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戦時中、日本に動員された朝鮮人犠牲者の追悼碑を、撤去するよう求める動きが最近、各地に広がっている。「強制的」という文字をテープで隠したり、副教材から説明を削除したりした自治体も現れた。史実に揺らぎが生じているのか。朝鮮人強制連行の歴史を追いかけて20年以上になる外村大・東京大学教授に聞いた。
――強制連行の歴史に長くこだわってきたのは、なぜですか。
「どうせ韓国の味方でしょうとか、どうも『反日』らしいとか、色眼鏡で見られがちですが、私は日本近現代史の、実証を重んじる研究者です。戦前の日本帝国の実像は、裏側からのほうがよく見える。今後、日本がどんな社会をつくっていくかを考えるうえでも大切な歴史です。韓国・朝鮮人のためというより日本人自身のため、未来のために記憶し、伝えていくべきだと思っているのです」
――強制連行は「なかった」と主張する人がいますが。
「とんでもない。朝鮮半島で、日本内地への暴力的な労務動員が広く存在していたことは、史料や証言からも否定しようがありません。政府は1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『官あっせん』『徴用』と変わりましたが、すべての時期でおおむね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の朝鮮人が主に内地に送り出されました」
「こんな当たり前の史実が近ごろ、なぜか曲解される。誤解や間違いも目立つ。歴史家の常識と、世間の一部の感覚とが、ずれてきたように感じています」
――なぜ、こんなことに?
「特に90年代半ばからですね、史料の発掘が進み、いろんな話が出てきました。朝鮮人の待遇が日本人よりよかったとか、自ら望んで来た人がいたとか。いずれも事実の断片ではあるんですよ。じゃあ暴力的な連行や虐待は例外的だったかというと、それは違う」
「事実というものは無限にあるものです。都合のいい事実だけをつなぎあわせれば別の歴史も生まれる。でも、それは『こうあってほしい』というゆがんだ願望や妄想に近い。慰安婦問題で国が直接、連行を命じた文書が出ていないことに乗じ、強制連行までも『なかった』ことにしたい人がいるのでしょう」
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――事実の断片と歴史の本筋。どうすれば見分けられますか。
「何が一般的で、何が例外的な出来事だったかを見分けるには、幅広い史料にあたり、ミクロとマクロの両方から押さえる必要があります。日本の統治機関である朝鮮総督府の調べでは、太平洋戦争開戦前年の40年に朝鮮農村で『転業』を希望していた男性は24万人程度しかいなかった。朝鮮内部の動員や満州への移民もありましたから、その年だけでも底をつく人数です。翌年から人集めが大変になったのは疑いようがない」
「実際、内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について『拉致同様な状態』と文書で報告しています。厚生省から出張した職員も45年1月、村の労務係の言葉として、住民から『袋だたきにされたり刃物を突きつけられたり命がけ』だと報告している。それほど抵抗が広がっていたのに、日本帝国は無理に無理を重ね、逆に動員数を増やしていったのです」
――そこまでして動員したのは、なぜですか。
「政府が目指していたのは、あくまでも戦争勝利でした。そのために労働力を総動員し、石炭や食料を増産しようとした。朝鮮人の多くが投入されたのも炭鉱です」
「炭鉱は重要産業なのに人手不足で困っていた。待遇が悪く、監獄部屋に象徴されるように労務管理も劣悪だったからです。本来なら機械化と意識改革を進めるべきでした。しかし業界は朝鮮農村の困窮や無知につけ込み、安い労働者を確保しようとした」
「ただ、朝鮮に行政機構は整っていませんでした。識字率が低く、ラジオはおろか電気すら通っていない村々で、日本内地に渡る労働者を集めるのは非常に困難な作業だった。とにかく若い男を呼び出し、最後はトラックに押し込むような事態になったのです」
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――「募集」段階では強制とは言えないという人もいます。
「初期の段階から当局は深く関わっていました。たとえば会社の募集係に同行し、日本人の警官が家の前に立つ。役人から呼び出しがかかる。それだけで多くの朝鮮人が恐れをなし、おとなしく応じたのです。断って大変な目に遭った、というような話が出回っていましたから。それが植民地というものです。その後、戦局が悪化するにつれ、暴力性は誰の目にも明らかになっていきました」
――最後は徴用までした、と。
「そこが誤解されがちですが、『徴用』は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので国の栄誉を担う労働者だったんです。弔慰金や別居手当など援護もついてきた。だから日本人は戦争初期から徴用されました。ところが、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年です。徴用令を適用しないまま、多くを動員したのが特徴でした」
――なぜでしょう。
「日本人と違って、ちゃんとした権利を持つ主体ではなく、法に基づく行政命令がなくても動かせる、と見なされたからでしょう。安くても、厳しい職場でも、つべこべ言わずに働いてくれるだろうと。差別意識があったのです」
――最近の外国人労働者問題の議論に似ていますね。
「そうなんです。人手不足が深刻な分野で、賃金アップや労働環境の改善によって日本人を定着させるのではなく、低賃金でも働いてくれそうな外国人を期間を限って連れてくる、という発想は同じです。省庁をまたいで人員確保に関わる部局が多数あり、利害や思惑の違いを抱えていて、きちんとした方針を打ち出せなかった点も似ている。結果として、なし崩し的に動員が広がっていきました」
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――裏側から、日本帝国のどんな姿が見えてきましたか。
「戦争に勝つための国家運営や構想、政策とはほど遠かった現実です。総力戦では、まさにその国の素の姿が現れます。英国のように労働運動が盛んな国では、労働者の意見を取り入れたほうが生産性も上がると考えた。日本では民主主義も労働運動も弱かったので『ともかく働け』となった」
「朝鮮に長く住んだ役人の中には、創氏改名に反対した人もいたんですよ。ところが、そういう声は上に届かず、現地の事情に疎い役人が無理な計画を立てた。動員数を達成するため老人や病人まで送り出し、すぐに送り返すようなことまで起きていたのです」
「民主主義を欠いた社会が、十分な準備も態勢もないまま無謀な目標に突き進めば、結局はその社会でもっとも弱い人々が犠牲になる。社会全体も人間らしさを失っていく。そういう歴史として記憶すべきだと思っています」
――戦後70年で出す首相談話が議論になっています。
「朝鮮半島で起きた歴史を踏まえれば、村山談話にも小泉談話にもあった『植民地支配』への『おわび』は盛り込んで当たり前です。ただ、特定の言葉が入るかどうかだけが注目されることには違和感もある。村山談話には『若い世代に語り伝えて』いくとありますが、では歴代政府はその後、何をしたのか。もっと具体的な行動を積み重ね、信頼関係を築くことこそが大切なはずです」
「日本には朝鮮をルーツに持つ人も、中国をルーツに持つ人もいます。戦後は一緒に手を携えて、民主的で平和な日本を築いてきました……ということが言えるようになればいいのですが」
――歴史を見る目も、外交関係に引きずられがちですね。
「その時期を生きた私たちの祖先を尊重したい、という思いは私も同じです。ただ、足尾鉱毒事件を闘った田中正造は、日韓併合で浮かれているような民族は滅びると批判していた。朝鮮の植民地官僚の家庭で育った作家の梶山季之も、日本人の責任を問う作品をいくつも残しています。植民地支配に何の矛盾も感じずに職務を遂行した人だけを、私たちが継承すべき日本人の姿だ、歴史だと言うのは、とても不自然です」
「怖いのは、学校教育の現場で、強制連行の問題は厄介だから触れずにおこう、という雰囲気が広がることです。その気配はすでに現れている。生徒にしてみれば授業では教わらず、書店に行けば嫌韓本が山積みなんです。なかった論を信じ込みはしないまでも、語られてきた歴史は少し違うのではないか、という疑いを持つ人が増えてもおかしくない」
「追悼碑の問題も、自治体は明らかに腰が引けている。地元の人々が強制連行の歴史を掘り起こした地域も少なくないんです。そんな歴史があったということを自治体トップがきちんと認め、発信する。歴史の真贋(しんがん)を見抜く力が、いま私たちに求められています」
(聞き手・萩一晶)
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とのむらまさる 66年生まれ。早稲田大学社会科学研究所助手をへて07年から東京大学大学院総合文化研究科准教授、今春から教授。著書に「朝鮮人強制連行」。
4月17日 朝日新聞 朝刊より
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