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中国の軍事支出は日本の4倍。単独ではかなわない photo Getty Images
「中国の脅威にどう備えるか」安保法制見直しの基本論点を整理すると、安倍政権のしたたかさが見えてくる
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42934
2015年04月17日(金) 長谷川 幸洋「ニュースの深層」 現代ビジネス
安倍晋三政権の最重要課題である安全保障法制の整備をめぐる国会論議が5月の連休明けから始まる。いったいなぜ集団的自衛権の行使を容認する法整備がいま必要なのか。安倍政権の立場は本来あるべき姿からみれば、実はきわめて抑制的でもある。論戦を前に、もっとも基本の論点を整理しておこう。
■ 中国の軍事支出は10年間で4倍に
なぜ安保法制の見直しが必要か。それは、なにより世界とりわけ東アジアの安保環境が険しく緊張が高まっていて、日本が少なからぬ脅威にさらされているからだ。リベラル左派と立場を分かつのも、実は現状認識が出発点である。リベラル左派は安倍政権の考え方をあれこれと批判するが、そもそも日本に対する脅威の存在をどう受け止めるか、という肝心の議論が欠けているのだ。
一言で言えば、私を含めて集団的自衛権の行使容認賛成派は脅威を深刻に受け止めている。ところが、反対派は脅威に目を背ける。現状認識がまったく異なっているから、対応策の議論も180度、違ってしまうのだ。
日本にとって最大の脅威が何かといえば、中国である。北朝鮮の核ミサイルもあるが、ひとまず措く。中国の習近平国家主席は中国共産党総書記に就任した直後の2012年12月に広州戦区の陸海軍部隊を視察して「軍事闘争の準備を進めよう」と演説した。尖閣諸島の領空を国家海洋局所属のプロペラ機が初めて侵犯したのは、その直後だった。
13年1月の海上自衛隊護衛艦に対するレーダー照射事件、同年11月の防空識別圏設定と攻勢が続き、前後して尖閣諸島周辺の領海を中国公船がひんぱんに侵犯を繰り返している。中国が周辺海域に眠る原油や天然ガスの資源目当てに、尖閣諸島に対する領土的野心をみなぎらせているのは、もはや議論の余地がない。中国自身が「尖閣諸島は中国のもの」と言っている。
一方、中国の軍事支出は10年間で4倍、26年間で40倍に膨張した。権威あるストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によれば、中国の軍事支出は2014年で2163億ドル。対する日本は457億ドルである(http://www.sipri.org/research/armaments/milex/milex_database)。実に4倍以上だ。一連の行動と軍事拡張をみて「脅威」と感じないようでは、おめでたすぎて話にならない。
■中国に日本は単独で対抗できるか?
そんな中国に日本は単独で対抗できるか。ここからが政策論議になる。私は「対抗できない」と考える。理由は簡単だ。中国は人口が日本の10倍以上、国内総生産(GDP)は中国の10兆3500億ドルに対して、日本は4兆7600億ドル(2014年10月時点のIMF推計)である。中国の経済力は実に日本の2倍だ。
中国は毎年、GDPの2%を軍事費に費やしているが、日本は1%である。GDPが2倍の中国が2%を軍事費に費やしているのに対して、日本が半分の1%というのは、日本が中国の軍事拡張ペースに追いつこうと思ったら、毎年の防衛費を4倍に増やさなければならない。実際、2014年の数字はそういう計算になる。
日本は防衛費を4倍にできるか。「できる」というなら、日本が単独で中国に対抗できる可能性がある。個別的自衛権でもOKという話につながっていく。だから日本の防衛費を中国並みにできるか、という議論は鍵を握っている。私の答えは「できない」。
いま日本の防衛費は約5兆円だから、4倍にしようとすれば、毎年20兆円にしなければならない。96兆円の国家予算のうち、あと不足分の15兆円をどこから調達するかといえば、社会保障費の削減を避けて通れない。
なぜなら、31兆円の社会保障費が政策経費の中で最大の費目であるからだ。もちろん他の経費も減らさざるを得ないが、他にちょっと手をつけた程度では、とうてい間に合わない。年金や医療、介護の社会保障費を削って防衛費を4倍増にするのが可能だろうか。それは絶対に(!)できない。朝日新聞や東京新聞が大反対するからだ(笑)。
国債の大増発や大増税によって賄う方法もあるが、それも朝日や東京は絶対に(!)許さないだろう。冗談はともかく(笑)、そういう政権は結局、国民が容認しないからできないのだ。なぜか。
どうしても単独で対抗したいというなら、日本は大軍事国家にならざるをえないからだ。米国軍隊には頼らないのだから、韓国やスイスのように徴兵制も検討課題になる。集団的自衛権容認反対論者は「認めれば日本は徴兵制になる」などというが、トンチンカンもいいところだ。話はまったく逆で、個別的自衛権のみにこだわれば徴兵制に行き着く可能性が高い。「自分だけで戦う」のは、なにより「高く」つく。それから国民の覚悟が問われるのである。
つまり中国だけを相手に考えても、日本は残念ながら単独で中国の脅威に対抗できない。
■ 「中国は脅威だ」と口が裂けても言えない政府
さてとなると、どうやって日本の平和と安定を守るのか。それが集団的自衛権の話に直結する。米国との連携を強化し、日米の抑止力によって日本に対する侵略行為を未然に防ぐ。私はそれが一番安上がりで、かつ現実的な選択であると考える。だから、そのために集団的自衛権が必要なのだ。
「なぜ集団的自衛権の行使を容認するか」という問いに対して、政府の公式説明は具体的ケースとして「邦人輸送中の米艦防護」と「ホルムズ海峡における機雷敷設への対応」という2例を挙げている。それは、たしかに重要だ。
だが、より本質的には国の平和と安定を脅かす脅威に対して、日本がどのように抑止力を強化するか、という問題である。政府は「中国は脅威だ」などと口が裂けても言わない。せいぜい「中国の意図が不透明」という程度だ。前のコラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42747)でも書いたが、中国を名指しして脅威と公言すれば「中国は敵だ」と言ったも同然になるからだ。
「お前は敵だ」と言った瞬間に、あとは「それならガチンコで勝負をつけようじゃないか」という話になってしまう。力の勝負に持ち込むのは「政治と外交の死」を意味すると言っても過言でない。だから、そんな話は禁句中の禁句である。
逆に言うと、政府が脅威を脅威として説明しないから、集団的自衛権の話が分かりにくくなる面がある。国民の安保防衛問題に対する理解度も反映している。だからこそ政府が言わない脅威と対抗策を説明するのは、ジャーナリズムの大事な仕事になる。脅威の認識を政府があえてあいまいにしておくのは、安保防衛問題の要諦なのだ。
中国が尖閣諸島に攻めてきたら、日本は「個別的自衛権で対抗すればいいじゃないか」という話もある。日本が攻められるのだから、日本は当然、個別的自衛権で対応可能だという説だ。
現実に一触即発の危機になれば、日本も米国も出動する。そのとき米国艦船が公海上で中国に攻められそうなのに、日本が何もしないわけにはいかない。つまり尖閣危機で日本が攻撃されていなくても、米国を助けなければならないという事態はありうる。
そんな日本の支援を個別的自衛権の発動として世界に説明し、国連に報告すると何が起きるか。個別的自衛権の拡大解釈になりかねない。ひとたび拡大解釈すれば先例になって世界に広がり、かえって世界は危険になる。集団的自衛権は国連憲章に堂々と認められた権利なのだから、集団的自衛権の行使と説明したほうがよほど合理的だ。この問題は以前のコラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38926)で詳細に説明したので、ぜひそちらも参照していただきたい。
日米安保条約があるのだから「現状維持でいい」という議論はどうか。これは他国が攻めてきたら、米国に手助けしてもらう。でも米国が攻められても助けない、という議論だ。あるいは政府が説明するように、朝鮮半島危機で邦人輸送中の米艦が攻撃されても、日本は助けないという話である。それは通用しない。
■ 武力行使の一体化論
リベラル左派が言う「日本が戦争をする国になる」という意見はどうか。日本が国際社会の平和と安定のために、海外で他国軍隊への支援をすると戦争に巻き込まれるではないか、という主張だ。
実際には、日本はこれまでもインド洋での補給活動やイラクでの支援活動を重ねてきた。今回、論点になっているのは武器の使用である。自衛隊が国連平和維持活動(PKO)の一環として他国の軍隊を駆けつけ警護したり、活動妨害を除去する際、武器を使わざるを得ない局面は「ある」と想定して、あらかじめ武器使用を容認しておくのは現実的ではないか。「ない」と想定するほうが無理がある。
武器使用を認めると、自衛隊員に「死者が出る」という意見もある。話は逆で、むしろ武器使用を絶対に認めないほうが、よほど危険である。
武器使用に絡んで「武力行使の一体化」という議論もある。外国軍隊に対する後方支援で「他国の武力行使と一体化」する場合には、憲法9条が禁じる武力の行使に当たるからダメというのが、従来の政府の立場だった。
これについて、昨年5月にまとまった「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」の報告書(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/dai7/houkoku.pdf)は、そんなことを言い出せば「極東有事で米国が戦闘作戦行動のために日本の基地を使うと、米軍の武力行使と一体化するから日米安保条約自体が違憲、という話になって不合理(要旨)」と指摘した。
私は、この指摘に賛成である。そもそも「武力行使の一体化論」なるものが、どういう場合に一体化と想定しているのか判然としないし法的根拠もよく分からない。
この点、政府の立場は微妙だ。「武力行使の一体化はダメ」という理屈を基本的に維持したうえで今回、新たに「現に戦闘行為を行っていない場所で他国軍隊に補給や輸送などの支援をするのは、他国の武力行使と一体化でないからOK」という解釈を示している。
もともと日本は極東有事の際に使用を認めることを前提に、米国に基地を提供してきた。いまさら「戦闘行為をしていない場所なら武器弾薬を含めて後方支援してもOK」と言うのはいかがなものか。
政府の解釈だと、沖縄の基地で米軍に武器弾薬の補給を認めるのは「戦闘が行われていない場所だからOK」という話になる。理論的には沖縄の基地が戦闘の現場になる場合だってありうる。そうなると、補給できない話になってしまう。このあたりは、いかにも武器使用慎重派に配慮した苦肉の策という感じがする。そもそも一体化論そのものが、なんとも苦しい議論なのだ。
■ したたかな安倍政権
リベラル左派の「憲法解釈を政府が勝手に変えていいのか」という反対論にも触れよう。
政府はこれまで何度も憲法解釈を変えてきた。吉田茂首相は自衛のための戦争であっても交戦権を否定していたし、その後の政府が自衛戦争を認めた後でも、岸信介首相は「一切の集団的自衛権を認めない」のは「言い過ぎだ」と言って、限定容認の立場だった。
世界情勢が変わっているのに、憲法解釈のために対応を誤って、国が危うくなっては元も子もない。政治の一番の責務は「国を守る」ことである。
さて、先の安保法制懇報告は集団的自衛権について「憲法9条は国際紛争の解決のために武力による威嚇または武力の行使を禁じたもので、自衛のための武力行使は禁じていない。国連PKOや集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法的な活動への憲法上の制約はない。個別的または集団的を問わず自衛のための実力の保持も禁じていない」という考え方を示している。
つまり「もともと集団的自衛権はいまの憲法で完全に認められている」という考え方だ。
一方で「必要最小限度の自衛権の中に個別的自衛権は含まれるが、集団的自衛権は含まれない」という従来の政府解釈を踏まえたとしても、新たに「必要最小限度の中に集団的自衛権も含まれる」と解釈して「集団的自衛権の行使を認めるべき」という別の考え方も示した。
安倍政権が実際に採用したのは後者の「必要最小限度の集団的自衛権」である。そこから「国の村立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される危険がある」など、集団的自衛権の行使に新3要件と呼ばれる条件が導かれている。だから安保法制懇が示した完全容認論に比べれば、かなり抑制的なのだ。
この判断は正しかったのか。私は理屈の上では前者の「完全容認」が正しいと思う。だが、国民の理解を含めた現実の政治状況の下で、安倍政権が後者の「限定的容認」を選択したのは、政治的に正しいと思う。
理屈と現実政治は異なる。理屈で正しいことを押し通そうとしても、現実にはできない場合はいくらでもある。国の運命を左右する安全保障問題でもそうだ。安保法制懇の議論と安倍政権の判断の違いについて、マスコミは右も左もすっかり忘れてしまったようだ。だが、武力行使の一体化論の扱いを含めて、こういう現実的判断を下す点こそが、実は安倍政権の本当のしたたかさなのだ。
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