を日本国内の炭鉱、鉱山、建築現場で強制労働させ、このような場における致死率も20%前後に達した。致死率が40%に上る現場もあった。米国人捕虜や中国人の強制労働者から訴えられた日本の企業の中には、見舞金を払って和解すべきという意思を示した企業もあったが、そういう時に常に立ちはだかったのが、外務省と法務省であった。私自身の体験から申し上げている。サンフランシスコ講和条約で解決済みであるので余計なことはしてくれるなと、民間同士が何かしようとすることを阻止してきたのは政府であった。これは、英国人の捕虜に一人当たり涙金の76ポンド払ったから良いだろうとする主張と同じ論理ではないか。他方、安倍政権の方針と関係があるのかわからないが、最近2年間の間で急に政府も理解を示すようになり、今、民間での和解が進んできている。
我々は戦争中相当ひどいことをしてきたが、その原罪について果たして真摯に申し訳なかったと反省してきたか。ドイツは国家賠償を行っていないが、巨額の個人補償を犠牲者に対して行ってきた。これに対し、我々は、「もう法律的に決着済み」という態度を取ってきている。これを今変えろと言うつもりはないが、ここのところを常に意識しておかないと、我々はなぜ国際社会から心底許されていないのかという問題には答えることはできない。 」


 訪米した安倍首相が米国連邦議会上下両院合同会議で演説したことについても、

「○来週、安倍総理が米国上下両院合同議会で日本の総理として初めて演説される。小泉総理の時にも演説の話が持ち上がったが、果たせなかった。
これまでと今回の間の一番の違いは、米国の議会における世代ではないか。小泉総理の時は、太平洋戦争で実際に戦ったことがある議員が議会にいた。今回は、マケイン議員等はベトナムで戦った経験はあるが、太平洋戦争を直接戦場で経験した議員は米国の議会にもはや存在しない。このことは、今回安倍総理が議会演説をできることになった一つの原因になっているという指摘をいくつか聞いた。小泉総理の時には反対論があった共和党内からも、今回は強い反対論が表だって出てこなかったようだ。 」


といった、あまり触れられていない要因が語られている。

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20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための
有識者懇談会(「21世紀構想懇談会」)

第4回議事要旨

1.日時:平成27年4月22日

2.場所:総理大臣官邸4階大会議室

3.出席者

・21世紀構想懇談会委員

西室 泰三 日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長
日本国際問題研究所会長 【座長】
北岡 伸一 国際大学学長 【座長代理】
飯塚 恵子 読売新聞アメリカ総局長
岡本 行夫 岡本アソシエイツ代表
川島 真 東京大学大学院教授
小島 順彦 三菱商事株式会社取締役会長、
一般社団法人日本経済団体連合会 副会長
古城 佳子 東京大学大学院教授
白石 隆 政策研究大学院大学学長
瀬谷ルミ子 認定NPO法人日本紛争予防センター理事長
JCCP M株式会社取締役
中西 輝政 京都大学名誉教授
西原 正 平和・安全保障研究所理事長
羽田 正 東京大学教授
堀 義人 グロービス経営大学院学長、
グロービス・キャピタル・パートナーズ 代表パートナー
山内 昌之 明治大学特任教授
山田 孝男 毎日新聞政治部特別編集委員

・政府

菅 義偉 内閣官房長官
世耕 弘成 内閣官房副長官
杉田 和博 内閣官房副長官
古谷 一之 内閣官房副長官補
兼原 信克 内閣官房副長官補

・有識者

久保 文明 東京大学法学部教授
細谷 雄一 慶應義塾大学法学部教授


4.議事概要

(1)冒頭、菅官房長官から、概要以下のとおり挨拶を行った。

本日は、安倍総理より提示があった懇談会でご議論いただきたい5つの論点のうち、3つ目の論点である「米国、豪州、欧州との和解の70年」という点につき、皆様にご議論いただきたいと思っている。戦後70年、日本は、米国、豪州、欧州との間で和解を成し遂げ、国際社会における重要なパートナーとして関係を強化し、共に国際貢献を今日まで果たしてきている。先日、米国において実施された世論調査によれば、日本への信頼度は68%、韓国への信頼度は49%、中国への信頼度は30%という結果になっている。
本日は、日本が戦後70年の間、米国、豪州、欧州とどのように和解を達成し、関係を強化してきたかという点についてご議論いただきたいというふうに思う。久保先生と細谷先生におかれては、ご発表をよろしくお願いしたい。また、委員の皆様には、これらのご発表をお聞きいただいた上で、活発なご議論を期待している。

(2)次に、久保文明東京大学法学部教授から「日本は、戦後70年、米国とどのような和解の道を歩んできたか」というテーマの下、概要以下の発表があった。

配布資料は簡単な目次であるが、はからずも、レジュメの「資料2」は、官房長官が紹介された世論調査とまったく同じものだった。少し違う部分もあるが、はからずも一致したということは、重要な世論調査であるということだと思う。

私がいただいたのは、「日本は、戦後70年、米国とどのような和解の道を歩んできたか」という題目だったので、それについてごく概括的にではあるが、お話をさせていただきたい。

日本と米国の間で起きた1941年から45年までの戦争のような、それなりの規模の戦争を戦ってしまうと、あるいは日本と韓国の間であったような、長年に亘る植民地支配・被支配の関係を経験してしまうと、それぞれ問題の質は異なっても、その後の和解はそもそも容易でない、と認識すべきであると思う。「完璧な和解、あるいは、真の和解は可能か」、という問をたてると、それに対しては、「そもそもそのようなものは不可能」と答えざるを得ないかもしれない。ただそうだとしても、歴史に関する和解を達成するためには、当事者双方の、すなわち加害者・被害者双方の、あるいは、旧支配国・旧被支配国双方の忍耐と妥協が必要だろうということは、繰り返し指摘する価値があると思う。独と仏に関しても、仏側の対応が、また、独とユダヤ系の問題でもイスラエルの対応が、どちらもそれなりに寛大であり、前向きであったという点が重要であるかと思う。

同時に、このような和解は、まずは政治指導者レベルが指導力を発揮すべきであるが、それだけでなく、国民レベルでも支持される必要があるかと思う。そうでなければ、いわゆる「和解」も、限定的・一時的なものに終わってしまう。

日本でも米国でも、いまだに戦争の問題が、少なくとも一部の人々の間で尾を引いていることは間違いない。米国民の間では、いまだにパールハーバーの奇襲、米兵捕虜の処遇などで、日本への不満が、少なくとも一部の国民の間に残っている。日本側についても、東京大空襲、広島・長崎の原爆投下、日系人の処遇、占領のあり方、あるいは東京裁判などについて、一部の国民の間では、批判的な意見が残っている。

にもかかわらず、全体としてみると、1945年以降の日米関係は、かつての敵同士が極めて短期間に、堅固な同盟国になった稀有な例ではないかと思われる。
それは、なぜ、どのように、達成されたのか。それについて、少しお話したい。

まずは、占領期である。日米の和解のプロセスの重要な第一歩は、1945年から1952年まで続いた、米国による日本占領にあると思われる。
大きな悲惨な戦争の後の占領である以上、そこには不可避的に強制、あるいは、勝者による懲罰の要素があり、多くの日本人にとって不満が残る占領であったことは避けがたいかと思う。米国による沖縄の軍事統治、あるいは占領軍による検閲に対する批判なども存在する。にもかかわらず、米国による7年間の占領は、全体としてはかなり寛大であり、日本にとっても有益な部分が多かったと考えられる。少なくとも「鬼畜米英」などとだけ聞かされていた国民にとって、驚きであったことは確かであろうと思う。

戦争の勝者にとって、一般論であるが、戦後というのは、懲罰、復讐、領土割譲、略奪、賠償取立てのチャンスである。占領は略奪と収奪に近い状態を意味する場合もある。ソビエト連邦による東独並びに東欧諸国の占領が相当苛酷なであったことは周知のとおりである。米国の対日占領においては、露骨な略奪・収奪という要素はほとんどなかったと思われる。むしろ、米国は日本を経済的に様々な形で支援したとすら言えるかと思う。さらに、非軍事化を行いつつ、勿論、非軍事化には確かに懲罰の要素は存在したかと思うが、同時に、日本の民主化を達成しようとしており、どちらも長期的な意味では、米国の利益に適うものではあったが、同時に、表現の自由の保障など、広い意味での民主化という面では、多くの日本人の支持も得ていたと思われる。米国が影響力を行使して提案された日本国憲法に対する日本国民の支持も、かなり強いものであった。

ただし、占領政策は途中で大きく方向性を変えることになる。顕在化しつつあった冷戦状況の中にあって、徹底的な非軍事化と民主化を求める路線から、日本の経済復興を支援し、西側陣営の一員として米国の封じ込め政策を支持する役割を担う日本の育成への転換であった。日本の中でもこの転換に対しては批判があったが、しかし、経済復興という点でも、安全保障という点でも、さらにまた日米関係の修復という点でも、肯定的な要素の多い選択であったことも、同時に否定し難いと思う。

冷戦状況の出現という国際環境の変化も、おそらく重要であったかと思う。米国と旧敵国との関係を、この冷戦状況の出現は、大きく変えることになった。ソ連封じ込めのため、米国は可能な限り多数の同盟国の協力を仰ごうとした。そのような目で日本を見ると、日本は様々な意味で高い価値をもつ国であった。

ちなみに、米国の占領政策に対して、日本政府と日本国民が全体として協力的であったということも、重要であるかと思う。日本国民は民主主義的価値と米国的な価値を、その主要部分で受け入れた。より正確に言えば、1920年代には相当程度定着していたものの、その後軍部や一部の政治家によって奪われた民主主義的な価値を、日本国民は占領の間に取り戻し、それについての支持を再確認したと言えるかと思う。

その次に重要なのは、講和と日米安全保障条約の締結である。

「日本国憲法体制」が占領初期の象徴であるとすれば、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約は占領後期の象徴であった。講和条約によって日本は東京裁判を受け入れたが、米国との関係では賠償は求められなかった。

そして、朝鮮戦争のさ中、米国軍は日米安全保障条約の下でそのまま日本に駐留する権利を獲得した。ここで、日本と米国は終戦後7年にして同盟国となるにいたった。同盟国となることによって、より一層両国の関係は強固になったというふうに考えられる。
日本は、国際連合が当初の期待通りには機能しない中、軽武装の下での自国の安全保障に不安を抱き、また、米国は、朝鮮半島を中心に東アジアでその軍事的影響力を投影するために、日本の基地と日本の経済力を必要とした。日米は相互に相手を強く必要とし合う関係となったわけである。


その次の非常に重要な時期は、安保改定と沖縄返還である。

日米安全保障条約は、日本は米国に基地を使用させる義務を負いつつ、米国は日本防衛義務を負っておらず、その意味で片務的な条約・同盟であった。この点で重要なのは、日本からの安保条約改訂の要請に対して当初冷淡であった米国政府が、長期的な日米関係の安定を重視して、当初の予想に反し、かなり早い時期に1960年の改定に同意したことである。

ところが、よく知られているように、この改定には日本国内で強い反対が提起され、アイゼンハワー大統領の訪日は反対運動激化のためキャンセルされ、条約改定は批准されたものの、岸内閣は辞任せざるを得なかった。当時、安保条約に対しても、また米国に対しても、日本国内で反感が強かったことを雄弁に物語っている。

但し、その後、注目に値する行動もとられている。ケネディ大統領は、日本とのより深い対話の必要性を説いた日本専門家のエドウィン・ライシャワーを駐日大使に任命し、池田首相と合意の上、日米文化教育交流委員会(CULCON)を立ち上げた。これは、日米同盟を、単に狭い意味での国益の一致、あるいは安全保障上の利害の一致に基づいた結びつきから、より広い基盤をもったものに深化、拡大、安定化させようとする試みであった。

1960年代には、1950年代と同様、注目すべき動きが存在した。日本は、ご存じのとおり、早くから沖縄返還を求めていたが、当初の米国の回答・反応は冷淡であった。しかし、米国は、1967年には「両三年以内」の返還に同意するに至る。ベトナム戦争が最も激しかった、すなわち沖縄の基地の必要性が非常に高かった時期に、このような態度に米国が出たのは、米国が、中長期的に考えた場合、沖縄返還こそが良好で安定した日米関係に貢献するというふうに判断したからであった。

ただし、その後、ニクソン・ショック、貿易摩擦、冷戦終結、そして沖縄と、かなり日米関係には難しい時代がやってくることになる。
ニクソン時代には、米中首脳会談をめぐるニクソン・ショック、あるいはドル円為替相場についてのもう一つのニクソン・ショックもあり、日米関係は緊張した。また、日本を競争相手と見る心理も、この頃から米国には生まれていた。それが、貿易摩擦の激化につながっていく。

1970年代から80年代にかけて、米国から見ると、日本は一方で重要な同盟国でありながらも、他方で経済競争において幾つかの領域で米国の優位を掘り崩す存在となり始める。同時に、同盟国としてその経済力に見合った責任を引き受けようとしない国のようにも見え始めた。日本に対して防衛費を増額するように米国が要求し始めたのは、この時期のことであった。

日本は米国に基地を提供するという条約上の義務を誠実に履行してきたものの、集団的自衛権行使に否定的な憲法解釈にみられるように、長らくかなり厳格な平和主義的外交に徹しており、これが時に米国を苛立たせることになる。中曽根首相は防衛費を増額させるなど、同盟強化に努めたが、1990年代前半まで、激化する貿易摩擦が日米関係にとって深刻な争点となり続けた。

そして、冷戦の終結は、日米同盟にとって、理屈の上では最大の挑戦となりうる事態であった。一時的ではあれ、米国国内では、日本を最大の脅威とみる世論調査結果すら登場した。沖縄への基地集中の問題が深刻視されたのも、1990年台半ばのことである。

これらの多くの困難や挑戦にもかかわらず、日米関係の基礎は、しかし、基本的に強固であった。米国からみると、東アジアは、冷戦終結後も、依然として不安定で不確実性が高いままであった。その中で、日本を同盟国とし、日本の基地を使用できる権利を持ち続けることは、米国にとって極めて魅力的であり続けた。90年代後半には、「ナイ・イニシアティヴ」のもと、日米安全保障共同宣言が出され、冷戦後の世界でも、日米は同盟を継続し、さらに強化していくことで合意した。

日本の安全保障政策にも、1990年台には、重要な変化が見られた。日本にとっては、湾岸戦争での財政的貢献が評価されなかったのは衝撃であった。1991年、海上自衛隊はペルシャ湾で機雷の除去作業のため派遣され、92年にはカンボジアPKOに参加した。その後も日本の国際貢献は拡大していく。国際社会の中で平和を構築し、積極的に平和に貢献していく姿勢が、日本の中に登場し始め、定着し始めたことになる。これを米国は正面から歓迎した。

通商問題においても、日本が米国に大規模に投資し始めたということも、日米関係の強化に貢献した。様々なレベルでの知的交流、人的交流は言うまでもなく、大衆文化も含めて、日米文化の相互浸透も、両国の相互理解を促したという風に言って間違いないと思う。最後の部分は、9・11と3・11である。

小泉・ブッシュ時代の日米関係は、それまでで最善の状態であるとまで表現されるようになったが、これは自然に生まれてきたわけではなかった。2001年9月11日の米国に対する同時多発テロの後、日本はテロとの戦いをインド洋での給油などを通じて支援し、またイラクにも自衛隊を派遣して、その復興支援事業に参加した。米国はこの日本の協力を高く評価した。

2011年3月11日の東日本大地震後の米国の支援も、ほぼ半永久的に日本人の心に残ると思われる。これはレジュメの「資料1」の数字であるが、米軍によるトモダチ作戦は多くの日本人の命を救うことになった。米国政府は、このために8,000万ドルを支出している。レジュメの数字であるが、米国の民間セクター(個人・企業・団体など)からの寄付は、非常に印象的である。その総額は、7億3690万ドルになると推計されているが、これは米国の寄付の歴史で歴代5位、外国に対する寄付では歴代3位、先進国に対する寄付としては歴代トップであり、政府のトモダチ作戦などと合計すると、8億1690万ドルにもなり、現在の為替レートでは980億円以上となる。

日本と米国が異なる国益をもつ別の国である以上、意見の相違や対立は不可避である。それは、歴史問題についても同じである。但し、それを前提として、日本にも、米国にも、極端に単純化すれば、2つの選択肢が存在することになる。過去について相手を批判し続け、憎悪し続ける道と、現在における、そして更には将来における協力を重視する道である。現実は、簡単に二分法で分けられるものではないが、戦後の日本と米国について言えば、冷戦の勃発という国際環境にも促されながら、まず両国の指導者たちは、後者、つまり、現在、そして将来における協力の道を選択し、国民も、かなりの程度、和解と協力の道を選んだと言って間違いないかと思われる。

そして、今日の日米関係は、相互の信頼、敬意、共通の価値観、相互理解、文化の相互浸透などによって結び付けられた関係になっている。

米国と英国の同盟こそが「自然の同盟」(natural alliance)であり、「模範的同盟」(model alliance)であり、さらには「最善の同盟」(best alliance)であると言う人々がいる。私はそれに反駁するつもりはない。

確かに、日米の同盟関係は米英同盟と大きな違いをもっている。人種、民族、宗教、文化などにおいて、日米は大きく異なっている。歴史や伝統について言えば、その違いはさらに大きくなる。そして何より、両国は、1941年から4年に亘って凄惨な戦争を経験した。しかしながら、このような相違と過去をもつにもかかわらず、今日のような堅固にして良好な同盟関係をもつに至っているという点で、むしろ日米同盟の方が、世界史的にはより重要な意義をもち、また歴史的にはより注目に値する出来事であるのではないか、というふうに言えるかと思う。

日米は、現在も、当然ながら両国関係に関していろいろな問題を抱え、対応すべき課題も多いと言える。しかし、同時に、両国関係が、世界史上、おそらくかなり成功した歴史的和解の例の一つであることに間違いはないと思われる。

これが正にレジュメの「資料2」で、官房長官も紹介された数字であるが、ピュー・リサーチ・センターによる日米世論調査において、68%の米国人が日本を信用できると言い、75%の日本人が米国について同じ印象を抱いていることが明らかになった。第二次世界大戦について、日本は十分謝罪していないと考える米国人が29%存在するものの、37%の米国人が日本は十分謝罪したと回答し、24%が謝罪は不必要と答えている。

1945年以降の歴史を振り返ると、米国側には指導者・国民双方において、基本的にはかなり寛大な姿勢が目立ち、他方、日本側は1945年以前と異なった国に生まれ変わる能力を示し、その異なった形で成功する能力も示したというふうに言えるかと思う。それはかなりの程度平和主義に徹した外交安全保障政策であり、自由、民主主義といった価値観に依拠しながら繁栄した法治国家を発展させる能力であった。むしろ、米国からみると、過度の平和主義が米国の不満を招くこともあったが、それは正に現在、大きく変容中である。

おそらく、日米双方共に、この間の実績について基本的には誇りをもって語ることが許されるであろうと考えられる。同時に、日本は、日本が起こした戦争とその内外の被害者に対しては、日本はまだ十分に謝罪していないと考えている米国国民も29%いるので、そういう人に対して、今後とも、配慮と謙虚な心を忘れてはならないのではないかというふうに思う。冒頭で述べたとおり、和解に関する限り、「完璧な和解」というのはあり得ないからである。


(3)ついで、細谷雄一慶應義塾大学法学部教授から「20世紀の回顧と和解の軌跡−イギリスの視点を中心として−」というテーマの下、概要以下の発表があった。

私からは、安倍総理が示した論点の3番目のうち、「日本は、戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、どのような和解の道を歩んできたか。」という問に対して私の専門に基づいて、戦後の和解の道について述べる。この問題を考える上で重要なことが、1番目の論点である「20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験から汲むべき教訓は何か。」である。この論点については既に懇談会でも議論されているが、実は、この論点が、日本の豪州、欧州、特にイギリスとの和解を考える際に非常に重要な意味を持っている。まずこのことに触れ、後半で、欧州、豪州の国々ということであるが、とりわけイギリスを中心に発言したい。

これらの問題を考える前に、自分の問題意識として4点をレジュメにて挙げている。1点目に、歴史教育の問題は繰り返し述べられてきたことであり、自分から改めて述べるべきことでもなく、自分の専門でもないが、ここで書いているのは、日本の世界史の中には日本が出て来ず、日本の日本史には世界が出てこないということである。「世界の中の日本」という視点は、実は日本の歴史教育からは学ぶことはできないのではないかという問題意識である。従って、グローバル化が進み、日本と他国との関係が非常に緊密になっている中で、日本が、イギリス、米国、中国、韓国といった国々とどのような二国間関係の歴史を築いてきたのか、あるいは国際社会の中で、国際連盟、国際連合の中でどのような行動をしてきたのかという、「世界の中の日本」という、いわば、世界史と日本史を融合した視座の教育というのは、我々は受ける機会が無い。日本が国際社会、或いは、他国とどのような関係を築いたらよいのかといったことを展望する視座が持ちにくいのではないか。

2点目に、更に深刻な問題として、外交官試験が国家公務員試験に統合されたことにより試験科目から外交史が無くなり、これに合わせて多くの国立大学から専任の国際政治史あるいは外交史の教員がいなくなっている。現在、東大法学部と京大法学部は共に国際政治史あるいは外交史の専任教員がいない状況。したがって、特にヨーロッパの外交史について体系的に学ぶことが以前よりも難しくなっていると認識。

3点目に、本日後ほど発言する内容にも関わってくるが、実は歴史認識問題を考える時にしばしば欠ける傾向がある視点として、国際秩序の視座、つまり、日本が、中国に対して何をしたのか、韓国に対して何をしたのか、アメリカに対して何をしたのか、というような二国間関係の中での歴史認識と合せて、日本が国際社会に対して、或いは、国際秩序に対して何をしたのかとう視座がしばしば欠ける傾向が見られる。言い換えれば、20世紀の前半において、日本は国際秩序の挑戦者であり、国際秩序を大きく傷つけた破壊者であったが、それに対して、戦後は、アメリカやイギリスが中心となり作られたリベラルな国際秩序において、日本は破壊者ではなく、むしろそれを支え、それに貢献する国へと変わった。これは20世紀の前半と後半における画期的な転換であり、日本が国際社会から信頼されるか否かは、国際ルールを守る国であるか破る国であるかということにより大きく異なる。イギリスとの和解の問題、イギリスの日本に対する信頼を考える際にも、日本が国際秩序に対して何をしているのか、何をしようとしているのかが大きく、密接に関係してくる。このように考えると、歴史認識問題も日本が国際秩序とどのような関係になっているか、何をしようとしているかとも非常に深く関わっている。逆に言えば、日本が、オーストラリア、イギリス、オランダのような国と和解できた大きな理由も、日本が国際社会において信頼できる国であるという認識が広がったことと大きく関係していると考える。

最後の4点目であるが、同じく歴史和解の問題を考える際にしばしば我々が視野から外してしまう点として、日英和解がある。後ほど詳しく述べるが、日英和解というのは、日本の和解の中で日米和解と並び最も大きな成功例である。1990年代後半までイギリスとの和解は、日本外務省にとり極めて頭の痛い難しい問題であった。イギリス人の元戦争捕虜の団体は、この段階で1万2千人の参加者があり、捕虜の戦死者は5万人であった。元戦争捕虜の団体が日本政府を相手取り個人補償請求の訴訟を起こし、明確な政府の謝罪を要求した。これは既に条約によって解決済みであるという、日韓間の慰安婦問題と非常に似ている構図である。しかしながら、日韓の問題は依然として非常に難しい問題であるのに対し、日英の和解は過去20年の間に驚くほど進歩してきた。驚くほど進歩してきたということは、言い換えれば、日本政府、外務省、民間団体が大変な努力をし、同時に、イギリス政府もまた日本を重要なパートナーと考え、日本を信頼し、真剣に和解に取り組んできたということである。日英が共に努力を重ねた成果として、そして、どのようにこの難しい問題に向き合うかということについて、日英両国政府が水面下で非常に緊密に連絡、調整をすることによって和解が実現できたと考える。

次に、レジュメの1.に記した「20世紀の歴史から何を学ぶことができるか」という点につき、先ほど述べた20世紀前半において日本が国際秩序の破壊者となり、それによって日本が国際社会における信頼を失い、20世紀の後半には、その逆であり、国際秩序の中で信頼できる国際連合の加盟国、パートナーとして信頼を回復したということを簡単に数分で述べ、後半で、2.に記した日英の和解の軌跡について述べることとしたい。

1. については本有識者会議でも何度か議論がされていると思うので、いわば資料集として色々な資料を挟みつつ、飛ばしながら進めていきたい。

まず、全体として見たときに、20世紀は大量殺戮の世紀であった。それは、国家間の戦争や内戦のみではなく、国家の中でのジェノサイドや政治的殺害等によって行われた。20世紀前半はこのような悲劇というものが、非常に大きな規模で、世界中で荒れ狂った。逆に言えば、20世紀はこのような悲劇をどのように止めるか、どのようにこのような悲劇から教訓を学び乗り越えていくかという努力の歴史でもあった。現在はハーバード大学で教えている、ニーアル・ファーガソンというスコットランド人の教授は、「1900年からの100年間は、近現代史のなかで間違いなく最も血なまぐさい世紀だった。それ以前のどの時代と比べても、また比較するまでもなく、残虐きわまるものだった。」と述べている。その残虐性、殺戮を強調するものが第一次世界大戦であった。レジュメの表1を参照されたい。戦死者の数がイギリスでは75万人で7%であった。イギリスでは自治領、植民地でも同様のパーセンテージであった。これがドイツ、フランスになると、それぞれ15%、13%と高い死亡率となってくる。第一次世界大戦でのイギリスの戦死率が7%であるので、この15%、13%というのが如何に大きい数字であるかが理解できると思う。また、293万人、132万人という戦死者数がいかに大きいかが理解できると思う。

この違いが、つまりどれほど多くの人が第一次世界大戦で亡くなったか、殺戮されたかということが、その国の歴史認識に大きく反映されてきている。つまり、ドイツ、フランスについては二度と戦争を行いたくないとの考えであり、イギリスも同様であった。問題は次のページに記されている日本であり、日本の第一次世界大戦における戦死者は1000人程度であり、これは参戦したうちの0.1%ということであり、ほとんど軍人が死なない、民間人も死なない戦争であった。ここで、ヨーロッパの諸国と日本の間で大きな認識のギャップが発生した。つまり、ヨーロッパの国々は二度と戦争を起こしたくないために、なんとしてでも平和な秩序を作る。それに対して、日本はこの戦争を通じて、軍人、民間人の戦死者が少ないだけでなく、むしろ権益を拡大したわけである。つまり戦争を通じて巨大な悲劇を経験した国と、むしろ戦争によって権益を拡大した国であり、その後の20年代、30年代における平和と戦争に対する考え方に日本とヨーロッパの国々の間には大きな違いがあった。なんとしてでも戦争が無い社会を作りたい、これはウィルソン米大統領のみでなく、ロイド=ジョージ英首相も、有名な1918年1月5日のカクストン・ホール演説の中で「軍備の負担を制限して戦争の可能性を減少させるために、戦後に何らかの国際機構設立を求める」と述べている。

このようなロイド=ジョージ英首相、ウッドロー・ウィルソン米大統領の努力が実り、これが国際連盟規約として成立する。ところが、この国際連盟規約では、締約国は戦争に訴えないという義務を受諾したが、戦争に訴えない義務となると、何が戦争かというこの時点では極めて難しい。例えば、満州事変、支那事変について、日本がこれが戦争では無いと言うと、国際連盟規約は戦争を禁止しているのであり、戦争では無い以上それは禁止されていないということになる。また、国際連盟規約16条においても、あくまでも制裁は経済制裁に止め、軍事制裁はしないということであり、経済制裁ということになると侵略に対して制裁効果をほとんど持たないということになる。

このようなこともあり、不戦をより強い形で条約にしようということで1928年8月に、パリ条約(ケロッグ=ブリアン条約)となった。その第1条は「締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。」としている。このようにして、戦争を禁止する条約を作ったわけであるが、日本は本条約を批准した際に追加で文章を出している。この条約について重要なことは、元々はフランスとアメリカの合意から始まったということである。元々はフランスのブリアン外相が米国のケロッグ国務長官に対して軍事同盟を作りたいということを提案した。ところが、ベルサイユ条約を拒否した米国では、上院が認めないためできないということで、これを普遍的な形に広げた。つまり、不戦・平和の願いと、米仏での同盟形成という安保の動きが不可分の一塊であった。

当時のヨーロッパにおいて、必ずしも平和主義や世論のみが平和を作るのではなく、むしろ、世論の力や国際社会における条約等の合意のみではなく、実際の軍事力も必要であることが重要な点であった。実は、この点を教えたのが日本である。イギリスの歴史家であるE・H・カーは、「日本の満州征服は第一次世界大戦後のもっとも重大な歴史的・画期的事件の一つであった。太平洋では、それはワシントン会議によって暫く休止していた争覇戦の再開を意味した。世界全般について見ると、第一次世界大戦の終結以後少なくとも露骨な形では現れなかった『権力政治』への復帰を予告するものであった。平和体制の成立以来始めて、戦争が広大な範囲にわたって行われ、広大な領土が征服者によって併合された。」と述べているが非常に象徴的な言葉である。つまり、満州事変で重要なことは、日本が中国を侵略し、中国の人を殺したということだけではなく、それ以上に国際秩序を破壊したことである。

1920年代から30年代初頭に徐々に出来はじめていた不戦、戦争の違法化、平和の定着、戦争の避難といったものを日本が壊してしまった。イギリスやフランスのようなヨーロッパの大国が日本に対して強い憤りを感じたのは、日本が平和の秩序を破壊したからであり、このことが、後に述べる捕虜虐待の問題と結びついて、日本は国際社会のルールを守らない国であり、国際秩序を破壊する国であるとのイメージが定着してしまったのである。

例えば、満鉄沿線で日本が軍事行動を行ったことは、もしもそれが実際に自作自演ではなく中国人が爆破したとしたら、自衛行為で説明できるかもしれないが、1931年10月8日にそこから遠く離れた錦州を爆撃し、非戦闘員である民間人を殺戮したことは、明らかに自衛の措置を超えている。この点は、中国を始めとする国際連盟の加盟国が非難しただけでなく、実は日本の外交官も気が付いていた。ジュネーブにおける国際連盟の日本代表団は「如何に強弁するも公平なる第三者を首肯せしむることは出来難き」と、落胆していた。

重要なことは、錦州爆撃が、もはや自衛を超えていると気が付いている人が日本政府の中でもいたということである。このようなことから、イーデン英外相は「私は、非難や訴え、あるいは国際世論の力だけで平和を維持するという希望はすべて捨てた。これらの力は、国際問題に関して大きな影響力を持ってはいるが、かつて強力な国家が決意した戦争を防止することに成功したためしはなかった。」と述べている。

つまり、国際世論や平和を願う気持ちというのはどれだけ重要であったとしてもそれだけでは平和を維持出来ず、あくまでも、実効的な軍事力と平和への願いをつなぎ合わせて初めて実効的な平和ができるということである。これは、正に、戦後の国連体制における国連憲章の第7章における軍事制裁を伴う秩序形成であり、更には国連憲章の51条において自衛の措置及び集団的自衛権が認められていることであり、これらが戦後の国際秩序の根幹となった。

時間も限られているので後半に移り、日英和解がどのように可能となったのかについて述べる。先ほど述べたとおり、特にイギリスにおいて、日本は国際秩序の破壊者であるとのイメージが定着してしまった。そして、1927年のジュネーブ捕虜条約で定められた国際的なルールを破り、捕虜を虐待した。このことが、国際社会における日本の汚名を広げてしまった。もちろん、日本だけでなく、イギリス、フランス、アメリカ等でも戦争中の戦時国際法の違反は見られる。しかし、戦前の日本の軍事行動からは、明確な国際法軽視が見られた。国際法を軽視したことにより、捕虜虐待や日本の軍事行動に対する非難を招いてしまった。国際法を専門とする喜多義人は「国際法教育は、日中戦争の勃発による教育期間の短縮に伴い、1937年以降は中止されたと考えられる。」と述べており、戦時中に可能な限り教育課程を短縮するため、国際法は不要であるとして陸軍大学では教えられなくなってしまい、軍人は国際法を知らずに捕虜の虐待を行い、それが日本に対する非難へとつながった。

日英和解がなぜ可能となったのかについて、初めに述べるべきことは、サンフランシスコ平和条約の16条であり、これによって日本にとって捕虜の問題は解決済みとなった。どのように解決したかと言えば、イギリスの約5万人の元捕虜に対し、オーストラリア等々も同様に行ったが、一人当たりの平均76.5ポンドを分配した。これにより、日本政府は既に法的に解決済みであるとの立場にこだわるようになった。

しかし、ヨーロッパ戦線におけるドイツやイタリアにおけるイギリス人捕虜の死亡率は5%である。そして、ヨーロッパ戦線における戦場での死亡率も5%であった。他方、日本軍の捕虜となった者の死亡率は25%ということで歴史的に見ても例外的に高い数字である。いかに例外的に残虐で残酷で人道の観点からも捕虜に対する扱いが酷かったかが伺える。日露戦争の際にはロシア人捕虜8000人のうち死亡率が0.5%であり、日露戦争と太平洋戦争では如何に捕虜の扱いが変わってしまったか。これは国際法に対する理解も大きな影響を持っている。

これに対し、政府はサンフランシスコ条約で解決済みとの立場なので出来ることはない状況であり、このことはイギリスも理解していた。従って、日本とイギリスが出来ることは民間の支援をサポートすることであった。ホームズ恵子さんは、1980年代から元戦争捕虜の日本への招待、東南アジアにある墓地への追悼を行い、徐々に心を癒していくという活動を個人で行っていた。この活動は徐々に拡大し、寄付が寄せられ、最終的には日本政府がこれを支援するようになる。日本政府が支援を行うようになる上で重要であったのが、藤井宏昭駐英大使であった。それまで大使館はホームズ恵子に対し無関心、不親切であったが、藤井大使はホームズ恵子と面会し、何かをしたいということで、私費で活動への支援を行った。1994年8月31日に行われた村山談話にて平和友好交流計画が打ち出され、この中で、10年間で900億円の事業を開始する。この900億円の事業の中には、元戦争捕虜の方々との交流への支援、援助が含まれた。平和友好交流計画を用いて、タイミング良く日英の交流への支援を行ったことで、その後の10年間でイギリス人の日本に対するイメージが飛躍的に良くなった。具体的にはレジュメに記した、日英草の根平和交流計画、日英若人交流計画、日英交流史編纂事業等拠出金である。ほぼ同様の事業がオランダとオーストラリアでも見られた。オーストラリアはイギリス軍と連合して戦ったため、捕虜の問題もあり、その後の対応にも重なる部分が大きかった。オランダの場合にはインドネシアがあり、やや異なる様々な問題が出ていた。その一つとして慰安婦問題がある。1993年にはオランダ政府は慰安婦の調査を行い、その結果として、65人の女性が売春を強要されたとの報告を行った。これは内部の文章を用いた資料ということであった。この点は非常に慎重にオランダとの関係を考慮しつつ対応する必要がある。

最後に、簡単に結論を申し上げる。20世紀前半には植民地主義の時代から脱植民地主義の時代へ、戦争違法化へと潮流が大きく変わったが、このような潮流の変化を日本は見誤り国際社会で孤立してしまった。国際社会で孤立した結果、国際秩序を壊す国となってしまった。それを回復する努力を戦後70年おこなってきたことが、イギリスにおける日本の信頼回復もつながり、そして、二国間での和解の努力が更にそれを強化し、今ではイギリス人の65%が日本を信頼できる、ポジティブな影響を与える国としており、これはヨーロッパの中では最も高い数字となり日英の和解が大きく進んだと言える。


(4)続いて、概要以下の意見が示された。

○米国との和解が非常にうまく行っているという点につき完全に同意する。3月21日、硫黄島において日米合同慰霊追悼顕彰式が開かれ、米側からは海軍長官と海兵隊司令官が、日本側からは中谷防衛大臣と塩崎厚生労働大臣が出席された。自分はこの式典が日米間の和解の象徴であると考える。
欧州との和解につき、細谷教授は、ホームズ恵子さんの例を取り上げられたが、日英間にはこの他にも、「和解の森」という公園を作った英国人の存在や、大戦時陸軍通訳を務めており、戦後横浜において英連邦戦死者のために追悼礼拝を開催した永瀬隆氏の存在などがあった。いずれにせよ、日本と欧州は被害者、加害者とも努力し、和解に努めたということだと思う。豪州も同様であると思う。問題は、細谷教授からも言及があったオランダとの関係であると思う。オランダとの間でも和解は随分と進んだと思うが、未だ日本に強い批判的な意識を持っているオランダ人も多いと思う。オランダ人の元慰安婦の一人が、米国議会の聴聞会に出席し、いかに自分がひどい目にあったということを証言することもあった。この問題は、まだ解決は遠いと思う。日本とオランダの間に関係改善のために努力した方が多くいらっしゃったが、なお多くの努力が必要だと思う。
久保教授より、日米間では、被害者と加害者両方が寛大な精神を持って解決する能力と意思がある時に和解が進んだという説明があったが、これが一つのレッスンであると思う。日中、日韓間では残念ながらそういった精神が十分に見られないことが現在の問題である。

○久保教授、細谷教授からの発表にほとんど異議はない。付け加えるという意味で三点申し上げる。
一点目は、細谷教授から説明があったように、日本の国際秩序に対する立ち位置が、戦争前の破壊者から戦後の支持者に変わったことはその通りだと思う。今、21世紀の日本に求められていることは、新興国が台頭し、アジアの世紀となる中で、国際秩序の進化にどう貢献していくのかということだと思う。これが今後の日本にとって非常に重要なポイントになると考える。
二点目は、久保教授、細谷教授ともに言及されたが、和解というものは、被害者と加害者、双方の努力があって初めて実現できるものだということ。これは正にその通りであると思う。
三点目に、まだオランダには日本に批判的な人たちがいるということについては、オランダの植民地下のインドネシアには、Eurasianと呼ばれる欧亜混血の人が多数おり、オランダ人と同等の扱いを受けていた彼らの多くが、戦後、インドネシアが独立した際にオランダに戻るという選択をした。この人たちの間に慰安婦を始め、自分たちの生活が根こそぎにされたという不満が残っている。そして、この点に関する日本政府による手当があまり十分ではなかったのではないかということを指摘しておきたい。

○三点コメントと質問がある。第一に、日米間の和解が進んでいるのはその通りであると思うが、米国が日本とアジア諸国、とりわけ、韓国、台湾、フィリピンといった米国とある種の同盟関係にある国と日本との和解を米国がどのように見ていたかにつき関心がある。久保教授が述べられたように、1945年から46年にかけての占領政策は、1947年以降転換した。この二つの異なる占領政策は日本国内でも種々影響を与えたが、アジアへの影響も大きかった。すなわち、1945年、46年のやや徹底した平和と民主主義に基づく占領政策か、1947年以降の西側の一員として日本を受け入れた占領政策のどちらが米国の真の対日政策かという問題は、日本のみでなく、アジアにも大きな影響を与え、二重の日本像をつくっていってしまった感がある。この点を米国がどのように見ていたのかということに関心がある。

第一回会合で、総理から、20世紀、戦後70年、そして21世紀という三つの時間軸の提示があったが、細谷教授の発表はこのうちの20世紀と戦後という二つの時間軸をカバーしていたと思う。いつから日本が国際的な規範から外れていったのかという点につき、細谷教授は20世紀前半と後半で分けて説明された。例えば捕虜の扱いについては、日露戦争と第一次世界大戦時の捕虜の扱いは大変評価されていた。しかし、1920年代の末か1930年代の初めから連盟規約、不戦条約に対し日本が挑戦していると認識され始めたのだと思う。既存の秩序に対して明確なショックを日本が与え始めたのは1930年代になってからかもしれない。そうした意味で、戦前と戦後というよりも、戦前の1931年の満州事変など、1930年代から日本が世界秩序への挑戦者となったが、戦後には秩序を受け入れ、支える存在になったということだろう。

同時に、細谷教授のレジュメのまとめ部分に、「20世紀前半には植民地主義の時代から脱植民地化へ」と書かれているが、この部分をどう考えるのかということは難しい点。植民地をもつことそのものに反対するのか、植民地の統治の仕方に反対するのかということは欧州でも色々と議論があったところである。日本の植民地統治そのものに批判があったのか、日本の植民地統治の仕方に問題があったのかということは難しい点である。

細谷教授が取り上げられた平和友好交流計画は非常に重要な事業であったと考えている。歴史研究者の協力を始め、アジアとの対話促進に本計画は大きく貢献したと思う。2005年に本計画が止まってしまった時はこれを惜しむ多くの声がアジア各国から寄せられた。久保教授の説明にあったように、米国において日本は十分謝罪していないという人が29%に達する中、今後、平和友好交流計画の21世紀版ができる等、このような交流計画が推進されることは重要なことだと思う。

○久保教授と細谷教授の発表は素晴らしいものであり、その肯定的な面については、その通りであると思う。しかし私は、お二人の発表とはニュアンスの異なることを言わなければならない。我々は、本当に和解のための努力をしてきたのかということである。アメリカとの関係については、日米が相互にお互いを必要としていたこと、米国の国民性と寛大さ、そして日米の安保上のつながりによって大変強固な同盟国になった。

しかし戦争についてのお互いへのわだかまりは、日米間に未だ存在する。二日前のNYタイムズに、未だに歴史問題が決着していないのは安倍総理のせいであるという敵対的な社説が出ていたが、特に日本政府によるマグロウヒル社への米国教科書修正要求以来、外国メディアの日本への批判が目立ってきている。

細谷教授の発表にあったように、戦争中、日本の捕虜収容所については、捕虜の致死率が他国よりもはるかに高い25%に上るなど、日本は非常に残虐なことをした。また、中国人の民間人を日本国内の炭鉱、鉱山、建築現場で強制労働させ、このような場における致死率も20%前後に達した。致死率が40%に上る現場もあった。米国人捕虜や中国人の強制労働者から訴えられた日本の企業の中には、見舞金を払って和解すべきという意思を示した企業もあったが、そういう時に常に立ちはだかったのが、外務省と法務省であった。私自身の体験から申し上げている。サンフランシスコ講和条約で解決済みであるので余計なことはしてくれるなと、民間同士が何かしようとすることを阻止してきたのは政府であった。これは、英国人の捕虜に一人当たり涙金の76ポンド払ったから良いだろうとする主張と同じ論理ではないか。他方、安倍政権の方針と関係があるのかわからないが、最近2年間の間で急に政府も理解を示すようになり、今、民間での和解が進んできている。

我々は戦争中相当ひどいことをしてきたが、その原罪について果たして真摯に申し訳なかったと反省してきたか。ドイツは国家賠償を行っていないが、巨額の個人補償を犠牲者に対して行ってきた。これに対し、我々は、「もう法律的に決着済み」という態度を取ってきている。これを今変えろと言うつもりはないが、ここのところを常に意識しておかないと、我々はなぜ国際社会から心底許されていないのかという問題には答えることはできない。


○日米、日英、日豪関係において、日本は西側陣営の一員としてやってきたので、それぞれの国との間で戦後それ程大きな波風は立たなかったのだと思う。日本が経済成長を遂げた後は、日本もある程度責任あるパートナーとして認められた。他方、久保教授が指摘されたとおり、日米間と言えども歴史の記憶が問題にならないとは言えない。日本と米国の間に経済摩擦があった時期には、スミソニアンの原爆の展示を巡って日米間に軋轢が生じる等、関係が悪くなると戦争の時の記憶が出てくるということが実態であると思う。こういう問題が起きないように弛まなく努力することが必要。関係が悪くなった時に吹き出すものをどう抑制するか、長期的には良い関係でも、関係が悪くなった時に出てくるものをどう防ぐかという視点が重要ではないか。

○久保教授と細谷教授の発表を聞いて、謝罪では和解に繋がらないとの印象を持った。両教授は、和解に必要なポイントとして3点ご指摘されていた。(1)加害者が国際的に信頼される存在であること、(2)双方の政府が努力すること、そして(3)特にフランスやイスラエルのように被害国が寛容な姿勢であることが、和解にとって重要であると述べられていた。必ずしも謝罪は必要ないとの印象を持った。日本が、米国、英国との間で成し遂げた和解を、中国、韓国との間でも達成できたら良いと思った。そのためには双方の政府の努力が必要となる。また、前述の視点に加えて、民間の役割も重要だと思う。健全な議論、対話のコミュニティー、そして意見を発信する場ができることにより、政府間では実現が難しいことでも民間の交流を通してできることがあるのではないか。政府と民間双方が、過去を振り返るのではなくて未来志向で話し合いをすることにより、和解が成り立つのではないかと考えた。

○来週、安倍総理が米国上下両院合同議会で日本の総理として初めて演説される。小泉総理の時にも演説の話が持ち上がったが、果たせなかった。

これまでと今回の間の一番の違いは、米国の議会における世代ではないか。小泉総理の時は、太平洋戦争で実際に戦ったことがある議員が議会にいた。今回は、マケイン議員等はベトナムで戦った経験はあるが、太平洋戦争を直接戦場で経験した議員は米国の議会にもはや存在しない。このことは、今回安倍総理が議会演説をできることになった一つの原因になっているという指摘をいくつか聞いた。小泉総理の時には反対論があった共和党内からも、今回は強い反対論が表だって出てこなかったようだ。

戦後50年、60年、そして今70年目に立っているわけであるが、「世代」という要素は非常に重要である。戦後70年を迎え、生々しい戦争体験を有する層が徐々にいなくなり、戦争が「記憶」ではなく「歴史」となっていく転換期に現在あるのだと思う。この世代がちょうど替わっていく時を大事にしていくべきだ。

米国との関係においては、真珠湾攻撃やPOWという直接の日米2国間の戦時中の事案に加え、日本が中国や韓国に対してどのような歴史認識を示すか、この問題も米国は注視しており、非常に重要になってきている。世代が替わり、生々しい戦争体験が薄れる中、今後は歴史認識のように概念的な要素が、日米間における戦争問題への対処に影響を与えそうなので、改めて慎重な対応が必要だと思う。

※引用者注:POWは捕虜の意

○二点ある。一つ目は、民間における交流が重要であるということ。主権国家というのは一種の法人であり、一旦けんかをして仲が悪くなると、回復するのは難しい。この場合、法人の「頭」である政府同士が仲直りをする努力をする必要があるが、法人の「手」や「足」でありながら、実際の人間とは異なって、自らの意志を持ちうる学術界や産業界といった民間も和解のために努力することができる。本日の両教授の発表を聞き、民間による努力がこれまでなされてきたということがわかった。「頭」である政府による和解に向けた様々な努力がなされる一方で、これと連携する形で「手足」である双方の民間レベルにおける歩みよりや理解の促進が行われることがとても大事であると思う。

二点目は、細谷教授が述べられていた歴史教育の問題につき、これは日本だけの問題ではないと思う。自国を中心として歴史を組み立てるということは、日本だけの特殊な現象ではなく、他の国においてもとても多く見られることである。例えば、中国の歴史教科書においては、世界史と中国史は完全に分けられている。中国においては、世界史の中に中国は出てこないという問題がある。欧州や米国においても、世界の中のフランス、世界の中の米国といった視点で歴史が教えられているとは思えない。これは歴史研究、歴史教育そのものの問題であると思う。この点は世界の歴史研究者が克服しなければいけない問題であると考えている。

○細谷先生の用意された大変丁寧なレジュメの5頁に関わることで、少し違った観点から述べさせていただく。ここに「人道と人権の模索」というのがあり、我が国の中国、韓国との問題についても、基本的に人道や人権というものがイメージされるわけであるが、このナチス、そしてソ連に加えて、今現在進行形でかなり問題なのが、トルコによるいわゆるアルメニア人虐殺である。これは今正に進行中で、今週の4月24日にアルメニアの首都エレヴァンで虐殺を記憶する100周年の式典がある。これに先駆けて、バチカン法王フランシスコが、「20世紀最初のジェノサイド」と述べ、「集団虐殺」という言葉を使った。ナチのユダヤ人虐殺・ホロコースト、スターリンによる大量粛清と並べて、「ジェノサイド」と表現した。これはローマ教皇のみならず、かなり欧米において受け入れられている物の見方であり、オバマ大統領が2回ほどこの問題について ”Meds Yeghern” という言い方をした。これは、ほとんど「ジェノサイド」という意味に相当するアルメニア語である。オバマ大統領自身が、この問題についてトルコに対して非常に厳しい態度で捉えている。オバマ氏の脳裏やメンタリティの中に、ホロコーストや “Meds Yeghern” というものと、日本の大陸侵略や太平洋戦争の問題が、かなり重ねられている可能性がある。こういう点についても、私たちは十分留意していかなければならない。

いずれにしても、今週24日にエレヴァンで行われるわけであるが、最近のトルコは、こういう問題が起きたということについては認め、かつ、それに対しても反省や謝罪をする用意があるという立場である。2つ特徴がある。トルコは、まず第一に対抗行事をする。24日の翌日の25日に、ガリポリの戦争の100周年を記念した行事をする。ガリポリというのは、英連邦本国とアンザックの兵力が半島に上陸してトルコ軍と対決した戦場。これは、第一次世界大戦における大変騎士道的な最後の戦いだと自負していて、今でもアンザックの兵士やその家族との交流を深めている。このような正しい戦いをしたトルコが、残虐行為をするはずはないではないか、というこういう積極的な表現があるわけである。もう一つは、謝罪や反省はするけれども、そこに関して、賠償や補償をする用意はまったくないということを言っているわけである。これが、しかし、本当にそのような理屈で通じるかどうかということは、我が国の韓国との正常化の問題を考えたときに、いつも私は不思議に思うことだ。宮澤喜一首相が、そもそも韓国を訪れたときに、ある計算によると3日間で13回お詫びと反省の意を表したとされているが、これは最近の研究や評価では、日韓基本条約によって韓国の請求権の問題は最終的に解決されたと規定している以上、反省をいくら表明しても補償等の財政負担は生じないという解釈が相当程度政府部内にあったからだ。従って、こういう反省やお詫びをしたのであるが、韓国の世論や政府は「誠意なき謝罪」をこぞって非難して、適切な補償を執拗に求めている。トルコはどうもこのあたりを、自分たちは被害者であるという側のメンタリティについてかなり感覚が弱い部分、あるいは、鈍感なところがある。トルコ側が和解するという意識や決意は持っているが、私はそれはなかなか難しいと思う。日韓、日中の辿った結果、あるいは、歴史を永久に外交の道具として使わせることになるのではないかと推測している。いずれにしても、今週の24日、25日は、我々のこの懇談会にとってもある意味では参考になることが進行するだろうということを、少し申し上げたかったわけである。


○私からはビジネスの世界で、現在、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアとの付き合いがどうなっているかという観点から述べる。実は、昨晩、アメリカ人と会食をしたが、その際に、近々米国上下両院で安倍総理が演説を行うが、これは戦後初めての機会であり、このタイミングでどのようなスピーチが良いと思うか、聞いてみた。それに対し、先方から、あまり真剣に悩む必要はない、互いに民主主義の共通基盤ができており一時代前とは異なる、他方、今回のスピーチはアメリカ人のみではなく、中国人、韓国人を含め世界中が聞いているので、世界に対するスピーチとして考えるべきだと思う。逆に、我々も必要なことはサポートするとの発言があった。私はアメリカに7年間滞在し、アメリカ人とコミュニケーションすることができるが、アメリカ人はいざとなった時には色々なアドバイスもしてくれるというところがあり、これはすごく大事である。

オーストラリアの話があまり出ていないが、去年の7月には、安倍総理がオーストラリアを訪問し、トニー・アボット首相と様々な話を行い、結果的にはEPAが締結できた。戦後しばらくオーストラリアは日本に対して非常に厳しい目を向けていたが、今は誰と話しても親日的である。当社が海外で最も多く投資をしている国はオーストラリアである。これは、資源にかなりの額を投資しているためである。オーストラリアとは、コミュニケーションが多く、安倍総理が訪問してEPAを締結したこともあり、現在は非常に雰囲気の良い関係となっている。

ヨーロッパに関し、ヨーロッパには親日的な国が多くあり、西欧だけでなく、特に東欧に多い。現在、ヨーロッパと日本の間において経済界でEUジャパンフェストを支援している。EUジャパンフェストは1992年から行われているが、欧州が文化首都を定め、そこに日本の芸術・文化を紹介する活動を行っている。自分が委員長を務めた一昨年はマルセイユとスロバキアのコシツェで行われ、ここに日本のミッションが訪れた。コシツェはウクライナに近い都市であるが、訪れてみると町中に盆栽があり、人々は、チェコ語の狂言を楽しみ、囲碁や将棋を行っている。これだけ日本文化に人気があることに驚いた。このような場所はポーランド等、東欧や北欧に多くある。こういうところでうまくコミュニケーションを取っていけば次の世代でうまくつながっていく。米豪欧とは過去の話もあるが、民主主義であり、法的なコントロールの基盤ができているので、日本から次の時代に向けて一緒に色々なことをやりましょうという話が自由にできるということが一番大事だと思う。本日の議論からは、過去の我々の悩み、各国の思いがわかり勉強となったが、現在は、次の時代に向けてどうしたら良いかを考える良いタイミングであると考える

○自分はずっと経済界に身を置いてきたが、米国との関係には色々なアップダウンがあり、明るい面と暗い面があった。
色々な国との付き合いの中で、戦後日本が積み重ねてきた世界への発信が最近はっきりとした形で表れてきたと感じている。

○日本は非常にひどい戦争をした。送り出した日本側の兵士自体が生死の境をさまようような状況であり、その結果として相手の捕虜に対するひどい対応にもつながってしまった。こういうひどい戦争をしたということは、いくら反省しても反省しきれないと思う。

もう一つ申し上げたいのは、この問題は非常に新しい問題であるということ。これほど長く主要国の間で平和が続いたということはない。過去を振り返れば、戦争が終われば遺恨が残り、その結果また次の戦争が起き、国際秩序が作り直されるという歴史があった。外交の主要な課題は、昔は戦争か平和か領土かということであったが、この課題がなくなった結果、次は経済問題が課題となった。そして経済問題もWTOに象徴されるような制度化が進み、あまり大きなイシューではなくなった。この結果、今の世界では、image warが問題となっている。これは難しい問題で、なかなか解決できない。従来の対応では、解決したと思っていても、ずっと尾を引く結果となっている。これを解決するために、色々と新しい知恵を出さなくてはいけないという時代に来ていると思う。

アラブの友人等と話すと、日本は米国にひどい目にあわされたのに、どうしていつまでも米国の子分をしているのだという指摘を受ける。これに対し自分は、日本は基本的に仏教徒であり、仏教は許しの文化であり、我々は許しているのだ、色々と人にケチをつけるより、許す方が余程立派な態度であると言うことにしている。本日あった議論の論調で自分は良いと思うが、日本の中には、ではオランダはインドネシアで何をしたのか、イギリスは東南アジアで何をしたのか、これに比べて日本がしたことはどうなんだ、ということを言う人が必ず出てくる。こういう意見にどう対応するのかということも、今後の議論の中で念頭に置いて報告書を作成する必要があると思っている。


(5) 閉会にあたり、菅官房長官から、久保教授、細谷教授による発表、そして各委員による意見の表明に感謝し、次回会合においても活発な議論を期待する旨の挨拶があった。

(以上)

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/dai4/gijiyousi.pdf


 

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コメント
 
01. 2015年5月13日 17:23:51 : 8iC1yVK51o
  
 座長は、粉飾決算疑惑の会社の元社長・元会長。
 
 政府お墨付きの、粉飾された歴史認識会議で無理に国論をまとめるよりも、
 
 あくまでも安倍晋三の個人の歴史認識と断った上で、
 
 戦後70年談話として、

 安倍晋三(著)『美しい国へ』の中の、
 
 安倍晋三のお気に入りの1ページを朗読させる方が、

 日本国民全体への被害を最小限にすることができる。
 
 戦後70年談話など、安倍晋三に、やらせないのが最善だが。
 


 


02. 2015年5月13日 17:39:27 : iuOq1ZFTDY
>>01(追記)
    
 「反省」と「お詫び(謝罪)」「リベラルな歴史認識や非親米的意見」が多く盛り込まれた最終提言になるほど、
  
 実際に発表される安倍晋三の「戦後70年談話」とのギャップに、今後10年間は日本国民が苦しまされることになるのではないか。
 
 
  

 


03. 2015年5月13日 20:21:29 : RhRcXm222E
中韓の日本と戦争をした事のない国の工作員が日本のマスコミ、政界、学会に於いて幅を利かせている。
日本をもっぱら悪者とするこれらの連中の歴史感スリコミのお陰で歴史の真実に到達しようとしている。
尼港事件、斉南事件、通州事件。
GHQプレスコード。

極め付きはミャンマーの小学校での歴史教育だ。
日本は植民地解放のため宗主国と共に闘った国と教えている。

何が慰安婦だ。
何が南京大虐殺だ。

他のアジアの国々の人々に迷惑をかけた(ライダイハン)
お前らの残忍さは、子子孫孫に至るまで凶悪事件を起こすだろうDNAなんだ。


04. 大和狼 2015年5月14日 06:31:54 : 4bXKnGQAUaNEQ : hy55y1MCkU
この有識者と称する有識者会議の歴史認識には日本人として違和感しか感じない。
侵略と拉致がおおよそでも無かったと認識するに至ったら、従来の歴史認識は根底から覆る。
どこの国の人間かもわからない有識者かすら甚だ疑問だ。

国として、或いは民族としての自我が全く感じられないからだ。ない

米国出版社マグロウヒル社の高校生用歴史教科書の慰安婦についての記述
「ワシントン・ポストに噛みついた『反日』団体幹部」から、、

「慰安婦は日本軍の強制連行による20万人の性奴隷だった」
「日本軍は終戦時に証拠隠滅のため慰安婦多数を殺した」
「慰安婦は天皇から日本軍への贈り物だった」
<<
アメリカの教科書の記載がこれだ。

<<日本の外務省は当然ながら2014年11月、出版社と著者に記述の訂正を求めた。しかし出版社も著者も訂正はもちろん、記述の是非を論じることさえ拒否した。<<

日本国として当然の抗議だ。
中国韓国が日本の教科書の記述に口出し続けてした事も知らないのか。

この有識者会議の有識とは無知識者の集まりか。
以下のアメリカの常識的な歴史学者の爪の垢でも噛みしめたらどうだ。

<<この動きに対して、米国の歴史学者たちが2015年3月、日本側の抗議は「学問や言論の自由への侵害だ」とする声明を発表した。
この声明は、慰安婦問題を取り上げて長年日本を糾弾してきたことで知られるコネチカット大学のアレクシス・ダデン教授などが中心となり、(略)合計19人によって署名されていた。
ダデン教授は2000年の「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」の主催者の一員だった。昭和天皇を有罪と断じたあの模擬裁判である。ダデン氏は安倍首相への攻撃を年来続け、「悪漢」「裸の王様」などという侮蔑的な言葉を連発してきた。

今回の声明も、日本側の主張自体を「悪」とする感情的な非難に満ちていた。そしてマグロウヒル社の教科書の慰安婦記述は正しいと宣言し、その記述に異論を呈する日本側の動きは「右翼」や「修正主義」によるものだというレッテルを貼り、言論や学問の自由への弾圧だと断ずるのだった。
これに対し
■先輩の歴史学者たちの研究姿勢を批判
この米側の歴史学者19人の声明を真正面から批判したのが、米ウィスコンシン大学博士課程の日本歴史研究学者ジェーソン・モーガン氏である。「19人の学者たちこそ、慰安婦問題での事実関係を考えず、語らず、日本側の正当な抗議を意味の不明なののしり言葉のレッテルで排除している」という批判だった。
モーガン氏は37歳。学者としては新進であるが、アジア
そのモーガン氏が、先輩のダデン教授ら米国の歴史学者たちに対して、その研究の★姿勢を正面から批判したのである。慰安婦問題について日本側の事実に基づく正当な抗議にまったく答えようとせず、論点をそらし、論題から顔を背けているというのだ。
ダデン教授らの声明は米国歴史学会(AHA)機関紙の3月号に掲載された。そこでモーガン氏も非難の声明を同機関誌へ投稿した。その投稿が掲載されるかどうかはまだ不明だが、モーガン氏は4月下旬、インターネット上で自分の意見を公表した。先輩の歴史学者への挑戦というきわめて異例の公表だった、
■事実に目を向けようとしない米国の日本歴史学界
モーガン氏の見解の骨子は以下の通りである。

ダデン教授ら19人による声明は、慰安婦に関する日本政府の事実提起の主張を言論弾圧と非難するが、その非難の根拠となる事実をまったく明示していない。この点は、学問を探求する当事者として偽善としか呼びようがない。

・声明は、日本の吉見義明氏の研究を「20万強制連行」などのほぼ唯一の論拠として言及している。だが、吉見氏も慰安婦の強制連行の証拠はないことを認めている。同声明は、日本軍による多数の慰安婦殺害や天皇の贈り物などという記述になんの根拠もないことにも触れようとしない。

・声明は、米国の研究者も年来依拠してきた吉田清治証言の虚構や朝日新聞の誤報にまったく触れていない。事実を優先すべき歴史研究で不都合な事実を意図的に無視する態度は、学問の基本倫理に違反している。

・声明は、日本側からの慰安婦問題に関する事実の提起を、「右翼」「保守」「修正主義」などという表現で片づけている。この種の用語は侮蔑的なレッテル言葉であり、実体のある意味がなく、真剣な議論を拒むための煙幕にすぎない。

・声明は、日本政府の動きを中国などの独裁国家の言論弾圧と同等に扱い、学問や言論の弾圧を恒常的に実施しているかのように描いている。だが、自分たちがその日本政府機関からの資金で日本研究を行ってきた事実を無視している。

以上の主張を表明したモーガン氏は、「米国の日本歴史学界で、この19人の明らかに錯誤している意見に誰も反対しないという状態こそ、学問の自由の重大なゆがみだと思う」と強調するのだった。

慰安婦問題で事実に基づく主張に耳を傾けようとしない米国の日本研究者の研究姿勢が、モーガン氏の反論によって改まることを期待したいところである。

Japan Business Press 2015.5.6(水) 古森 義久
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43708
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43708?page=2
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43708?page=3
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43708?page=4

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【背後に世界的韓国人身売買組織】ネパール地震、貧村で被災した若い女性達が人身売買ターゲットに―英紙

2015年5月5日、英紙ガーディアンは、ネパールで起きた大地震で被災した若い女性たちが人身売買のターゲットになっていると報じた。

同紙によるとそれらの地域に住む若い女性や少女らは、これまでも人身売買のターゲットとなっており、韓国などで売春婦として働かされてきた。
国連や地元NGOによると、ネパールで人身売買の犠牲となっているのは毎年1万2000人から1万5000人に上るとみられており、韓国や遠くは南アフリカまで連れて行かれ、売春婦として働かされているという。

首都カトマンズにあるNGOの担当者は、人身売買のブローカーたちは、災害時を利用して支援という名目で女性たちを誘い出す実態があると指摘し、人々にそういう情報を知らせるための活動も行っていると述べている。

[レコードチャイナ 2015.5.6]
http://www.recordchina.co.jp/a108162.html

韓国】
2015年4月14日、韓国・マネートゥデイによると、韓国政府が「慰安婦が強制連行された証拠はない」と発言。

韓国女性家族部はこのほど、日本政府の歴史歪曲(わいきょく)に対応するため、教師用の教材の中で慰安婦が
「自分の意思に反し、慰安所に動員された女性たち」と説明されており、「『強制的』という言葉よりも謙虚で
柔らかい表現だ。
これについて、女性家族部の関係者は「慰安婦問題で重要なのは、慰安所の中で『性的暴力』という悲惨な
行為があったということ」と説明。また、「『強制動員された』という証拠はないので、その表現を直接的に入れることは


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