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NHKスペシャルの「戦後70年 - 日本人と象徴天皇」の放送を見た後、吉田裕著の岩波新書『昭和天皇の終戦史』を開いて読んだ。非常に面白い。これを読むと、従来の昭和天皇像が一変するし、終戦時の昭和天皇をめぐる動きがよく理解できる。学生にも社会人にも必読の書として推薦したい。昭和天皇の戦争責任の問題を考える上で教科書となる一冊であり、改憲の危機が迫った戦後70年の政治状況の中で、一人一人に確かな知見を与えてくれる本だと評価できる。新書が出たのは1992年、今から23年前、村山談話の3年前になる。宮沢内閣から細川内閣のとき、今からは考えられないほどリベラルな空気に充ち満ちた時代だった。果たして、右旋回を強める岩波がこうした本を出し続けられるのか、今後のアカデミーの環境でこのような現代史研究が生息できるのか、時勢を考えると率直に不安に感じられる。想像の飛躍かもしれないが、ファシズム権力に睨まれて発禁というか、日本的な自粛(自己内強制)で品切れとなり、書店から回収処分されるのではないかという予感すら漠然と抱く。右翼には「悪魔の書」だ。昨年の「実録」以降、マスコミを動員した昭和天皇美化の言論工作はまさに徹底的な絨毯爆撃の感があり、それに異を唱える「反日分子」の異端は一匹も許さないという空気になっている。
一読して、きわめて生々しい昭和天皇の実像が浮かび上がる。嘗ての昭和天皇のイメージは、政治や軍事には直接タッチせず、現場の情報から遠ざけられた、何もかも臣下や参謀に任せきりのお飾りの操り人形だった。実際はそうではなく、木偶人形の像は捏造されたものであり、戦争責任の追及を逃れるべく偽計された虚構の言説だったということが、この本の中で実証的に暴露され、覚醒させられる中身になっている。日本近現代史の到達と成果が示され、歴史は大きく塗り替えられた。米国から公文書が漸次的に公開され、それを吉田裕らが丹念に拾って精査し、検証作業が積み重ねられ、従来とは全く逆の、政治にも軍事にも前のめりで介入関与していた昭和天皇の真相が、正しい歴史認識として確定されている。特に、1979年に発見された昭和天皇の沖縄メッセージ(天皇メッセージ)の意味が大きく、この史料が決定版の証拠となって昭和天皇の表象が覆り、禁治産者然とした姿から黒幕として国策を決め動かす権力者の姿となった。昭和天皇はあらゆる国策の局面で(上奏の形式で)判断と指示を下しているし、自分の思惑どおりに政治をキャリーすべく、人事に干渉し、側近を使った裏工作を繰り返している。実権を持ち、権力を存分に行使しながら、責任を後で問われないカムフラージュを細工している。戦争責任とは別に、正体はきわめて卑劣で矮小な政治人格だ。
この本の感想を論じるにおいては、最初の部分(P.11-83)が特に印象的で、昭和天皇と近衛文麿の真実を抉った叙述に大いに蒙を啓かれたことを言わないといけない。のっけから目から鱗の衝撃で、昂奮させられて文章に食い入り、何度も戻って読み返した。実に鮮烈な、そして説得的な昭和史が示されている。これまでの私の認識では、軍国支配者たちはどれもこれも同じ口上で昭和天皇を庇い、自己保身と責任逃れの醜悪な立ち回りをし、機械的に「国体護持」で右往左往するロボット群だった。が、実はそうではなく、個々がさまざまな計略を持ち、昭和天皇を含めて陰湿な駆け引きを演じ、裏切り、裏切られる魑魅魍魎の人間模様があったのだ。昭和天皇は、木偶人形どころではなく、後白河とか後醍醐とか、古代や中世に暗躍する腹黒い天皇を彷彿させるマヌーバーに没頭していた。1941年10月、対米交渉が実を結ばず挫折、近衛文麿は内閣総辞職するが、これは昭和天皇が自ら対米開戦積極論を主導して国策を方向づけ、東条英機を重用した結果である。近衛文麿は、米国が要求する中国からの撤兵を受け入れる方針で粘ったが、昭和天皇がそれを裁許せず、軍部の中でも最も冒険的な海軍の真珠湾攻撃を採択する。近衛文麿は失脚し、東条英機が国政を独裁する形になった。近衛文麿はすぐに敗戦を確信し、浪人の身で、どうやって終戦するか、開戦の時点から策を練り続ける毎日を送る。
近衛文麿の予想どおり、戦争はすぐに形勢不利となり、ガダルカナル戦で負け、サイパンを落とされ、本土がB29に空襲される事態に到り、東条英機は苦境に立たされ、1944年7月に内閣総辞職に追い込まれる。開戦から3年、終戦まで1年。東条内閣の打倒を工作した主力は岡田啓介ら重臣グループで、その中心には内大臣の木戸幸一がいた。すなわち黒幕の昭和天皇がこの権力闘争を差配していた。1945年2月、近衛文麿を含む7人の重臣(平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野野伸顕、岡田啓介、東条英機)が呼ばれ、昭和天皇の前で戦局の見通しを上奏する。吉田茂らの協力を得て作成した上奏文の中で、近衛文麿は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と断じ、敗戦と共に発生するであろう「共産革命」から天皇制を防護するべく、ただちに戦争終結に踏み切るべしと提言した。これに対し昭和天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と却下、なお戦局の挽回に固執して戦争の継続に及ぶ。3月10日には東京大空襲があり、4月1日には沖縄本島への上陸があり、多くの人命が失われて行った。昭和天皇が終戦の決意をするのは、5月7日にドイツが連合国に降伏した後の6月22日で、ソ連を仲介にした終戦工作の着手を御前会議で表明、特使に近衛文麿を指名する。3年半前と逆の政治になり、東条英機が退場し、近衛文麿が復活した。
近衛文麿がブレーンと作成した「和平交渉の要綱」では、国体護持を絶対条件としつつ、帝国憲法を改正し、武装解除に応じるという内容が含まれている。「最悪の場合には御譲位もまた止むを得ざるべし」と、天皇退位までも終戦工作のカードとして視野に入っていた。近衛文麿の終戦工作は実を結ばず、7月17日にポツダム会談の開催となるが、この近衛文麿の天皇退位策が8.15以降の政治に尾を引くことになる。1945年7月末から8月上旬、昭和天皇はポツダム宣言の受諾に動いて「聖断」に持ち込む。が、ポツダム宣言には戦争犯罪人の処罰の一項があり、ここから昭和天皇の窮余の保身作戦が始まった。敗戦と同時に成立した東久邇内閣で、近衛文麿は国務大臣として入閣。水を得た魚のように活動し、10月4日にマッカーサーと会談に至る。天皇とマッカーサーが会談した1週間後だ。この席で、日本の赤化を防止して建設的なデモクラシー国家を作るには皇室と財閥の保持が必須だと説き、すべての戦争責任を軍部に押しつける持論を展開。この近衛構想はマッカーサーの戦略と近かったため、マッカーサーは近衛文麿を買い、憲法改正の主導役になるよう示唆する。近衛文麿が絶頂のときだ。ところが、近衛文麿の戦後構想には昭和天皇の退位と皇室典範の改正が明確にあり、これが木戸幸一や昭和天皇の不興を買い、勝手にGHQのカウンターパートになろうとする独断専行が咎められて確執と反撃が始まる。
1945年10月、マッカーサー司令部と昭和天皇と近衛文麿の三者の間で、微妙な権力闘争劇が発生していた。吉田裕はそこまで明示的な説明はしていないが、降服直後の9月、昭和天皇と木戸幸一は明らかに近衛文麿の退位論と改革論を活用し、これを前面に立て、退位まで受け入れる命乞いの素振りでGHQとの交渉に臨んでいる。戦争責任が避けられない以上、絞首刑になるより退位の方がマシだ。が、10月中旬以降、情勢が急変し、戦後再出発の仕切り役を自認していた近衛文麿が失脚するのである。11月9日には米側に尋問を受け、12月6日には戦犯容疑で逮捕命令が出される。どういうことか。一般の理解では、E.H.ノーマンがGHQ政治顧問のアチソンに提出したところの、近衛文麿を弾劾するレポートが決定的な役割を果たしたとされている。しかし、どうやら、それとは別の陰謀工作が蠢いていて、近衛文麿が罠に嵌められた可能性が高い。昭和天皇と木戸幸一は、側近を使って情報収集を重ねる中で、マッカーサーが昭和天皇に対して戦争責任を問う意思がないこと、むしろ何があっても昭和天皇の身柄を守り、その地位のまま利用する形で日本の占領政策を進めようとしている方針をハッキリと確認していた。となると、退位、退位と大声で騒ぎ、退位を既定路線化しようとしている近衛文麿は邪魔になる。戦前、国民に人気のあった近衛文麿は目立つ存在で、軍部(東条英機)と対立して失脚した経歴はこのとき勲章になっていた。
近衛文麿の思惑では、昭和天皇に退位させ、幼い少年の皇太子が成長して即位するまでの間、弟の高松宮を摂政に据える予定だった。その当事者の高松宮がこの退位論に色気を出して乗っかる態度を示し、当時、昭和天皇の戦争責任について歯に衣を着せぬ批判を漏らすという状況が生じていた。ここで、退位を阻止せんとする木戸幸一と昭和天皇が巻き返しに出て、近衛文麿が呆気なく追い落とされるのである。11月の政変。近衛文麿は、まさか自分が戦犯指定されるとは夢にも思っていない。このとき、彼ら軍国支配者たちの頭にあった「戦争犯罪人」の「戦争」の概念は、太平洋戦争(日米戦争)のことであり、真珠湾攻撃のことであり、中国との戦争(満州事変以降の15年戦争)は全く想定しておらず、そこにGHQによる戦犯追及が及ぶ展開は寝耳に水だったのだ。吉田裕は明示的にそういう推論を述べているわけではないが、紙背を読めば、自然に支配層内部の凄絶な暗闘と角逐が浮かび上がる。極東委員会が立ち上がり、正式な裁判(極東軍事法廷)が動き出せば、中国に対する戦争犯罪の問題は必ず生じるもので、それをどう巧く処理し、ソ連や豪州など昭和天皇の戦争責任を厳しく問う意見を排除して丸め込むかは、マッカーサーの重要な政治課題であった。そこで、スケープゴートにされる運命になったのが近衛文麿なのだ。近衛文麿は、戦争責任を軍部(東条英機)に押しつけ、昭和天皇を退位させ、戦争の始末をつけようと図ったが、皮肉なことに、近衛文麿が昭和天皇に身代わりにされて中国に対する戦争責任をとらされる羽目になった。
歴史のピエロというか、因果応報というか、哀れな最期に同情を禁じ得ない。きっと近衛文麿は「(昭和天皇に)嵌められた」と思っただろう。すべて昭和天皇の思惑どおりに転び、邪魔者が自分の代わりに罪を被って消えた。青酸カリを飲んだり、巣鴨で首を縛られたり、歴史の一寸の機微で、それは昭和天皇に及ぶ運命かもしれなかった。近衛文麿が1945年の前半に終戦工作に奔走しなければ、木戸幸一と昭和天皇はなお「神風」の未練に妄執し、ポツダム宣言もどこ吹く風で本土決戦を選び、となると、躊躇する米軍を尻目に赤軍が北海道に侵入、蹂躙し、沿海州から渡海した80個師団が帝都に突撃していたかもしれない。米国単独の日本占領支配は大きく歯車が狂い、ニュルンベルク裁判と同じように、東京裁判もソ連が大きく口出しする構図になっていたことだろう。
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