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昭和天皇がたった一度だけ激怒 元側近が語る胸の内〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150505-00000002-sasahi-peo
週刊朝日 2015年5月8−15日号
昨年には「昭和天皇実録」が公開され、今年は戦後70年という節目の時期である。元側近が見た、昭和のあの日の昭和天皇の姿から、昭和天皇の心のひだを感じる。
中村さんは、文部省を経て、文化庁文化財保護部長などを歴任。昭和61(1986)年4月に昭和天皇の侍従となった。当時、52歳。逝去までの3年足らず、昭和天皇の側で仕えた。
「終戦までは大元帥、そして戦後は人間天皇として二つの人生を歩まれた昭和天皇は、心のなかに大戦の傷をつねに抱えておられたのだと思います」
中村さんがそう感じたのは、「おつつしみの日」の姿だったという。
昭和天皇は、毎年7月下旬から9月上旬まで栃木県にある那須の御用邸で静養するのが恒例だった。終戦記念日の8月15日だけ、東京都内で執り行われる全国戦没者追悼式へのご出席のために一時帰京する。那須では天気がよければ侍従がお供をして、キャラバン隊をつくり長時間、植物の調査に行く。しかし、広島、長崎の両原爆の日は、御用邸で一日静かに過ごされていた。
あらたまって黙祷をするわけではない。しかし外出はせず、御用邸の部屋に一日中こもり、生物学の研究や、和歌の推敲をするのだという。
中村さんの記憶に残るのが、昭和62(87)年8月6日の広島原爆の日だ。連日、霧雨が続くなか、この日は久しぶりに薄日が差した。
この日、昭和天皇はたった14分間だけ庭に出た。お供は、中村さんともうひとりの侍従、侍医の3人。そして、陛下の身辺を護衛する側衛官がひとりだけついた。向かったのは、庭の見晴らし台のそばの茂み。岩の脇に数本伸びたヒトツバショウマがあった。
「お心に哀悼をもってお慎みになる日ではありますが、小さな白い糸状の花をじっと眺めておられた」
午後2時53分に庭に出て帰邸は3時7分。生物学者として知られる昭和天皇。可憐な花にどんな思いを抱いたのだろうか。
また中村さんにとって忘れられない出来事が、昭和63(88)年の2月のことだ。
2月27日の午前中、NHKが「二・二六事件・消された真実」という特集番組を再放送した。番組は、事件後の陸軍軍法会議で首席検察官を務めた匂坂春平陸軍法務官が残した膨大な資料を、作家の澤地久枝さんらが読み解く形で制作。当時のフィルムや関係者の証言を交えて、青年将校が重臣を襲撃し、クーデターを起こした経緯や事件の真相に迫ろうというものだった。
午前11時45分に番組が終わった。その5分後に、中村さんは、皇居に参内した人たちの記帳をまとめた「お帳」を陛下に見ていただこうと、皇居・宮殿の御座所に上がる。
渡り廊下のドアを開けて、ロビーに入ると奥に、昭和天皇の部屋がある。普段どおり、「中村でございます」とドアをノックして入ろうとしたその瞬間。中村さんがこれまで耳にしたこともないような声が、部屋から漏れ聞こえてきた。
部屋にいるのは昭和天皇ただひとり。口にした内容はわからないが怒鳴るような声が響き、ずいぶん長い時間にも感じた。
驚いた中村さんはすぐに、侍従候所(控室)に引き返した。
「陛下が番組のどの内容についてお怒りになったのかはわかりません。二・二六事件は当時から、52年も前の事件です。しかし、陛下にとっては、非常に生々しい内容であり、ご自身のお気持ちと違ったものが放送されたのでしょう」
侍従候所で、ひといきついてから御座所に戻った。
「お帳が参っています」
中村さんが部屋に入ると、昭和天皇は、机で原稿を書いていた。ひどく疲れた様子だった。昭和天皇があれほど激しく怒った声を中村さんが耳にしたのは、あとにも先にもこの一度きりだった。
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