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「戦後70年首相談話懇談会(21世紀構想懇談会)第一回議事要旨」
http://www.asyura2.com/15/senkyo182/msg/286.html
「戦後70年首相談話懇談会(21世紀構想懇談会)第二回議事要旨:きわどい内容もあり一読の価値:「敗戦責任」の国民的議論を」
http://www.asyura2.com/15/senkyo182/msg/287.html
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20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(「21世紀構想懇談会」)
第三回議事要旨
1.日時:平成27年4月2日
2.場所:総理大臣官邸4階大会議室
3.出席者
・21世紀構想懇談会委員
西室泰三日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長
日本国際問題研究所会長【座長】
北岡伸一国際大学学長【座長代理】
飯塚恵子読売新聞アメリカ総局長
岡本行夫岡本アソシエイツ代表
川島真東京大学大学院教授
小島順彦三菱商事株式会社取締役会長、
一般社団法人日本経済団体連合会副会長
古城佳子東京大学大学院教授
白石隆政策研究大学院大学学長
瀬谷ルミ子認定NPO法人日本紛争予防センター理事長
JCCPM株式会社取締役
中西輝政京都大学名誉教授
西原正平和・安全保障研究所理事長
羽田正東京大学教授
堀義人グロービス経営大学院学長、
グロービス・キャピタル・パートナーズ代表パートナー
宮家邦彦キャノングローバル戦略研究所研究主幹
山内昌之明治大学特任教授
山田孝男毎日新聞政治部特別編集委員
・政府
安倍晋三内閣総理大臣
菅義偉内閣官房長官
加藤勝信内閣官房副長官
世耕弘成内閣官房副長官
杉田和博内閣官房副長官
兼原信克内閣官房副長官補
・有識者
田中明彦国際協力機構理事長
4.議事概要
(1) 冒頭、杉田官房副長官が次の通り挨拶を行った。
今回は、安倍総理より提示があった5つの論点の2つ目の論点である、「日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。」という点につき、皆様にご議論いただきたい。総理が先の会合にて述べられたように、未来の土台は過去と断絶したものではあり得ず、20世紀の普遍的な教訓を踏まえ、日本が戦後70年をどのように歩んできたか振り返ることは、今後の日本のあり方を考えていく上で非常に重要である。国民は戦後70年の歩みを誇りに思っている。本年3月中旬に日本テレビ系列が実施した世論調査において、「戦後70年の談話において、何を最も強調すべきか」という質問に対しては、最も多い4割を超える方が「70年の平和国家としての歩み」を、3割弱の方が「今後の日本の国際的な取組」を、1割強の方が「大戦の反省」をそれぞれ挙げている。
本日は、幅広い視点から、戦後70年間の日本の歩みについて活発なご議論をいただければと思う。
(2) 次に、田中明彦国際協力機構理事長から「戦後70年の日本の歩み--「世界の中の日本」という視点から」というテーマの下、以下の発表があった。
※引用者注:資料は http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/dai3/siryou1.pdf
今日話す内容は、JICAという組織の公式見解ではなく、田中個人の見解である。戦後70年の日本の歩みを、「世界の中の日本」という観点から振り返って見たい。その際、日本人の自己認識・自国認識、国際社会における目標、そのための政策手段の三つの観点に着目したい。そして、このような観点における変化に着目したとき、おおむね戦後70年は、三つの時期に区分することができるのではないかと思う。
第一の時期は、敗戦から高度成長が実現するまでの時期、すなわち1945年から1970年くらいまでの時期。第二の時期は、世界第2の経済大国としてJapan As No.1と言われた時期、すなわち1970年代から1990年くらいまでの時期。そして第三の時期は、バブル崩壊と国内経済低迷の中で国際社会での役割を模索する時期、すなわち1990年ころから現在にまで到る時期である。
この三つの時期は、世界システムの状態の変化ともおおむね対応している。第一期は、冷戦前期であり西側におけるアメリカを中心としたリベラルな秩序が形成され定着していった時期。第二期は冷戦後期で、アメリカ中心の国際秩序に揺らぎと調整がみられた時期。そして第三期は、冷戦後のグローバル化が進展し、主体の多様化、国際関係の複雑化などが進む時代である。
日本の自己認識、国際社会における目標、そのための政策手段も時期によって変わってきた。
まず、第一の時期について。この時期の日本の自己認識は、いうまでもなく戦争によって荒廃した貧しい敗戦国そして当初は占領された国家としての自己認識であった。その目標は、したがって、一刻も早く独立を達成し、国際社会の中で通常の国家としての地位を回復するということであった。しかし、完膚なきまでに敗北した国家として、そのために取り得る手段は限られており、自らの経済再建に努力するとともに、もっぱら誠実かつ地道な外交努力によって、平和条約を結びできるだけ多くの国々と国交正常化を遂げ、重要な国際機関に加盟するということであった。
1951年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約によって翌年4月28日に独立が達成され、1956年12月18日に国際連合に加盟できたことは、このプロセスを象徴している。サンフランシスコ平和条約によって国交正常化が実現しなかった国々については、個別に平和条約を結び正常な国際関係を築く努力をとげてきた。とくにビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムとは賠償協定を締結し、賠償事業を実施してきた。
当時、国際社会への復帰のため賠償に加え、今日ODAとみなされるような経済協力も開始した。1954年のコロンボ・プランへの加盟とともに技術協力を始め、1958年には、最初の円借款をインドに対して供与した。賠償を請求しなかった国々に対して、このような経済協力で日本との関係をよりよいものにすることが追求された。賠償で行った事業のなかでは、現在もミャンマーの水力発電の重要な役割を担っているバルーチャン第二水力発電所が1960年に完成した。また、インドネシアでは、ブランタス流域開発プロジェクトという非常に巨大なプロジェクトを、賠償で開始し、その後円借款・無償資金協力・技術協力事業を組み合わせ、1980年代に到るまで延々と続けてきた。その結果、電力や水の供給に加え、灌漑事業による食料増産、洪水被害やマラリアの被害を低減することに貢献した。
この二つの事業の例にみられるように、日本が賠償や経済協力事業に誠意を持って実施にあたってきたことは間違いない。ただし、経済復興が最優先であった当時の事情からして、このような国外事業もまた、国内経済の復興のために重要であるとの認識があったことは否めない。当時の経済協力が日本産品の調達を義務づける「タイド」であったことはそのことを示している。
この時期の日本の経済復興や高度成長は「奇跡」とまで言われたほどめざましいものであった。その背景には、戦後アメリカを中心にして作られた自由貿易に向かう体制が、日本産品の輸出を受け入れてくれたという事情がある。他方、この時期、日本の自己認識は「小国」のものであり、みずから積極的に自由貿易に貢献しようとの意図は少なく、外国からの「自由化」要求は外圧であるとか「黒船」であるとかとの受け止め方であった。
さらにいえば、劇的な経済成長の過程に問題や課題がなかったわけでもない。「四大公害」をはじめとする環境問題が各地でおきた。東京をはじめ深刻な都市問題が発生した。1970年には交通事故による死亡者数は1万6765人に達した。
こうして、日本は世界第二の経済大国になるという第二の時期を迎えた。この時期、二つのニクソン・ショックや石油危機など、国際政治経済秩序が大きく揺らいでいった。日本にとっては、石油や大豆などの食料の供給に不安がみられるようになった。
他方、世界第二の経済大国となった日本自身に対しては、世界の視線はきびしさを増してきた。アメリカを中心として、経済摩擦が頻発した。経済発展にむけた日本の懸命な輸出努力は、「集中豪雨的輸出」などとも言われ、国内市場を保護しつつ他国の市場を制覇しようとしているとの批判を呼んだ。また、1974年1月に東南アジアを訪問した田中角栄首相は、ジャカルタとバンコクで大きな反日デモに見舞われた。
この時期の日本には、「経済大国」になったとの自己認識が生まれてきた。1975年の先進国首脳会議に招請されたことも、そのような認識を強くした。しかし、石油危機などの環境激変のなかでの自らの脆弱性についての認識は強く、国際秩序の調整局面で大きな役割を果たすと言うよりは、「応分の負担」で国際社会の批判を乗り切ろうというような態度もみられたと思う。いずれにしても、そこで、有力な手段と考えられたのが経済協力であった。1978年にODAの倍増宣言がだされ、その直後に福田赳夫総理は、マニラでアジアの人の「心と心」をつなぐという「福田ドクトリン・スピーチ」を行った。
以後、ODAの額は上昇を続け1989年には、世界一位となった。それより前に批判された円借款のタイドだが、円借款のアンタイド化も進んだ。1979年には、賠償請求を放棄した中国への経済協力を開始した。もちろん量だけでなく、振り返ってみて、質的にも大きな効果をあげたプロジェクトをいくつも行った。ODAをはじめて以来30年たち、日本型の援助とでもいうようなプロジェクトが育ってきたのである。ブラジルを世界的な大豆生産国に変化させたセラード開発、タイの工業化に一大転機を与えた東部臨海開発、さらには人と人が技術協力で国づくりに貢献するとのやり方も確立してきた。ブータンで孤軍奮闘、農業指導を続けてきた西岡京治JICA専門家が国王から最高の称号「ダショー」を授かったのは1980年のことである。
次から次へと起こる経済摩擦への対処の過程で、日本が国際経済システムの維持に貢献してきたことは間違いないと思う。累次の多国間貿易交渉を日本は着実に受け入れてきたが、やはり自由貿易達成のために指導力を発揮したとまではいえなかった。どうしてもその反応は遅れ、当時、日本は「外圧」がなければ動かない「反応国家」であるなどと言われた。
第三の時期は、ベルリンの壁の崩壊を伴う1989年以降の時代である。冷戦が終結し、グローバル化がますます進行し、良い意味でも悪い意味でも非国家主体の役割の増大した時期といえる。東西イデオロギー対立が消滅し、核戦争の脅威が低下する中、国際関係は複雑化し、人々への脅威も多様なものになってきた。この中で、日本ではバブルが崩壊し、かつての「経済大国」の自信は薄れ、国際社会の中での自己認識にもやや曖昧なところが生まれてきた。
日米同盟が重要であることの再確認は比較的容易にできたが、新しい時代にあわせて日米同盟をさらに強化するにはどうしたらいいか、さらには日米同盟の枠を超える国際的役割をどうするかについて、議論が延々続いてきていると思う。「普通の国」、「グローバル・シビリアン・パワー」などという言葉が使われたこともあり、「積極的平和主義」もその流れの中からうまれてきた概念であろう。この時期におこった様々な危機が、その後の課題を規定してきたとも言えると思う。
いずれにしても、世界の平和、繁栄と普遍的価値の増進に貢献し、それによって「名誉ある地位を占めたいと思ふ」という目標は広範に共有されていると思う。しかし、この時期になってもいかなる手段を使っていくかについては、まだまだ十分な合意ができているわけではないのかもしれない。自衛隊をどのように活用するかについては現在も議論が続いている最中である。
国際経済体制を維持するための努力も重要な課題であった。この時期にはアジアや太平洋地域での地域協力が活発化した。APECの設立をはじめ日本はかなり積極的な役割をはたした。地域の自由貿易の達成のためにも努力した。現在進行中のTPP交渉の成否は、この面での日本の指導力が発揮しうるかの試金石ともいえると思う。
もちろん、合意が比較的容易でしかも日本に能力もある分野も多い。たとえば、ODAの分野でいえば、1990年代から現在にいたる四半世紀の間、日本はきわめてユニークな役割をはたしてきたといえると思う。すなわち、国際的な援助潮流が変化するなか、日本は一貫して持続的経済成長のためのインフラ建設の重要性を指摘しつづけてきた。世界各地でランドマークとなるインフラ事業をすすめた。
都市問題に苦しんだ日本は、大都市の交通問題には率先してとりくんできた。バンコクの都市交通システム、デリーの地下鉄網の整備、現在実施中のジャカルタのMRTなどが事例である。また、戦後の日本の生産性向上の教訓を凝縮した5Sカイゼンの技術協力プロジェクトは、中小企業支援に使われるだけでなく、現在ではアジアやアフリカの数多くの病院の衛生状態を改善するためにも試みられている。その他、「人間の安全保障」に資するさまざまな事業を行っている。資料の4ページにはこれまでのODAの実績を掲げているので、ご参照いただきたい。
資料の5ページに掲げているが、1954年に開始した日本国内における研修事業への参加者は、約32万5千人に及び、日本の成功だけでなく失敗から世界が学びうる機会を提供する重要なプログラムになっている。このプログラムの参加者で各国の要人になった人のリストも資料に掲載している。防災にしても公害対策にしても、日本における研修ほど世界に貢献するものは数少ないと思う。つまり、日本は、世界中の課題への取り組みに貢献しうるきわめて豊富な経験と知識を持っているのではないかと思う。そのなかで、ODA予算が1997年をピークにほぼ半減していることは、皮肉な感じがする。ODAについてきわめて生産性高く事業を実施しているということもできるが、潜在力を十分発揮していない可能性もあるかもしれない。
戦後70年の日本の歩みを振りかえってみたわけであるが、全体を通していかなることがいえるか少し考えてみたい。
第一には、やはり、戦後の歩みは戦前の侵略に対する痛切かつ全面的な反省の上に成り立ったものだといえると思う。戦後史を通覧して、日本の国際的行動のなかに軍事的自己利益追求行動は存在しなかった。大筋でいって、1930年代の行動とは180度転換した平和路線であったといってよいと思う。
第二に、しかしながら、戦後の日本の国際的行動には、変化もあり、時代時代の限界もあった。平和的な国際的行動であっても、自己中心的なもの、あるいは国際秩序形成に消極的なものもあった。しかし、おおまかな流れでいえば、リベラルな国際秩序形成においてより積極的な役割を果たそうとする意欲は増えてきたと言えると思う。また、さきほど述べたように、自らの成功だけでなく失敗に学んでいけば、日本には、知識とノウハウによって積極的な役割を果たす能力はかなり備わっているのだと思う。
第三に、さらに長期のスパンで考えれば、日本の現在は、明治維新以後の自由主義的民主制の発展の成果であるといえる。戦後、徹底的な平和路線という大筋のなかで、自らの失敗に学び、徐々にではあれ、リベラルな国際秩序形成への積極性を増す路線を追求してきた背景には、国内における強固な自由主義的な民主主義体制の存在があった。もちろん、戦後の自由主義的民主制の確立にあたって米国の果たした役割はきわめて大きかったわけだが、明治以来の自由主義的政治思想と大正デモクラシーにみられるような自由主義的政治体制の制度発展も忘れるわけにはいかない。福沢諭吉、中江兆民、吉野作造などという先人があってこそ、戦後の日本の歩みも理解できるのだろうと思う。
(3) ついで、岡本行夫委員から「戦後70年を経た日本の安全保障体制と、これからの道(私論)」というテーマの下、概要以下の発表があった。
私はどこの組織にも属していない一私人であるが、それでも「私案」と書いたのは、率直な自分の考えを述べたかったからである。安全保障面に限った話をする。
自衛隊は、警察予備隊から育ち、効率的かつ有効な部隊になり、日本の防衛力として、そして抑止力として大変立派な役割を果たしている。今日そのような状態を実現できている経緯については、皆さんもよくご存じなので、私のメモには記していない。
今、田中理事長からこれまでの流れをご説明いただいたが、日本が憲法9条の下で世界に冠たる平和国家として辿ってきた足跡は、国民として誇りに思って然るべきである。ただ、安全保障については、率直に言って、合意形成が他の行政分野に比べて難しいこともあって、あるべき方向について国民的なコンセンサスを作るのが必ずしも容易ではなかった。その間に、国際的なニーズと日本が行い得ることが一部乖離してきたことも否定できないと思う。その意味で、このメモに記したのは、日本の防衛体制というものが、現在どういう地点にあって、そして、これからどうあるべきかということについてである。メモの要点だけをご説明する。
最初に「基本認識」であるが、1(1)に記したことは、理論的に考えても、国を守る上で選択肢というのは、「非武装中立」か「武装中立」か「同盟」しかなく、消去法からいって、結局、その中で日米安保同盟しかないという結論である。「集団安全保障」というのは、耳に心地良い言葉だが、現在のアジアにおいては、軍事的にも政治的にも成立し得る基盤が存在していないので、選択肢の中に入らないという前提である。
「日本の戦略環境」に記したのは、この東アジア地域は、兵員数で見てトップ5か国のうち3か国が集中しているという、世界で最も軍事的な集積度の高い地域であることだ。その中で、日本の防衛費は、極めて軽い防衛費負担でやってこれた。対GDP比で言えば世界の100位以下という水準である。それでも我々がどこからも攻撃される心配なくやってこられたのは、憲法9条の故ではない。日米安保という防衛体制をとってきたからである。
次に「防衛力の考え方」について。国家の防衛力の水準は、その国の直面する脅威の水準を客観的に分析して、それに対応できる防衛力を持つことが本来の姿だ。それを「所要防衛力」と呼ぶ。ところが日本の場合、周辺諸国の軍事費の膨張があまりにも大きく、それに対応して日本の防衛予算を組み立てることが実際上不可能であったので、「所要防衛力」の考えを捨てて、「基盤的防衛力」という考え方に51大綱で転換したわけである。「基盤的防衛力」というのは、要するに、日本がこのサイズの国家として独立を保全していくために平常的に持つべき防衛力という考え方である。よって、日本の周りの脅威がいかに増加しようと、日本だけは淡々と「基盤的防衛力」という考え方の下に、主として予算上の考慮によって防衛力の規模を決めてきたのである。北岡座長代理が22大綱と25大綱の両方に関わってこられたので、ここで私が一々申し上げることもないが、現在の大綱の考え方というのは大変機能的であるし、実際的でもあると思うが、根っこは依然として「基盤的防衛力」の考え方なので、まわりの脅威に対応した大きな防衛力の伸長は望めないという枠組みである。
次に「日米安保体制」である。日米安保体制というのは、日本の「盾」と米国の「矛」の組み合わせにより日本を防衛し、極東の平和と安定を確保するものである。安保体制は、抑止力の確保を最大の目標とする。抑止力とは、他国が攻めてきた時にどれくらい叩き返すことができる実力を持っているかということではないと私は思っている。そうではなくて、周辺諸国に、「自分たちが日本に手を出した時には、日米安保条約が発動される、そして、自分たちは米国からの報復を受ける、日米の共同行動に直面しなければならなくなる」と思わせるということである。つまり抑止力とは、周辺諸国に与える印象、いわゆるパーセプションである。いくら日米安保条約というものがあっても、米国は日本のために自分たちの兵力を損傷させてまで戦ってくることはあるまいと周辺諸国が思ってしまえば、その途端に、安保体制は張子の虎になる。そういう意味で、安保体制は常に発動されるものだと周辺諸国に思わせ続けるための日米の日頃からの安保協力と、安全保障の面に限らない政治的、あるいは、国民交流の面まで含めた緊密な日米関係が必要なのである。その良好な日米関係が抑止力の根幹を成していると私は思う。
安保体制には、いろいろな課題もある。「柱は1本か2本か」、あるいは、「日米の非対称」とこのメモに書いたような問題もある。「1本か2本か」というのは、例えば、FSX(次期支援戦闘機)問題というのがなぜあれだけ揉めてしまったかということにも関係してくる。当時の日本の考え方は、「小規模限定侵略は独力対処」ということだった。ソ連軍が攻め込んでくれば、航空自衛隊の戦闘機が超低空で海面すれすれで飛んで行って、離れたところからソ連艦隊に空対艦ミサイルを発射して、そして、そのあとは直ちに反転上昇して新しい任務につくという大変苛酷な運用・性能が要求されていた。しかし米国にしてみれば、「いや、小規模限定侵略といっても、米軍は最初から出勤するのだ。その時に上空にいるのはソ連ではなく米国の警戒管制機で、制空権も米軍がとっているだろう。だから、日本の戦闘機は海上すれすれなどという極端な運用要求を満たさなくても良いはずだ。だから、米国の既存の戦闘機であるF16やF18を使えば良いではないか」ということになる。結局は共同開発ということで決着がついたが、日本は独立国家として「独力対処」とは言いたいところであるが、日米安保体制が先ず存在していることは前提として忘れてはならない。
もう一つ、沖縄の基地負担ということも、日米安保体制上、解決しなければいけない重要な課題である。ご承知のとおり、面積で言って、米軍基地の74%が沖縄に集中している。この74%というのが象徴的にも実体的にも沖縄県民に重くのしかかっている。74%という数字を減らさなければならない。どうしたら減るか。沖縄の基地を減らしただけでは、分子も分母も減るわけだから、74%という数字はあまり減らない。沖縄の基地を減らし、そして本土の基地を増やして、初めて74%という数字が目立って減るのである。
普天間飛行場の移設については、私は今の段階では辺野古移設が最善であり、このままいくべきだと思うが、普天間が移設された後も、沖縄に残る諸施設。これをできるだけ本土が負担できるかどうかということだ。これが本土側のわがまま、いわゆるNIMBY(Not In My Backyard)、つまり「俺のところにだけは持ってくるな」という態度のために、容易に実現しない。全国の知事の中で「自分のところで受け入れても良い」と言ったのは当時の橋下徹大阪府知事だけであり、あとは皆さん「とんでもない」という反応であった。「沖縄の負担軽減」を掛け声として言うのは良いが、本当に本土側が沖縄のことを思いやっているのかどうか。それが問われている。
それから、いま深刻なのは、中国が日米の分断に動いていることである。特に70周年の今年、中国は「反ファシスト戦線」で世界がもう一度結束しようと呼びかけている。つまり日本というファシストに対して戦った近代的な価値を信奉していた中国、北米、欧州、豪州、そういった国々がもう一回まとまろうというもので、取りも直さず日米の分断策である。これは日本として対応が必要とされる深刻な事態である。
それから最後に「国際平和協力活動への貢献」を記した。なぜ国際協力しなければいけないのか。3(1)@、Aは当たり前の話である。Bは、やはりそろばん勘定から言っても、日本は安全保障面で協力しておいた方が安くつくという意味である。例えば、民主党政権の時に、インド洋で給油活動していた海上自衛隊の補給艦を撤収した。100億円未満の予算で行っていたものだが、撤収したことに国際社会の失望は大きかった。それで、「給油活動の代わりに、日本はアフガニスタンにもっと支援をいたします。アフガニスタンの警察官の給与を負担します」と言わざるを得なくなった。それが総額5000億円にもなっているわけである。安全保障上の協力のほうがずっと安くついたのである。
次に集団的自衛権の問題。これは、なにもおどろおどろしいものではなく、法制局が長年に亘って続けてきた解釈を正しいものに修正したというに過ぎない。
それから、「日本が目指すべき道」を最後に記した。陸上自衛隊については、機動化する。例えば、米海兵隊のように、機動的に世界の平和貢献に対処できるようにしたらどうか。海上自衛隊については、これまで護衛艦を削りに削ってきたが、増加する周辺の脅威を考えれば、51大綱の水準の60隻に戻すべきではないか。潜水艦は16隻から22隻になったが、これは鉛筆をなめて潜水艦の退役年齢を延ばしただけであるので、やはり中長期的にはあと4隻位は持つべきではないか。空自については迎撃能力の増強。
この項の最後に、「過度の財政介入の抑制」と書いた。これは、例えば、いま自衛隊の定員数は防衛大綱によって決まっているのに、財政上の理由によって「充足率」というものをかけられて、本来24万7千名いるはずの自衛隊員が、実員としては21万人しか存在していないという問題だ。これはやはりおかしなことだと私は思っている。
そして、「積極的平和主義の具体化」。日本としてこれがこれから進むべき道だと思う。ただ、そう言うは易いけれども、実際には、日本はこれまで米国を始めとする国際社会から国際平和構築のために多くの要請を受けてきたが、多くを断ってきた。断った理由は、「集団的自衛権に抵触する」とか、「憲法上の問題」といったものは実は少なかった。多くの場合、「自衛隊は危険なところには派遣しない」ということで、国際社会からの要請に応えなかったのである。今回の安保法制は正しい方向の措置だと思うが、ただ、「危険なところには自衛隊は派遣しない」という政治意識を変えられるかどうか。つまり、リスクを分担するためにはやはり日本も覚悟をもって国際平和協力に臨まなければいけないというところまで踏み込めるかどうか。それが鍵だと思う。
もうひとつ、「海洋アジアでの連携強化」、つまり日本は海洋アジアのリーダーたるべきだということも記した。
最後に安保法制に絡んでエピソードを一つご紹介したい。2001年の9.11の直後、アルカイダが世界中の米軍を攻撃するという情報が駆け巡り、第7艦隊が一時的に硫黄島周辺に退避したことがある。その時に米軍は海上自衛隊に警護を頼んできた。しかし、海上自衛隊は応えられない。根拠となる法律もない。結局、防衛庁設置法の「調査・研究」という名目で護衛艦を出した。そういう解釈を用いてでも米軍を警護すべきであるという、当時の海幕の大変勇気ある決断であった。そしてこの自衛隊の護衛艦と第7艦隊が東京湾を並走して南下していく映像は米国のテレビで繰り返し放映され、日本に対する大きな感謝という米国民感情につながったのである。正にあのようなことが日米安保を堅固なものにしていく。今度は新安保法制によって、そういうことが堂々とできるようになった。これから日本の安全保障の体制は良い方向に向かっていくと思う。
(4)続いて、概要以下の意見が示された。
○田中JICA理事長の結論における、戦後70年の歩みの特徴に完全に同意する。田中理事長は、平和路線という言葉を使っているが、自分は、平和主義という言葉で良いと思う。日本の平和主義は米国との同盟関係で担保されていたという点が非常に重要。日本の圧倒的多数の国民はこの点を当たり前のこととして受け止めており、日米同盟をどう深化させて行くのかという点につき、国内的な制約を巡って現在議論が行われているという整理ができるのではないかということが一点目。二点目として、国際貢献も極めて重要であり、リベラルな国際秩序の適用から促進というのはまさにその通りである。日本は、軍事的に行動できない中で、国際貢献という形で途上国の発展に貢献してきた。このことが国際秩序の安定に貢献することになったということを申し上げておきたい。三点目として、明治以来の自由主義的な伝統を受け継いだ民主主義体制の発展ということもその通りである。この民主主義体制が、日本の戦後の市場経済と一緒になり、国際秩序の原理と極めて整合的な国内体制を発展させてきた。
○発表者二人、特に田中JICA理事長は、戦後の日本が非常に素晴らしい発展をしてきたということに重点を置いており、自分もこの点に賛成であるが、同時にマイナスの点も見ておくべきであると考える。一言で言えば、日本は戦争処理の問題を未だに引き継いでいるということも認識しておくべき。日本だけの問題ではないが、対韓、対中関係、靖国問題、慰安婦問題、戦没者の問題等、70年かけても処理できていない問題がある。
また、この70年の間で、平和主義ということについての国民の考え方が大分変わってきたと考える。憲法9条を誠実に文字通りに読んで行動していこうというグループがある一方、一国平和主義という議論は日本の国益にあわないという議論も出てきた。したがって、戦後日本の平和主義は二つの時期に分けて考えた方が良いと思う。日本は国内の平和主義者、純平和主義者に対応する難しさの中で、極端に軍事力を抑制するなどバランスを欠いた国家をつくってきてしまっている。どこの国にも同様の問題はあるが、日本はこの点で苦労してきた。
田中理事長から指摘があったとおり、日本は戦後、賠償支払いという形でアジア各国と経済関係を構築し、各国の経済発展に寄与してきた。もう一つの側面として、日本が第二次世界大戦を通じ、結果としてアジアのいくつかの国の独立を促すことになり、このことが戦後のアジア諸国の発展に大きく繋がったという点も指摘しておきたい。1955年のバンドン会議は、アジア人のみによる首脳会議であり、アジア人のみでアジアをつくっていこうという雰囲気の最初の芽が出た場であった。この会議の開催に日本が果たした役割は大きかったと考えている。
○世界の中での日本の歩みという観点から見た際、米国が果たしてきた役割をどの程度のものと評価するかという点につき意見を聞きたい。田中理事長の発表を聞く限り、相当程度日本が自立的に様々なことを行ってきたようにも聞こえた。先程の岡本委員の発表にもあったが、米国にとってみれば日本は同盟国の一つであるので、米国から見た場合、戦後日本は独立して自分の考えで様々なことを行ってきたように見えるのか。米国は戦後日本の歩みにどの位影響を与えたと言えるのか。
(上記に対し、以下の意見があった)
○米国との関係については、安全保障においては、米国が圧倒的に日本に関与してきたということは明白である。経済面では、時期によって違うと考える。1950年代においては、日本の経済復興にとり、米国が自らの市場を日本産品に対して相当オープンにしてくれたということはとても大きいことであったと思う。当時、日本の繊維産業にとって最大の買い手は米国であった。また、日本は1955年にGATTに入る際、英国や豪州は絶対に日本など入れないと反対していたが、これに対し、「日本を入れなければだめだ」と言ってくれたのが米国であった。この点でも、1950年代における日本の経済復興に米国が果たした経済的役割は大きいと思う。ただ、その後は日米間の経済関係はひたすら経済摩擦であり、米国が日本に対して言っていたのは、「自分のところをクローズにしたままで、製品を売ってばかりいるのはダメだ。」ということであった。その面で言うと、ODAについては、最初の頃は、米国が何か言うわけでもなく、日本が比較的独自の観点から様々なことをやってきたと思う。その過程で、相手国の人々と信頼関係を築いてきた。西欧、北欧等は、日本のODAはタイドが多いと批判し、米国は、日本は安全保障面で貢献をしていないのだから、ODAで貢献する必要があるという見方をしていた。ただ、ODAで何をして、それによって先方の経済発展にどれだけ役立つかということについては、我々の先人の創意工夫が非常に大きかったと思う。
○日米関係の非対称性については、安全保障の面においては、日米両国は望遠鏡の真逆からお互いに見合っているようなところがあった。米国は世界中に30か国以上の同盟国と地位協定を有しており日本はそのうちの一つである、ということを考えれば、これは仕方がないことである。したがって、日本が米国に対して有している関心に比べて、米国議会が日本に対して持っている関心が相対的に低いことも仕方がないことである。
しかし、それ以上に重要なことは、両国の指導者がどのように相手を見るのかということである。オバマ政権が誕生する時に、クリントン国務長官は上院外交委員会の証言で、まず日本に言及した。そして最初に訪問した外国も日本であった。米国の国民に、米国政府が日本を大事にしているということが強く伝わった。しかし、日本の民主党の悪口を言うわけではないが、日本はその後日米関係を育てる努力をしてこなかった。そしてクリントン国務長官はその3年後、「アジアでは三つの大国がお互いに協力し合っていかなければいけない。すなわち、米国、中国、インドである。」と宣言し、米国民の目から日本が抜け落ちてしまう構図を示してしまった。つまり、非対称性というのは、日本にも責任があるのである。日本の努力によって日米関係は更に緊密にできるのである。
○経済人として戦後70年の日本の歩みについて意見を述べたい。全体として戦後をとらえると、1951年のサンフランシスコ講和会議におけるスピーチで、吉田総理は、「平和なくして繁栄なく、繁栄なくして平和なし。」と述べられた。日本は戦後、この言葉を愚直に実行していると認識している。戦後の日本の政策は、民主主義、法による支配、市場主義、科学技術の尊重という、グローバリズムの根幹の価値を信じながら、平和的手段、対話重視を基本につくられてきたと考える。戦前の日本の政策に対する深い反省が、この70年間に様々な形で活きてきたのではないか。戦後の政策は、国家の政策であっただけではなく、企業及び経営者においても広く共有された価値観であったと思う。戦後の経済人の多くは、この国家の政策と共に、国際社会に対し、ある意味では謙虚で、かつ、率直に行動してきた。
日本は戦後、民主主義を基盤とした平和外交、人道外交を貫いてきた。また、日本経済の発展だけではなく、アジアの国々への技術移転、経済支援を通じて、優れた技術を伝え、経営者を生み出す等、これらの国々の経済発展に大きく貢献してきたのではないかと考える。一例としてODAがある。ODAは、インドネシアやタイなどの東南アジアにおける経済成長の枠組みの構築を助けた。日本企業は、これらの国でビジネスを伸ばしているが、特にインフラの整備、技術支援を通じ、経済成長の手助けもしてきた。70年代からは、これらの国々において、自動車用部品や電気製品の製造拠点を確立するとともに、天然ガスや石油鉱物資源の開発を開始した。そして、これらの資源はやがて、日本への輸出に結び付いた。このように、東南アジア諸国にインフラや技術を提供することにより、これらの国々と日本の貿易が伸びていくという形で協力をしてきた。この意味で戦後の日本の経済界の活動は日本経済とアジア経済の相互依存関係を構築したといえる。アジア諸国で働くに際し、我々は常々先輩から、「絶対に上から目線になるな。」と言われてきた。この点、日本の企業関係者は、できるだけ謙虚に仕事をするという努力をしてきたと思う。よく、「日本のエンジニアは、クーラーがきいている部屋にいるのではなく、クーラーのないところで、その国の工場の工員と一緒になって汗をながしながら働いているので良い。」という評判をアジア諸国において聞く。日本からの技術移転、経済支援を通じて、アジアにおいて優れた技術者が育ち、今やASEAN5だけではなく、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーにおいても、価値観が日本と共有されるようになり、日本の協力が経済発展の手助けをしている。これは大変感慨深いことであると思う。各国の現地社員と話すと、その国の人々が日本に対して感じていることを率直に言ってくれる。彼らからは、悪い意味でなく、「日本は違う」という評価をよく聞く。
韓国、中国との関係についても、我々は非常にreliableなビジネスパートナーがおり、議論ができる状況にある。これらのパートナーとよくコミュニケーションをとりながら、韓国、中国と更にビジネスを展開していく必要があると考えている。中国、韓国の人も経済の面で日本との縁が切れたら、自分たちの経済も成り立たないと言う。中国、韓国とも更に協力関係を強めて、アジアの経済発展に更に協力ができればと考えている。我々経済人にとっては、他国との付き合いがますます重要になってきていると思う。
○田中理事長、岡本委員の発表を聞き感銘を受けた。戦前の反省を踏まえ、戦後70年色々なことを行ったという話は良くでるが、戦前の反省を踏まえるだけでなく、戦後の変容の過程においても様々な問題があり、それらを克服する中で新しい価値を見出していったという姿が、発表から良く理解できた。特に、都市で公害が出てくれば、それを踏まえた新しい都市型のODAを海外で行ったことや、74年に行われた田中角栄総理のジャカルタ訪問時に強い反日運動に遭遇すれば、それに即してODAを行う中で新しい調和を求めるといったことに大変感銘を受けた。岡本委員が発言した、日米安保が様々な問題に直面する中で新しい対策が取られてきたということも良く理解できた。戦前のブロック経済、反国際協調に対する反省として戦後があるのみならず、戦後の中でも反省と調整がされたことは特筆に値すると考える。
歴史の世界においては、戦後の日本について「脱帝国化」ということを議論しており、帝国を抜け出して、一般の普通の国家になっていくということが良く言及される。普通の国家になる中で、田中理事長も述べていた、新しい外交関係の構築が出てくる。中国、韓国については、重要な一コマであって、国交正常化については北朝鮮とは課題を残しているが、中国とは1972年に国交正常化を行っており、本日の田中理事長のレジュメにもあるように1979年頃からODAを開始していくこととなった。このことの重みをどう考えるのかという論点があり、つまり、東アジアにおける西側、つまりアメリカと同盟関係にあった国の中で、日本はいち早く中華人民共和国を承認し、中国に対して様々な支援を行い、中華人民共和国が国際的な経済枠組、あるいは、東アジアの地域的な枠組の中にコミットするように促してきたということは言える。当然ながら、日中間には様々な問題は存在し、吉田茂が述べた「中国をこちらの方に引き込むためには経済的関係を発展させていくべき」という議論を踏まえた部分もあるであろうが、日本が中国に行ってきたことは、東アジアの安定に大きく貢献してきたと考える。
※ 引用者注:英国を含む西欧7カ国は朝鮮戦争が始まる50年6月までに中国と国交を結び、インドシナ問題を抱えていたフランスも64年に中国との国交を正常化しているので、72年の日中国交正常化が“いち早い”ものとは言えない。韓国(92年)よりも早かったということで、“東アジア”ではという条件を付けるのならそう言えなくもないが意味はないだろう。
また、岡本委員の発表に関し、日米安保が中国からどう見えていたかという点は複雑であり、必ずしも一貫して敵対していたということではなく、キッシンジャーの「瓶のフタ」論にあるように、それはそれで評価をされてきた。中国自身が、日米同盟、あるいは日米安保が東アジアの安定に寄与していたと認識していた部分もあった。色々な議論はあるが、そうした意味で、戦後の変容、あるいは日本の中国との関わりの中にも、ODAの話にしても、日米安保の話にしても、多様な戦後の姿を見出すことが出来る。昨今の議論にあるように、厳しい視線だけから戦後全体を俯瞰する必要はない。逆に言えば、戦後の日本を単純な成功の面だけから描くこともどうだろうか。日本は戦後においても、様々な問題に直面し、その都度解決を行ってきており、現在も、新たな問題に直面しているという部分もある。最も、それは、総理から諮問のあった諮問事項のうち、今後議論される論点の中で扱っていくということで良いと考える。
○田中理事長の発表内容については全く賛成である。レジュメに「リベラルな国際秩序への適応・支持・促進へ向かう流れ」と記されており、これはその通りであるが、最近の日本の政治構造の中では、「保守」対「革新」という構図の代わりに、「保守」対「リベラル」という言葉の使い方がなされている。「リベラルな民主主義」といった場合、自由民主主義ということで、自由民主党という、同じ内容を党是とする支配政党が存在している。メディアあるいは一部政党には、好んで、「リベラル」を「保守」の対抗軸に用いる傾向があるかと思う。この点との関係で、「リベラルな国際秩序」という言い方は、今の日本の国内政治の文脈において、誤解を受ける可能性があるので説明の必要があるのでは。岡本委員の日米安保条約に対する指摘はそのとおりである。他方、今の中東の構図がますます複雑になり混乱を極めている大きな原因は米国における中東の安全保障のあり方、米国の各国との同盟友好関係のあり方において、オバマ政権の政策が安定していないことがある。伝統的な同盟国であるイスラエル、サウジアラビア、トルコはいずれも違った次元において、米国の中東における安全保障を支えてきた要因であるが、イランの核武装を阻止するという命題のもとに米国がイランとの急接近を図っている現実もある。アラブの一部では、イラン・アメリカ同盟という言葉を用いるメディアや識者もいるくらいである。こういう米国の中東政策における揺らぎは、東アジアにおける日本、韓国、豪州との米国の同盟関係を考える場合にも比較の参考になる。イランに相当するのは中国となるかと思うが、中国の拡張主義、膨張主義といったものを考えた場合に、米国と日本の関係について、楽観視ばかりできるとはいえない。手入れしなければならないのが日米関係であるとすれば、米国の中東との不安定な関係を見た場合、どのような手の入れ方が米国にとっても、日本にとっても更に必要なのか、といった点についても比較して見ることが重要であろう。
○総理からの諮問事項は、70年間いかなる道を歩んできたか、平和主義、経済発展、国際貢献をどう評価するかということである。20年前であれば、自分も田中理事長、岡本委員からの報告をそのまま全体として賛成できたであろうが、20年前と現在では状況が変化している。平和主義を例にとれば、戦後の平和主義というのは一種の空想的平和主義であった。それが、朝鮮戦争から、安保条約、冷戦の開始、そして、91年に冷戦が終結し、漂流を始め、そこからある方向性が見え、現在に至るという流れを見ると、平和主義一つを見ても、頑張っては来たが、空想的なものからより現実的で、よりしっかりしたものへと変化している。経済発展についても同様であり、岡本委員からも発言があったとおり、安全保障があるからこそ経済発展が可能となるのであるが、これを、経済発展があるから安全保障があるといった様に逆に考えてはいけない。国際貢献についても、正に一昔前であれば「平和主義」という一言であったが、最近はより現実的、実体的な援助に変化している。これも安全保障上の発想が変化してきたことを意味していると考える。
前回参加できなかったので、今の話との関連で一言述べるが、戦後70年を見る際に、朝鮮戦争の存在は非常に大きいと考える。これによって、米国の対日政策は変化し、日本の安全保障政策も変化し、その中で、色々な議論が行えた部分、行えなかった部分があった。その一部については、先ほど、いくつか不手際があったという指摘があった。それを不手際と呼ぶかどうかは別として、やはり50年、51年、53年あたりで日本が大きく変わってきた、それが最近になって冷戦が終わった後の現実を見て、日本の歩み方がまた変わってきたというように自分は見ている。
○田中さんは日本が果たしてきた役割について、ODA、技術、人に言及されたが、経済的側面での観点も加えたい。先日逝去したリー・クァンユー元シンガポール首相が参加した会議にて雁行型経済発展論(Flying GeeseModel)について言及されていた。東アジアにおいても、日本が先行して経済的に他国を引っ張ってきたという事実が広く浸透している。技術、人、ODAに加え、経済的な意味での貢献も大きかったものと考える。
岡本委員から発言があった、「70年間平和を得られたのは憲法9条が存在していたからではなく日米安保体制のためである」、及び、「米国にとって日本は多数の同盟国の一つであるが日本にとって米国は唯一の同盟国」、といった観点から、(中国等の台頭がある中で)今後の日本と世界を考えていく必要がある。
日本は国連安保理において、非常任理事国として最も多く参加してきた国である。今後どういう形で、日本が世界の平和に貢献していくのかということを、70年談話には可能であればコミットメントのような形で言及できたら良いのではないか。例えば、世界の平和に積極的に参加をしていく「積極的平和主義」ということ、或いは、人的、技術的、経済的な貢献をこれまで行ってきたように今後とも世界に貢献していくということ、価値を共有する国々と共に法の支配に基づいた良き世界を作っていく等、こうした観点での談話となれば良いものと考える。
○これまで各委員から政府の政策について発言があったが、視点を変えて日本の国民、人々の認識に焦点を当てて話したい。田中理事長が述べた、戦後日本が戦前への反省に基づいていたという点について、人々の多くも戦前への反省に基づいていた。平和憲法の下に、国際的には多国間の枠組に参加していくということについてある程度合意が出来ていたことが日本の敗戦時の特徴であると言える。例えば、多国間主義について、日本は、国連機関や金融の安定に対して経済力の増大とともに多額の財政的貢献を行ってきたが、米国等では国民が反対し、議会が紛糾することがしばしば起こる。日本の場合には国際協力について国内で合意形成が一定程度可能である。日本の国民は国際貢献について高く評価するという認識を一貫して持っている点は評価すべき。また、忘れられがちであるが、国連における社会経済面で日本が果たしてきた役割は大きい。
日本の平和主義、多国間主義はある程度高く評価されてきたが、その中身を考えることについて、本来は、国際的な構造が変化するのに従い、国民的な議論を行っていくべきであったが、そのようなことは少なく、多国間主義、平和主義ということで議論が終わっていた側面は否めない。国際情勢の変化を踏まえ、中身についても考えていくという方向に一定程度なってきていることは望ましいことと考えるが、より議論すべきである。
米国との関係について、米国との同盟関係から制約もあったが、その制約の中で日本が独自に考えてきた部分もあった。例えば、日本が第二の経済大国となった後、80年代から90年代にかけて金融危機が国際的な不安定を引き起こすということで問題になっていたが、80年代に発生した最初のラテンアメリカの累積債務危機の際に、日本は、遠く離れていても、資金を拠出し援助プランを策定した。このように日本は、自身の立場から政策を出しており、経済大国として日本がどのように平和主義を推進していくか考えていなかったということではない。
○戦後70年を振り返りその中で日本が果たしてきた役割を考える上で、冷戦が捨象されていたら、画竜点睛を欠くことになってしまうのではないかと考える。期間で言えば、戦後70年のうち、45年間は冷戦期であった。冷戦終結から25年が経過したが、ここで冷戦とその終結に果たした日本の役割を確認しておく必要があると考える。歴史家として、この点は特に重視したい。また特に重要なこととして、今日、民主主義、人権、法の支配といったことは、グローバルな価値の基準となり、21世紀の世界を見ても、日本が重視すべき基準となる価値観である。「日本は冷戦の中で脇役に徹した、フリーライドであった」等々、色々と言われることがあるが、決してそうではなかったと考える。冷戦期に非欧米文明圏の有力な国として、日本が、民主主義、人権、法の支配を掲げたことは重要な意味をもった。また安全保障の面では、朝鮮戦争の際、日本は、占領下にあったが、日本の安全に直結するとの発想があり、当時から機雷掃海に格段の技術を持っていたので、昭和25年の段階で、元山沖の掃海に従事し、犠牲者も出している。しかし掃海を行ったことは決して間違った選択ではなかった。サンフランシスコ講和会議以来、日本は共産主義に反対する陣営を支援してきた。戦前、日本は誤って全体主義の一種であるナチズムの側と関係を持ってしまったが、同じく全体主義に属する社会主義や共産主義は、20世紀の世界に大きな不安定をもたらした。20世紀は人類史上にないほど人権が蹂躙された世紀であり、覇権主義、帝国主義、総力戦思想等いろいろあるが、その原因の一つにこうした全体主義のイデオロギーがあった。20世紀を通じ、共産主義、社会主義のイデオロギーと体制は様々な負の役割を果たしが、その中で冷戦期の日本は攻撃的な反共主義に陥ることなく、西側同盟の巾広い自由主義の路線と視野の中で、安定的に冷戦を終わらせる役割を果たした、特に、80年代の中曽根政権時代の西側同盟路線は非常に貢献をしたと言える。
○総理談話とこの懇談会の議論は、国内と国外の両方から非常に注目されている。冒頭、杉田副長官の方から、日本テレビの世論調査についてご紹介があったが、総理の談話について4割の人が70年の平和国家としての歩み、3割近くの人が今後の日本の国際的な取り組みに注目してほしいと考えているとのことである。これは本当に心強い調査結果だ。他方、米国、欧州、アジアを問わず海外おおむねの論調は、非常に残念ながら、例えばこのような世論調査結果が出ると、これは、日本全体の世論が保守化、右傾化しているから出てくるのではないかという議論になりがちである。私自身は、本日の田中理事長と岡本委員の話を伺い、日本が戦争中の反省を基に国際貢献、そして平和・安全保障について努力、貢献してきたという点に共感し、これを支持するものである。このように、戦後の日本が自由、民主主義、法の支配といった価値観に基づいてこれだけの国際貢献をし、努力をしているのだということが、自己満足や自己弁護のように映らないよう、海外にも少しでも客観的に響くよう、なんとか工夫して伝わるようできないか。
○日本が今まで果たしてきた国際協力分野での貢献については、田中理事長が述べたとおり、世界から評価、感謝されているということは疑いようがない。他方、同時に過去70年間の国際協力分野で、日本の貢献について浮き彫りになっている課題もあると思う。平和の分野、平和構築といわれる分野においては、いわゆる非インフラ系、ソフト系の貢献について日本は必ずしも世界でプレゼンスを発揮できていない。
何名かの委員がおっしゃっていたが、現場で必要な支援も多様化、複雑化しており、よりプラクティカルなものが求められるという意味で、平和構築支援といっても治安分野の改革、法整備などの面において、官民一体となって、戦略性、仕組み、信頼というものを持った上で、平和のための秩序を作る、あるいはまたモデルとなり得るものを提供するというところに世界のニーズも変わってきている。したがって、世界の中の日本、平和国家としての日本が今後求められているのは、モデルとなるものを提供する立場に回っていくことだと思う。
この点について、モデルとなり得る事例が一つある。国連の安保理決議1325号は平和構築や平和維持にジェンダー的視点を導入したり、性暴力から女性を保護したりするなど紛争と女性に関する決議であるが、この実行にあたって国連は各国ごとに国別行動計画を作ることを推奨している。現時点で国別行動計画を作っているのは45か国で、G8で作っていないのはロシアと日本だけとなっている。2013年には日本政府もこの実行について積極的に取り組む旨発表して、官民連携でかなり透明性の高い形で国別行動計画が作られた。日本の国別行動計画の画期的な点として、紛争だけでなく、震災など自然災害の分野におけるジェンダーの視点というものが取り込まれているという点が挙げられ、市民社会側からもモデルケースになりうるとして非常に高く評価されている。しかし、本件は今年3月初めの国連婦人の地位委員会で国際的に発表される予定で、外務省の承認もすでにおり、パブリックコメントも出たものだったのだが、何らかの理由で止まっている状態にある。本件については、市民社会の側には、これが世界に出ることで日本が新たに平和の分野で積極的な貢献を示していくことが出来る、しかも新たな秩序というかビジョンを提供しうるものであり、官民が協力して国際貢献分野に一層取り組むという21世紀型の貢献が打ち出せるという考えがある。日本としてもこういうイニシアティブがきちんと実現するように、市民社会や政府が協働できるところは協働していく姿勢を打ち出していくのが重要ではないかと考えている。
岡本委員の発表については、何人かの委員がおっしゃっていたが、東アジアで抑止力となり得るものが、他の地域、例えば中東地域では逆に脅威となり得ると考えている。また、日米同盟は日本の政治的な判断基準まで米国と一体化するのではないかという懸念もあり得る。インド洋での給油活動をやめた代償が5000億円かかったとのお話があった。この5000億円はアフガニスタンの復興に対して5年間で提供するという趣旨であったが、そもそもこの5000億円という金額が妥当だったのか、他のオプションもあり得たのではないかという点が検討されるべきだと考える。この点は、先ほど申し上げた日本の中での人材育成や戦略・仕組みが重要という点につながる。他の国は、それだけの金額を使う形でなくても、専門家チームの派遣などといった形で現場でのプレゼンスを保つ支援を行っている面もある。米国との一体化を目指す部分はめざし、日本の独自性を確保すべきところは確保する形でリスクを軽減していく方向も考えるべき。
○守るべき繁栄の質、どういう質の繁栄を守ろうとしているのかということが非常に重要と思っている。自由、民主主義、法の支配だけでなく、環境、資源保護を加え、そういう規範と質の繁栄を守っていく日本であるということを強調していくことが重要と考える。
○今日の議論の中でビジネスの側面に関する発言があったが、それは本日の第三のプレゼンテーションのような位置づけができると思う。米国のプレゼンスによって秩序の安定が図られる。そしてODAがある。さらにそこにビジネスが進出して、民間資金が出ていくことで色々な国が発展したというのは重要な点である。ビジネスの点でも、おそらく昔はもう少し上から目線であったと思うが、それがだんだん学習してきたという面があると思う。ビジネスの面が重要という点に関連して、賠償の話では出てこなかったが、台湾、韓国も含めた雁行型経済発展論という点についてもどこかで触れなければならないと思う。
また、50年代、アジアは本当にまだ貧しかったという点は強調したいし、議論の中であったとおり、冷戦という国際環境の変化を越えてきたという点も強調した方がよいと思う。また、我々はいろいろ幸運があったし、国際社会が受け入れてくれたという面もあった。そこは謙虚に幸運であり、受け入れてくれた国に感謝するという姿勢を出した方がよいのではないかと思う。
最後にもう一点だけ、憲法9条という言葉が何回か出てきたが、日本が侵略される恐れなくやってこられたのは「憲法9条があるからではない」という言い方ではなく、「憲法9条2項があるからではない」という言い方にもっていきたい。憲法9条1項は変える必要は毛頭ないと考えている。
○ODAの話について一言だけ言うと、対GDP比から言うと日本はごく小さく、今は0.2%である。ODA予算の問題は解決する必要がある。
(4) 最後に、安倍総理より、委員の熱心な議論に感謝しつつ、以下の点を述べた。
○日本の戦後70年については、かなり陰徳を積んだ70年だったのではないかと考えている。日本は貧しく、それほど豊かだったわけではない時代からODAを始めた。賠償からある意味で連続性を持っていたことによって国民的な理解があったのかもしれないが、同時に、ODAを税金の中から出していくことについて、日本では、他の国に比べて確かに多くの国民が理解している。日本も実は大変貧しい時代に世界の支援で今日を作った。例えば、新幹線も高速道路も黒部第四ダムも世界銀行からの融資で作ったのであり、91年までこつこつと借款を返済してきた。それが日本の高度経済成長につながったのではないだろうか、そして、これが日本の富につながっただけではなく、世界も裨益している、今度は日本の番ではないか。
○日本が歩んできた70年の道のりをもう一度確認しあって、そのことに静かな誇りを持ちながら、さらに今後の道のりについてやるべきことをやっていこうという気持ちを持つことが、これまでやってきたことを継続していく上においても大きな力となると思う次第である。
○何の繁栄を守って行くのか、繁栄の質という点についてご意見があった。環境とか大切な価値がたくさんあるわけで、それこそしっかり主張していくべきだろうと考える。経済の繁栄をひたすら求めていくのでなく、ODAにおいても量から質について考えなければならない時代を迎えている。質についてもちゃんと確保していくことに力をいれていきたい。
○TICADXの際にアフリカの首脳から、日本の企業が、職場に初めて倫理と道徳を持ち込んでくれた、働く喜び、規律を守ることの素晴らしさを教えてくれた、これは日本の企業だけだという話をしていただいて、私は大変誇らしく思った。
(以上)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/dai3/gijiyousi.pdf
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