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第25回 2015.4.1 松本昌次(編集者・影書房)
アイヒマンと菅官房長官
http://www.labornetjp.org/news/2015/0401matu
毎日のようにテレビに登場する菅義偉官房長官の顔を見ながら、その発言を聞いていると、ふと、わたしは、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画『ハンナ・アーレント』に、実写フィルムで登場するアイヒマンを否応なく想い浮かべてしまう。その無機質で顔色ひとつ変えないような表情もさることながら、ただひたすら、安倍晋三首相とその政権周辺を守り抜くため、上から言われたことを、オウムのように記者団に単々と伝え、どんな質問にも「問題ない」と一蹴、沖縄・辺野古の基地建設反対闘争に対しても、沖縄県民の痛みなどどこ吹く風、「法に従って、粛々と、工事をすすめたい」とさらりと言ってのける有様である。そういえば、この人は、「粛々と」という言葉が好きなようだ。アイヒマンも、何ひとつ疑うことなく、ヒトラーの命令で、粛々と、ユダヤ人虐殺を実行したのだった。
安倍首相=菅官房長官の息のあった連携プレーを、ヒトラー=アイヒマンの関係になぞらえるのは、いささか大げさに過ぎるかもしれないが、事の大小に拘らず、両者の精神構造には共通したものがある。それはかつての戦争中と本質的には変わることのない上意下達ということである。上意とは何か。手元の辞書によれば、「主君のおぼしめし。命令。上位の者や政府の意向・命令。」などとある。戦争中、主君はいうまでもなく天皇であった。その上意がそのまま下達されたお蔭で、自国のみならず他国のどれだけ多くの民衆が犠牲になったか。それはさておき、世は変り、いまや、自称「最高責任者」は安倍首相である。この上意を損なわないために、安倍首相が自衛隊を「わが軍」といおうが、従軍慰安婦問題について「人身売買」といおうが、ひたすら弁明にこれつとめる菅官房長官の姿を見ていると、ああ、戦後70年たっても、政府中枢の在り方は、戦争中と同じ連続延長線上にあるのだな、と思わせられる。
さらに困ったことに、安倍首相及び日本政府には、米国という上意がある。この二重の上意下達の構造から脱却できない日本政治の宿痾の原因は一体どこにあるのか。それは、アジア諸国に対する植民地支配・侵略戦争に対する根底的な検証・自己批判・謝罪が、ほとんどないがしろにされるか、逆にこのままで水に流してしまおうとさえする日本政府の動向にある。一方、先ごろ惜しまれつつ世を去った、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の有名な演説『荒れ野の四〇年』(岩波ブックレット)でも明らかなように、ドイツは、ヒトラー=アイヒマン的関係によって引き起こされた戦争犯罪を徹底的に追及、それらを根こそぎ排除し、二度と亡霊が生き返らないように、あらゆる手をつくしたのである。彼我の精神の在りようをくらべ、暗然とした思いにとらわれざるを得ない。
まあ、こんなことを百万遍くり返して言ってもはじまらないが、恐いのは、安倍首相ががなり立てる「戦後レジームからの脱却」だとか、「強い日本をとり戻す」などという景気のいい大鼓にのせられ、戦後いくらかでもつちかわれた民主主義的精神をないがしろにし、かつての軍国主義的風潮に回帰することである。つまり上意をなんら疑うでもなく、批判するでもなく受け入れ、それに協力する人間たちの“挙国一致”体制が出来上るということである。真の民主主義とは何か。下意上達することである。上意下達の根を断ち切ることである。アイヒマン的「悪の陳腐さ」を追及することである。しかし果たして、その上で日本に真の民主主義は根づくのであろうか。毎日のようにテレビに登場する安倍=菅コンビの顔を見ながら、憮然とした感慨の一端である。
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