42. 母系社会 2015年4月10日 15:19:07
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●古賀茂明氏や小沢一郎氏は、日本の戦後民主主義が産み出した<至宝> です。社会主義派は、この民主主義体制を踏み台にしないと政権を獲れ ませんから、民主主義を軽視するわけではありませんが、残念ながら、 階級社会での民主主義は、せいぜいが政治家や学者、ジャーナリストなど のエリートの民主主義しか実現できません。そして、エリート達は巨大資本 に買収されてしまうので、民衆自身が主権者となる真の民主主義は実現しない。だから、革命後は、極力労働時間を減らして自由時間を増やし、民衆自身の 統治能力を向上させるための教育、つまり、社会主義教育を行い、労働が個人 労働ではなく、協働であることを浸透させる意識改革を行う。 (この協働の件は後で。日本の労働分配率は40〜60%程度。それで理論上 は最大で、労働時間を約半分に減らしても今の生活水準は維持できるはず。 つまり、日本の搾取率は約50%ということ) ●近代以前の西欧は生物的自然観。あらゆるものは生物で魂があるという ものでしたが、近代になると機械論的自然観が主流となり、自然物には魂 がなく、全ての「もの」は部品から成り、部品の単なる集合体が「もの」 という考え方。例えば、社会や国家は個人の単なる集積と考えます。こう した文化=世界観を背景に資本主義は欧米から始まったので、個人主義が 基本で、労働は個人労働と考えます。 一方で、マルクスやマルクスの師であるヘーゲルはドイツ人ですが、当時 のドイツは中世の世界観も残存する西欧でも後進国だったこともあり、 機械論には違和観があったのだと思いますが、弁証法を重視した哲学を 掲げ、また、どうしてかはわかりませんが、アジア文化=世界観の特徴 である関係主義(仏教が典型です)も唱え、マルクスはヘーゲルから、 弁証法と関係主義、事的世界観を継承し、労働は協働だと考えます。 この協働という労働観は、スポーツ選手が表彰の時、必ずコーチとか の支えてくれた人に、感謝の言葉を述べるのと基本的には同じです。 選手はコーチとかのチームで協働して、自分の肉体と精神を鍛える=生産 する職業とも見なせます。選手の鍛えられた「肉体と精神」が生産物。 (この関係主義は説明が困難なので、下記のサイトで調べて下さい) それと、機械論では人間の知性=理性の能力を割と高く評価しますが、 弁証法や関係主義の場合、機械論ほどは高く評価しないという面も あります。それで、前者は熟考して、ある確信的結論に到達すると、 その結論は絶対的な真理だと考えがちで、後者は確信的結論も暫定的結論 とし、常に検証=吟味する。これが両者の体質の違いになります。 (労働は協働であるし、また、人間の労働は分業労働でもある。だから、 分業労働での個人の貢献度合いなど、計算しようとしても方法が無い) ●この労働は個人労働なのか、協働なのかという問題は、労働の成果で ある生産物の所有権の問題になり、たとえば、我々は、ある個人が山奥で 一人で労働して生産した物は、その人の所有物と考えます。しかし、協働 の考え方だと、労働するには必ず技術を使いますが、その技術は、親など の先行世代から受け継いだものなので、このような労働も、先行世代との 協働と考えます。仮にその人個人が発明した技術で生産されたものでも、 先行世代から受け継いだ技術を改良したものなので、協働と考えます。 これは、少し理屈ぽい議論ですが、基本的な人間観が違うわけで、協働の 場合は、元々個人は個人を育成した家族や地域社会の中で、何らかの役割 を担う存在と考え、また個人の側も役割を担うことでプライドを維持し、 また生き甲斐も、この役割を果たすことで得られると考える。 ですから、独立自存の個人なるものは幻想であり、個人はあくまでも「家族 (地域社会)を背負った個人」と考えるわけです。(仏教も無我説です) ●ところが、マルクス派でも、マルクス思想を誤解して、機械論的に解釈 したロシア・マルクス主義=スターリン主義が主流となってしまい、日本 共産党も、この機械論派マルクス主義です。 もちろん、ロシア・マルクス主義が全くの間違いというわけでもないのです が、彼らは、人間の知性を割と高く評価することも影響し、また、マルクス 思想を教条化する面もあり、まるで、マルクス思想で分析すれば、どんな 問題でも間違いを犯さないと勘違いしている傾向があるので、独善的で、 間違っても認めない傾向があります。 ●戦後、西欧では構造主義的マルクス主義、そして、日本では広松渉氏の 物象化論的、関係主義的マルクス主義の学派が成立し、マルクス思想観を 大きく変えました。両者は全く同じというわけでもありませんが、基本的に は、マルクスを前期と後期に分け、後期マルクスを高く評価する点や、構造 主義の構造とは、要するに「関係性の束」のことですので良く似ています。 (ただし、関係主義を徹底させているのは広松渉氏の方で、おそらく、仏教 の影響だと思います) ●また、広松渉氏の活躍で、社会主義=共産主義観も大きく変わりました。 というのは、マルクス思想を<永遠の現状否定運動>という永久革命的、 アーナキズム的な運動として解釈する道が開けたのです。 これは、マルクスの唯一の哲学書である「ドイツ・イデオロギー」には <共産主義とは絶えざる現状否認運動であって、共産主義には、実現を 目指すべき「理想社会」など無い>と、明確に書かれているからです。 世界は無限に生成変化し続けると考えるマルクスの<開放的な弁証法>の 立場では、そもそも、あらゆる現象には<終わり>は無いと考えるので、 極当たり前のことでした。 ●一方で、マルクスは共産主義を低次レベルの社会主義と、高次レベル の共産主義に分けて、それぞれ素描して説明したので・・・ 共産主義運動には、実現を目指す人類の究極の「理想社会」としての 「共産主義社会」構想があり、そうした社会の実現を目指す運動だという 共産主義観が広まり、宣伝されてきました。しかしそうではなく、あの理想 社会論は、あくまでも暫定的な理想社会論です。 どんな言説にも、暗黙の前提=パラダイムがあり、その「前提が正しければ」 という条件付きの言説であるように、「資本主義社会が2番目の理想的社会 なら」という前提が有り、それが正しければ、それ以上の理想社会ですから、 人類の究極の理想社会論ということになります。 我々は、死にそうなほど空腹になれば食事で満腹することが「理想」となる ように、資本主義社会で苦しめば、その苦しみの原因を取り除いた社会が 理想社会と考えてしまう宿命があるのです。つまり、様々な社会があるの ですが、その中の資本主義社会という特殊な社会だけに捉われた理想社会論 に過ぎません。 人間に可能なあらゆる理想的社会の中から選び出した最高の理想社会では ないのです。そもそも、人間に実現可能なあらゆる理想的社会自体が不明 ですから、そうした方法自体も不可能です。 そもそも、神ならぬ人間に、究極的な理想社会など構想する知性などない わけです。また、「人間とは何であるか」がわからなければ、それに対応 した理想社会も構想できないわけで、その点でも不可能です。 ●とは言え、生物である人間は極めて実践的な存在です。ですから、常に、 「歩きながら考える」生物であり、この「歩きながら考える」ことが弁証法 なのですが、間違っていても、とにかく目指す方向を決め、歩まなければ なりませんから、現時点で理想と思える社会を暫定的理想社会として目標に して進めば良く、それを絶対化しなければ良いのです。 人間は、そのような暫定的目標を掲げて、それに挑戦して試行錯誤しながら、 ここまできたのですから、人間は、さしあたり「正しい」・「理想」と思う ことするして良いし、また、そうするしかない宿命です。絶対化しなければ 良いわけで、絶えず検証し、問題が見つかった時は修正すれば良いのです。 ★絶対化すると、スターリニストや資本主義者と同じで、あのソ連や、今の 日本社会は、基本的には正しい社会=理想社会と思い込んで、謙虚な姿勢で 不満の声に耳を貸さないようになり、過激派だ、テロリストだ、左翼だとか、 反動だ、反革命だと考え、弾圧してしまうという恐ろしい事態になります。 機械論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AB%96 関係主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E4%BF%82%E4%B8%BB%E7%BE%A9 構造主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9 廣松渉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89 物象化 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 |