http://www.asyura2.com/15/senkyo184/msg/328.html
Tweet |
幻となった昭和天皇の沖縄訪問 その心中を元側近が証言〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150504-00000000-sasahi-soci
週刊朝日 2015年5月8−15日号
昭和の時代に関心が高まっている。昨年には「昭和天皇実録」が公開され、今年は戦後70年という節目の時期である。元側近の記憶をたどれば、昭和天皇の心のひだも見えてくる。
高知県警本部長を務めた齊藤正治さん(78)は昭和60(85)年から3年間、宮内庁に出向した。その後、警察官僚として警視庁副総監などを歴任し退官した。
宮内庁では総務課長として、植樹祭や国体など昭和天皇の地方公務全般を取り仕切る役目を担った。齊藤さんは、幻に終わった昭和天皇の沖縄訪問に尽力したひとりだ。
「実現はしませんでしたが、陛下ご自身の沖縄と沖縄県民に対する思いは大変に深く強いものがありました」
昭和62年は、秋に沖縄で国体が開催されるという年だった。
この年の4月、昭和天皇は誕生日にあたっての会見で、「念願の沖縄訪問が実現することになったならば、戦没者の霊を慰め、長年の県民の苦労をねぎらいたい」と訪問への希望を述べた。宮内庁としても、天皇訪沖をなんとか実現させたいと考えた。齊藤さんは、7月末から8月にかけて、卜部(うらべ)亮吾侍従とともに事前調査のために沖縄県を訪問。水面下で準備は進んでいた。
だが、9月に入り、昭和天皇は体調を崩してしまう。侍医らは手術を決め、天皇訪沖は幻に終わった。
代わって、当時皇太子であったいまの陛下が名代を務めた。皇太子ご夫妻は、糸満市の国立沖縄戦没者墓苑を参拝し、沖縄平和祈念堂で昭和天皇のお言葉を読み上げた。
この原案を作成したのが、齊藤さんだった。昭和の時代は、行幸先でのお言葉案の作成などは、担当する役所や宮内庁に任せていた。
平成の両陛下のようにお言葉を自ら推敲しないのは一見、冷たいと思う人もいるかもしれない。
だが齊藤さんは、それが昭和天皇が追求した、象徴天皇としてのお姿の一側面ではなかったかと話す。
「象徴天皇の実像を国民に理解していただくことは重要ですが、過剰な演出などが伴うようになれば、それはポピュリズムに陥る危険性もあわせ持つことになります。政治家のように弁舌豊かに話すことは、必ずしも必要ではないのです」
昭和天皇は9月22日に腸の手術を受け、訪沖中止が発表された。
「手術から間もない時期に、昭和天皇は侍従に、『ダメか』と漏らしたそうです」
齊藤さんによれば、昭和天皇の訪沖は翌年の春にもう一度、模索された。
「しかし半世紀にわたって仕えた徳川義寛侍従長が4月に勇退、在職10年の富田朝彦長官が6月に勇退し、わずか2カ月余の間に、『奥』と『表』のトップが交代する事態もあって、話は立ち消えになってしまったのです。お元気であれば、ぜひ訪問していただきたかったですね」
昭和天皇は、沖縄訪問中止を発表したときの心情を歌に込めている。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK184掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。