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関西電力高浜原子力発電所(「Wikipedia」より)
司法失墜 原発再稼働で真っ二つの裁判所、稚拙で偏狭な判断 国は強引に再稼働突入
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150429-00010000-bjournal-bus_all
Business Journal 4月29日(水)6時0分配信
カウントダウンが始まった2つの原子力発電所の運転再開をめぐって、司法の判断が真っ二つに割れた。今月14日に福井地裁が高浜原発の再稼働を禁じる仮処分を下したのに対し、同22日には鹿児島地裁が川内原発の再稼働を差し止める仮処分の申し立てを却下したのである。
判断が割れた背景には、2年前に原子力規制委員会が定めた新規制基準の妥当性に対する評価の違いがある。しかし、新規制基準はいわば原発の建築基準だ。耐震性や津波への対応力強化を求めたものにすぎず、これで原発事故のリスクをゼロにできるわけではない。にもかかわらず、原発の運転再開の可否を新規制基準に対する評価ひとつで判断するのは、あまりに偏狭だ。こうした姿勢は、司法への国民の信頼を損なうとともに、憲法が定める三権分立の精神を貶めることになりかねない。
鹿児島地裁の決定の翌々日のこと。原発をめぐる2つの仮処分の申し立てと裁判所の決定について、ある経済団体OBが非公式の取材に応じ、「残念でならない」と呟いた。このOBは、エネルギーや電気通信といった産業政策、地球温暖化対策に長年取り組んできた人物だ。何が残念なのか質すと、「せっかくの貴重な機会なのに、原告も、原告の代理人(弁護士)も申し立ての内容が稚拙すぎる。こんなことでは、行政や立法は現状に安住してしまい、原発をめぐる政策のレベルが向上しない」という言葉が戻ってきた。これには、経済ジャーナリストとして取材活動を30年以上続けてきた筆者も、頷かざるを得なかった。
というのは、原発については推進、反対の両派の多くが、それぞれ偏狭な自説に凝り固まっている。最終的に目指す姿が似ていても、そこに至るアプローチが違うとなると、相手を敵と決めつけて聞く耳を持たないという態度をとる人が珍しくないのである。
例えば、反原発派には、経済や暮らしが混乱する可能性や、その対策の必要性を決して考えようとせず、原発を直ちにゼロにせよと主張して一歩も譲らないタイプの人が多い。逆に推進派には、コストを押し上げるような安全対策は、低コストという原発の長所を損なう愚策だと決め付けて、運転を早期に再開すべきだという乱暴な向きが多い。原発への信頼性を高めるには安全対策が不可欠という意見にも、「対策に膨大な時間とコストを費やさせて、事実上原発の再稼働を不可能にしようとする原発反対派の深謀遠慮だ」と猛反発する人が少なくないのだ。
原発問題に関しては、賛否両派がそろって視野が狭くなりがちで、体系的かつ漸進的に事態を改善していこうという発想を欠いているのである。
●視野の狭い司法判断
残念なことに、視野の狭さという特色は、ここで取り上げた2つの司法判断にも通じるものがある。
まず着目したいのは、福井地裁の決定だ。同地裁のことは本連載前回記事でも取り上げたので簡略に記すと、再稼働の是非を判断する上で勘案すべきことはたくさんあるのに、争点を新規制基準に絞り込んで、「求められるべき合理性とは、原発の設備が基準に適合すれば深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもないといえるような厳格な内容」と、事故をゼロに抑え込む基準が必要だと強調した。その上で、「(実際の新規制基準は)緩やかにすぎ、これに適合しても本件(高浜)原発の安全性は確保されていない」と断定。運転再開を禁じる仮処分を下した。
一方の鹿児島地裁は、新規制基準について「最新の科学的知見に照らし、不合理な点はない」と高く評価。2005年以降、想定されていた基準地震動(耐震設計の目安となる揺れ)を超える揺れが全国の4原発で5回観測された点についても、福井地裁が新規制基準を信頼できない根拠としたのに対して、鹿児島地裁は、「(新基準では)考慮されている」と判断した。そして、「九州電力は地質などの詳細な調査を実施し、自然現象の『不確かさ』も考慮して想定を定め、耐震設計をしている」ので、「地震による事故で放射性物質が外部に放出されることを相当程度防ぐことができる」と、住民たちの運転再開の差し止めを求める仮処分の申し立てを却下した。
読売新聞、日本経済新聞といった原発再稼働を後押しする論調を掲げている新聞は、そろって福井地裁の決定を「(新規制基準に関する)事実誤認」に基づいたものだと強く批判。その一方で、鹿児島地裁の決定については、1992年の最高裁の判例を「踏襲した」内容となっており、「妥当なもの(である)」と歓迎の意向を表明する記事が目立った。逆に、日頃から反原発色の強い朝日新聞、毎日新聞や多くの地方紙は、福井地裁の決定を派手な扱いで報じたものの、鹿児島地裁の決定はそれほど目立たない扱いにとどめていた印象が強い。
しかし、ジャーナリズムとしては、司法判断を評価するに当たって結論が自社の社論に合致しているかどうかでニュースバリューを判断するのではなく、決定の理由とその論理構成に十分目を配るべきだろう。
●争点に踏み込まなかった両地裁
福井、鹿児島両地裁の2つの決定は、あまりにも原子力規制委員会の新規制基準と原発の安全性にこだわりすぎた感がある。福井地裁の決定は、論理構成がほぼそれ一色で、違和感を拭えない。それに比べれば、鹿児島地裁の決定は重大事故が起きた時の住民の避難計画を検証するなど、多少は丁寧な内容だ。とはいえ、避難者が集中した時の道路の渋滞やバス、運転手の確保などに実効性があるのかという原告(住民)の問題提起には、裁判所としての十分な検証を避けた。その代わりに、「放射線防護機材の備蓄や緊急時の放射線の測定、安定ヨウ素剤の投与」などのルールができていることを根拠に、「一応の合理性や実効性を備えている」としており、重要な争点をはぐらかした印象は免れない。
両決定が、原子力事故が起きた時に泣き寝入りする人を出さないための損害賠償制度の再構築、使用済み核燃料や汚染物質が長期間にわたって原発の敷地内に放置されることになりかねない問題の処方箋づくりといった争点に踏み込まなかったことは、残念としかいいようがない。
●こっそり原発存続にお墨付き
政府は、「世界最高レベルの規制基準に基づいて、原子力規制委員会が審査して安全が確認できた原発は再稼働をする」と繰り返すばかりで、避難計画や賠償制度、使用済み燃料・汚染物質の処理といった厄介な問題を先送りしたまま、強引に原発再稼働を進めている。近く決定する地球温暖化ガスの削減計画でも、実際は15基程度の存続を念頭に置いているにもかかわらず、どの原発を候補に何基残すかを明確にせず、「原発はベース電源」という表現で、こっそり原発存続にお墨付きを与える方針だという。
三権分立というからには、司法には、こうした行政の危ういレトリックを検証する役割を担ってほしいと期待するのは、筆者だけではないはずだ。
福島第一原発事故のような未曾有の事故が現実に起きたのだ。司法が、過去の判例を金科玉条として、専門性の高い原発の分野の技術的な問題には踏み込まないと自らに制約を課すのは決して好ましいことではない。
しかし、だからといって技術的な問題で隘路にはまり込み、大局を見失った判断を下すのも、国民の期待を裏切る行為にほかならない。そのことを、司法には肝に銘じてもらいたいものである。
(文=町田徹/経済ジャーナリスト)
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