http://www.asyura2.com/15/senkyo182/msg/620.html
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「首相や官房長官らが、現実認識と「主観的願望」と混同する思考法を常態的に使い始めている:山崎 雅弘氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/17041.html
2015/4/5 晴耕雨読
https://twitter.com/mas__yamazaki
内田樹「主権国家はまず自国の国益を配慮する。日本だけができなかった。中国を敵視し、メディアを通じて中国のガバナンスは不安定であり、経済的にも後退局面に入っているという『主観的願望』を垂れ流してきたせいで、現実が見えなくなったからである」http://bit.ly/1GT7lHA
1937年に日中戦争が宣戦布告なしに本格化した時、日本人は「日本が負ける」「日本が勝てない」とは思わなかった。
日本と中国の紛争の構図は「(強国の)日本が(暴虐で弱い)中国を懲らしめる」、つまり「暴支膺懲」の制裁行動で、中国側が反省して謝れば「今回は許してやる」くらいの感覚だった。
ベトナム戦争のアメリカ軍と同様、正規軍同士が戦う個々の「戦闘」では、日本軍が勝つことが多かったが、紛争はまったく収束しなかった。
紛争の泥沼化に伴い、日本の外交的孤立と経済制裁で逆に日本のダメージが大きくなり、段階的な対日制裁の駄目押しとして「ハルノート」が突きつけられた。
当時のメディアが、政府と軍に迎合した「主観的願望」を捨て、後に日中戦争と呼ばれる紛争(当時の言葉では日支事変または支那事変)全体の構造を客観的に分析し、日本軍の武力行使の限界と問題点を指摘していたなら、歴史の流れは変わったかもしれない。
「翼賛」の問題点を後世に教えている。
菅義偉官房長官「(知事選などの)選挙結果は基地賛成、反対の結果ではないと思う。振興策、世代など色々なことが総合されて結果が出る」(朝日)http://bit.ly/1NNU9WA
これも主観的願望で現実を勝手に「解釈」し、都合良く意味をねじ曲げる思考法の典型的なパターンだろう。
官房長官が、個々の選挙の「意味」を勝手に操作して解釈し、そこに示された「民意」を無視する態度をとることは、現に存在する「現実」と向き合わずに逃避することを意味する。
首相や官房長官らが、現実認識と「主観的願望」と混同する思考法を常態的に使い始めているのは、かなり危ない段階だと思う。
70年前の「前例」では、現実の進行と「主観的願望」の齟齬が拡大した時、前線兵士や一般市民など「現場の人間」が、そのギャップを埋める努力と犠牲を強いられた。
政府や軍の上層部は、自分たちの認識の甘さや誤判断を一切認めず、無謬という面子に固執し、「翼賛」体制のメディアもそれに追従した。
大きな船や飛行機に乗っていると、港や空港から船体・機体が動き出しても気づかないことがあるが、大手メディア業界の中にいる人は、3年前と今では明らかに状況が違っていることに気づいていないのかと思う。
外から見れば、船や飛行機は明らかに前と違う位置にあるが、変化が問題として議論されない。
昨日の夕方に配信された古賀茂明氏のメルマガによれば、NHKの内部には「このままではだめだ」と問題意識を強く持って「民放よりも悩んでいる人が多い」が、在京の民放テレビ局では「もう変わっちゃってるっていうか、これが問題なんだということに気がつかない人が非常に増えている」のだという。
大手メディア自身が「メディアの萎縮」という言葉を使い、漠然とした一般論で「個別の現象」を報じることはたまにあるが、問題の構造全体に光を当て、当事者として「問題にどう抵抗しているか」を受け手に示すケースは見た記憶がない。
「メディアの萎縮」という言葉が、現状追認のように使われている。
価値判断基準を内面に持たず、上の意向や周囲の動向に依存する人間は、社会の空気が「人権や人道の尊重」ならそれに順応し、「人権や人道の尊重よりも国家体制の維持存続」が価値判断の上位だという空気に変わればそれに順応する。
選挙前の報道で「与党が圧勝の見込み」と報じれば、それにも順応する。
政府は3日、自衛隊を「わが軍」と表現した安倍晋三首相の発言に関連して「(自衛隊は)国際法上、一般的には軍隊と取り扱われる」とする答弁書を閣議決定した(日経)http://s.nikkei.com/1DxqNuc
現行憲法を「形骸化させる既成事実づくり」が、緩やかに少しずつ、進められている。
>増田聡 クレームが来たので何かが中止されることはよくあるけど、褒められたからといって何かが続けられることはとても少ない。この社会では不満の声はすぐ聞き入れられ賞賛の声はそれに比べて軽んじられる。息苦しい社会がイヤならその逆がよい。誰かに褒められたらクレームは無視してそれをやり続けましょう
ジョナサン・テプリツキー監督作品『レイルウェイ 運命の旅路』を観た。
太平洋戦争の序盤、1942年のシンガポール陥落で捕虜となった英軍技術兵と、日本軍憲兵隊通訳の、戦中と戦後の関係を主題にした実話。
これは傑作だと思う。
多くの人にお奨め。
作品中、元日本軍憲兵隊通訳(真田広之)が「戦争の悲劇」と言うと、憲兵の拷問によるPSTDに戦後も苦しむ元英軍技術兵(コリン・ファース)が「戦争の犯罪、だ」と訂正するシーンがある。
自分なら捕虜の生き恥を晒さない、と言っていた前者が戦後も生きていることを知った後者が前者に会いにいく。
映画『レイルウェイ 運命の旅路』の中で、捕虜となった英連邦軍兵士とアジア各地から徴用された「労務者」が、古代エジプトのピラミッド建設を彷彿とさせる「奴隷的使役」で過酷な鉄道建設工事に従事させられるシーンがあるが、私が様々な文献から得た情報と照らしても、特に誇張や歪曲はないと思う。
泰緬鉄道建設の実相はイギリスでは周知の事実だが、慰安婦問題でBBCなど英国メディアが「セックス・スレイブ(性奴隷)」という言葉を用いる背景には、当時の日本軍は英軍捕虜の人権や人間の尊厳を平然と蹂躙した、という「共通認識」があるように思える。
言葉自体に形式で抗議しても説得できない。
映画『レイルウェイ 運命の旅路』の原作は、元英軍技術兵エリック・ローマクスの自伝で、自分に残虐な拷問を加えた組織の一員であった、元日本軍憲兵隊通訳の永瀬隆に対する「憎しみ」を、彼がいかに克服するかという「長く苦しい旅の物語」。
あらゆる戦争や紛争に通じる、普遍的な題材を扱っている。
映画『レイルウェイ 運命の旅路』は、慰安婦問題での日本と外国の政治的対立を解決するヒントを示唆している。
最近、日本軍の捕虜虐待に関する映画が幾つか制作させているが、こうした映画を観たり、子供に見せることは決して「自虐」を意味しない。
むしろ「現実から逃げない勇気」を養うのに役立つ。
映画『レイルウェイ 運命の旅路』に出てくるタイのカンチャナブリは、名作『戦場にかける橋』の舞台となったクウェー川(クワイ川)の橋がある場所。
町には、泰緬鉄道建設の過酷な労働環境を生々しく記録・保存した博物館や英連邦軍兵士の墓地もある。
@AB
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