★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK183 > 832.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
石油ショック(1973年) 対中東交渉、「油断」回避せよ:対米自立的匂いでも排除されてしまう日本の首相(田中角栄)
http://www.asyura2.com/15/senkyo183/msg/832.html
投稿者 あっしら 日時 2015 年 4 月 27 日 05:28:51: Mo7ApAlflbQ6s
 


 敗戦国日本は、米国に憲法を強いられただけでなく、米国が強いた憲法に違背する「日米安全保障条約」まで締結させられるというおぞましい経緯を経て独立を回復した。

 その後驚異的な経済成長を遂げ欧米先進国と同レベルの生活ができるまでになったが、最高法規である日本国憲法の上位に“日米安保体制”が存在する歪な従属国家という位置からは脱却できないまま現在に至っている。

(対米従属が経済的困窮をもたらすものであったならば、国民多数のなかで自立への渇望が増大しただろうが、奇跡とも称される高度経済成長を遂げたことで、対米従属が居心地のいいもののように感じられてしまったようだ)

 対米従属が生半可なレベルでないことは、少し前に起きた、首相就任の一歩手前にあった小沢一郎氏の民主党代表辞任や辺野古移転を回避しようとした鳩山由紀夫元首相の辞任を思い起こせばわかる。
 二人の辞任劇に米国支配層は登場しない。二人を辞任に追い込んだのは、日本の検察でありメディアであり政治家たちである。
 小沢氏や鳩山氏は、米軍の限定的駐留や駐留なき日米安保といった政策を掲げてはいるものの“親米”の範疇に入る政治家であり、米国に弓を引こうと考えている政治家ではない。

 戦後史を顧みれば、米国支配層の政策に反する(意向に従わない)考えを持つ政治家が政治的指導者(首相)の地位に長くとどまることがどれほど困難であるかがわかる。

 鳩山由紀夫氏の祖父である鳩山一郎氏は、昭和21年の総選挙で勝利し首相にならんとしたまさにそのとき公職追放(大政翼賛会に与しなかった政治家だが満州事変の時期に文部大臣の職にあった)の措置を受け、代わって総裁になる吉田茂氏にその地位を譲るハメになった。首相就任後の鳩山一郎氏は、保守合同(自民党)を成し遂げ改憲と再軍備を主張し対ソ外交も進めたが、対ソ融和外交を米国に見咎められ、日ソ国交回復を花道に政界から引退した。
 鳩山一郎氏の後を継いだ石橋湛山氏も、大陸中国(中共)との国交回復を模索する動きを見せたが、病気を理由に(実際は軽い脳梗塞)2ヶ月ほどで辞任してしまう。その後の活動ぶりを考えると、首相を辞するほどの病ではなかった可能性が高い。

 石橋湛山氏の後に首相となったのが、対米追随を主張して石橋氏と総裁選を争った岸信介氏(安倍首相の祖父)である。

 転載する記事は、田中角栄氏が首相を務めていた時期に発生した「石油ショック」に関するものである。
 田中角栄氏は、記事にあるような親アラブ政策を採っただけでなく、自前の石油資源確保にも動いた。さらに、日本頭越しの米中接近を受けて、米国に先んじるかたちで日中国交回復も実現した。
 ご存じのように、田中角栄氏は、立花隆氏が明らかにした「田中金脈問題」でメディアなどから追及を受け辞任に至ったが、それで終わらず、ロッキード事件で逮捕されてしまう。その後も自民党に対して隠然たる影響力を行使したが、竹下登氏を中心とした派閥の反乱(自立)により力を失った。


 こうしてざっと戦後政治史をみると、日本の総理大臣は、全面的に従うふりをしながら腹の中では舌を出して微妙に政策を変える「面従腹背」の対米関係は可でも、米国支配層の政策にそぐわないことを政策にするような動きを見せると命取りになる可能性が大であるとわかる。

 日米同盟(対米従属)が今後も日本の利益になるのなら、国家の矜恃を捨ててそれに安住するのも悪くないのかもしれない。
 しかし、官僚や自民党幹部のなかでも心ある(先が読める)人たちは、かつてのような対米従属を今後も続けてみたところで益はないと思い始めているようだ。

 国民に対し、「日米同盟」万歳、日米安保体制が日本の存立基盤という刷り込みを行ってきたツケ(自業自得)であるが、対米自立政策が国民多数派のものになりにくい政治環境での対米外交は困難至極なのである。


※ 関連投稿

「民主・岡田代表 安倍政権下の行使容認認めず:安倍首相より“危険”で“恐い”岡田民主党」
http://www.asyura2.com/15/senkyo183/msg/748.html

「孫崎さんの錯誤:読売新聞社説は、安倍首相が支持層から反発を受けずに反省やお詫びの表明ができるよう日米関係を利用したもの」
http://www.asyura2.com/15/senkyo183/msg/789.html
================================================================================================================
企業転変 戦後70年
(4)高度成長の転換点
石油ショック(1973年) 対中東交渉、「油断」回避せよ

 1973年の石油ショックは戦後の高度経済成長の転換点だった。中東産の安い石油に頼る工業発展のモデルは見直しを余儀なくされ、脱石油の切り札として原子力発電所の建設が加速する。一方、新エネルギーへの挑戦や省エネの取り組みは日本企業に新たな飛躍の土台をもたらした。

 第4次中東戦争でアラブ産油国は原油価格を引き上げ、供給量を削減する戦略を打ち出し、日本は大騒ぎになった。石油が途絶えるのではないか。不安は狂乱物価や生活必需品の買いだめなどパニックを広げた。

 「日本は戦後、石炭から中東の安い石油に切り替えて重化学工業化を進めてきた。その入手が大変だとなり国民の誰もが終戦直後を思い出した」。首相の田中角栄の秘書官として危機対応にあたった小長啓一(元通産事務次官)は言う。

 「油断」を回避するには、アラブ諸国に友好国と認められる必要があった。官邸には現地から日本について厳しい見方が届いていた。

 そのさなか、米国務長官のキッシンジャーが来日する。「イスラエル支持とは言わないが中立を」と求める長官に、田中は「米国が代わりに供給してくれるのか」と詰め寄った。一瞬ためらう長官に「そうでしょう」と応じた田中は苦渋の政策転換を決意する。

 官房長官の二階堂進が11月22日、アラブ寄りの政府見解を表明した。続けて副総理の三木武夫が中東諸国を訪問することになった。

 ヤマ場はサウジアラビア。12月12日、首都リヤドでファイサル国王と特使の三木が会談。日本の置かれた状況を説明する三木に、国王は「友人のため石油の全必要量を保証するあらゆる努力をする」と約束した。

 ただし、条件があった。エジプト大統領、サダトの同意が必要だというのだ。国王顧問から、自分がカイロに行って大統領の了承をとりつけるので、それまで国王の発言がもれないよう念を押されたと特使に同行した有馬龍夫(元ドイツ大使)は証言録で振り返る。

 三木も続けてカイロ入りするが、大統領は急病で会談のめどがたたない。ようやく会って日本は友好国として扱われるべきだと言質を得たのは、4日後のことだった。12月25日のアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の会合で日本は供給削減の対象から外れた。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
第1次石油危機とは

 ▼第1次石油危機 1973年10月6日、アラブ諸国とイスラエルの間で第4次中東戦争が勃発した。これを受けて中東産油国は原油価格を引き上げ、供給量を減らす戦略を発動した。

 日本の1次エネルギーに占める石油の比率は当時77%。その8割を中東から輸入していた。原油価格は約4倍に急騰。物価の高騰が国民生活を圧迫し、一部の生活必需品が不足する事態になった。78〜79年には第2次石油危機が起きた。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK183掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
政治・選挙・NHK183掲示板  
次へ